ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:吉川英治文学賞

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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、小説家早乙女貢の亡くなった日です。
 早乙女貢(さおとめ みつぐ)は、大正時代の1926年(大正15)1月1日に、中国・ハルビン市において、父・鐘ヶ江茂一の子として生まれましたが、本名は鐘ヶ江秀吉(かねがえ ひでよし)といいました。少年時代は体が弱かったせいもあり、15歳頃から小説家になることを志し、徴兵検査では肺浸潤のため不合格となります。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に九州に引き揚げ、1948年(昭和23)に上京して、1952年(昭和27)頃には、横浜の山本周五郎の仕事場に編集者と訪ねたのを契機に師事するようになりました。1955年(昭和30)に『算盤武士』で、第6回講談倶楽部賞の選外佳作となり、その頃には、倶楽部雑誌新人賞受賞者の集まり「泉の会」に所属します。
 1956年(昭和31)に伊藤桂一、尾崎秀樹らと同人誌「小説会議」を創刊、1965年(昭和40)頃には、有馬頼義主催の「石の会」に参加しました。1966年(昭和41)に『鬼の骨』、1967年(昭和42)に『叛臣伝』で、直木賞候補となった後、1968年(昭和43)に『僑人の檻』で、第60回直木賞を受賞します。
 1974年(昭和49)に『おけい』で、1976年(昭和51)に『北条早雲』で、吉川英治賞候補となり、1988年(昭和63)には、『會津士魂』で、第23回吉川英治文学賞を受賞しました。一方で、日本ペンクラブ常任理事を務め、1984年(昭和59)の国際ペンクラブ東京大会では企画司会等を担当します。
 その後、各国で行われた国際ペンクラブの大会に参加し、1993年(平成5)には、日本ペンクラブ専務理事に就任しました。1995年(平成7)にブレッドでの国際作家会議、エルサレムでの日本文学フェスティバルに参加し、その後も各国で開催された国際ペン大会に代表として出席しています。
 趣味の絵画では、1984年(昭和59)に『江戸を歩く』原画等による個展、1985年(昭和60)に『會津士魂』出版記念個展「早乙女貢が描く会津の詩」、1995年(平成7)に「城下町を描く絵画展」などを開催し、1999年(平成11)に「政経文化画人展」に出品し、文部大臣賞を受賞しました。2003年(平成15)には、『わが師 山本周五郎』で、第16回大衆文学研究賞特別賞を受賞しましたが、2008年(平成20)12月23日に、神奈川県鎌倉市の病院において、胃癌のため82歳で亡くなっています。

〇早乙女貢の主要な著作

・『鬼の骨』(1966年)第56回直木賞候補
・『叛臣伝』(1967年)第58回直木賞候補
・『僑人の檻』(1968年)第60回直木賞受賞
・『おけい』(1974年)第8回吉川英治文学賞候補
・『血槍三代』(1974年)
・『北条早雲』(1976年)第11回吉川英治賞候補
・『會津士魂』(1985~88年)第23回吉川英治文学賞受賞
・『わが師 山本周五郎』(2003年)第16回大衆文学研究賞特別賞受賞

☆早乙女貢関係略年表

・1926年(大正15)1月1日 中国・ハルビンにおいて、父・鐘ヶ江茂一の子として生まれる
・1946年(昭和21) 九州に引き揚げる
・1948年(昭和23) 上京する
・1949年(昭和24) 『暁闇』で、第1回『叡智』懸賞小説で佳作となる
・1952年(昭和27)頃 横浜の山本周五郎の仕事場に編集者と訪ねたのを契機に師事する
・1955年(昭和30) 『算盤武士』で、第6回講談倶楽部賞の選外佳作となる
・1955年(昭和30)頃 倶楽部雑誌新人賞受賞者の集まり「泉の会」に所属する
・1956年(昭和31) 伊藤桂一、尾崎秀樹らと同人誌「小説会議」を創刊する
・1965年(昭和40)頃 有馬頼義主催の「石の会」に参加する
・1966年(昭和41) 『鬼の骨』で、第56回直木賞候補となる
・1967年(昭和42) 『叛臣伝』で、第58回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『僑人の檻』で、第60回直木賞を受賞する
・1974年(昭和49) 『おけい』で、第8回吉川英治文学賞候補となる
・1976年(昭和51) 『北条早雲』で、第11回吉川英治賞候補となる
・1984年(昭和59) 国際ペンクラブ東京大会では企画司会等を担当する
・1988年(昭和63) 『會津士魂』で、第23回吉川英治文学賞を受賞する
・1993年(平成5) 日本ペンクラブ専務理事に就任する
・1995年(平成7) ブレッドでの国際作家会議、エルサレムでの日本文学フェスティバルに参加する
・2003年(平成15) 『わが師 山本周五郎』で、第16回大衆文学研究賞特別賞を受賞する
・2008年(平成20)12月23日 神奈川県鎌倉市の病院において、胃癌のため82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1912年(大正元)北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出す詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の生まれた日です。
 渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)は、北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれました。父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住、札幌第一中学校、札幌南高等学校を経て、1952年(昭和27)に北海道大学理類に入学しましたが、1954年(昭和29)には、札幌医科大学医学部に進学しています。
 同年に、処女作『イタンキ浜にて』を発表、1957年(昭和32)には、同人雑誌「凍檣」に参加しました。1958年(昭和35)に札幌医科大学医学部を卒業、翌年には、整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し、テレビ放映されます。
 1964年(昭和39)に札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考され、1965年(昭和40)には、『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞しました。1966年(昭和41)に札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、前年の『死化粧』が第54回芥川賞候補となり、1967年(昭和42)に『霙』が第57回直木賞候補、1968年(昭和43)には、『訪れ』が第58回芥川賞候補となります。
 1969年(昭和44)に札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京、1970年(昭和45)には、総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞しました。1980年(昭和55)に『遠き落日』、『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞、1984年(昭和59)の『化身』発表後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、1986年(昭和61)の『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞します。
 1995年(平成7)に「日本経済新聞」に『失楽園』を連載、1997年(平成9)には、映画化・テレビドラマ化されて一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞しました。1998年(平成10)に「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成して一般公開され、2003年(平成15)に紫綬褒章受章、第51回菊池寛賞受賞、2007年(平成19)には、エッセー『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられます。
 医学小説、伝記、男女の愛と性をえがく恋愛小説と幅ひろく執筆してきましたが、2014年(平成26)4月30日に、東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。

〇渡辺淳一の主要な著作

・『死化粧』(1965年)第12回新潮同人雑誌賞受賞、第54回芥川賞候補
・『霙』(1967年)第57回直木賞候補
・『訪れ』(1968年)第58回芥川賞候補
・『光と影』(1970年)第63回直木賞受賞
・『花埋(はなうず)み』(1970年)
・『リラ冷えの街』(1971年)
・『野分け』(1972年)
・『冬の花火』(1975年)
・『女優』(1977年)
・『峰の記憶』(1978年)
・『白き旅立ち』(1979年)
・『流氷への旅』(1980年)
・『遠き落日』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『長崎ロシア遊女館』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『化粧』(1982年)
・『ひとひらの雪』(1983年)
・『化身(けしん)』(1986年)
・『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』(1986年)文藝春秋読者賞受賞
・『うたかた』(1990年)
・『失楽園』(1995年)
・『愛の流刑地』(2006年)

☆渡辺淳一関係略年表

・1933年(昭和8)10月24日 北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれる
・1946年(昭和21) 札幌第一中学校入学する
・1950年(昭和25) 札幌南高等学校へ入学する
・1952年(昭和27) 北海道大学理類に入学する
・1954年(昭和29) 札幌医科大学医学部に入学、処女作『イタンキ浜にて』を発表する
・1957年(昭和32) 同人雑誌「凍檣」に参加する
・1958年(昭和35) 札幌医科大学医学部を卒業する
・1959年(昭和34) 整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し,テレビ放映される
・1964年(昭和39) 札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考される
・1965年(昭和40) 『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞する
・1966年(昭和41) 札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、『死化粧』が第54回芥川賞候補となる
・1967年(昭和42) 『霙』が第57回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『訪れ』が第58回芥川賞候補となる
・1969年(昭和44) 札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京する
・1970年(昭和45) 総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『リラ冷えの街』が刊行され、“リラ冷え”が季語として定着する
・1972年(昭和47) 『野分け』『氷紋』を発表する
・1974年(昭和49) 『白き旅立ち』『まひる野』を発表する
・1977年(昭和52) 『女優』を発表する
・1979年(昭和54) 『くれなゐ』を発表する
・1980年(昭和55)『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞する
・1982年(昭和57)『化粧』を発表する
・1983年(昭和58)『ひとひらの雪』刊行後、“ひとひら族”という造語が生まれる。
・1984年(昭和59)『化身』を発表する
・1986年(昭和61) 『化身』刊行後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞、『別れぬ理由』を発表する
・1987年(昭和62) 『桜の樹の下で』を発表する
・1988年(昭和63) 『メトレス 愛人』『男というもの』を発表する
・1990年(平成2) 『うたかた』刊行後、“うたかた族”という造語が生まれる
・1993年(平成5) 『春の別れ』を発表。
・1995年(平成7) 「日本経済新聞」に『失楽園』を連載する
・1997年(平成9) 『失楽園』が映画化・テレビドラマ化され、一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞する
・1998年(平成10) 「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成し、一般公開される
・2003年(平成15) 紫綬褒章を受章、第51回菊池寛賞を受賞する
・2006年(平成18) 『愛の流刑地』を刊行する
・2007年(平成19) 『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられる
・2008年(平成20) 『熟年革命』を刊行する
・2009年(平成21) 『欲情の作法』刊行 発売1週間で23万部を突破する
・2010年(平成22) 『幸せ上手』を刊行する、『孤舟』を刊行する
・2011年(平成23) 『天上紅蓮』を刊行する
・2013年(平成25)『愛ふたたび』を刊行する
・2014年(平成26)4月30日 東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・2015年(平成27) 集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、小説家山岡荘八が亡くなった日です。
 山岡荘八(やまおか そうはち)は、明治時代後期の1907年(明治40)1月11日に、新潟県北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)の山内家で生まれましたが、本名は庄蔵と言いました。高等小学校中退後、逓信講習所で学び、1924年(大正12)に卒業、印刷製本業・三誠社を創立します。
 1932年(昭和7)に萬里閣に入社し、雑誌「ギャング」を編集、『変態銀座デカメロン』を連載、1933年(昭和8)には、雑誌「大衆倶楽部」を創刊し、編集長になりました。1934年(昭和9)に雑誌「大衆倶楽部」に発表した「佐渡の紅葉山人」から、山岡荘八の筆名を用いるようになり、1938年(昭和13)には、「サンデー毎日」大衆文芸に『約束』が当選し、文壇に認められます。
 1939年(昭和14)に初の著書『からゆき軍歌』を上梓、翌年に長谷川伸の新鷹会に加わり、1942年(昭和17)には、従軍作家として各戦線で活動、『海底戦記』ほかの従軍記で第2回野間文芸奨励賞を受賞しました。太平洋戦争後は、戦争中の言動や時局小説を書いたため公職追放されたものの、1950年(昭和25)に公職追放が解除されます。
 同年に「北海道新聞」に『徳川家康』を連載開始、1953年(昭和28)に単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなり、翌年には中部日本文化賞を受賞しました。1966年(昭和41)に文壇長者番付一位、自衛隊友の会会長となり、翌年には『徳川家康』が完結し、これにより長谷川伸賞、第2回吉川英治文学賞を受賞します。
 1973年(昭和48)に紫綬褒章を受章、1974年(昭和49)に谷口雅春や岡田光玉、朝比奈宗源らとともに「日本を守る会」(のち日本会議)を結成、1976年(昭和51)には、天皇在位五十年の奉祝実行委員長となりましたが、1978年(昭和53)9月30日に東京において、71歳で亡くなりました。

〇山岡荘八の主要な著作

・『約束』(1938年)サンデー毎日大衆文芸入選
・『海底戦記』(1942年)第2回野間文芸奨励賞受賞
・『御盾』(1943~45年)
・『徳川家康』(1950~67年)中部日本文化賞、第2回長谷川伸賞、第2回吉川英治文学賞受賞
・『千葉周作』(1952~53年)
・『新太平記』(1957~62年)
・『小説明治天皇』(1963~68年)
・『太平洋戦争』(1962~71年)
・『春の坂道』(1971年)

☆山岡荘八関係略年表

・1907年(明治40)1月11日 新潟県北魚沼郡小出町(現在の魚沼市)の山内家で生まれる
・1924年(大正12) 逓信官吏講習所を卒業、印刷製本業・三誠社を創立する
・1932年(昭和7) 萬里閣に入社し、雑誌「ギャング」を編集、『変態銀座デカメロン』を連載する
・1933年(昭和8) 雑誌「大衆倶楽部」を創刊し、編集長になる
・1934年(昭和9) 雑誌「大衆倶楽部」に発表した「佐渡の紅葉山人」から、山岡荘八の筆名を用いる
・1938年(昭和13) 「サンデー毎日」大衆文芸に『約束』が当選し、文壇に認められる
・1939年(昭和14) 初の著書『からゆき軍歌』を上梓する
・1940年(昭和15) 長谷川伸の新鷹会に加わる
・1942年(昭和17) 従軍作家として各戦線で活動、『海底戦記』ほかの従軍記で第2回野間文芸奨励賞を受賞する
・1946年(昭和21) 戦争中の言動や時局小説を書いたため公職追放される
・1950年(昭和25)10月13日 公職追放が解除される
・1950年(昭和25) 「北海道新聞」に『徳川家康』を連載開始する
・1953年(昭和28) 『徳川家康』の単行本の刊行が始まり、ベストセラーとなる
・1958年(昭和33) 中部日本文化賞を受賞する
・1963年(昭和38) 麻薬追放国土浄化連盟を福田恆存・市川房枝・田岡一雄・田中清玄らと結成、新鷹会理事となる
・1966年(昭和41) 文壇長者番付一位、自衛隊友の会会長となる
・1967年(昭和42) 『徳川家康』が完結し、長谷川伸賞を受賞、昌平黌短期大学名誉学長となる
・1968年(昭和43) 『徳川家康』により、第2回吉川英治文学賞を受賞する
・1973年(昭和48) 紫綬褒章を受章する
・1974年(昭和49) 谷口雅春や岡田光玉、朝比奈宗源らとともに「日本を守る会」(のち日本会議)を結成する
・1976年(昭和51) 天皇在位五十年の奉祝実行委員長となる
・1978年(昭和53)9月30日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

894年(寛平6)菅原道眞の建白により遣唐使の廃止が決定する(新暦11月1日)詳細
1351年(観応2)臨済宗の僧夢窓疎石(夢窓國師)の命日(新暦10月20日)詳細
1943年(昭和18)御前会議で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」を決定が決定され、「絶対国防圏」が定められる詳細
1961年(昭和36)木曽川から知多半島に水を引く愛知用水が完成する詳細


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 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、小説家吉村昭の亡くなった日です。
 吉村昭(よしむら あきら)は、1927年(昭和2)5月1日 東京・日暮里で、ふとん綿を製造する工場と綿糸紡績の工場を経営する父・吉村隆策、母・きよじの八男として生まれました。1940年(昭和15)に、私立東京開成中学校に入学し、小説に興味をいだくようになり、校内雑誌に作文も掲載されています。
 1944年(昭和19)に母を、翌年に父を次々と亡くしましたが、1946年(昭和21)には、旧制学習院高等科に入学しました。しかし、1948年(昭和23)に喀血し、旧制学習院高等科を中途退学し、1950年(昭和25)には、療養生活を経て、新制学習院大学文政学部文学科に入学します。
 1952年(昭和27)に文芸部委員長になり、短篇を「赤繪」(「學習院文藝」改称)に発表したものの、1953年(昭和28)には、体力不足になり、さらに学費を長期滞納したことで、大学を除籍となり、三兄の経営する紡績会社に入社し、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚しました。1955年(昭和30)に、丹羽文雄主宰の『文学者』に参加、1958年(昭和33)には、短篇集『青い骨』を自費出版、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューします。
 1959年(昭和34)に『鉄橋』、『貝殻』、1962年(昭和37)に『透明標本』、『石の微笑』が芥川賞候補となりましたが、いずれも受賞には至りませんでした。1966年(昭和41)に、『星への旅』で第2回太宰治賞を受賞、同年の『戦艦武蔵』で一転して戦史小説にチャレンジし、『海の史劇』、『関東大震災』(ともに1972年)などを発表しています。
 その後も、1972年(昭和47)の『深海の使者』で第34回文藝春秋読者賞、1973年(昭和48)に一連のドキュメント作品で第21回菊池寛賞、1979年(昭和54)に『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞、1985年(昭和60)に『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。さらに、1987年(昭和62)に日本芸術院賞、1994年(平成6)に『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞し、1997年(平成9)には、日本芸術院会員となります。
 2004年(平成16)から2006年(平成18)まで、日本芸術院第二部長も務めましたが、2005年(平成17)に癌を宣告され、2006年(平成18)7月31日に、東京都三鷹市の自宅において、79歳で亡くなりました。尚、2017年(平成29)には、東京都荒川区の複合施設「ゆいの森あらかわ」内に「吉村昭記念文学館」が開設されています。

〇吉村昭の主要な著作

・『鉄橋』(1958年)第40回芥川賞候補
・『貝殻』(1959年)第41回芥川賞候補
・『透明標本』(1961年)第46回芥川賞候補
・『石の微笑』(1962年)第47回芥川賞候補
・『少女架刑』(1963年)
・『星への旅』(1966年)第2回太宰治賞受賞
・『戦艦武蔵』(1966年)
・『高熱隧道』(1966年)
・『水の葬列』(1967年)
・『零式戦闘機』(1967年)
・『神々の沈黙』(1969年)
・『陸奥爆沈』(1970年)
・『深海の使者』(1972年)第34回文藝春秋読者賞受賞
・『海の史劇』(1972年)
・『関東大震災』(1972年)
・『北天の星』(1975年)
・『ふぉん・しいほるとの娘』(1979年)吉川英治文学賞受賞
・『海も暮れる』(1980年)
・『虹の翼』(1980年)
・『破獄』(1984年)読売文学賞・芸術選奨文部大臣賞受賞
・『冷い夏,熱い夏』(1985年)毎日芸術賞受賞
・風物誌『東京の下町』(1985年)
・『桜田門外の変』(1990年)
・短編集『法師蝉(ほうしぜみ)』(1993年)
・『天狗争乱』(1994年)大佛次郎賞受賞
・『再婚』(1995年)
・『彦九郎山河』(1995年)
・『生麦(なまむぎ)事件』(1998年)
・『夜明けの雷鳴』(2000年)
・回想記『東京の戦争』(2001年)

☆吉村昭関係略年表

・1927年(昭和2)5月1日 東京・日暮里で、ふとん綿を製造する工場と綿糸紡績の工場を経営する父・吉村隆策、母・きよじの八男として生まれる
・1934年(昭和9)4月 東京市立第四日暮里尋常小学校へ入学する
・1940年(昭和15)4月 私立東京開成中学校に入学する
・1944年(昭和19) 母が子宮癌で死去する
・1945年(昭和20)12月 父が癌で死去する
・1946年(昭和21) 旧制学習院高等科に入学する
・1948年(昭和23) 喀血し、旧制学習院高等科を中途退学する
・1950年(昭和25)4月 療養生活を経て、新制学習院大学文政学部文学科に入学する
・1952年(昭和27) 文芸部委員長になり、短篇を『學習院文藝』改称『赤繪』に発表する
・1953年(昭和28) 大学を除籍となり、三兄の経営する紡績会社に入社するも、10月末に退社、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家津村節子)と結婚する
・1955年(昭和30) 丹羽文雄主宰の『文学者』に参加する
・1958年(昭和33) 短篇集『青い骨』を自費出版、『週刊新潮』に短篇「密会」を発表して商業誌にデビューする
・1959年(昭和34) 『鉄橋』が第40回芥川賞候補、『貝殻』が第41回芥川賞候補となる
・1962年(昭和37) 『透明標本』が第46回芥川賞候補、『石の微笑』が第47回芥川賞候補となる
・1965年(昭和40) 妻の津村節子が芥川賞を受賞する
・1966年(昭和41) 『星への旅』で第2回太宰治賞を受賞する
・1972年(昭和47) 『深海の使者』が第34回文藝春秋読者賞を受賞する
・1973年(昭和48) 『戦艦武蔵』、『関東大震災』など一連のドキュメント作品で第21回菊池寛賞を受賞する
・1979年(昭和54) 『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞を受賞する
・1985年(昭和60) 『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞、『破獄』で讀賣文学賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1987年(昭和62) 日本芸術院賞を受賞する
・1994年(平成6) 『天狗争乱』で大佛次郎賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本芸術院会員となる
・2004年(平成16) 日本芸術院第二部長となる
・2006年(平成18)7月31日 東京都三鷹市の自宅において、79歳で亡くなる
・2017年(平成29) 東京都荒川区の複合施設「ゆいの森あらかわ」内に「吉村昭記念文学館」が開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)民俗学者柳田國男の誕生日詳細
1948年(昭和23)政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認される詳細
1952年(昭和27)警察予備隊を保安隊に改組するための「保安庁法」が制定公布される詳細
1986年(昭和61)外交官・在リトアニア日本領事代理杉原千畝の命日詳細


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haradayasuko01

 今日は、平成時代の2009年(平成21)に、小説家原田康子の亡くなった日です。
 原田康子(はらだ やすこ)は、1928年(昭和3)1月12日に東京都の原田家で生まれましたが、生後1年で父親の赴任地である釧路に移住しました。市立釧路高等女学校(現在の道立釧路江南高等学校)卒業後、1945年(昭和20)に東北海道新聞の記者となり、1949年(昭和24)には、同人雑誌「北海文学」に処女作『冬の雨』を発表します。
 1951年(昭和26)に職場の同僚と結婚、1954年(昭和29)には、「新潮」同人雑誌賞に『サビタの記憶』で応募、最終候補に残って伊藤整らの高い評価を得ました。1955年(昭和30)に「北海文学」誌上に長編『挽歌』を連載、翌年刊行するとベストセラー(70万部)となり、第8回女流文学賞も受賞します。
 同作は、1957年(昭和32)に松竹配給(製作:歌舞伎座)、五所平之助監督で最初の映画化、1961年(昭和36)には、フジテレビにおいて、最初のテレビドラマ化がされました。その後、『北の林』(1968年)、『虹』(1979年)、『遠い森』(1980年)、『恋人たち』(1982年)、『風の砦』(1983年)などを刊行します。
 1984年(昭和59)に刊行した『満月』は、1991年(平成3)に『満月 MR.MOONLIGHT』のタイトルで映画化されました。また、競馬、将棋を趣味とし、1998年(平成10)に将棋王座戦の観戦記を執筆すると、翌年には、この観戦記で将棋ペンクラブ大賞(観戦記部門賞)を受賞します。
 1999年(平成11)に『蝋涙(ろうるい)』で第38回女流文学賞、2002年(平成14)には、『海霧』で第37回吉川英治文学賞を受賞しました。人気作家となった後も、北海道在住のまま執筆活動を続け、2003年(平成15)に北海道文化賞を受賞しましたが、2009年(平成21)10月20日に、北海道札幌市内の病院で、肺炎のため81歳で亡くなっています。

〇原田康子の主要な著作

・『冬の雨』(1949年)
・『サビタの記憶』(1954年)
・『挽歌』(1955年)第8回女流文学賞受賞
・『病める丘』(1960年)
・『北の林』(1968年)
・『虹』(1979年)
・『遠い森』(1980年)
・『恋人たち』(1982年)
・『風の砦』(1983年)
・『満月』(1984年)
・『星の岬』(1985年)
・エッセイ集『はなれ駒あそび駒』(1991年)
・『蝋涙(ろうるい)』(1999年)第38回女流文学賞受賞
・『海霧』(2003年)第37回吉川英治文学賞受賞

☆原田康子関係略年表

・1928年(昭和3)1月12日 東京都で生まれる
・1945年(昭和20) 東北海道新聞の記者となる
・1949年(昭和24) 同人雑誌「北海文学」に処女作『冬の雨』を発表する
・1951年(昭和26) 同僚と結婚する
・1954年(昭和29) 「新潮」同人雑誌賞に『サビタの記憶』で応募、最終候補に残って伊藤整らの高い評価を得る
・1955年(昭和30) 「北海文学」誌上に長編『挽歌』を連載する
・1956年(昭和31) 長編『挽歌』を出版、ベストセラー(70万部)となり、第8回女流文学賞を受賞する
・1957年(昭和32) 『挽歌』が松竹配給(製作:歌舞伎座)、五所平之助監督で最初の映画化がされる
・1961年(昭和36) 『挽歌』がフジテレビにおいて、最初のテレビドラマ化がされる
・1968年(昭和43) 『北の林』が刊行される
・1979年(昭和54) 『虹』が刊行される
・1980年(昭和55) 『遠い森』が刊行される
・1982年(昭和57) 『恋人たち』が刊行される
・1983年(昭和58) 『風の砦』が刊行される
・1984年(昭和59) 『満月』が刊行される
・1991年(平成3) 『満月』が『満月 MR.MOONLIGHT』のタイトルで映画化される
・1998年(平成10) 将棋王座戦の観戦記を執筆する
・1999年(平成11) 将棋王座戦の観戦記で将棋ペンクラブ大賞(観戦記部門賞)を受賞する
・1999年(平成11) 『蝋涙(ろうるい)』で第38回女流文学賞を受賞する
・2002年(平成14) 『海霧』で第37回吉川英治文学賞を受賞する
・2003年(平成15) 北海道文化賞を受賞する
・2009年(平成21)10月20日 北海道札幌市内の病院で、肺炎のため81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
1879年(明治12)経済学者・社会思想家河上肇の誕生日詳細
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