ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:哲学者

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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、哲学者・文芸美術評論家谷川徹三が亡くなった日です。
 谷川徹三(たにかわ てつぞう)は、明治時代後期の1895年(明治28)5月26日に、愛知県知多郡常滑町(現在の常滑市)において、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として生まれました。旧制愛知県立第五中学校(現在の県立瑞陵高等学校)を経て、1913年(大正2)に第一高等学校(後の東京大学教養学部)に入学、1918年(大正7)には、京都帝国大学文学部哲学科へ進みます。
 在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿し、西田幾多郎に影響されて、1922年(大正11)に卒業しました。その後、竜谷大学、同志社大学、京都市立絵画専門学校などで講師を務め、1928年(昭和3)には、法政大学文学部哲学科教授となります。
 1929年(昭和4)に『改造』に論文を発表して論壇に登場、1942年(昭和17)には、文部省の国民芸能文化専門会委員を務めました。太平洋戦争後は、1945年(昭和20)に中央公論社理事となり、1946年(昭和21)には、帝室博物館(後の国立博物館)次長となり、三年会、憲法問題研究会、世界連邦運動にも加わります。
 1960年(昭和35)には文学博士の称号を得る一方で、文学部長、能楽研究所長を経て、1962年(昭和37)に法政大学総長に選出され、翌年には理事長を兼任しました。1965年(昭和40)に法政大学総長を退任、1967年(昭和42)には勲二等瑞宝章を受章します。
 1970年(昭和45)に法政大学を退職後は、日本ユネスコ協会連盟顧問など諸要職を兼ねました。その中で、1975年(昭和50)にNHK放送文化賞受賞、日本芸術院会員、1987年(昭和62)には、常滑市名誉市民、文化功労者となるなど数々の栄誉にも輝きます。
 芸術・社会・文化・思想など多方面の活動を行ってきましたが、1989年(平成元)9月27日に、東京都杉並区の自宅において、虚血性心不全のため94歳で亡くなりました。

〇谷川徹三の主要な著作

・『感傷と反省』(1925年)岩波書店
・『生活・哲学・芸術』(1930年)岩波書店
・『享受と批評』(1930年)
・『日本人のこころ』(1938年)
・『東洋と西洋』(1940年)
・『茶と美学』(1945年)
・『生の哲学』(1947年)
・『宮沢賢治』(1951年)
・『東と西の間の日本』(1958年)岩波書店
・『芸術の運命』(1964年)岩波書店
・『人間であること』(1972年)
・『茶の美学』(1977年)淡交社
・『生涯一書生』(1988年)岩波書店

☆谷川徹三関係略年表

・1895年(明治28)5月26日 愛知県知多郡常滑町(現在の常滑市)において、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として生まれる
・1913年(大正2) 第一高等学校(後の東京大学教養学部)に入学する
・1918年(大正7) 京都帝国大学文学部哲学科へ入学する
・1922年(大正11) 京都帝国大学文学部哲学科を卒業する
・1928年(昭和3) 法政大学文学部哲学科教授となる
・1929年(昭和4) 『改造』に論文を発表して論壇に登場する
・1942年(昭和17) 文部省の国民芸能文化専門会委員を務める
・1945年(昭和20) 中央公論社理事となる
・1946年(昭和21) 帝室博物館(後の国立博物館)次長となる
・1960年(昭和35) 文学博士を得る
・1962年(昭和37) 法政大学総長となる
・1963年(昭和38) 総長兼理事長に就任する
・1965年(昭和40) 法政大学総長を退任する
・1967年(昭和42) 勲二等瑞宝章を受章する
・1970年(昭和45) 法政大学を退職、宮沢賢治像を制作するよう高田博厚に依頼する
・1975年(昭和50) NHK放送文化賞を受賞、日本芸術院会員となる 
・1987年(昭和62) 常滑市名誉市民、文化功労者となる
・1989年(平成元)9月27日 東京都杉並区の自宅において、虚血性心不全のため94歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)日本初の地下鉄・銀座線(上野~浅草2.2km)の起工式が行われる詳細
1940年(昭和15)「日独伊三国同盟」が調印される 詳細
1945年(昭和20)GHQが「新聞及言論の自由への追加措置に関する覚書」(SCAPIN-66)を出す詳細
1946年(昭和21)「労働関係調整法」が公布される詳細
1958年(昭和33)狩野川台風が神奈川県に上陸し、死者・行方不明1,269人を出す詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、哲学者・評論家・思想家三木清が獄死した日です。
 三木清(みき きよし)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月5日に、兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれました。第一高等学校を経て、1917年(大正6)に京都帝国大学哲学科に入学、西田幾多郎・波多野精一らに学びます。
 1921年(大正10)に教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送り、翌年からドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルト、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーに師事、フランスのパリを経て、1925年(大正14)に帰国しました。その後、第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表、1927年(昭和2)には、法政大学教授となります。
 1928年(昭和3)に、羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊、同年の「唯物史観と現代の意識」は社会主義と哲学との結合について知識人に大きな影響を与え、マルクス主義哲学者として注目を集めました。しかし、1930年(昭和5)に「治安維持法」違反で検挙されて大学を辞め、著作活動に専念するようになり、1932年(昭和7)に『歴史哲学』を著わし、1933年(昭和8)には学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画します。
 ジャーナリズムの場で時代と文化の批判を展開、ファシズムと軍国主義に抗して“新しいヒューマニズム”を主張しましたが、1938年(昭和13)には、近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したものの、挫折しました。1941年(昭和16)に、『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行、翌年には、陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣されています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3月に、再度の「治安維持法」違反容疑で投獄され、敗戦直後の1945年(昭和20)9月26日に、東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死しました。

〇三木清の主要な著作

・『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926年)
・『観念形態論』(1931年)
・『唯物史観と現代の意識』(1932年)
・『歴史哲学』(1932年)
・『人間学的文学論』(1934年)
・『構想力の論理』(1939,46年)
・『哲学ノート』(1941年)
・『人生論ノート』(1941年)
・『技術哲学』(1942年)

☆三木清関係略年表

・1897年(明治30)1月5日 兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれる
・1914年(大正3) 第一高等学校に入学、西田幾多郎の『善の研究』を読んで感動する
・1917年(大正6) 京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎に師事する
・1920年(大正9) 京都帝国大学哲学科を卒業する
・1921年(大正10)4月 教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送る
・1922年(大正11) ドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルトに師事する
・1923年(大正12) マールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事する
・1924年(大正13) パリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をする
・1925年(大正14) 帰国する
・1926年(大正15) 第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表する
・1927年(昭和2) 法政大学教授となる
・1928年(昭和3) 羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊する
・1930年(昭和5) 「治安維持法」違反で検挙される
・1932年(昭和7) 『歴史哲学』を著わす
・1933年(昭和8) 学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画する
・1934年(昭和9) 『人間学的文学論』を刊行する
・1938年(昭和13) 近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したが挫折する
・1941年(昭和16) 『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行する
・1942年(昭和17) 陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣される
・1945年(昭和20)3月 再度の治安維持法違反容疑で投獄される
・1945年(昭和20)9月26日 東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆、岩内町で大火が起きる詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細


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 今日は、江戸時代後期の1789年(寛政元)に、哲学者・経済学者・思想家三浦梅園が亡くなった日ですが、新暦では4月9日となります。
 三浦梅園(みうら ばいえん)は、1723年(享保8年8月2日)に、豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれましたが、本名は晋(すすむ)と言いました。若い頃に杵築藩の儒者綾部絅斎や中津藩の儒者藤田敬所に学びます。
 20歳頃までに天文学、和算を学び、家業を継ぎながら、梅園塾での門人の教育にも当たりました。その中で、長崎・大宰府・熊本に遊学や伊勢参宮をしたり、1752年(宝暦2年)の30歳の時、天球儀を作成するなど、自然の思索に没頭します。
 1763年(宝暦13)、41歳の時に経世論『敢語』一巻が成り、翌年に医学書『身生餘譚』、1773年(安永2)に経済論『価原』、1775年(安永4)に哲学書『玄語』8巻を完成させるなど、多分野の学問を探求しました。1786年(天明6)、64歳の時に杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉り、詩の研究書『詩轍』も著しています。
 独自の認識論と存在論によって宇宙・自然・人間を説明する条理の学を唱え、1789年(寛政元)には倫理書『贅語』を完成させましたが、同年3月14日に郷里において、数え年67歳で亡くなりました。尚、後世には帆足万里、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人に数えられるようになります。

〇三浦梅園の主要な著作

・経世論『敢語(かんご)』(1763年)
・医学書『身生餘譚』(1764年)
・経済論『価原(かげん)』(1773年)
・哲学書『玄語』全8巻(1775年)
・医学書『造物餘譚』(1781年)
・治世意見書『丙午封事』(1786年)
・詩の研究書『詩轍(してつ)』(1786年)
・倫理書『贅語』全14巻(1789年)
・『帰山録』(1778年)
・『玄語手引艸(てびきぐさ)』
・読書日記『浦子手記』

☆三浦梅園関係略年表(日付は旧暦です)

・1723年(享保8年8月2日) 豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれる
・1734年(享保19年) 12歳の頃、隣村の西伯寺に山越えをして通い、その寺にある字で難字について調べる
・1736年(元文元年) 14歳の時、『和漢朗詠集』を写す  
・1737年(元文2年) 15歳の時、はじめて詩に志す  
・1739年(元文4年) 17歳の時、中津の藤田敬所に学び、滞在1ヵ月にて帰る
・1743年(寛保3年) 21歳の時、春再び藤田敬所の門に遊ぶ
・1745年(延享2年)秋、23歳の時、長崎・大宰府・熊本に遊ぶ
・1750年(寛延3年2月11日~3月23日) 28歳の時、伊勢参宮旅行をする 
・1752年(宝暦2年) 30歳の時、天球儀を作成する
・1760年(宝暦10年1月) 38歳の時、父・義一が75歳で亡くなる
・1763年(宝暦13年) 41歳の時、経世論『敢語』一巻が成る
・1764年(明和元年) 42歳の時、長男黄鶴(修齢)が誕生する
・1764年(明和元年) 医学書『身生餘譚』一巻が成る 
・1764年(明和元年) 英彦山に上り大宰府に泰賀上人を訪ねる
・1773年(安永2年) 51歳の時、経済論『価原』が成る
・1775年(安永4年) 53歳の時、哲学書『玄語』8巻が完成する
・1781年(天明元年2月21日~3月15日) 59歳の時、小倉・中津を旅行する
・1781年(天明元年) 医学書『造物餘譚』が成る
・1786年(天明6年) 64歳の時、杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉る
・1786年(天明6年) 詩の研究書『詩轍』が成る
・1789年(寛政元年) 67歳の時、倫理書『贅語』が完成する
・1789年(寛政元年3月14日) 豊後国国東郡富永村で、数え年67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細


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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の亡くなった日です。
 西周(にし あまね)は、江戸時代後期の1829年(文政12年2月3日)に、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれましたが、幼名は経太郎(のち周助)と言いました。幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。
 1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。
 1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。
 一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。
 また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。

〇西周の主要な著作

・訳書『万国公法』(1868年)
・訳書『致知啓蒙』J・S・ミル作(1874年)
・『百一新論』(1874年)
・訳書『心理学』(1875~76年)
・訳書『利学』J・S・ミル作(1877年)
・『百学連環』

☆西周関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1829年(文政12年2月3日) 石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれる
・1841年(天保12年) 藩校・養老館で蘭学を学ぶ
・1853年(嘉永6年) 江戸詰となる
・1854年(安政元年) 洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学ぶ
・1857年(安政4年) 蕃書調所の教授並手伝となる
・1859年(安政6年) 医師石川有節の娘升子と結婚する
・1862年(文久2年) 幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学する
・1864年(元治元年) ライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会する
・1865年(慶応元年) 帰国する
・1866年(慶応2年) 開成所教授に昇進する
・1867年(慶応3年) 大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出する
・1868年(慶応4年) 徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任する
・1868年(慶応4年) 『万国公法』を訳刊する
・1870年(明治3年) 明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕する
・1871年(明治4年4月29日) 従六位となる
・1871年(明治4年7月28日) 正六位となる
・1871年(明治4年12月12日) 従五位となる
・1873年(明治6年) 森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成する
・1874年(明治7年) 機関紙「明六雑誌」を発行する
・1874年(明治7年) 『百一新論』を出版する
・1874年(明治7年) J・S・ミル著による論理学書『致知啓蒙』を訳刊する
・1875年(明治8年) 功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を「明六雑誌」に寄稿する
・1877年(明治10年) J・S・ミル著による『利学』を訳刊する
・1878年(明治11年)12月29日 正五位となる
・1880年(明治13年) 山県有朋の下で軍事政策にも参画し『軍人勅諭草案』を著す
・1881年(明治14年) 獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画する
・1881年(明治14年)6月23日 東京師範学校の校務嘱託となる
・1882年(明治15年) 元老院議官となる
・1882年(明治15年)6月30日 従四位となる
・1882年(明治15年)12月29日 勲三等旭日中綬章を受章する
・1883年(明治16年) 獨逸学協会学校の初代校長に就任する
・1885年(明治18年)10月1日 正四位となる
・1886年(明治19年)10月20日 従三位となる
・1887年(明治20年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1887年(明治20年) 健康上の理由により文部省・陸軍省・学士会院会員の公職を辞職する
・1888年(明治21年)5月29日 勲二等旭日重光章を受章する 
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する 
・1890年(明治23年)9月29日 貴族院勅選議員に任じられ、貴族院議員章を受章する
・1890年(明治23年)10月20日 錦鶏間祗候となる
・1891年(明治24年)2月17日 体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職する
・1892年(明治25年) 神奈川県大磯の別邸に移る
・1894年(明治27年)5月21日 正三位となる
・1897年(明治30年)1月27日 勲一等瑞宝章を受章する 
・1897年(明治30年)1月29日 男爵となる
・1897年(明治30年)1月31日 神奈川県大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細


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 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、哲学者梅原猛の亡くなった日です。
 梅原猛(うめはら たけし)は、1925年(大正14)3月20日 宮城県仙台市で、当時東北帝国大学の学生だった父・梅原半二、母・石川千代の子として生まれました。乳児期に実母を亡くし、生後1年9ヶ月の時に愛知県知多郡内海町(現在の南知多町)の伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られて養子となります。
 1942年(昭和17)に旧制の私立東海中学校(現在の東海中学校・高等学校)卒業後、旧制第八高等学校へ進み、1945年(昭和20)に京都帝国大学文学部入学しました。しかし、直後に徴兵されて大日本帝国陸軍の二等兵として入営、第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)で終戦を迎えます。
 1945年(昭和20)9月に京都帝国大学に復学し、1948年(昭和23)に文学部哲学科を卒業すると大学院に進学し、山内得立、田中美知太郎に指導を受けました。龍谷大学、立命館大学の講師を経て、1967年(昭和42)に立命館大学文学部教授となり、同年に『地獄の思想』を出しています。
 1970年(昭和45)に大学紛争によって、立命館大学を辞職し、1972年(昭和47)に京都市立芸術大学美術学部教授となりました。同年に『隠された十字架 法隆寺論』で第26回毎日出版文化賞を受賞、1974年(昭和49)に『水底の歌 柿本人麿論』で第1回大佛次郎賞を受賞、同年に京都市立芸術大学学長となっています。
 一方、国際日本文化研究センターの設立にも尽力し、1987年(昭和62)に初代所長に就任、日本古代史の再検討に打ち込み、縄文文化やアイヌ、沖縄の文化にも強い関心を寄せて、大胆な仮説を展開し、「梅原古代学」を確立しました。また、1986年(昭和61)に3世市川猿之助のために『ヤマトタケル』、『ギルガメシュ』などを書き下ろすなど、スーパー歌舞伎でも話題となります。
 1997年(平成9)に日本ペンクラブ会長となり、同年にMIHO MUSEUM初代館長、2001年(平成13)にはものつくり大学初代総長となるなど要職を歴任しました。その間、1991年(平成3)に第44回中日文化賞、1992年(平成4)に文化功労者、1998年(平成10)に京都市名誉市民、1999年(平成11)には文化勲章など数々の栄誉にも輝きます。
 晩年まで多彩な活動を展開しましたが、2019年(平成31)1月12日 に京都府京都市において、肺炎のため93歳で亡くなりました。

〇梅原猛の主要な著作

・『地獄の思想』(1967年)
・『隠された十字架一法隆寺論』(1972年)第26回毎日出版文化賞受賞
・『水底の歌―柿本人麿(かきのもとのひとまろ)論』(1973年)第1回大佛次郎賞受賞
・『黄泉の王 私見・高松塚』(1973年)
・『日本人の「あの世」観』(1989年)
・『葬られた王朝一古代出雲の謎を解く』(2010年)
・『親鸞「四つの謎」を解く』(2014年)
・『空海の人生と思想』
・『法然』

☆梅原猛関係略年表

・1925年(大正14)3月20日 宮城県仙台市で、父・梅原半二、母・石川千代の子として生まれる
・1942年(昭和17)3月 旧制東海中学校(現在の東海中学校・高等学校)を卒業する
・1945年(昭和20)3月 旧制第八高等学校(現在の名古屋大学教養部)を卒業する
・1945年(昭和20)4月 京都帝国大学文学部入学、直後に徴兵されて陸軍二等兵として入営する
・1945年(昭和20)8月 熊本県宇城市の第216師団野砲兵第216連隊(九州防衛隊)で終戦を迎える
・1945年(昭和20)9月 京都帝国大学に復学する
・1948年(昭和23) 京都大学文学部哲学科を卒業する
・1949年(昭和24) 京都大学大学院特別研究生(哲学専攻)となる
・1952年(昭和27) 龍谷大学文学部専任講師となる
・1955年(昭和30) 立命館大学文学部専任講師となる
・1957年(昭和32) 立命館大学文学部助教授となる
・1963年(昭和38) 「壬生忠岑『和歌体十種』について」という論文を書く
・1967年(昭和42) 立命館大学文学部教授となる
・1967年(昭和42) 『地獄の思想』を出版する
・1970年(昭和45) 立命館大学文学部教授辞職(大学紛争に当たり)する
・1972年(昭和47) 京都市立芸術大学美術学部教授となる
・1972年(昭和47) 『隠された十字架 法隆寺論』で第26回毎日出版文化賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『水底の歌 柿本人麿論』で第1回大佛次郎賞を受賞する
・1974年(昭和49) 京都市立芸術大学学長となる
・1983年(昭和58) 京都市立芸術大学学長に再選される
・1986年(昭和61) 京都市立芸術大学名誉教授となる
・1986年(昭和61) 3世市川猿之助のために『ヤマトタケル』を書き下ろす
・1986年(昭和61) 国際日本文化研究センター創設準備室長となる
・1987年(昭和62)5月 国際日本文化研究センター初代所長となる
・1989年(平成元) 『日本人の「あの世」観』を出版する
・1991年(平成3) 「国際日本文化研究センターの創設と多年にわたる独創的な日本研究」に対して第44回中日文化賞を受賞する
・1992年(平成4)  文化功労者顕彰を受ける
・1995年(平成7)5月  国際日本文化研究センター退任。国際日本文化研究センター顧問・名誉教授となる
・1997年(平成9) 日本ペンクラブ会長となる
・1997年(平成9) MIHO MUSEUM初代館長となる
・1998年(平成10) 京都市名誉市民顕彰を受ける
・1999年(平成11) 文化勲章を受章する
・2001年(平成13)4月 ものつくり大学初代総長となる
・2004年(平成16) 護憲運動を牽引する「九条の会」の呼びかけ人となる
・2011年(平成23)4月 東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)となる
・2019年(平成31)1月12日 京都府京都市において、肺炎のため93歳で亡くなる
・2019年(平成31) 従三位となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
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