ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:和同開珎

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 今日は、飛鳥時代の708年(和同元)に、武蔵国秩父郡から和銅が発見されて朝廷に献上され、元号が「和銅」に改元された日です。
 和銅(わどう)は、製錬を要しない自然銅(ニギアカガネ)のことで、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)から最初に発見されて、朝廷に献上されたとされてきました。その和銅が採掘されたとみられる露天掘跡は、今なお残されており、1922年(大正11)に埼玉県指定史跡、1961年(昭和36)には埼玉県指定旧跡となっています。
 この和銅が朝廷に献上されたことを記念して、元明天皇によって元号が改元され、慶雲5年から和銅元年となり、冠位の昇叙や大赦(罪科のある者の減免)、高齢者・貧窮者への恩賜、孝行息子や良妻等への3年間免税、役人への俸禄支給、国司・郡司の一階級昇進(正六位上以下について)、武蔵国の一年分の庸を免除、献銅した郡の調を免除などが行われました。また、この後「和同開珎」という貨幣も鋳造されています。
 以下に、『続日本紀』巻第四の和銅改元について記載した部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『続日本紀』巻第四の和銅改元に関する記述抜粋

和銅元年春正月乙巳。
 武藏國秩父郡獻和銅。
 詔曰。「現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻氐尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。」故、改慶雲五年而和銅元年為而、御世年号止定賜。

<読み下し文>

和銅元年春正月乙巳。
 武蔵国秩父郡[1]、和銅[2]を献ず。
 詔して日く。「現神[3]と御宇倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆聞きたまへと宣る。高天原[4]ゆ天降り[5]坐しし。天皇が御世を始めて、中・今に至めまでに。天皇が御世御世、天つ日嗣[6]高御座[7]に坐して治め賜ひ慈しび賜ひ來る食國[8]天下の業となも。神ながら念し行さくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。如是治め賜ひ慈しび賜ひ來る天つ日嗣[6]の業と。今皇朕御世に當りて坐せば。天地の心を勞しみ重しみ辱み恐み坐すに聞し看す食國[8]の中の東方武蔵国に自然に作成る和銅[2]出でたりと奏して献れりと。此の物は天に坐す神・地に坐す祗の相うづなひ奉る事に依りて、顯し[9]く出でたる寳に在るらしともな。神ながら念し行す。是をもちて、天地の神の顕し[9]奉れる瑞寳[10]によって、御世の年号を改め賜ひ換へ賜はく詔りたまふ命をもろもろ聞しめさへと宣る。」故、慶雲五年を改めて和銅元年と為て、御世の年号と定め賜ふ。

【注釈】

[1]武蔵国秩父郡:むさしのくにちちぶぐん=現在の埼玉県秩父郡。
[2]和銅:わどう/にぎあかがね=製錬を要しない自然銅。
[3]現神:あきつみかみ=現に姿をあらわしている神の意で多く天皇に用いられる。
[4]高天原:たかまがはら=日本神話における天上の国。
[5]天降り:あまくだり=天上から地上におりること。
[6]天つ日嗣:あまつひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[7]高御座:たかみくら=大極殿または紫宸殿の中央に設けられていた天皇の席。
[8]食國:おすくに=天皇の統治なさる国。天下。
[9]顯し:うつし=姿が見えている。実在する。この世に生きている。
[10]瑞寳:ずいほう=めでたい宝物。

<現代語訳>

和銅元年(708年)春正月乙巳(1月11日)。
 武蔵国秩父郡が和銅を献上してきた。
 (元明天皇は)次のような詔を下した。「現御神として天下を統治する天皇が詔として宣べられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人々等、天下公民はみな聞き賜れと申し述べる。高天原から降臨されて、天皇の御世が始まり、中ごろから今に至るまでに、天皇の治世ごとに、皇位継承者として高御座に坐して治められて、人々を慈しんで来られ、天下統治のつとめとして、神ながらに思うというお言葉をみな聞き賜れと申し述べる。このように統治して慈しまれてきた皇位継承者の勤めとして、今は私が治世を担当しているので、天地の心を大切にし重く受け止めて畏み、恐れ多く思っていたところ、統治しているこの国の東方にある武蔵国に自然に生じた和銅が出たと奏上して献上してきた。この物は、天に鎮座する神と地に鎮座する神がともに愛でられ祝福されることによって、現出した宝物であるらしいと、神として思うのである。そこで、天地の神の現されためでたい宝によって、御世の年号を新しく改元されると詔りたまうお言葉をみな聞き賜れと申し述べる。」そのため、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号を定められた。

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 今日は、奈良時代の721年(養老5)に、第43代の天皇とされる元明天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月29日となります。
 元明天皇(げんめいてんのう)は、661年(斉明天皇7年)に、第38代とされる天智天皇の第4皇女(母は蘇我倉山田石川麻呂の娘)として生まれましたが、名は阿閇(あへ)と言いました。679年(天武天皇8年)頃に、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚し、翌年に氷高皇女(のちの元正天皇)を出産、同年に草壁皇子が皇太子となっています。
 683年(天武天皇12)に珂瑠皇子(のちの文武天皇)を出産しましたが、689年(持統天皇3)に夫の草壁皇子は即位することなく早世しました。697年(文武天皇元)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となったものの、707年(慶雲4年6月15日)に息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で亡くなり、その皇子 (のちの聖武天皇) が幼少であったため、同年に第43代とされる天皇として即位することとなります。
 その在位中は藤原不比等が政権を担当し、708年(慶雲5)に武蔵国秩父より銅が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させ、「平城京造営の詔」を出し、710年(和銅3)に藤原京から平城京に遷都しました。翌年に「蓄銭叙位令」を発して貨幣の流通を計り、712年(和銅5)には諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出しています。
 また、同年に天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が完成して献上され、713年(和銅6)には『風土記』の編纂を詔勅するなどしました。715年(和銅8)には、老いを理由に譲位し、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って、太上天皇となって後見します。
 しかし、721年(養老5年5月)に発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、葬送の簡素化を命じて、同年12月7日に平城京において、数え年61歳で亡くなり、奈良市奈保山東陵に葬られました。

<元明天皇の代表的な歌>

・「これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ勢の山」(万葉集)
・「大夫(ますらを)の鞆の音すなり物部の 大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」(万葉集)

〇元明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・661年(斉明天皇7年) 天智天皇の第4皇女(母は蘇我倉山田石川麻呂の娘)として生まれる
・675年(天武天皇4年) 十市皇女と共に伊勢神宮に参拝する
・679年(天武天皇8年)頃 1歳年下である甥の草壁皇子と結婚する
・680年(天武天皇9年) 氷高皇女を出産する
・680年(天武天皇10年2月25日) 草壁皇子が皇太子となる
・683年(天武天皇12年) 珂瑠皇子を出産する
・689年(持統天皇3年4月13日) 草壁皇子は即位することなく早世する
・697年(文武元年8月17日) 息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、同日自身は皇太妃となる
・707年(慶雲4年6月15日) 息子の文武天皇が病に倒れ、25歳で崩御する
・707年(慶雲4年7月17日) 第43代とされる天皇として即位する
・708年(慶雲5年1月11日) 武蔵国秩父より銅(和銅)が献じられたので和銅に改元し、和同開珎を鋳造させる
・708年(和銅元年2月15日) 「平城京造営の詔」を出す
・710年(和銅3年3月10日) 藤原京から平城京に遷都する
・711年(和銅4年10月23日) 「蓄銭叙位令」を発して貨幣の流通を計る
・712年(和銅5年1月) 諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出す
・712年(和銅5年1月28日) 天武天皇の代からの勅令であった『古事記』が完成して献上される
・713年(和銅6年5月2日) 『風土記』の編纂を詔勅する
・715年(和銅8年) 郷里制が実施される
・715年(和銅8年9月2日) 老いを理由に譲位し、娘の氷高皇女(元正天皇)に皇位を譲って、太上天皇となる
・721年(養老5年5月) 発病し、娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託す
・721年(養老5年12月7日) 奈良の平城京において、数え年61歳で亡くなる
・722年(養老6年11月13日) 元明金命として合祀される

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 今日は、奈良時代の711年(和銅4)に、「蓄銭叙位令」が出された日ですが、新暦では12月7日となります。
 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)は、銭貨の流通を図り、政府への還流をもくろんで出された、売位制度の一種ともいえる法令で、「蓄銭叙位法」とも呼ばれてきました。708年(和銅元)に鋳造した貨幣の和同開珎 (かいちん) が、当時の米や布などの物品経済になかなか浸透しなかったため、銭を一定額蓄えた者に対し、その銭の政府への納入を条件として、位を昇進させることにしたものです。
 ちなみに、銭1000文を1貫と換算して、八位~従六位では10貫以上で1階、20貫以上で2階位を進め、初位では5貫ごとに1階進め、初位から従八位下に入るときには10貫とし、正六位以上で10貫以上蓄銭したものは臨時の勅によって処遇するとされました。最初は有位者のみを対象としましたが、同年12月20日に、無位・白丁から有位者となる際の銭の額を定める追加法が出されています。
 しかし、この法令が出来たことにより、かえって地方の有力者に銭貨が死蔵される結果となり、800年 (延暦19) に廃止されました。

〇「蓄銭叙位令」711年(和銅4年10月23日)発令 (12月20日)追加発令

<原文>

(和銅四年冬十月甲子の条)
 詔曰。夫銭之為用。所以通財貿易有無也。当今百姓。尚迷習俗、未解其理。僅雖売買。猶無蓄銭者。随其多少。節級授位。其従六位以下。蓄銭有一十貫以上者。進位一階叙。廿貫以上進二階叙。初位以下。毎有五貫進一階叙。大初位上若初位。進入従八位下。以一十貫為入限。其五位以上及正六位。有十貫以上者。臨時聴勅。(中略)夫申蓄銭状者。今年十二月内。録状并銭申送訖。

(和銅四年十二月の条)
 庚申。又制蓄銭叙位之法。無位七貫。白丁十貫。並為入限。以外如前。

 『続日本紀』より

<読み下し文>

(和銅四年冬十月甲子の条)
 詔して日く、「夫れ銭の用たる、財を通じ有無を貿易する[1]所以なり。当今百姓なほ習俗に迷ひて[2]、未だ其の理を解せず、僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して[3]位を授けん。其れ従六位以下[4]蓄銭一十貫[5]以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す。大初位もしくは初位から上、従八位下に進めて入るは、一十貫をもって入る限りとなす。其の五位以上及び正六位、十貫以上有らん者は、臨時に勅を聴け[6]」(中略)夫れ蓄銭の状を申むは、今年十二月の内に、状を并せて銭を録して申し送り訖れ。

(和銅四年十二月の条)
 庚申。又蓄銭叙位之法を制す。無位七貫。白丁[7]十貫。並に入る限りとなす。以外は前の如し。

【注釈】

[1]貿易する:ぼうえきする=品物を交換する。
[2]習俗に迷ひて:しゅうぞくにまよいて=古い習慣に従って。
[3]節級して:せっきゅうして=等級・段階を設けて。
[4]従六位以下:じゅろくいいか=従六位以下としたのは、五位以上は天皇の裁決による勅授とされていたために、区別している。
[5]一十貫:いちじゅっかん=銭千枚(1枚が1文)で一貫、十貫は和同開珎にして一万枚。
[6]勅を聴け:ちょくをきけ=天皇の裁決による。
[7]白丁:はくてい=官途につかず、口分田を班給されて税を納め課役を負担する者。無位無官の公民。

<現代語訳>

(和銅4年(711年)冬10月23日の条)
 詔して言うことには、「およそ銭というものは、財を普及し、必要な品物を交換するのにまことに有益なものである。ところが、現在では人々はなお古い習慣に従って、いまだにその理由を理解していない。わずかに銭を用いて売買するといっても、なおそれを蓄える者はいない。そこで銭を蓄えた額の多少に応じて、等級・段階を設けて位を授けることにした。従六位以下で、10貫以上の銭を蓄えた者には、位を一階昇進させよう。20貫以上の銭を蓄えた者には、位を二階昇進させよう。初位以下は、5貫ごとに一階昇進させよう。大初位・初位から上の従八位下に進めて入るには、10貫以上が必要なものとする。その五位以上及び正六位は、10貫以上の銭を蓄えた者は、臨時の天皇の裁決による。」(中略)それ蓄銭叙位令に基づいての申請は、今年12月の内に、申請状と銭を併せて記録して申し送りおわれ。

(和銅4年(711年)12月の条)
 20日。また蓄銭叙位令を(追加)制定する。無位は7貫以上、白丁は10貫以上の蓄えは、有位者となるに必要なものとする。それ以外は前と同じである。

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