ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:国学者

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 今日は、江戸時代後期の1793年(寛政5)に、国学者・塙保己一が江戸麹町に和学講談所を創立した日ですが、新暦では8月29日となります。
 和学講談所(わがくこうだんしょ)は、塙保己一の建議により、江戸幕府の許可を得て、江戸麹町に300坪の用地を給せられ、創立された、古典の研究・校訂や正続群書類従・史料・武家名目抄などの編纂を目的とした学問所でした。1795年(寛政7)には、4ヶ所の町屋敷から年々の上納金50両を下付されて雑費に充当することになり、和学御用筋は林大学頭支配に入ることが定まり、官立に準ずる機関となります。
 1805年(文化2)には、表六番町(現在の三番町24付近)の840坪の場所に移りました。国典の教授を行う他、門人の中山信名、屋代弘賢らと共に、以前から着手していた『群書類従』(正続1,680巻に及ぶ古文献の集大成)の収集校訂を続行、また宇多天皇即位より徳川家康就任に至る『史料』、武家の制度に関する『武家名目抄』などの編集に努めます。そのため、しばしば門人達を京都や伊勢などに派遣して古書を筆写させ、資料の収集に尽力しましたが、これらの書物は、数量的にも多く、学術的にも高い価値を有していました。
 しかし、幕末の1863年(文久3)に、保己一の子忠宝が尊攘派によって暗殺されて編纂は停止されます。そして、明治維新となって、1868年(明治元)6月に廃止され、その史料、稿本類は明治政府の修史局に引き継がれました。

〇塙 保己一(はなわ ほきいち)とは?

 江戸時代の国学者です。1746年(延享3年5月5日)に、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家の父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として生まれましたが、幼名は寅之助(とらのすけ)と言いました。7歳で失明し、1757年(宝暦7)には、母きよが過労と心痛で亡くなります。
 1760年(宝暦10)に、15歳で江戸に出て、17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めました。その後学才を見いだされ、国学・和歌を萩原宗固、漢学・神道を川島貴林、故実を山岡浚明、医学を品川の東禅寺の孝首座、和歌を閑院宮に学ぶこととなります。
 1763年(宝暦13)に、18歳で盲官の一つである衆分となり、名を保木野一と改めました。1766年(明和3)に、父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅し、1769年(明和6)には、国学者賀茂真淵に入門しています。
 1775年(安永4)には勾当に昇進し、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改めました。1779年(安永8)に34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起します。
 1783年(天明3)に検校に昇進し、日野資枝、閑院宮典仁親王、外山光実の門に入り、堂上歌学を学びました。1786年(天明6)に『群書類従』の刊行を開始、1793年(寛政5)には江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進めます。
 1819年(文政2)に『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手しました。1821年(文政4)には総検校に昇進しましたが、同年9月12日に江戸において、数え年76歳で亡くなっています。
尚、その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結、『国史大系』による国史・律令の出版、東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれました。

〇塙保己一の主要な著作

・『花咲松(はなさくまつ)』
・「螢蠅(けいよう)抄」
・「鶏林拾葉」
・『群書類従』の編纂
・『続群書類従』の編纂
・『史料』の編纂
・百科全書『武家名目(みょうもく)抄』の編纂
・『松山集』

☆塙保己一関係略年表(日付は旧暦です)

・1746年(延享3年5月5日) 武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家の父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として生まれる
・1752年(宝暦2年) 7歳で失明する
・1757年(宝暦7年) 母きよが過労と心痛で亡くなる
・1760年(宝暦10年) 15歳で江戸に出る
・1762年(宝暦12年) 17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始める
・1763年(宝暦13年) 18歳で盲官の一つである衆分となる
・1766年(明和3年) 父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅する
・1769年(明和6年) 国学者賀茂真淵に入門する
・1775年(安永4年) 盲官の一つである勾当に昇進、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める
・1779年(安永8年) 34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起する
・1779年(安永8年) 北野天満宮に祈誓、『般若心経』百万巻読誦を発願する
・1783年(天明3年) 盲官の一つである検校に昇進する
・1784年(天明4年) 和歌を日野資枝に学ぶ
・1785年(天明5年) 40歳のとき、立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見する
・1786年(天明6年) 『群書類従』の刊行を開始する
・1793年(寛政5年) 江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進める
・1795年(寛政7年) 盲人一座の総録職となる
・1805年(文化2年) 盲人一座十老となる
・1819年(文政2年) 『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手する
・1821年(文政4年2月) 盲官の一つである総検校に昇進する
・1821年(文政4年9月12日) 江戸において、数え年76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1842年(天保13)江戸幕府によって、「天保の薪水給与令」が出される(新暦8月28日)詳細
1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1939年(昭和14)小説家・教育評論家本庄陸男の命日詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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 今日は、江戸時代前期の1669年(寛文9)に、国学者・歌人で、国学の四大人の一人とされる荷田春満の生まれた日ですが、新暦では2月3日となります。
 荷田 春満(かだ の あずままろ)は、京都において、京都伏見稲荷神社の神官、父・羽倉信詮(のぶあき)と母・貝子(細川忠興の家臣深尾氏の娘)の二男として生まれましたが、初名は信盛と称し、のちに東丸となりました。1697年(元禄10)の20歳の時、妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講し、翌年に歌集『春葉集』が成りましたが、1699年(元禄12)には暇をもらっています。
 1700年(元禄13)に江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して、教授講義をもって家名を興すために江戸に下りました。稲荷神道の喧伝につとめ、1707年(宝永4)頃から、『万葉集』をはじめとする古典の研究、講義に入ります。
 1713年(正徳3)にいったん帰京するも、すぐ出府しましたが、1714年(正徳4)に再び帰京して、老母に孝養を尽くました。1722年(享保7)に三度めの出府をし、将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け、幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ、また故実、書籍、古語についての下問に答えています。
 1723年(享保8)に帰京したものの、幕府からの下問には書簡で答えてきましたが、1727年(享保12)には、胸の病に罹って、幕臣としの職を辞しました。1728年(享保13)には、著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じ、養子在満を出府させ、幕府からの下問の仕事に当たらせています。
 日本古典の儒教的・仏教的解釈を排斥して、古語・古文によって、日本固有の古代精神を明らかにすることを試み、『万葉集』、『古事記』、『日本書紀』などを研究しましたが、1730年(享保15)に中風に罹り、1736年(元文元年7月2日)に、京都において、数え年68歳で亡くなりました。賀茂真淵や養子の荷田在満をはじめ、多くの門人を取り立て、後の国学の発展に大きな影響を与え、後世に賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤(あつたね)と共に「国学の四大人(うし)」と呼ばれるようになります。

〇荷田春満の主要な著作

・『日本書紀訓釈』
・『万葉集改訓抄』
・『万葉集僻案抄』
・『万葉集童蒙抄(どうもうしょう)』
・『万葉集童子問』
・『伊勢(いせ)物語童子問』(1728年成立)
・『創学校啓 (そうがつこうけい) 』(1728年)
・歌集『春葉集』(1698年)

☆荷田春満関係略年表(日付は旧暦です)

・1669年(寛文9年1月3日) 京都において、京都伏見稲荷神社の神官、父・羽倉信詮(のぶあき)と母・貝子(細川忠興の家臣深尾氏の娘)の二男として生まれる
・1697年(元禄10年) 20歳の時、妙法院宮尭延法親王の家来となって和歌を進講する
・1698年(元禄11年) 歌集『春葉集』が成る
・1699年(元禄12年) 暇をもらう
・1700年(元禄13年) 江戸へ派遣された大炊御門経光卿に随伴して、教授講義をもって家名を興すために江戸に下る
・1707年(宝永4年)頃 『万葉集』をはじめとする古典の研究、講義に入る
・1713年(正徳3年) いったん帰京するも、すぐ出府する
・1714年(正徳4年) 帰京して老母に孝養を尽くす
・1722年(享保7年) 三度めの出府、将軍徳川吉宗から幕府書物奉行下田師古への和学相伝の命を受け、幕府書庫の蔵書の鑑定などを命じられ、また故実、書籍、古語についての下問に答える
・1723年(享保8年) 帰京したが、幕府からの下問に書簡で答える
・1727年(享保12年) 幕臣として仕えてきたが、胸の病に罹って職を辞す
・1728年(享保13年) 著作『創学校啓(そうがくこうけい)』を江戸幕府に献じ、養子在満を出府させ、幕府からの下問の仕事に当たらせる
・1730年(享保15年) 中風に罹る
・1733年(享保18年) 賀茂真淵 (まぶち) が入門する
・1736年(元文元年7月2日) 京都において、数え年68歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

976年(天延4)第67代の天皇とされる三条天皇の誕生日(新暦2月5日)詳細
985年(永観3)天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日)詳細
1868年(慶応4)戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日)詳細
1870年(明治3)「神霊ヲ鎮祭スルノ詔」(鎮祭の詔)・「宣教使ヲ置クノ詔」(大教宣布の詔)が出される(新暦2月3日)詳細
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 今日は、江戸時代中期の1702年(元禄15)に、武士・尾張藩士・国学者・俳人横井也有の生まれた日ですが、新暦では10月24日となります。
 横井也有(よこい やゆう)は、尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた父・横井時衡の長男として生まれましたが、名は時般(ときつら)と言いました。祖父・時英 (野双)、父・時衡 (一水) に俳諧の感化を受け、15歳の頃から自学自習をはじめたとされます。
 1727年(享保12)の26歳の時、父が他界して家督知行1,000石(後に1,200石)を継承して普請組寄合となり、1730年(享保15)に御用人、1741年(元文6)の40歳の時、大番頭兼御用人となり、後寺社奉行を務めるなど藩の要職を歴任しました。文武に優れ、儒学を深く修めると共に、俳諧は各務支考の一門である武藤巴雀、太田巴静らに師事します。
 1745年(延享2)に、第8代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下ったりもしましたが、1754年(宝暦4)の53歳の時、病を理由に隠居し、名古屋郊外の前津(現・名古屋市中区前津)の草庵「知雨亭」にて風雅な余生を送りました。俳文、漢詩、和歌、狂歌、茶道などに親しむ風流人として知られ、俳文集『鶉衣(うずらごろも)』を初め、『野夫 (やふ) 談』(1762年)、連句集『蘿葉集』(1767年)、句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)などを出しています。
 多芸多能で、書や謡曲等も能くしましたが、1783年(天明3年6月16日)に、尾張国名古屋で、数え年82歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「俎板(まないた)のなる日はきかずかんこ鳥」
・「筏師に何をか問む青あらし」
・「くさめして見失ふたるひばりかな」
・「綿入れを木曽路の夏や花の旅」
・「化物の正体見たり枯尾花」
・「短夜や我にはながき夢さめぬ」(辞世)

〇横井也有の主要な著作

・俳文集『鶉衣(うずらごろも)』
・編著『野夫 (やふ) 談』(1762年)
・連句集『蘿葉集』(1767年)
・句集『垤 (ありづか) 集』(1770年)
・句集『蘿葉 (らよう) 集』
・俳論『管見草 (くだみそう) 』
・『美南無寿比』
・『的なし』
・漢詩文集『蘿隠編』
・狂歌集『行々子』

☆横井也有関係略年表(日付は旧暦です)

・1702年(元禄15年9月4日) 尾張国名古屋で尾張藩の御用人や大番頭を務めた横井時衡の長男として生まれる

・1716年(享保元年) 15歳の時、自学自習をはじめる

・1727年(享保12年) 26歳の時、父が他界して家督知行1,000石を継承して普請組寄合となる

・1730年(享保15年) 御用人となる

・1740年(元文5年) 野火留を訪ねて、「業平塚」を見る

・1741年(元文6年) 40歳の時、大番頭兼御用人となる

・1745年(延享2年4月6日) 第八代尾張藩主宗勝公のお供をして中山道を下る

・1754年(宝暦4年) 53歳にして病を理由に隠居、「遊西音寺」という詩を詠む

・1755年(宝暦5年) 「遊霊松山」という詩を詠む

・1758年(宝暦8年) 大島蓼太は吉野行脚の途上半掃菴に也有を訪れる

・1760年(宝暦10年) 『七時雨』(横田柳几編)の序を書く

・1762年(宝暦11年) 『野夫 (やふ) 談』を出す

・1763年(宝暦13年6月18日) 不之庵木児が75歳で没し、追悼文を書く

・1766年(明和3年) 巴笑が木曽の桟に芭蕉の句碑を建立し、也有が筆を取る

・1766年(明和3年) 『八橋集』(片水・除来編)の序を書く

・1767年(明和4年) 連句集『蘿葉集』を出す

・1769年(明和6年4月) 植田古帆、大木巴牛は「松葉塚」を再建、也有が筆を取る

・1770年(明和7年) 句集『垤 (ありづか) 集』を出す

・1771年(明和8年) 古稀の賀が行われる

・1772年(安永元年12月) 『秋の日』(暁台編)刊の序を書く

・1773年(安永2年8月18~28日) 内津(現在の愛知県春日井市内津町)に遊ぶ

・1774年(安永3年) 三狂庵門人箕輪連中は芭蕉の句碑を建立し、也有が筆を取る

・1779年(安永8年3月25日) 横田柳几が筑紫紀行の途次、也有を訪れる

・1783年(天明3年6月16日) 尾張国名古屋で、数え年82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1820年(文政3)備中鴨方藩士・文人画家浦上玉堂の命日で(新暦10月10日)詳細
1913年(大正2)政治家田中正造の命日詳細
1994年(平成6)関西国際空港が開港する(関西国際空港開港記念日)詳細
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 今日は、江戸時代中期の1701年(元禄14)に、真言宗僧・国学者・歌人契沖の亡くなった日ですが、新暦では3月4日となります。
 契沖(けいちゅう)は、江戸時代前期の1640年(寛永17)に、摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、尼崎青山氏に仕えた下川(しもがわ)家の、父・元全(もとさだ)の第3子(母は間氏の出)として生まれました。11歳で出家し、大坂今里妙法寺の定(かいじょう)の弟子となり、13歳で高野山に上り東室院快賢(とうしついんかいけん)について修業します。
 23歳で大坂の曼陀羅院の住職となり、24歳で阿闍梨位を得、その間に下河辺長流の知遇を得て学問的な示唆を受け、古典に親しみ始めました。27歳の頃、諸国修行の旅に出て、大和室生、高野を経て、30歳頃より和泉の名家伏屋家などに寄食、この間和漢の典籍を読破したとされます。
 1677年(延宝5)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受け、1679年(延宝7)には大坂に戻り、再び妙法寺の住持となりました。1690年(元禄3)51歳の頃、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退き、古典研究等に没頭、多くの著述を成します。
 その過程で、徳川光圀の知遇を得、水戸家の嘱をうけて万葉集の注釈をし、『万葉代匠記』を書きあげ、続いて、古代歌謡の注釈書『厚顔抄』(1691年成立)、古今和歌集の注釈書『古今余材抄』(1692年成立)、伊勢物語の注釈書『勢語臆断』などを著しました。その他、『和字正濫鈔』などで歴史的仮名遣いの基礎を確立し、『勝地吐懐編』など歌枕研究も行い、また新古今調で写実的な和歌を詠み、『契沖和歌延宝集』、『漫吟集』等を出し、随筆『円珠庵雑記』なども残します。
 国学発展の基礎を築き、後世に大きな影響を与えることとなりますが、1701年(元禄14年1月25日)に、大坂の円珠庵において、数え年62歳で亡くなりました。

<代表的な和歌>

・「和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉」
・「はつせのや 里のうなゐに 宿とへば 霞める梅の 立枝をぞさす」(漫吟集類題)
・「ふじのねは 山の君にて 高御座 空にかけたる 雪のきぬがさ」(漫吟集類題)
・「出でてこし わが故里を 人とはば いづれの雲を さしてこたへん」(漫吟集類題)

〇契沖の主要な著作

・注釈書『万葉代匠記』(1690年)
・注釈書『厚顔抄』(1691年成立)
・注釈書『古今余材抄』(1692年成立)
・注釈書『新勅撰評註』
・注釈書『勢語臆断』
・注釈書『源註拾遺』(1696年成立)
・注釈書『百人一首改観抄』
・国語学書『和字正濫鈔』(1693年成立、1695年刊)
・国語学書『和字正濫通妨抄』(1697年成立)
・歌枕研究書『勝地吐懐編(しょうちとかいへん)』
・歌集『漫吟集(まんぎんしゅう)』
・歌集『契沖和歌延宝集(えんぽうしゅう)』
・随筆『河社(かわやしろ)』
・随筆『契沖雑考』
・随筆『円珠庵雑記』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細


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hanawahokiichi01

 今日は、江戸時代後期の1821年(文政4)に、国学者塙保己一が亡くなった日ですが、新暦では10月7日となります。
 塙保己一(はなわ ほきいち)は、1746年(延享3年5月5日)に、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家の父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として生まれましたが、幼名は寅之助(とらのすけ)と言いました。7歳で失明し、1757年(宝暦7)には、母きよが過労と心痛で亡くなります。
 1760年(宝暦10)に、15歳で江戸に出て、17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始めました。その後、学才を見いだされ、国学・和歌を萩原宗固、漢学・神道を川島貴林、故実を山岡浚明、医学を品川の東禅寺の孝首座、和歌を閑院宮に学ぶこととなります。
 1763年(宝暦13)に、18歳で盲官の一つである衆分となり、名を保木野一と改めました。1766年(明和3)に、父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅し、1769年(明和6)には、国学者賀茂真淵に入門しています。
 1775年(安永4)には勾当に昇進し、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改めました。1779年(安永8)に34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起します。
 1783年(天明3)に検校に昇進し、日野資枝、閑院宮典仁親王、外山光実の門に入り、堂上歌学を学びました。1786年(天明6)に『群書類従』の刊行を開始し、1793年(寛政5)には江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進めます。
 1819年(文政2)に『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手しました。1821年(文政4)には総検校に昇進しましたが、同年9月12日に江戸において、数え年76歳で亡くなっています。
 尚、その遺業は続群書類従完成会による『続群書類従』の完結、『国史大系』による国史・律令の出版、東大史料編纂所による『大日本史料』の出版に引き継がれました。

〇塙保己一の主要な著作

・『花咲松(はなさくまつ)』
・「螢蠅(けいよう)抄」
・「鶏林拾葉」
・『群書類従』の編纂
・『続群書類従』の編纂
・『史料』の編纂
・百科全書『武家名目(みょうもく)抄』の編纂
・『松山集』

〇塙保己一関係略年表(日付は旧暦です)

・1746年(延享3年5月5日) 武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)の農家の父・荻野宇兵衛、母・きよの長男として生まれる
・1752年(宝暦2年) 7歳で失明する
・1757年(宝暦7年) 母きよが過労と心痛で亡くなる
・1760年(宝暦10年) 15歳で江戸に出る
・1762年(宝暦12年) 17歳で検校雨富須賀一に入門し、名を千弥と改め、按摩・鍼・音曲などの修業を始める
・1763年(宝暦13年) 18歳で盲官の一つである衆分となる
・1766年(明和3年) 父と共に伊勢神宮に詣でて京都、大阪などを旅する
・1769年(明和6年) 国学者賀茂真淵に入門する
・1775年(安永4年) 盲官の一つである勾当に昇進、塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める
・1779年(安永8年) 34歳で全国に散在する国書を収集刊行する大事業を発起する
・1779年(安永8年) 北野天満宮に祈誓、『般若心経』百万巻読誦を発願する
・1783年(天明3年) 盲官の一つである検校に昇進する
・1784年(天明4年) 和歌を日野資枝に学ぶ
・1785年(天明5年) 40歳のとき、立原翠軒の推薦で水戸藩主徳川治保に謁見する
・1786年(天明6年) 『群書類従』の刊行を開始する
・1793年(寛政5年) 江戸表六番町に和学講談所を開設し、後進の教育と図書・史料の研究調査活動を進める
・1795年(寛政7年) 盲人一座の総録職となる
・1805年(文化2年) 盲人一座十老となる
・1819年(文政2年) 『群書類従』(530巻1270種)の刊行を終え、さらに『続群書類従』の編纂に着手する
・1821年(文政4年2月) 盲官の一つである総検校に昇進する
・1821年(文政4年9月12日) 江戸において、数え年76歳で亡くなる

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