ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:国体の本義

kokutainohongi001

 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第2次国体明徴声明)が出された日です。
 国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)は、国会議員や軍部・右翼が美濃部達吉の天皇機関説を国体に反するとして攻撃する事件(天皇機関説事件)が起きる中、1935年(昭和10)4月9日には、美濃部の3著書である『憲法撮要』、『逐条憲法精義』、『日本国憲法ノ基本主義』を発売禁止処分とし、さらにこれを排撃することで政治的主導権を掌握しようとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が当時の岡田啓介内閣に出させた政府声明でした。その内容は、統治権の主体を国家とし、天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は、天皇の絶対性を否定し、天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものとしています。
 これを受けて軍部・右翼は、攻撃の中止を指示し、一端は終息するかに見えたものの、同年9月18日に、美濃部達吉が貴族院議員を辞するに際して出した声明が、再び軍部・右翼の反発を招いて攻撃が再燃し、国体明徴の徹底を岡田啓介首相に迫ることとなりました。そこで、同年10月15日に、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」(第2次国体明徴声明)を発することとなりますが、その内容は、「機関説は国体の本義に反する」としていたものをさらに進めて、「「機関説は芟除(取り除く、摘み取るとの意味)されるべし」というものとなります。
 その後、11月に文部大臣を会長とする教学刷新評議会を設置、その答申に基づいて、1937年(昭和12)5月31日、文部省は『国体の本義』を刊行し、全国の学校等へ配布しました。この事件によって、軍強硬派や右翼勢力は政治的進出を果す重要な突破口をつくることになったとされています。
 以下に、「国体明徴に関する政府声明」(第1次・第2次)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国体明徴に関する政府声明」1935年8月3日 (第1次国体明徴声明)

恭しく惟みるに、我が國體[1]は天孫降臨[2]の際下し賜へる御神勅[3]に依り昭示[4]せらるる所にして、萬世一系の天皇國を統治し給ひ、寶祚[5]の隆は天地と倶に窮なし。されば憲法發布の御上諭[6]に「國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ」と宣ひ、憲法第一條には「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明示し給ふ。即ち大日本帝國統治の大權は儼[7]として天皇に存すること明かなり。若し夫れ統治權が天皇に存せずして天皇は之を行使する爲の機關[8]なりと爲すが如きは、是れ全く萬邦無比[9]なる我が國體[1]の本義[10]を愆る[11]ものなり。近時憲法學説を繞り國體[1]の本義に關聯[12]して兎角[13]の論議を見るに至れるは寔に遺憾に堪へず。政府は愈々國體[1]の明徴[14]に力を效し、其の精華[15]を發揚[16]せんことを期す。乃ち茲に意の在る所を述べて廣く各方面の協力を希望す。

   「官報」より

【注釈】

[1]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[2]天孫降臨:てんそんこうりん=天照大神の孫の瓊瓊杵尊が大神の命を受けて、葦原中国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂(たかちほ)峰に降りて来たこと。
[3]御神勅:ごしんちょく=天照大神が皇孫瓊瓊杵尊を下界に降す際に、八咫鏡とともに授けたことば。
[4]昭示:しょうじ=あきらかに示すこと。明示。
[5]寶祚:ほうそ=天皇の位の敬称。皇位のこと。
[6]御上諭:ごじょうゆ=1889年の「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭のこと。
[7]儼:げん=おかしがたく、おごそかなさま。厳然。
[8]天皇は之を行使する爲の機關:てんのうはこれをこうしするためのきかん=美濃部達吉の天皇機関説のこと。
[9]萬邦無比:ばんぽうむひ=どこの国にも比べるものがないこと。 世界中どこを見渡しても類のない様。
[10]本義:ほんぎ=本来の意義。根本となる大事な意義。本質。
[11]愆る:あやまる=あやまつ。あやまちをおかす。
[12]關聯:かんれん=ある事柄と他の事柄との間につながりがあること。連関。
[13]兎角:とかく=兎(うさぎ)の角(つの)。実在しないもののたとえ。
[14]明徴:めいちょう=明らかに証明すること。
[15]精華:せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。真髄。
[16]發揚:はつよう=威光・勢威などを盛んにすること。奮い起こす。

<現代語訳>

謹んで考えてみると、我が国のあり方とは、天照大神の孫の瓊瓊杵尊が大神の命を受けて、葦原中国を治めるために、高天原から筑紫の日向の高千穂峰に降りての際に下賜された御神勅によって、あきらかに示された所であって、万世一系の天皇が国を統治しはじめて、皇位は天地と共に永久に栄え続けて極まりないことである。そこで「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭には「国家統治の大権は朕が祖先から受け継ぎ、子孫に伝えるものである」と宣言され、憲法第一条には「大日本帝国は万世一系の天皇がこれを統治する」と明示されている。すなわち大日本帝国統治の大権は厳然として天皇にあることは明確とされている。すなわち、統治権が天皇にあるものではなくて、天皇はこれを行使するための機關であるとするような考えは、これは全くあらゆる国の中で比べるものがない我が国の在り方の本質を見誤るものである。近頃憲法学説をめぐって、国の在り方の本質に関連して、ありもしない論議を見るようになったのは、大変残念でならない。政府はますます国の在り方を明らかにするために力を尽し、その真髄を奮い起こすことを必ず実現することを約束する。すなわちここに意思のあるところを述べて、広く各方面の協力を希望するものである。

〇「国体明徴に関する政府声明」1935年10月15日 (第2次国体明徴声明)

曩に[1]政府は國體[2]の本義[3]に關し所信を披瀝[4]し、以て國民の嚮ふ[5]所を明にし、愈々[6]その精華[7]を發揚[8]せんことを期したり。抑々我國に於ける統治權の主體が天皇にましますことは我國體[2]の本義[3]にして、帝國臣民の絶對不動の信念なり。帝國憲法の上諭[10]竝條章の精神、亦此處に存するものと拝察[11]す。然るに漫り[12]に外國の事例・學説を援いて[13]我國體[2]に擬し[14]、統治權の主體は天皇にましまさずして國家なりとし、天皇は國家の機關なりとなすが如き、所謂天皇機關説は、神聖なる我が國體[2]に悖り[15]、其の本義[3]を愆る[16]の甚しきものにして嚴に之を芟除[17]せざるべからず。政教其他百般の事項總て萬邦無比[18]なる我國體[2]の本義[3]を基とし、其眞髄を顯揚[19]するを要す。政府は右の信念に基き、此處に重ねて意のあるところを闡明[20]し、以て國體[2]觀念を愈々[6]明徴[21]ならしめ、其實績[22]を收むる爲全幅[23]の力を效さん[24]ことを期す。

【注釈】

[1]曩に:さきに=以前に。前に。かつて。さきごろ。
[2]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[3]本義:ほんぎ=本来の意義。根本となる大事な意義。本質。
[4]披瀝:ひれき=心の中を包みかくさずうちあけること。腹蔵なく心中を披露すること。
[5]嚮ふ:むかふ=ある方向に向かうこと。
[6]愈々:いよいよ=1持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
[7]精華:せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点。真髄。
[8]發揚:はつよう=威光・勢威などを盛んにすること。奮い起こす。
[9]抑々:よくよく=つつしむさま。ひかえ目にするさま。
[10]上諭:じょうゆ=1889年の「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭のこと。
[11]拝察:はいさつ= 推察することをへりくだっていう語。
[12]漫り:みだり=道理に反するさま。筋道が通らぬさま。
[13]援いて:ひいて=他から例を引き入れる。援用。
[14]擬し:ぎし=ある物を他の物に見立てる。なぞらえる。
[15]悖り:もとり=道理に外れること。
[16]愆る:あやまる=あやまつ。あやまちをおかす。
[17]芟除:さんじょ=刈りのぞくこと。のぞき去ること。
[18]萬邦無比:ばんぽうむひ=どこの国にも比べるものがないこと。 世界中どこを見渡しても類のない様。
[19]顯揚:けんよう=功績などをたたえて世間に広く知らせること。顕彰。
[20]闡明:せんめい=明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。
[21]明徴:めいちょう=明らかに証明すること。
[22]實績:じっせき=実際にやり遂げた成果・業績。
[23]全幅:ぜんぷく=あるだけ全部。あらんかぎり。ありったけ。
[24]效さん:かいさん=力をつくす。つとめる。

<現代語訳>

以前に政府は国のあり方の本質に関し所信を披露し、もって国民の向かう所を明確にし、より一層その真髄を奮い起こすことの実現を約束した。よくよく我国における統治権の主体が天皇にあることは我国のあり方の本質にして、大日本帝国臣民の絶対不動の信念である。「大日本帝国憲法」発布時に出された勅諭ならび条文の精神、またここに存在するものと推察する。しかるに筋道が通らない外国の事例・学説を援用し、我国のあり方になぞらえ、統治権の主体は天皇にあるのではなく国家にあるとし、天皇は国家の機関であるとするような、いわゆる天皇機関説は、神聖である我国のあり方の道理に外れ、その本質を誤ることの甚しきもので、厳然としてこれを除き去らないわけにはいかない。政治・教育その他諸々の事項すべて、どこの国にも比べるものがない我国のあり方の本質を基本とし、その眞髄を顕彰することが必要である。政府は右の信念に基づいて、ここに重ねて意思のあるところを明瞭にし、もって国のあり方に関する觀念をいよいよ明らかにして、その実績を收めるためあらんかぎりの力を尽くし、実現することを約束する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)聖武天皇が「大仏建立の詔」(東大寺大仏建立)を発する(新暦11月5日)詳細
1872年(明治5)小説家・劇作家岡本綺堂の誕生日(新暦11月15日)詳細
1922年(大正11)政治家・思想家・弁護士・社会運動家大井憲太郎の命日詳細
1956年(昭和31)天竜川中流に佐久間ダムが竣工し、完成式が行われる詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

shinminnomichi01

 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布された日です。
 『国体の本義(こくたいのほんぎ)』は、文部省教学局が天皇中心の国体護持の立場から編集・発行した国民教化用の出版物でした。1935年(昭和10)1月、帝国議会の貴族院が美濃部達吉の天皇機関説を「不敬の学説」とする議論を行ない、その排撃運動が国体明徴運動にまで発展します。
 その中で、反天皇機関説の立場で、文部省が独自に国体論の教材として編纂に着手したものでした。同年11月に、文部大臣の諮問機関として「教学刷新評議会」を設置し、国体観念に基づく教育・学問の改編方策を検討します。
 1936年(昭和11)10月の答申前に、思想局長伊東延吉の主導のもと、思想課長小川義章、国民精神文化研究所員志田延義等を中心として、省内外の委員を加えた編纂委員会が組織され、この本の編纂が開始されました。その内容は、「諸言」、「大日本国体」、「国史に於ける国体の顕現」、「結語」で構成され、『古事記』や『日本書紀』の引用を多用して、冒頭で神勅や万世一系を強調し、国体明徴運動の理論的な意味づけ、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義しています。
 その上で、共産主義や無政府主義を否定するだけでなく、民主主義や自由主義も国体にそぐわないものとし、西洋近代思想を激しく排撃しました。また、共産主義、ファシズム、ナチズムなどが起こった理由として個人主義の行き詰まりを挙げています。
 1937年(昭和12)5月31日に発行し、全国の学校等へ配布、続いて、1941年(昭和16)7月21日に、『臣民の道』を刊行、これらは、太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であったとされてきました。太平洋戦争後、1945年(昭和20)12月15日、占領下において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件(神道指令)」(SCAPIN-448)によって、『臣民の道』と共にその頒布が禁止されています。
 以下に、『国体の本義』の緒言の部分だけ掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『国体の本義』文部省編纂 1937年(昭和12)5月31日発行

 緒  言

 我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支部・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。
 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕(くんいう)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。
 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。
 我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。
 抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。
        「国立国会図書館デジタルコレクション」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される詳細
1944年(昭和19)俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌)詳細
1974年(昭和49)写真家木村伊兵衛の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ