
善光寺地震(ぜんこうじじしん)は、この日の午後10時頃に起きた、信濃国(現在の長野県)の善光寺平を震源地(東経138度2分、北緯36度7分)とした、内陸直下型地震でした。マグニチュードは7.4と推定され、善光寺平周辺では、震度7という激しい揺れであったと考えられています。
これによって、広範囲にわたって地すべりや山地崩壊が発生、大量の崩壊土砂による川の堰き止めや決壊、洪水の発生をももたらし、2万余戸の家屋が倒壊・焼失・流失しました。善光寺も大きな被害を受けましたが、折しも、善光寺御開帳と重なっていたこともあり、門前町は各地からの参拝客7,000~8000人であふれていて、家屋倒壊後、火災も起き、約1割くらいしか助からなかったともされています。
また、犀川右岸の虚空蔵山が山崩れを起こして犀川をふさぎ、堰止湖を形成、その上流には長さ約30kmの湖が出現して、上流部の数十ヶ村が水没、19日後には決壊して下流が洪水に見舞われるなどしました。このため全体では、死者8,600人強、全壊家屋21,000千軒、焼失家屋は約3,400軒、山崩れ42,528ヶ所を数え、農畜産物、道路・橋梁などへも甚大な被害が出ました。
この地震のために生じた小松原断層と善光寺断層は長野市西部に残され、これら断層を総称し、長野盆地西縁断層群とも呼んでいます。尚、この震災被害を記録した、松代藩家老河原綱徳の手記『虫倉日記』(全4巻)が残されていて、貴重な史料とされてきました。
これによって、広範囲にわたって地すべりや山地崩壊が発生、大量の崩壊土砂による川の堰き止めや決壊、洪水の発生をももたらし、2万余戸の家屋が倒壊・焼失・流失しました。善光寺も大きな被害を受けましたが、折しも、善光寺御開帳と重なっていたこともあり、門前町は各地からの参拝客7,000~8000人であふれていて、家屋倒壊後、火災も起き、約1割くらいしか助からなかったともされています。
また、犀川右岸の虚空蔵山が山崩れを起こして犀川をふさぎ、堰止湖を形成、その上流には長さ約30kmの湖が出現して、上流部の数十ヶ村が水没、19日後には決壊して下流が洪水に見舞われるなどしました。このため全体では、死者8,600人強、全壊家屋21,000千軒、焼失家屋は約3,400軒、山崩れ42,528ヶ所を数え、農畜産物、道路・橋梁などへも甚大な被害が出ました。
この地震のために生じた小松原断層と善光寺断層は長野市西部に残され、これら断層を総称し、長野盆地西縁断層群とも呼んでいます。尚、この震災被害を記録した、松代藩家老河原綱徳の手記『虫倉日記』(全4巻)が残されていて、貴重な史料とされてきました。
〇松代藩家老河原綱徳手記『虫倉日記』(抜粋)
「水内郡大姥山崩壊して山麓なる念仏寺村の内、平沢組・臥雲組、梅木村の内、城の越組・親沢組、地京原村の内、藤沢組・横尾組、伊折村の内、太田組・高福寺横内組・荒木組、和佐尾村の内、栗本組など、都合五ヶ村の内、十一ヶ組の人家七十軒、男女百九十九人、馬三十頭迹方(あとかた)もなく埋没したるが、其夜、松代藩代官の手代鈴木藤太といえるが、松代候の不日村里を巡回して、念仏寺村臥雲院に止宿あるべき筈にて、其下検分として、臥雲院に出張止宿の折柄、図らず、其山抜けに遭ひ、自ら其夜の事共を詳しく筆記し置けるものあり。因(ちな)みに曰く、念仏寺村は当時総戸数五十八戸、此変災にて潰屋(つぶれや)二十四戸、半潰十八戸、死人六人、斃馬六頭なり」
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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