
1805年(文化2)には、表六番町(現在の三番町24付近)の840坪の場所に移りました。国典の教授を行う他、門人の中山信名、屋代弘賢らと共に、以前から着手していた『群書類従』(正続1,680巻に及ぶ古文献の集大成)の収集校訂を続行、また宇多天皇即位より徳川家康就任に至る『史料』、武家の制度に関する『武家名目抄』などの編集に努めます。そのため、しばしば門人達を京都や伊勢などに派遣して古書を筆写させ、資料の収集に尽力しましたが、これらの書物は、数量的にも多く、学術的にも高い価値を有していました。
しかし、幕末の1863年(文久3)に、保己一の子忠宝が尊攘派によって暗殺されて編纂は停止されます。そして、明治維新となって、1868年(明治元)6月に廃止され、その史料、稿本類は明治政府の修史局に引き継がれました。
1760年(宝暦10)に、15歳で江戸に出て、17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めました。その後学才を見いだされ、国学・和歌を萩原宗固、漢学・神道を川島貴林、故実を山岡浚明、医学を品川の東禅寺の孝首座、和歌を閑院宮に学ぶこととなります。
1763年(宝暦13)に、18歳で盲官の一つである衆分となり、名を保木野一と改めました。1766年(明和3)に、父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅し、1769年(明和6)には、国学者賀茂真淵に入門しています。
1775年(安永4)には勾当に昇進し、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改めました。1779年(安永8)に34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起します。
1783年(天明3)に検校に昇進し、日野資枝、閑院宮典仁親王、外山光実の門に入り、堂上歌学を学びました。1786年(天明6)に『群書類従』の刊行を開始、1793年(寛政5)には江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進めます。
1819年(文政2)に『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手しました。1821年(文政4)には総検校に昇進しましたが、同年9月12日に江戸において、数え年76歳で亡くなっています。
尚、その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結、『国史大系』による国史・律令の出版、東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれました。