
1905年(明治38)に卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進んだものの、翌年には、家業を継ぐために中退して帰郷しました。家業のかたわら独力でできる学問として、数学を選び、林鶴一の指導で本格的研究を始めます。
持船が沈没したのを機会に、家業をたたむ決心をし、全てを売り払い、1911年(明治44)に、新設の東北帝国大学理科大学数学科助手となりました。1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与され、1917年(大正6)には大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となります。
1920年(大正9)にフランスへ留学し、「相対性理論」を研究、1922年(大正11)には帰国し、大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義しました。1923年(大正12)に『図計算及び図表』、1924年(大正13)に『数学教育の根本問題』、1925年(大正14)に『統計的研究法』を刊行し、同年には塩見理化学研究所の所長となります。
1932年(昭和7)に大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人ともなりました。1933年(昭和8)には、野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆しています。
1936年(昭和11)に「自然科学者の任務」を発表して軍国主義に反対、翌年には、塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行し、唯物史観に基づく数学史の研究を進めました。1940年(昭和15)に東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行しましたが、1943年(昭和18)には、大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞めています。
太平洋戦争後は、1946年(昭和21)から民主主義科学者協会会長、1948年(昭和23)から日本科学史学会会長、1951年(昭和26)から数学教育協議会会長などの要職を歴任しました。1956年(昭和31)に『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞、翌年には第6回平和文化賞を受賞しています。
1962年(昭和37)に日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となったものの、同年10月21日に東京において、77歳で亡くなりました。
以下に、小倉金之助著『自然科学者の任務』を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。