ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:囲碁棋士

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 今日は、江戸時代後期の1829年(文政12年)に、囲碁棋士・14世本因坊秀和跡目の本因坊秀策が生まれた日ですが、新暦では6月6日となります。
 本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)は、備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男として生まれましたが、幼名は虎次郎と言いました。3、4歳の時に、母より囲碁の手ほどきを受け、1833年(天保4年)の5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、棋才を見出され、以後支援を受けることとなります。
 1835年(天保6年)の7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受けることとなり、翌年には、江戸へ出て第12世本因坊丈和の門に入りました。1839年(天保10年)の11歳の時、初段の免状を受け、翌年に因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わり、1841年(天保12年)の13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進します。
 1842年(天保13年)の14歳の時、三段へ昇進、翌年に四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになり、1845年(弘化2年)の17歳の時、12人扶持ちに増録されました。1846年(弘化3年)の18歳の時、大阪にて第11世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進、1848年(嘉永元年)の20歳の時、第14世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進します。
 1849年(嘉永2年)の21歳の時、初めての御城碁へ出仕して勝ち、以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げました。1853年(嘉永6年)の25歳の時、太田雄三と30番碁をはじめ、23局終え、七段(上手)へ昇進、1857年(安政4年)の29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫しています。
 1861年(文久元年)の33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入ったものの、江戸にコレラが大流行する中、翌年8月10日に、コレラによって、本因坊家において、数え年34歳で急逝しました。没後、第4世本因坊道策、第12世本因坊丈和と並んで碁聖と呼ばれることとなります。

〇本因坊秀策関係略年表(日付は旧暦です)

・1829年(文政12年5月5日) 備後国因島(現在の尾道市因島外浦町)において、桑原輪三と妻・カメの次男(幼名は虎次郎)として生まれる
・1831~32年(天保2~3年) 3、4歳の時、母より囲碁の手ほどきを受ける
・1833年(天保4年) 5歳の時、尾道の豪商橋本竹下と出会い、竹下は秀策の棋才を見抜き、以後支援を受ける
・1835年(天保6年) 7歳の時、三原城主浅野忠敬と対局、城主のすすめで本格的に囲碁指導を受ける
・1837年(天保8年) 9歳の時、江戸へ出て十二世本因坊丈和の門に入る
・1839年(天保10年) 11歳の時、初段の免状を受ける
・1840年(天保11年) 12歳の時、因島へ初めての帰郷をはたし、浅野公より五人扶持を賜わる
・1841年(天保12年) 13歳の時、大阪にて中川五段と対局、好成績が認められ二段へ昇進する
・1842年(天保13年) 14歳の時、三段へ昇進する
・1843年(天保14年) 15歳の時、四段へ昇進し、この頃より秀策流とよばれる一、三、五の布石を用いるようになる
・1845年(弘化2年) 17歳の時、12人扶持ちに増録される
・1846年(弘化3年) 18歳の時、大阪にて十一世幻庵因碩と対局(耳赤の一手)、江戸へ帰還して五段へ昇進する
・1848年(嘉永元年) 20歳の時、十四世本因坊の跡目を継承し、本因坊丈和の娘花と結婚、六段へ昇進する
・1849年(嘉永2年) 21歳の時、初めての御城碁へ出仕し勝つ(以後12年間、御城碁無敗の19連勝を成し遂げる)
・1853年(嘉永6年) 25歳の時、太田雄三と三十番碁をはじめ、二十三局終え、七段(上手)へ昇進する
・1857年(安政4年) 29歳の時、因島へ四度目の帰郷の折に、幼少時に使っていた碁盤に揮毫する
・1861年(文久元年) 33歳の時、母カメが亡くなり、追善のため百ヶ日の精進生活に入る
・1862年(文久2年8月10日) 江戸にコレラが大流行する中、本因坊家でコレラにて、数え年34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1763年(宝暦13)俳人小林一茶の誕生日(新暦6月12日)詳細
1911年(明治44)文学者市古貞次の誕生日詳細
1925年(大正14)改正「衆議院普通選挙法」(普通選挙法)公布で満25歳以上の全成年男子に選挙権が与えられる詳細
1951年(昭和26)子供の権利に関する宣言「児童憲章」が制定される(児童憲章制定記念日)詳細
1958年(昭和33)東京都に「多摩動物公園」が開園する詳細
1965年(昭和40)神奈川県横浜市の多摩丘陵の一画に「こどもの国」が開園する詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、囲碁棋士・23世本因坊坂田栄男 (本因坊栄寿) が亡くなった日です。
 坂田栄男(さかた えいお)は、大正時代の1920年(大正9)2月15日に、東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれましたが、囲碁好きの父の影響で子供の頃から囲碁を覚えました。1929年(昭和4)に、増淵辰子六段(後に八段)に入門し、翌年に日本棋院院生となり、1935年(昭和10)に、入段後、二段となります。
 1937年(昭和12)に三段、1938年(昭和13)に四段、1940年(昭和15)に五段、1943年(昭和18)には、六段に昇段しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本棋院を脱退し囲碁新社を結成し、翌年に七段に昇段しましたが、1949年(昭和24)には、日本棋院に復帰しています。
 1951年(昭和26)に第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れた後、翌年には、八段に昇段しました。1953年(昭和28)に、呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとし、1955年(昭和30)には、九段に昇段します。
 1959年(昭和34)に日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固め、1961年(昭和36)には、高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作りました。1963年(昭和38)に名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となり、1964年(昭和39)には、名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たします。
 1967年(昭和42)に7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得、1978年(昭和53)に日本棋院理事長となり、1979年(昭和54)には、紫綬褒章を受章しました。1982年(昭和57)にNHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得、1983年(昭和58)には、NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とします。
 1986年(昭和61)に日本棋院理事長を辞め、1988年(昭和63)に日本棋院顧問となり、1990年(平成2)に勲二等瑞宝章を受章、1992年(平成4)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に 二十三世本因坊を名乗ることを認められ、切れ味鋭い棋風で「かみそり坂田」とよばれてきたものの、2000年(平成12)の80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退しています。
 2009年(平成21)には、日本棋院名誉顧問となったものの、2010年(平成22)10月22日に、胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈されました。

<坂田栄男の記録>

・総タイトル数64個(2002年趙治勲に破られるまで歴代最多)
・年間30勝2敗(1964年)
・一般棋戦29連勝(1963~64年)
・同一タイトル戦17連勝(第18期本因坊戦第5局~第22期本因坊戦第3局)
・通算成績1,117勝654敗16ジゴ
・連勝記録歴代1位(29連勝)

〇坂田栄男関係略年表

・1920年(大正9)2月15日 東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)において、生まれる
・1929年(昭和4) 故増淵辰子八段に入門する
・1930年(昭和5) 日本棋院院生となる
・1935年(昭和10) 入段後、二段となる
・1937年(昭和12) 三段に昇段する
・1938年(昭和13) 四段に昇段する
・1940年(昭和15) 五段に昇段する
・1943年(昭和18) 六段に昇段する
・1944年(昭和19) 2ヶ月の教育召集を受ける
・1947年(昭和22) 日本棋院を脱退し囲碁新社を結成する
・1948年(昭和23) 七段に昇段する
・1949年(昭和24) 日本棋院に復帰する
・1951年(昭和26) 第6期本因坊戦 7番勝負で、橋本宇太郎9段(本因坊昭宇)に挑み、3勝4敗で敗れる
・1952年(昭和27) 八段に昇段する
・1953年(昭和28) 呉清源と六番碁(坂田先相先)を打ち、4勝1敗1ジゴとする
・1955年(昭和30) 九段に昇段する
・1959年(昭和34) 日本最強決定戦、最高位戦、日本棋院選手権戦、NHK杯戦の4冠となり、実力者としての評価を固める
・1961年(昭和36) 高川格を破り、第16期本因坊を獲得、栄寿と号し、王座・日本棋院第一位・最高位・最強位・日本棋院選手権・NHK杯を合わせて7タイトル制覇の記録を作る
・1963年(昭和38) 名人位を獲得し、碁界初の名人本因坊となる
・1964年(昭和39) 名人・本因坊・日本棋院選手権・プロ十傑戦・王座・日本棋院第一位・NHK杯と、再度の7タイトル制覇を果たす
・1967年(昭和42) 7期連続本因坊を保持、名誉本因坊の資格を得る
・1978年(昭和53) 日本棋院理事長となる
・1979年(昭和54) 紫綬褒章を受章する
・1982年(昭和57) NHK杯戦での11回優勝により、名誉NHK杯選手権者の称号を得る 
・1983年(昭和58) NEC杯戦に優勝してタイトル獲得数を64とする
・1986年(昭和61) 日本棋院理事長を辞める
・1988年(昭和63) 日本棋院顧問となる
・1990年(平成2) 勲二等瑞宝章を受章する
・1992年(平成4) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 二十三世本因坊を名乗ることを認められる
・2000年(平成12) 80歳の誕生日をもって囲碁棋士を引退する
・2009年(平成21) 日本棋院名誉顧問となる
・2010年(平成22)10月22日 胸部大動脈瘤破裂の為に90歳で亡くなり、正四位が追贈される
・2019年(平成31) 第16回囲碁殿堂入りが決まる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が長岡京から山背国の新京に入京する「平安遷都の日」(新暦11月22日)詳細
1894年(明治27)庄内地震(マグニチュード7.0)が起こり、死者726人、負傷者8,403人が出る詳細
1926年(大正15)明治神宮外苑に絵画館・野球場・相撲場・児童遊園が完成して、外苑完成奉献式が行われる詳細
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1983年(昭和58)国鉄特定地方交通線の廃止第一号として、北海道の国鉄白糠線がこの日限りで廃止となる詳細
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