ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:唐

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 今日は、飛鳥時代の663年(天智天皇2年)に、朝鮮半島において、白村江の戦いが始まった日ですが、新暦では10月4日となります。
 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、朝鮮南西部の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済再興をめざす日本軍と唐・新羅 (しらぎ) 連合軍との海戦でした。660年(斉明天皇6年)に、唐・新羅連合軍が百済を滅ぼすと王族の鬼室福信が日本に援助を要請、救援に向かった日本軍は百済王子豊璋を擁して、白村江で戦います。
 8月27日に、日本の水軍(廬原君臣)の先陣と大唐の水軍が白村江で会戦しましたが、日本は不利になり退きます。翌日、大唐軍は左右から船を挟み取り囲んで戦い、ほんわずかの間に、日本軍は次々と敗れ、溺死者が多く出て、朴市田来津は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り数十人を殺し戦死し、百済王豊璋は数人と船に乗り高麗に逃げ去り、唐将劉仁願 (りゆうじんがん) に大敗しました。
 その結果、王族、貴族の大部分は日本に亡命し、百済は完全に滅亡し、日本も長年の朝鮮半島進出を断念し、内治に専念するようになります。
 以下に、このことを記した『日本書紀』巻二十七の天智天皇二年の条と『旧唐書』劉仁軌伝(列伝巻84)の該当部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻二十七 天智天皇二年の条

<原文>

戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。
戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。
己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得𢌞旋。朴市田來津、仰天而誓・切齒而嗔、殺數十人、於焉戰死。是時、百濟王豐璋、與數人乘船逃去高麗。

<読み下し文>

戊戌[1]、賊將[2]州柔[3]に至りて、其の王城[4]を繞む。大唐[5]の軍將戰船[6]一百七十艘を率ゐて、白村江[7]に陣烈れり。
戊申[8]、日本の船師[9]初至る者、大唐[5]の船師[9]と合ひ戰ふ。日本不利退きぬ、大唐[5]陣を堅くして守る。
己酉[10]、日本の諸將、百濟王[11]と與に氣象[12]を觀ずして、相謂りて曰く、我等先を爭はゞ、彼れ應に自に退くべし。更に日本の伍[13]を亂る。中軍[14]の卒を率ゐて、進みて大唐[5]の堅陣[15]の軍を打つ。大唐[5]、便ち左右より船を夾みて繞み戰ふ。須臾[16]の際に官軍敗績れぬ。水に赴きて溺れ死ぬる者衆し、艫舳[17]、𢌞旋[18]すことを得ず。朴市田來津[19]、天を仰ぎて誓ひ、齒を切りて嗔りて、數十人を殺し、焉に戰死す。是の時に、百濟王豐璋[20]、數人と與に船に乘りて高麗[21]に逃げ去る。

【注釈】

[1]戊戌:ぼじゅつ=十干と十二支とを組み合わせたものの第三五番目。ここでは8月17日。
[2]賊將:ぞくしょう=賊軍の大将。ここでは新羅の将軍
[3]州柔:つぬ=周留。錦江下流域の地名。白村江の戦いでの陸戦の主戦場となった。
[4]王城:おうじょう=帝王の居住する城。王宮。また、その所在地。ここでは、周留城のこと。
[5]大唐:だいとう=中国の唐朝。
[6]戰船:いくさふね=水軍における軍船の総称。特定の船型をさすものではなく、兵員・物資などを輸送する荷船に対する呼称。
[7]白村江:はくすきのえ=韓国南西部、全羅北道の川の古名。群山市付近の錦江河口に、あるいは東津江河口にあたると考えられる。
[8]戊申:ぼしん=十干と十二支とを組み合わせたものの第四五番目。ここでは8月27日。
[9]船師:ふなし=水軍。
[10]己酉:きゆう=十干と十二支とを組み合わせたものの第四六番目。ここでは8月28日。
[11]百濟王:くだらおう=百済の王。ここでは、百済の義慈王の王子の豊璋のこと。
[12]氣象:きしょう=宇宙の根元的なものと、その作用によって生じる形象。きざしとかたち。状況。戦況。
[13]伍:ご=仲間。隊列。
[14]中軍:ちゅうぐん=左右または前後の部隊の中央に位置する部隊。多くは大将の率いる部隊。
[15]堅陣:けんじん=守りがかたくて、破ることがむずかしい陣営。
[16]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。
[17]艫舳:ともへ=船のともと、へさき。船尾と船首。
[18]𢌞旋:かいせん=ぐるぐる回すこと。くるくる回ること。巡らすこと。旋回。
[19]朴市田來津:えちのたくつ=豊章と行動を共にしていた百済守護、近江国愛智郡の秦一族。
[20]豐璋:ほうしょう=朝鮮の百済義慈王の子。
[21]高麗:こま=朝鮮半島古代の国名である高句麗(こうくり)。または、高麗(こうらい)。

<現代語訳>

(天智天皇2年)8月17日、敵将(新羅の将軍)が州柔(周留)に至って、その王城(周留城)を囲んだ。大唐の将軍は軍船170艘を率いて、白村江に陣を敷いた。
8月27日、日本の水軍の先陣と大唐の水軍と合戦をした。日本は不利となって退却した。大唐は陣を堅くして守った。
8月28日、日本の諸将は、百済王(豊璋)と共に戦況を見極めもせずに、語り合って言った、「我等が先を争って攻撃すれば、彼らは自ずと退くであろう。」さらに日本の隊列の乱れた、中軍の兵を率いて、進んで大唐の守りが堅い陣の軍を攻撃した。大唐は、すると左右から船を挟んで攻撃した。短時間の間に日本軍は次々と敗れた。水に落ちて溺死する者が多く、船の舳先と船尾を旋回させることさえできなかった。朴市田來津(豊章と行動を共にしていた百済守護)は、天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を殺し、ついに戦死した。この時に、百濟王豐璋は、数人と共に船に乘って高麗に逃げ去った。

〇『旧唐書』劉仁軌伝(列伝巻84)

於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口、四戰捷、焚其舟四百艘、煙焰漲天、海水皆赤、賊眾大潰。餘豐脫身而走、獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠誌等、率士女及倭眾並耽羅國使、一時並降。百濟諸城、皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。

<読み下し文>

是に於いて仁師[22]、仁願[23]及ひ新羅王金法敏帥[24]は陸軍を以て進む。仁軌[25]乃ち別率の杜爽、扶餘隆[26]は水軍及び糧船[27]を率ゐて、熊津江[28]自り白江[29]へ往きて陸軍に會し同に周留城[30]へ趣く。仁軌[25]は倭兵[31]と白江[29]之口で遇ひ、四戰して捷つ、其の舟四百艘を焚く、煙と焰は天に漲り、海水は皆赤く、賊眾[32]は大いに潰れる。餘豐[33]は身を脫して走り、其の寶劍を獲る。偽王子[34]扶餘忠勝、忠誌等、士女及ひ倭眾[35]並ひ耽羅國使[36]を率い、一時に並ひて降りる。百濟[37]諸城は、皆復た歸順[38]す。賊帥[39]の遲受信は任存城[40]に據り降りず。

【注釈】

[22]仁師:じんし=中国唐代の武将。
[23]仁願:じんがん=劉仁願、中国唐代の武将。
[24]金法敏帥:きむぼむみんし=新羅の第30代文武王のこと。
[25]仁軌:じんき=劉仁軌、中国唐代の武将。
[26]扶余隆:ふよりゅう=扶余豐璋のことで、百済最後の王である義慈王の太子。
[27]糧船:りょうせん=運送船。兵糧船。
[28]熊津江:ゆうしんこう=錦江の別名で、百済の古都である忠清南道公州からの呼び名。
[29]白江:はくこう=錦江の別名。
[30]周留城:するじょう=朝鮮半島の錦江河口付近(現在の忠清南道)にあった百済の城。
[31]倭兵:わへい=倭国(日本)の兵。
[32]賊眾:ぞくしゅう=悪者・反逆者の仲間。賊徒。賊党。ここでは、倭軍(日本軍)のこと。
[33]餘豐:よほう=扶余豐璋のことで、百済最後の王である義慈王の太子。
[34]偽王子:ぎおうじ=偽の王子。
[35]倭眾:わしゅう=倭国(日本)の人々。
[36]耽羅國使:ちんらこくし=耽羅国(朝鮮半島沖の済州島に存在した王国で百済に内属)の使い。
[37]百濟:くだら=朝鮮の三国時代、西南部にあった国。
[38]歸順:きじゅん=反逆の心をあらためて服従すること。帰服。
[39]賊帥:ぞくすい=敵の将軍。賊将。
[40]任存城:にんぞんじょう=朝鮮半島の忠清南道の北東付近(現在の忠南礼山郡大興面)にあった百済の城。

<現代語訳>

こうして仁師、仁願および新羅王の金法敏帥は陸軍を率いて進軍。仁軌すなわち別率の杜爽、扶余隆は水軍および兵糧船を率いて、熊津江より白江に入り、陸軍と会合し同じく周留城に向かった。劉仁軌軍は白江口で倭兵と遭遇し、四戦して勝利し、その四百艘の舟を焼き、煙と炎は天にみなぎり、海水は真っ赤に染まり、賊衆は大敗した。扶餘豊(百済王子)は逃げ去り、その宝剣を得た。偽王子の扶餘忠勝や忠志らは、士女および倭衆ならび耽羅國使を率い、一時に並んで降伏した。百濟の諸城は、みな再び歸順した。ただ賊将の一人、遅受信のみは任存城にあって降伏しなかった。

☆白村江の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<660年(斉明天皇6年)>
・7月18日 唐・新羅連合軍が百済を滅ぼす
・8月3日 百済残党が小規模の反撃を開始する
・8月26日 新羅郡から任存(にんぞん)を防衛する
・9月3日 劉仁願将軍が泗沘城に駐屯し、侵入を繰り返す
・10月9日 州柔(周留)城が攻撃される
・10月18日 州柔(周留)が攻略され、20余城が降伏する
・10月20日 泗沘の南の山に駐屯していた百済軍を攻撃して、1,500人を斬首する
・10月 鬼室福信は百済王朝を再建させるために倭国に要請をする
・12月 斉明天皇は福信の乞うところの意に随い、筑紫に行き救軍を送ろうと、まず難波に行き、諸兵器の準備をする

<661年(斉明天皇7年)>
・1月6日 天皇と皇太子(後の天智天皇)は難波を出発する
・3月25日 天皇と皇太子(後の天智天皇)は九州娜大津(長津)に着く
・4月 百済の福信が遣使上表し、王子糺解を迎えることを乞う
・7月24日 朝倉宮で斉明天皇が68歳で急死、中大兄皇子は皇太子として喪に服したまま長津宮で戦いの指揮をする
・8月 百済への救援軍を送る
・9月 皇太子(後の天智天皇)は長津宮で、織冠を百済王子豊璋に授け、多臣蔣敷の妹を妻とし、大山下狭井連檳榔・小山下秦造田来津に軍五千余を与え、護衛させ本郷に送る

<662年(天智天皇元年)> 
・1月 百済の鬼室福信に武器や物資を送る
・5月 大将軍大錦中阿曇連比羅夫は、天智天皇の命により、軍船170艘を率いて百済の王子豊璋を百済に護送し、王位につける

<663年(天智天皇2年)>
・2月 新羅人が百済の南辺の四州を焼き払い、安徳などの要地を取る
・3月 中大兄皇子は百済に2万7千人の兵を3軍編成で送る
・5月1日 犬上君が馳け、高麗に兵事を告げ還り、糺解と石城で会って、糺解は福信の罪を語る
・6月 豊璋は、鬼室福信が謀反を起こしたとして部下に命じて殺害する
・8月13日 豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待っていたが、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流する
・8月17日 唐・新羅連合軍が百済復興軍の周留城を包囲し、唐軍は軍船170艘を白村江に配備する
・8月27日 倭国軍が朝鮮半島西岸に到着、突撃作戦に出る
・8月28日 白村江で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突し、倭国軍は大敗し、百済王(豊璋)は逃亡する
・9月7日 百済が陥落し永遠に滅亡する

<668年(天智天皇7年)>
・唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしたが、唐と新羅が対立する

<676年(天武天皇5年)>
・新羅によって朝鮮半島が統一される

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 今日は、飛鳥時代の630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(大使)・薬師恵日らが第1回遣唐使として、唐へ遣わされた日ですが、新暦では9月16日となります。
 第1回遣唐使は、舒明天皇の御代に、遣隋使のあとをうけ、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として、薬師恵日らを中国の唐へ派遣したものでした。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、2隻に分乗し、朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を通ったと考えられます。
 洛陽を経由して、唐の都長安へと至り、唐帝に謁見して、国書・贈物を奉献すること(朝貢)を任務としたものですが、唐の制度・文物を学んで、それを導入する目的もありました。2年後に帰国した使節団や留学生、留学僧などによって、政治・学問・宗教などに多くの貢献がなされたとされています。
 本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則ですが、遠方にある日本は毎年でなくてよいとする措置がとられ、以後は、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止されるまで、数年から数十数の間隔で実施されました。以下に、『日本書紀』巻第二十三の第1回遣唐使の事を記した部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本書紀』巻第二十三の遣唐使に関連する部分の抜粋

<原文>

二年(中略)秋八月癸巳朔丁酉、以大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日、遣於大唐。

四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。

<読み下し文>

二年(中略)秋八月癸巳朔丁酉、大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を以て、大唐に遣す。

四年秋八月、大唐高表仁を遣して、三田耜を送る。共に對馬に泊れり。是の時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、之を從たり。

<現代語訳>

舒明天皇2年(中略)秋8月5日、大仁犬上君三田耜・大仁藥師惠日を大唐へ遣わした。

舒明天皇4年秋8月、大唐は高表仁を遣して、三田耜を送らせた。共に対馬に泊った。この時、學問僧靈雲・僧旻および勝鳥養、新羅の送使らがこれに従った。

〇遣唐使(けんとうし)とは?

 飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。

☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)

・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者) 
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する

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