ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:四国連合艦隊砲撃事件

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 今日は、幕末明治維新期の1864年(元治元)に、江戸幕府第14代将軍家茂が、中国・四国など35藩に長州征討の為の出兵を命令(第一次長州征討)した日ですが、新暦では9月2日となります。
 第一次長州征討(だいいちじちょうしゅうせいとう)は、1864年(元治元年7月19日)の禁門の変に敗れた長州藩が朝敵となったため、これを罰するために、江戸幕府第14代将軍家茂が、中国・四国など35藩に長州征討の為の出兵を命令したものでした。しかし、前年の下関事件の報復として、8月5日にアメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠する(四国連合艦隊砲撃事件)事件で長州藩は打撃を受け、尊攘派にかわって恭順派(保守派)が藩権を握ります。
 その中で、禁門の変の責任者として福原越後、益田右衛門介、国司信濃の3家老と4参謀の処刑、藩主毛利敬親父子の謝罪、山口城の破却、八月十八日の政変後に長州藩に身を寄せていた三条実美以下5卿の引き渡しなどの要求に応じることとなりました。そして、11月11日には、長州藩の三家老が自刃して恭順を示し、幕府は、出軍の目的を達したとして、「撤兵令」を発し、12月27日には、幕府軍が長州領から撤兵して終わります。
 その後、長州藩論が高杉晋作らの倒幕派によって再び掌握されることとなり、1866年(慶応2)閏5月16日に、江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かう、第二次長州征討が行われたものの、幕府軍の敗北となりました。

〇長州征討関係略年表(日付は旧暦です)

【第一次長州征討】

<1864年(元治元)>
・7月19日 禁門の変により、長州藩が御所を攻撃し敗れる
・7月23日 孝明天皇が禁裏守衛総督一橋慶喜を召し、長州を「すみやかに誅伐せよ」と自らの言葉で伝え、長州藩は朝敵となる
・8月2日 江戸幕府第14代将軍家茂が、中国・四国など35藩に長州征討の為の出兵を命令する
・8月5日 アメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠する(四国連合艦隊砲撃事件)
・11月11日 長州藩の三家老が自刃し、恭順する
・12月16日 高杉晋作らが下関で挙兵する
・12月27日 幕府軍が長州領から撤兵する

<1865年(慶応元)>
・2月2日 高杉晋作が長州藩の実権を握る

【第二次長州征討】

<1866年(慶応2)>
・1月22日 江戸幕府は長州処分の最終案を奏上、勅許が下される
・1月26日 小笠原長行が長州へ幕命を伝えるため広島に下ることが決まる
・2月7日 小笠原長行を含む幕府の高官たちが広島へ到着する
・2月22日 小笠原長行は広島藩を通じて三支藩藩主、吉川経幹と宍戸備前助、毛利筑前に召喚命令を出したが病として拒絶される
・2月24日 芸州先鋒の彦根藩から安芸国と国境を分かつ岩国藩へ使者が送られる
・3月26日 小笠原長行は広島藩を通じて4月15日までに藩主父子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出す
・4月4日(または5日) 長州藩の諸隊の1つ第二奇兵隊で暴発事件が起きる
・4月14日 大久保利通は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出する
・5月1日 国泰寺において小笠原長行は四家名の名代に対して幕命を伝える
・5月3日 幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下される
・5月8日 宍戸と小田村素太郎はに拘束され広島藩に預けられる
・閏5月16日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂みずから征討の指揮をとって江戸城を出立し西へ向かう
・6月2日 広島の小笠原長行は小倉へ向かう
・6月3日 徳川茂承が広島へ向かう
・6月7日 幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃が始まる
・6月13日 芸州口・小瀬川口で戦闘が開始される
・6月16日 石州口で戦闘が開始される
・6月17日 小倉口で戦闘が開始される
・6月18日 長州勢により、浜田城が陥落する
・7月2日 長州勢による大里上陸が行われる
・7月27日 赤坂・鳥越の戦いでは肥後藩細川氏(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する
・8月1日 小倉藩は小倉城に火を放って香春に退却する
・7月20日 第14代将軍・家茂が大坂城で病没する
・9月2日 宮島会談で、東部方面の停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息する
・10月 長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、小倉藩の防衛拠点の多くが陥落する

<1867年(慶応3)>
・1月 長州・小倉両藩の和約が成立、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の預りとされる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

901年(延喜元)六国史一番最後の『日本三代実録』が完成する詳細
1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1738年(元文3)俳人上島鬼貫の命日(新暦9月15日)詳細
1918年(大正7)寺内正毅内閣によって、日本軍が英・米・仏軍と共に、シベリア出兵することが閣議決定される詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細
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 今日は、幕末の1863年(文久3)に江戸幕府が攘夷実行日とし、諸藩に通達したことをもって、長州藩が外国船に対し砲撃を開始した(下関事件)日ですが、新暦では6月25日となります。
 下関事件(しものせきじけん)は、攘夷親征の朝旨を実現するため、江戸幕府の攘夷実行開始期日の5月10日に、長州藩が下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加え、さらに同月23日にフランス軍艦、25日にオランダ軍艦にも砲撃した事件でした。この結果、同年6月5日に報復として、アメリカとフランスの軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃します。
 しかし、長州藩は攘夷の態度を続け、翌元治元年7月19日に兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される「禁門の変(蛤御問の変)」を起こしました。ところが、長州勢は完敗し、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃するなど急進的指導者の大半を失うこととなり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失します。
 これを機に、長州藩は朝敵となり、江戸幕府の第一次長州征伐が行われることになりました。尚、イギリス・フランス・オランダ・アメリカは再び報復のため、同年7月27日・28日に、キューパー中将(イギリス)を総司令官とする4ヶ国連合艦隊を横浜から出港させ、関門海峡に至って、8月5日から砲撃を始めます。
 長州藩側も応戦したものの、戦力に大きな開きがあり、8日までに長州藩の砲台は破壊されたり、上陸した4ヶ国側の兵員に占拠される「四国連合艦隊砲撃事件」が起こりました。そこで、長州藩は8月8日に講和使節の使者に高杉晋作を任じ、4ヶ国連合艦隊との交渉を進め、同月18日に下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立します。
 これらの戦争を通じて列国の軍事力を目の当たりにした長州藩は、列国に接近しつつ、強力な統一国家建設を目指して、倒幕運動に向かうことになりました。

〇「下関事件」関係略年表(日付は旧暦です)

<1853年(嘉永6)>
・7月8日 ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る

<1854年(安政元)>
・3月31日 江戸幕府は「日米和親条約」を締結する

<1858年(安政5)>
・7月29日 アメリカの強い要求により、江戸幕府は「日米通商修好条約」を締結する
 以後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ(安政五ヶ国条約)

<1860年(万延元)>
・3月3日 水戸・薩摩脱藩浪士によって、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)

<1861年(文久元)>
・3月 直目付長井雅楽が藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として「航海遠略策」を建白する
 以後、公武合体策を藩論としようとする

<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる

<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日(諸藩にも通達)とし、長州藩がアメリカ商船に対し砲撃を行う(下関事件)
・5月23日 長州藩がフランス軍艦に対し砲撃を行う(下関事件)
・5月25日 長州藩がオランダ軍艦に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する(下関事件)
・7月2~4日 薩英戦争が起きる

<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1900年(明治33)鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行される詳細
1930年(昭和5)日本画家下村観山の命日詳細
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