ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:唐招提寺

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 今日は、奈良時代の754年(天平勝宝6)に、唐の高僧・鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けた日ですが、新暦では3月2日となります。
 鑑真(がんじん)は、来日して帰化した唐代の高僧・日本律宗の開祖です。688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。
 以下に、鑑真の渡来の顛末を記した『唐大和上東征伝』(淡海三船著)を抜粋して掲載して置きましたので、ご参照下さい。

〇鑑真関係略年表(日付は旧暦です)

・688年(持統天皇2) 唐の揚州江陽県に生まれたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言った
・701年(大宝元) 14歳の時、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家する
・705年(慶雲2) 18歳の時、南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受ける、
・707年(慶雲4) 20歳の時、長安に入り、実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受ける
・733年(天平5) 日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐する
・742年(天平14) 日本僧の栄叡、普照の要請を受けて、来日を決意する
・743年(天平15) 1回目の渡航に失敗する
・748年(天平20) 5回目の渡航で、14日間の漂流の末、南方の海南島へ漂着し失敗する
・751年(天平勝宝3) 鑑真は揚州に戻るため海南島を離れる
・753年(天平勝宝5) 6回目の渡航で、鑑真が薩摩国坊津に到着する
・754年(天平勝宝6年2月4日) 鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受ける
・755年(天平勝宝7) 鑑真は、東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任される
・756年(天平勝宝8) 鑑真は、大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられる
・759年(天平宝字3) 鑑真が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として唐招提寺が創建される
・760年(天平宝字4)頃 平城宮改修の際、平城宮の東朝集殿が移されて唐招提寺講堂が建立される
・763年(天平宝字7年5月6日) 鑑真が、数え年76歳で亡くなる
・781年(天応元年) 鑑真和上の弟子・如宝が唐招提寺金堂を建立したが、この年に伐採されたヒノキが使われていた

☆『唐大和上東征伝』とは? 

 淡海三船著で、鑑真の渡来の顛末を記した書物です。鑑真に随伴して来日した思託の著した『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称「大和上伝」「大和尚伝」)や鑑真の行状を伝聞して、779年(宝亀10)に完成したもので、全1巻からなっていました。
 鑑真の出自や出家から、6回目にようやく渡日に成功して日本に戒律を伝えた経緯、唐招提寺の縁起を述べるとともに、8世紀中期の唐の諸州、都市の見聞記が収められていて、海外交渉史としてもその価値はが高いとされています。  

☆『唐大和上東征伝』の抜粋 

「日本国天平五年歳は癸酉に次る、沙門栄叡・普照等、遣唐大使丹比真人広成に随ひて唐国に至り、留りて学ぶ。…天平六載歳冬十月、時に大和上楊州大明寺にあり、衆のために律を講ず。 栄叡・普照師大明寺に至り、大和上の足下に頂礼し、具さに本意を述べて日く、『仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖も伝うる人無し。本国に昔聖徳太子有り。日く二百年の後、聖教日本に興らんと。今此の運に鍾る。願はくは和上、東遊して化を興せ』と。大和上答えて日く、『昔聞く。南岳恵思禅師、遷化の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆し、衆生を済度すと。(中略)此を以て思量っっするに、誠に是れ仏法興隆有縁の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請に応え、日本国に向いて法を伝える者有らんか』と。時に衆黙然として一の対うる者無し。良久しくして僧祥彦有り。進みて日く。『彼の国は太遠く、性命存し難し。滄波□漫、百に一も至る無し(中略)』と。和上日く、『これ法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。諸人去らざれば、我すなわち去るのみ』と。祥彦日く。『和上若し去かば、祥彦も亦随いて去かん』と。
   …天平七載十月十六日…岸を去ること漸く遠く、風は急に波は峻く、水の黒きこと墨の如し。沸浪一たび透らば、高山に上がる如し。怒涛再び至らば、深谷に入るに似たり。人皆荒酔し、ただ観音を唱ふ。…舟上に水なし、米を嚼めども喉乾き、咽めども入らず、吐けども出でず、鹹水を飲めば腹すなわち脹れ、一生の辛苦、何ぞこれより劇しからん。…和上頻りに炎熱を経て、眼光暗昧たり。ここに胡人あり。能く目を治すといふ。遂に療治を加ふるも、眼遂に失明せり。…和上天平十二載十月廿九日戊の時に於て、龍興寺より出でて江の頭に至り…船に乗りて下り、蘇州黄泗に至る。…十二月廿日乙酉午の時、第二舟薩摩国阿多郡秋妻屋浦に著く」 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1181年(養和元)平安時代末期の武将・公卿平清盛の命日(新暦3月20日)詳細
1482年(文明14)室町幕府第8代将軍足利義政が、東山に慈照寺観音殿(銀閣寺)の造営を開始する(新暦2月21日)詳細
1604年(慶長9)江戸幕府が街道に日本橋を起点とした一里塚の設置を命ずる(新暦3月4日)詳細
1898年(明治31)日本画家・版画家伊東深水の誕生日詳細
1904年(明治37)明治天皇臨席の御前会議で、日露戦争の開戦が決定される詳細
1933年(昭和8)長野県で多数の学校教員などが「治安維持法」違反として検挙(二・四事件)され始める詳細
1966年(昭和41)全日空機羽田沖墜落事故が起こり、乗員・乗客133名全員が死亡する詳細
1976年(昭和51)米上院多国籍企業小委員会公聴会でロッキード社の日本政府高官への贈賄が発覚(ロッキード事件の発端)詳細
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 今日は、奈良時代の759年(天平宝字3)に、鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立した日ですが、新暦では8月29日となります。
 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、鑑真が、奈良時代の759年(天平宝字3)に開創した寺院で、南都六宗の1つである律宗の総本山です。奈良市街から離れた西の京にあり、田畑に囲まれた静かなたたずまいの中に堂宇が並び、金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵、宝蔵などは奈良時代の建物で国宝に指定されています。
 その堂宇の中にすばらしい仏像群が鎮座し、乾漆鑑真和上坐像、乾漆盧舎那仏坐像、木心乾漆千手観音立像、木造梵天・帝釈天立像などは、奈良時代の天平仏でいずれも国宝となっています。それらを巡ってみると、12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした盲目の僧鑑真の苦労と共に当時を思い起こさせてくれました。
 また、1998年(平成10)に、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇鑑真(がんじん)とは?

 来日して帰化した唐代の高僧・日本律宗の開祖です。688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。

☆唐招提寺関係略年表(日付は旧暦です)

・753年(天平勝宝5) 鑑真が薩摩国坊津に到着する
・754年(天平勝宝6) 鑑真が平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受ける
・755年(天平勝宝7) 鑑真は、東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任される
・756年(天平勝宝8) 鑑真は、大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられる
・759年(天平宝字3) 鑑真が新田部親王の邸跡(平城京右京五条二坊)を朝廷から賜り、戒律を学ぶ修行道場として創建される
・760年(天平宝字4)頃 平城宮改修の際、平城宮の東朝集殿が移されて講堂が建立される
・763年(天平宝字7年5月6日) 鑑真が、数え年76歳で亡くなる
・781年(天応元年) 鑑真和上の弟子・如宝が金堂を建立しましたが、この年に伐採されたヒノキが使われていた
・810年(弘仁元) 『日本紀略』によると東塔が建立されたする
・1140年(保延6) 金堂・講堂・宝蔵・御影堂・阿弥陀院などの伽藍が建立されていた
・1243年(寛元元) 中興の祖・覚盛が舎利会を創設する
・1244年(寛元2) 覚盛が入寺して再興を始める
・1249年(建長元) 覚盛が亡くなると法華寺の尼僧が遺徳を偲んで、団扇、宝扇を供えたことから覚盛の命日にうちわまきが行われるようになる
・1698年(元禄11) 戒壇院が再興される
・1802年(享和2) 火災によって東塔・五重塔など重要な伽藍が焼失する
・1900年(明治33) 独立して律宗総本山となる
・1998年(平成10) ユネスコ世界文化遺産(古都奈良の文化財)に登録される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

701年(大宝元)藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了する(新暦9月9日)詳細
1872年(明治5)「学制」が公布される(新暦9月5日)詳細
1935年(昭和10)岡田啓介内閣によって「国体明徴に関する政府声明」(第1次国体明徴声明)が出される詳細
1937年(昭和12)豊田正子が小学生の時に書いた作文をまとめた『綴方教室』が刊行される詳細
1967年(昭和42)「公害対策基本法」が公布・施行される詳細
1987年(昭和62)建設省が「日本の道100選」を選定し、前年分と合わせて104本となる詳細
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 今日は、奈良時代の763年(天平宝字7)に、唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の亡くなった日ですが、新暦では6月25日となります。
 鑑真(がんじん)は、688年(持統天皇2)に唐の揚州江陽県に生まれましたが、俗姓は淳于(じゅんう)と言いました。
 14歳のとき、揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、18歳で南山律の道岸(どうがん)によって菩薩戒を受け、20歳で長安に入ります。実際寺で恒景(こうけい)を戒和上として具足戒を受け、その後、諸宗を学び、揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、名声が響くようになりました。
 733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)が授戒伝律の師を求めて入唐、742年(天平14)にその要請を受けて、来日を決意します。しかし、5回(743~748年)渡航に失敗し、その間に失明することになりました。
 それでも、6回目に成功し、753年(天平勝宝5)に薩摩国坊津に到着、翌年平城京に入って、聖武上皇以下の歓待を受けます。755年(天平勝宝7)に東大寺大仏殿前に戒壇を設け、授戒について一任され、翌年には大僧都に任じられ、その後、大和上の称が与えられました。
 759年(天平宝字3)には、唐招提寺を開いて戒律研鑽の道場としましたが、763年(天平宝字7年5月6日)に、奈良において、数え年76歳で亡くなっています。
 以下に、鑑真の渡来の顛末を記した『唐大和上東征伝』(淡海三船著)を抜粋して掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇『唐大和上東征伝』とは?

 淡海三船著で、鑑真の渡来の顛末を記した書物です。鑑真に随伴して来日した思託の著した『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称「大和上伝」「大和尚伝」)や鑑真の行状を伝聞して、779年(宝亀10)に完成したもので、全1巻からなっていました。鑑真の出自や出家から、6回目にようやく渡日に成功して日本に戒律を伝えた経緯、唐招提寺の縁起を述べるとともに、8世紀中期の唐の諸州、都市の見聞記が収められていて、海外交渉史としてもその価値はが高いとされています。

☆『唐大和上東征伝』の抜粋

「日本国天平五年歳は癸酉に次る、沙門栄叡・普照等、遣唐大使丹比真人広成に随ひて唐国に至り、留りて学ぶ。…天平六載歳冬十月、時に大和上楊州大明寺にあり、衆のために律を講ず。 栄叡・普照師大明寺に至り、大和上の足下に頂礼し、具さに本意を述べて日く、『仏法東流して日本国に至る。其の法有りと雖も伝うる人無し。本国に昔聖徳太子有り。日く二百年の後、聖教日本に興らんと。今此の運に鍾る。願はくは和上、東遊して化を興せ』と。大和上答えて日く、『昔聞く。南岳恵思禅師、遷化の後、生を倭国の王子に託し、仏法を興隆し、衆生を済度すと。(中略)此を以て思量っっするに、誠に是れ仏法興隆有縁の国なり。今我が同法の衆中、誰か此の遠請に応え、日本国に向いて法を伝える者有らんか』と。時に衆黙然として一の対うる者無し。良久しくして僧祥彦有り。進みて日く。『彼の国は太遠く、性命存し難し。滄波□漫、百に一も至る無し(中略)』と。和上日く、『これ法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。諸人去らざれば、我すなわち去るのみ』と。祥彦日く。『和上若し去かば、祥彦も亦随いて去かん』と。
  …天平七載十月十六日…岸を去ること漸く遠く、風は急に波は峻く、水の黒きこと墨の如し。沸浪一たび透らば、高山に上がる如し。怒涛再び至らば、深谷に入るに似たり。人皆荒酔し、ただ観音を唱ふ。…舟上に水なし、米を嚼めども喉乾き、咽めども入らず、吐けども出でず、鹹水を飲めば腹すなわち脹れ、一生の辛苦、何ぞこれより劇しからん。…和上頻りに炎熱を経て、眼光暗昧たり。ここに胡人あり。能く目を治すといふ。遂に療治を加ふるも、眼遂に失明せり。…和上天平十二載十月廿九日戊の時に於て、龍興寺より出でて江の頭に至り…船に乗りて下り、蘇州黄泗に至る。…十二月廿日乙酉午の時、第二舟薩摩国阿多郡秋妻屋浦に著く」
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