ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:啓蒙思想家

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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員西村茂樹が亡くなった日です。
 西村茂樹(にしむら しげき)は、江戸時代後期の1828年(文政11年3月13日)に、江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれましたが、幼名は平八郎(へいはちろう)と言いました。10歳の時に佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学び、1850年(嘉永3)に大塚同庵に師事、砲術を学び、翌年には、佐久間象山について砲術修業をします。
 1853年​(嘉永6)のペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じ、翌​年には、佐野藩年寄役となりました。1856年​(安政3)に佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当、1868年(慶応4)には、佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行ないます。
 1871年(明治4)に印旛県権参事となりましたが、翌年には辞し、上京して深川に家塾を開きました。1873年(明治6)に森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わります。
 1874年(明治7)に漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表、1875年(明治8)には、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講(~1885年)を始めました。1876年(明治9)に坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設、1879年(明治12)には、自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始します。
 1880年(明治13)に文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行、1882年(明治15)には、勲四等旭日小綬章を受章しました。1884年(明治17)に、「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となり、翌年には、勲三等旭日中綬章を受章します。
 1886年(明治19)に宮中顧問官、従四位となり、1887年(明治20)には、「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳確立を唱えてその普及に努め、銀製黄綬褒章を受章しました。1888年(明治21)に「華族女学校」第三代校長に就任、翌年に宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、1890年(明治23)には、貴族院勅選議員(~1892年)となります。
 1902年(明治35)に正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しましたが、同年8月18日に東京において、74歳で亡くなりました。

〇西村茂樹の主要な著作

・『心学講義』(1885~86年)
・編書『万国史略』(1873年)
・編書『婦女鑑』(1887年)
・『日本道徳論』(1887年)
・『国家道徳論』(1894年)
・『徳学講義』(1895~1901年)
・『自識録』(1899年)

☆西村茂樹関係略年表

・1828年(文政11年3月13日) 江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれる
・1838年(天保9年) 10歳の時、佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学ぶ
・1850年(嘉永3年) 大塚同庵に師事、砲術を学ぶ
・1851年(嘉永4年​) 佐久間象山に砲術を学ぶ
・1853年​(嘉永6年) ペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じる
・1854​年(安政元年) 佐野藩年寄役となる
・1856年​(安政3年) 佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当する
・1868年(慶応4年) 佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行なう
・1871年(明治4年) 印旛県権参事となる(~1872年)
・1872年(明治5年) 45歳で上京し、深川に家塾を開き、学制頒布に際し、もっぱら生をおさめ産をおこすことのみを説いて、ひとつも仁義・忠孝を教えた語のないのを遺憾とし、独力で国民の道徳を維持しようと志す
・1873年(明治6年) 森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わる
・1874年(明治7年) 漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表する
・1875年(明治8年) 大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講を始める(~1885年)
・1876年(明治9年) 坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設する
・1879年(明治12年) 自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始する
・1880年(明治13年) 文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行する
・1882年(明治15年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1884年(明治17年) 「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となる
・1885年(明治18年) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1886年(明治19年) 宮中顧問官、従四位となる
・1887年(明治20年) 「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行、銀製黄綬褒章を受章する
・1888年(明治21年) 「華族女学校」第三代校長に就任する
・1889年(明治22年) 宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1890年(明治23年) 貴族院勅選議員となる(~1892年)
・1891年(明治24年) 正四位となる
・1893年(明治26年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1900年(明治33年) 従三位となる
・1902年(明治35年) 正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1902年(明治35年)8月18日 東京において、74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1598年(慶長3)武将・大名・天下人豊臣秀吉の命日(新暦9月18日)詳細
1863年(文久3)公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した八月十八日の政変が勃発(新暦9月30日)詳細
1876年(明治9)日本画家松林桂月の誕生日詳細
1888年(明治21)官営事業(官営模範工場)の一つ三池炭鉱(福岡県)が競争入札の結果、三井財閥に払い下げが決まる詳細
1925年(大正14)小説家細井和喜蔵の命日詳細
1968年(昭和43)飛騨川バス転落事故が起き、死者104人を出す詳細
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nishiamane01

 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の亡くなった日です。
 西周(にし あまね)は、江戸時代後期の1829年(文政12年2月3日)に、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれましたが、幼名は経太郎(のち周助)と言いました。幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。
 1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。
 1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。
 一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。
 また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。

〇西周の主要な著作

・訳書『万国公法』(1868年)
・訳書『致知啓蒙』J・S・ミル作(1874年)
・『百一新論』(1874年)
・訳書『心理学』(1875~76年)
・訳書『利学』J・S・ミル作(1877年)
・『百学連環』

☆西周関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1829年(文政12年2月3日) 石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれる
・1841年(天保12年) 藩校・養老館で蘭学を学ぶ
・1853年(嘉永6年) 江戸詰となる
・1854年(安政元年) 洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学ぶ
・1857年(安政4年) 蕃書調所の教授並手伝となる
・1859年(安政6年) 医師石川有節の娘升子と結婚する
・1862年(文久2年) 幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学する
・1864年(元治元年) ライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会する
・1865年(慶応元年) 帰国する
・1866年(慶応2年) 開成所教授に昇進する
・1867年(慶応3年) 大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出する
・1868年(慶応4年) 徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任する
・1868年(慶応4年) 『万国公法』を訳刊する
・1870年(明治3年) 明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕する
・1871年(明治4年4月29日) 従六位となる
・1871年(明治4年7月28日) 正六位となる
・1871年(明治4年12月12日) 従五位となる
・1873年(明治6年) 森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成する
・1874年(明治7年) 機関紙「明六雑誌」を発行する
・1874年(明治7年) 『百一新論』を出版する
・1874年(明治7年) J・S・ミル著による論理学書『致知啓蒙』を訳刊する
・1875年(明治8年) 功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を「明六雑誌」に寄稿する
・1877年(明治10年) J・S・ミル著による『利学』を訳刊する
・1878年(明治11年)12月29日 正五位となる
・1880年(明治13年) 山県有朋の下で軍事政策にも参画し『軍人勅諭草案』を著す
・1881年(明治14年) 獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画する
・1881年(明治14年)6月23日 東京師範学校の校務嘱託となる
・1882年(明治15年) 元老院議官となる
・1882年(明治15年)6月30日 従四位となる
・1882年(明治15年)12月29日 勲三等旭日中綬章を受章する
・1883年(明治16年) 獨逸学協会学校の初代校長に就任する
・1885年(明治18年)10月1日 正四位となる
・1886年(明治19年)10月20日 従三位となる
・1887年(明治20年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1887年(明治20年) 健康上の理由により文部省・陸軍省・学士会院会員の公職を辞職する
・1888年(明治21年)5月29日 勲二等旭日重光章を受章する 
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する 
・1890年(明治23年)9月29日 貴族院勅選議員に任じられ、貴族院議員章を受章する
・1890年(明治23年)10月20日 錦鶏間祗候となる
・1891年(明治24年)2月17日 体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職する
・1892年(明治25年) 神奈川県大磯の別邸に移る
・1894年(明治27年)5月21日 正三位となる
・1897年(明治30年)1月27日 勲一等瑞宝章を受章する 
・1897年(明治30年)1月29日 男爵となる
・1897年(明治30年)1月31日 神奈川県大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細


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