ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:国分寺

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 今日は、奈良時代の756年(天平勝宝8)に、第45代の聖武天皇が亡くなった日ですが、新暦では6月4日となります。
 聖武天皇は、701年(大宝元)に、文武天皇の第1皇子(母は藤原不比等の娘・宮子)として生まれましたが、諱は首と言いました。
 714年(和銅7)に皇太子となり、724年(神亀元)に元正天皇の譲位をうけ即位します。皇族から立后の旧慣を破って、藤原不比等の娘光明子を皇后としました。
 2回遣唐使を送って、積極的に唐の文物制度を採用し、その治世に天平文化が花開きます。仏教を厚く信仰し、741年(天平13)に、「国分寺建立の詔」を出して、各国に国分寺(僧寺と尼寺)を建てさせ、743年(天平15)に「大仏造立の詔」を出して、東大寺大仏(奈良の大仏)を造立させました。そして、752年(天平勝宝4)に大仏開眼供養会を開催、この際に使用された器物が正倉院に多く収められ、宝物とされます。
 しかし、一方で729年(神亀6)長屋王の変、その後天然痘の大流行、740年(天平12)の藤原広嗣の乱が起き、政情・世情が安定しませんでした。
 そのため、恭仁京、紫香楽宮、難波京とたびたびの遷都を余儀なくされ、国分寺・大仏の造立等と共に膨大な費用を費やして、国家財政を乱れさせたと言われています。また、743年(天平15)には、「墾田永年私財法」を制定して、律令制の根幹の一部が崩れることとなりました。
 749年(天平感宝元)孝謙天皇に譲位して出家し、756年(天平勝宝8)に、55歳で亡くなります。

〇聖武天皇関係略年表

・701年(大宝元) 文武天皇の第1皇子(母は藤原不比等の娘・宮子)として生まれる
・714年(和銅7) 皇太子となる
・719年(養老3) はじめて政務にたずさわる
・720年(養老4) 蝦夷の反乱が起こる
・724年(神亀元) 元正天皇の譲位をうけ即位する
・724年(神亀元) 陸奥国に多賀城を設置する
・729年(天平元) 長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(長屋王の変)
・729年(天平元) 聖武天皇が藤原不比等の娘を皇后とする(光明皇后)
・730年(天平2) 奈良の興福寺に悲田院・施薬院をもうける
・737年(天平9) 疫病(天然痘)が流行する
・738年(天平10) 阿倍内親王を皇太子とする
・740年(天平12) 藤原広嗣の乱が起きる
・740年(天平12) 平城京を離れ、伊勢国や美濃国への行幸を始める
・740年(天平12) 勅命により、平城京から恭仁京へ遷都する
・741年(天平13) 「国分寺建立の詔」を出す、
・743年(天平15) 「墾田永年私財法」を制定する
・743年(天平15) 「大仏造立の詔」を出す
・744年(天平16) 恭仁京から難波京への遷都が実施される
・745年(天平17) 難波京から再び平城京へ戻る
・749年(天平感宝元) 孝謙天皇に譲位して出家する
・752年(天平勝宝4) 大仏開眼供養会が開催される
・754年(天平勝宝6) 唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに面会する
・756年(天平勝宝8) 亡くなり、遺品が正倉院に収納される
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 今日は、奈良時代の741年(天平13)に、聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出した日ですが、新暦では3月5日となります。
 これは、聖武天皇が鎮護国家を具現化するために出した、各国に国分寺(僧寺と尼寺)を建てる命令のことです。
 その内容は、国毎に七重塔を一基造り、「金光明最勝王経」、「法華経」を書写することを命じ、天皇も自ら金字で「金光明最勝王経」を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどでした。
 僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施し財源とすること、僧寺に僧20人、尼寺に尼僧10人を置くことも定められたのです。

〇国分寺とは?

 聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、奈良時代の741年(天平13年2月14日)に「国分寺建立の詔」で、国ごとに建立を命じた寺院で、国分僧寺と国分尼寺に分かれます。正式名称は、国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といいました。
 境内に七重塔が建てられ、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施し財源とすること、僧寺に僧20人、尼寺に尼僧10人を置くことも定められたのです。
 尚、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられました。

☆「国分寺建立の詔」(全文) 741年(天平13年2月14日)

天平十三年 三月乙巳。
詔曰、朕以薄徳、忝承重任。未弘政化、寤寐多慙。古之明主、皆能光業、国泰人楽、災除福至。脩何政化、能臻此道。頃者、年穀不豊、疫癘頻至。慙懼交集、唯労罪己。是以、広為蒼生、遍求景福。故前年、馳驛増飾天下神宮。去歳、普令天下造釈迦牟尼仏尊像、高一丈六尺者、各一鋪、并写中大般若経各一部。自今春已来、至于秋稼、風雨順序、五穀豊穣。此乃、徴誠啓願、霊貺如答。載惶載懼、無以自寧。案経云、若有国土講宣読誦、恭敬供養、流通此経王者、我等四王、常来擁護。一切災障、皆使消殄。憂愁疾疫、亦令除差。所願遂心、恒生歓喜者、宜令下天下諸国各令敬造七重塔一区、并写金光明最勝王経、妙法蓮華経一部。朕、又別擬、写金字金光明最勝王経、毎塔各令置一部。所冀、聖法之盛、与天地而永流、擁護之恩、被幽明而恒満。其造塔之寺、兼為国華。必択好処、実可久長。近人則不欲薫臭所及。遠人則不欲労衆帰集。国司等、各宜務存厳飾、兼尽潔清。近感諸天、庶幾臨護。布告遐邇、令知朕意。又毎国僧寺、施封五十戸、水田一十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名、為金光明四天王護国之寺。尼寺十尼。其名為法華滅罪之寺。両寺相去、宜受教戒。若有闕者、即須補満。其僧尼、毎月八日、必応転読最勝王経。毎至月半、誦戒羯磨。毎月六斎日、公私不得漁猟殺生。国司等宜恒加検校。

                           『続日本紀』より

          *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

(天平十三年三月)乙巳、詔して日く、
『朕[1]薄徳[2]を以て忝く重任を承け、未だ政化[3]を弘めず、寤寐[4]多く慙づ。古の明主[5]、皆先業[6]を能くし、災除かれ福至る。何の政化[3]を修めてか、能く此の道に臻れる。頃者、年穀[7]豊かならず[8]、疫癘[9]頻りに至る。慙懼[10]交集りて、唯労して己を罪す。是を以て、広く蒼生[11]の為に、遍く景福[12]を求む。故に前年、驛を馳せて[13]天下の神宮を増し飾へ[14]。去歳、普く天下を令して釈迦牟尼仏の尊像高さ一丈六尺なる者各一鋪を造り、并せて大般若経[15]各一部を写さしむ。今春より已来、秋稼[16]に至るまで、風雨序に順ひ[17]、五穀豊穣[18]なり。此に乃ち誠を徵かにし、願を啓す。靈貺[19]答ふるが如し。案ずるに經に云ふ、若し國土に講宣[20]讀誦、恭敬[21]供養[22]し、此の經を流通[23]せしむる王者あらば、我等四王[24]、常に來つて擁護し、一切の災障、皆消殄[25]せしめ、憂愁疾疫亦除き差へしめん。願ふところ心を遂げ、恒に歡喜を生ぜんものなりと。宜しく天下の諸国をして、各敬んで七重塔一区を造り、并に金光明最勝王経[26]、妙法蓮華経[27]、各一部を写さしむ。朕[1]又別に金字の金光明最勝王経[26]を写し、塔毎に各々一部を置かしめんと擬す。冀ふところは聖法[28]の盛んなること、天地とともに永く流へ、擁護の恩[29]、幽明[30]に被らしめて恒に満たんことを。其れ造塔の寺は、また国の華たり。必ず好処[31]を択びて、実に長久にすべし。近人は則ち薰臭[32]の及ぶところを欲せず、遠人は則ち衆を勞して歸集[33]することを欲せず、國司等各宜しく嚴飾[34]に務めて、兼ねて潔淸[35]を盡すべし。近ごろ諸天に感ず、庶幾くば臨護して、遐邇[36]に布告し、朕[1]の意を知らしめよ。』
又国毎の僧寺には封[37]五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町。
僧寺には必ず廿僧有らしめよ。其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒[38]を受くべし。若し闕者有れば、即ち補満すべし。其の僧尼は每月八日、必らず最勝王經を轉讀[39]し、月半に至る每に、戒羯磨[40]を誦べし。
每月六齋日に公私漁獲殺生するを得ず。国司等宜しく恒に検校[41]を加ふべし。

【注釈】
[1]朕:ちん=聖武天皇のこと。
[2]薄徳:はくとく=徳の少ないこと。寡徳。
[3]政化:せいか=政治上の感化。政治と教化。
[4]寤寐:ごび=寝てもさめても。
[5]明主:めいしゅ=賢明な君主。
[6]先業:せんぎょう=政治上の手柄をよくたてる。
[7]年穀:ねんこく=五穀のこと。
[8]豊ならず:ゆたかならず=よく実らない、つまり飢饉を意味する。
[9]疫癘:えきれい=流行病。疫病。
[10]慙懼:ざんく=恐れと恥ずかしさと。恥じ入りかつ恐れること。
[11]蒼生:そうせい=人民。
[12]景福:けいふく=幸福。大いなる幸せ。
[13]驛を馳せて:えきをはせて=駅馬を走らせて。
[14]神宮を増し飾へ:じんぐうをましととのへ=737年(天平9)11月の詔の指示のこと。
[15]大般若経:だいはんにゃきょう=諸法皆空の理を広く論じた大経典で600巻ある。
[16]秋稼:しゅうか=秋の収穫。
[17]序に順ひ:じょにしたがひ=順調なこと。具合が良いこと。
[18]五穀豊穣:ごこくほうじょう=穀物が豊作なこと。
[19]靈貺:れいきょう=仏が与えて下さる賜物。
[20]講宣:こうせん=講述し宣説すること。
[21]恭敬:きょうけい=つつしみ、うやまうこと。
[22]供養:くよう=仏に物を供えて回向すること。仏・法・僧の三宝を敬い、これに香・華・飲食物などを供えること。
[23]流通:るつう=仏法が伝わり広まること。行き渡らせること。
[24]四王:しおう=四天王のこと、帝釈天に仕え仏教を守護する四神(東・持国天、南・増長天、西・広目天、北・多聞天)。
[25]消殄:しょうてん=消滅させること。
[26]金光明最勝王経:こんこうみょうさいしょうおうきょう=唐(中国)の義浄が訳した「金光明経」の名称。
[27]妙法蓮華経:みょうほうれんげきょう=代表的な大乗仏教経典で、釈迦が永遠の仏であることなどが説かれている。
[28]聖法:しょうほう=仏法のこと。
[29]擁護の恩:ようごのおん=仏の加護の恩恵。
[30]幽明:ゆうめい=幽界と明界。あの世とこの世。来世と現世。
[31]好処:こうしょ=風景が良く、物静かなところ。良いところ。
[32]薰臭:くんしゅう=良くないにおい。
[33]歸集:きしゅう=帰ったり、集まったり、往来すること。
[34]嚴飾:げんしょく=厳かに飾ること。
[35]潔淸:けっせい=清い美しさ。
[36]遐邇:かじ=遠近。
[37]封:ふう=封戸。指定された戸の租の半分と庸・調が支給された。
[38]教戒:きょうかい=教えと戒律。
[39]轉讀:てんどく=長い経典の題目や要所要所の数行だけを読んで、全文を読むことに代えること。
[40]羯磨:かつま=仏教教団の運営に必要な議事や儀式の作法、およびそれらをまとめたテキストのこと。
[41]検校:けんこう=調べ考えること。調査し考え合わせること。監査すること。

<現代語訳>

天平十三年三月乙巳、(聖武天皇は)詔の中で言われた、「私は徳の薄い身であるのにかかわらず、かたじけなくも天皇という重責についている。ところが、 いまだに民を教え導く良い政治を広められず、寝ても醒めても恥ずかしい思いでいっぱいだ。昔の名君は、みな祖先の仕事を良く受け継いで、国家は安泰であり、人々は楽しみ、災害がなく幸せに満ちていた。どのようにすれば、このような政治と教化ができるのであろうか。この頃は実りが豊かでなく、疫病も流行している。それを見るにつけ、私は恥じ入りかつ恐れ、自責の念に駆られている。そこで、広く人民のために、大きな幸福をもらたしたいと思う。以前(天平9年11月)、諸国に駅馬を走らせて、各地の神社を修造させたり、丈六(一丈六尺=約4.8m)の釈迦牟尼仏一体を造らせ、あわせて、大般若経を写させたのもそのためである。その甲斐あって、今年は春から秋の収穫の時期まで天候が順調で穀物も豊作であった。これは真心が伝わったためで、仏の賜物ともいうべきものである。考えてみると、金光明最勝王経には「もし広く世間でこの経を講義したり、読経暗誦したり、つつしんで供養し、行き渡らさせれば、われら四天王は常に来りてその国を守り、一切の災いは消滅し、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた除去される。そして心のままに願いをかなえ、常に喜びが訪れるであろう」とある。そこで、諸国に命じて敬んで七重塔一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経各一部を写経させることとする。私もまた別に、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めようと思う。願うところは、仏教が興隆し、天地とともに永続し、仏の加護の恩恵が来世と現世にいつまでも満ちることである。七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選定し、いつまでも長く久しく続くようにしなさい。人家に近すぎて、においを感じさせるようなところは良くないし、遠すぎて人々が集まるのに疲れてしまうようなところも望ましくない。国司は国分寺を厳かに飾るように努め、清浄を保つように尽くしなさい。間近に仏教を擁護するものを感嘆させ、仏が望んで擁護されるように請い願いなさい。近い所にも遠い所にも布告を出して、私の意向を人民に知らしめなさい。」
また、国ごとの僧寺には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施しなさい。
僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は法華滅罪之寺とし、二つの寺の僧尼は共に教戒を受けるようにしなさい。もし僧尼に欠員が出たときは、すみやかに補充しなさい。毎月八日に、必ず金光明最勝王経を読み、月の半ばには戒と羯磨を暗誦しなさい。
毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には、公私ともに魚とりや狩りをして殺生をしてはならない。国司は、常に監査を行いなさい。
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