ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:商人

dainihonenkaiyochizenzu0000
 今日は、江戸時代後期の1800年(寛政12)に、商人・測量家・地理学者伊能忠敬が、第1次測量(蝦夷地測量)のために、江戸を出発した日(閏月)ですが、新暦では6月11日となります。
 伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸時代後期の商人・測量家・地理学者です。江戸時代中期の1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれました。
 1762年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、養子となり、名を忠敬と改めます。酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。
 1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学天文を学びます。その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。
 それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、71歳で没しています。
 尚、千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。

〇伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)

・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる 
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る 
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる 
・1762年(宝暦12)  下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元)  佐原村本宿組名主となる 
・1783年(天明3)  天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する 
・1794年(寛政6)12月  隠居して家督を長男景敬に譲る 
・1795年(寛政7)  江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ 
・1800年(寛政12)閏4月19日  第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間 
・1801年(享和元)  第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間 
・1802年(享和2)  第3次測量(奥州街道‐山形‐秋田‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間  
・1803年(享和3)  第4次測量(東海道‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間 
・1805年(文化2)  第5次測量(東海道‐紀伊半島‐大阪‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐下関‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐琵琶湖‐東海道)幕府直轄事業となる  
・1808年(文化5)  第6次測量(東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道)  
・1809年(文化6)  第7次測量(中山道‐岐阜‐大津‐山陽道‐小倉‐九州東海岸‐鹿児島‐天草‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐中国内陸部‐名古屋‐甲州街道)  
・1811年(文化8)  第8次測量(甲府‐小倉‐鹿児島‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐‐対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間 
・1815年(文化12)  第9次測量(東海道‐三島‐下田‐八丈島‐御蔵島‐三宅島‐神津島‐新島‐利島‐大島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は参加せず 
・1816年(文化13)  第10次測量(江戸府内)   
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
1928年(昭和3)田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する詳細
2007年(平成19)漆芸家高橋節郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

suzukibokushi01
 今日は、江戸時代中期の1770年(明和7)に、商人・随筆家・文人鈴木牧之が生まれた日ですが、新暦では2月22日となります。
 鈴木牧之(すずき ぼくし)は、越後国魚沼郡の塩沢(現在の南魚沼市)において、地元では有数の豪商であった、父・鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母・とよの第5子として生まれましたが、幼名は弥太郎と言いました。14歳の時、越後に来遊した狩野梅笑のもと絵の手ほどきを受け、16歳の時、僧虎斑より漢詩を教わり、元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改めます。
 1788年(天明8)の19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著し、翌年には、家業を継いで商売繁盛に努め、1792年(寛政4)の23歳の時、みねと初めて結婚しました。1796年(寛政8)の27歳の時、上方参りに行き、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著し、1811年(文化8)の42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著します。
 1813年(文化10)の44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよも亡くなりました。1816年(文化13)の47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著し、1819年(文政2)の50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府を果たし、1821年(文政4)に『続東遊記行』、1824年(文政7)に『夜職草(よなべぐさ)』を著します。
 1826年(文政9)に十返舎一九が来訪、翌年には、滝沢馬琴著『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載されるなど江戸の文人との交流を深めました。十返舎一九の依頼により、1828年(文政11)に秋山郷を探訪し、翌年には『秋山記行』稿本が完成したものの、一九が亡くなったために出版は頓挫します。
 1836年(天保7)の67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後を来訪、翌年に『北越雪譜』初版3巻を刊行、1841年(天保12)には『北越雪譜』二編4巻を刊行しました。晩年は病に苦しみ、1840年(天保11)頃からは身体言語不自由となり、1842年(天保13年5月15日)には、越後・塩沢において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、生まれ故郷の塩沢に、1989年(平成元)に「鈴木牧之記念館」が開館し、関係資料が一般公開されるようになりました。

〇鈴木牧之の主要な著作

・『東遊記行』(1788年)
・『西遊紀行』(1796年)
・『苗場山紀行』(1811年)
・『上毛草津温泉入湯記』(1816年)
・『北海雪見行脚集』(1819年)
・『続東遊記行』(1821年)
・『夜職草(よなべぐさ)』(1824年)
・『秋山記行(あきやまきこう)』(1829年)
・『秋月庵発句集』(1830年)
・『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』(1836~42年)

☆鈴木牧之関係略年表(日付は旧暦です)

・1770年(明和7年1月27日) 越後国魚沼郡の塩沢(現在の南魚沼市)において、地元では有数の豪商であった、父・鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母・とよの第5子として生まれる 
・1783年(天明3年) 14歳の時、越後に来遊した狩野梅笑のもと絵の手ほどきを受ける
・1785年(天明5年) 16歳の時、僧虎斑より漢詩を教わり、元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改める
・1788年(天明8年) 19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著す
・1789年(天明9年) 20歳の時、家業を継ぎ、商売繁盛に努める
・1792年(寛政4年) 23歳の時、みねと結婚する
・1796年(寛政8年) 27歳の時、上方参りをし、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著す
・1811年(文化8年) 42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著す
・1813年(文化10年) 44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよがなくなる
・1816年(文化13年) 47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著す
・1819年(文政2年) 50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府をする
・1821年(文政4年) 『続東遊記行』を著す
・1824年(文政7年) 『夜職草(よなべぐさ)』を著す 
・1826年(文政9年) 十返舎一九が来訪する
・1827年(文政10年) 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載される
・1828年(文政11年9月) 秋山郷を探訪する
・1829年(文政12年) 『秋山記行(あきやまきこう)』稿本が完成する
・1836年(天保7年6月) 67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後にやってくる
・1837年(天保8年秋) 『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』初編3巻を刊行する
・1841年(天保12年11月) 『北越雪譜』二編4巻を刊行する
・1842年(天保13年5月15日) 数え年73歳で亡くなる
・1989年(平成元) 生まれ故郷の塩沢に「鈴木牧之記念館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1219年(建保7)鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺される(新暦2月13日)詳細
1713年(正徳3)狩野派の絵師狩野常信の命日(新暦2月21日)詳細
1885年(明治18)日本画家前田青邨の誕生日詳細
1998年(平成10)小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代後期の1818年(文政元)に、商人・測量家・地理学者伊能忠敬(いのう ただたか)の亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 伊能忠敬は、1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれましたが、幼名は三治郎といいました。
 1745年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、名を忠敬と改めます。酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。
 1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事します。その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。
 それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。
 これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、73歳で没しています。
 千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。

〇伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)

・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる
・1762年(宝暦12) 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元) 佐原村本宿組名主となる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する
・1794年(寛政6)12月 隠居して家督を長男景敬に譲る
・1795年(寛政7) 江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ
・1800年(寛政12)閏4月19日 第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間
・1801年(享和元) 第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間
・1802年(享和2) 第3次測量(奥州街道‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間 
・1803年(享和3) 第4次測量(東海道‐太平洋沿岸‐名古屋‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間
・1805年(文化2) 第5次測量(東海道‐紀伊半島‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐東海道)幕府直轄事業となる 
・1808年(文化5) 第6次測量(東海道‐大阪‐四国‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道) 
・1809年(文化6) 第7次測量(中山道‐山陽道‐九州東海岸‐天草‐熊本‐大分‐萩‐中国内陸部‐甲州街道) 
・1811年(文化8) 第8次測量(甲府‐九州‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐・対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間
・1815年(文化12) 第9次測量(東海道‐下田‐伊豆諸島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は不参加
・1816年(文化13) 第10次測量(江戸府内)  
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ