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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、経済学者・史学者・政治家田口卯吉の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 田口卯吉(たぐち うきち)は、江戸目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台)で、幕臣の父・田口樫郎の次男(母は町子)として生まれましたが、本名は鉉(みつ)と言いました。1859年(安政6)に父の樫郎が、翌年長兄の貫一郎が亡くなり、家督を相続し、1866年(慶応2)に元服して従士見習いとなります。
 同年12月に幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属され、昌平坂学問所でも学び、1868年(明治元)に徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿し、兵学校と中根淑の漢学塾で学びました。1870年(明治3)に第六期資業生試験に合格し、静岡病院での医学修行を拝命しましたが、それを辞め、1871年(明治4)に乙骨と共に上京、翌年に大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となります。
 洋書翻訳を担当したことが経済学を学ぶ契機となり、翻訳従事のかたわら諸新聞に政治論、経済論を投書しました。1874年(明治7)に大蔵省翻訳局が廃止となり、大蔵省紙幣寮に異動となり、1877年(明治10)に嚶鳴社に参加、自費出版で『日本開化小史』の刊行を開始、翌年には、『自由交易日本経済経済論』を出版します。
 1879年(明治12)に大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、英国の経済雑誌『ECONOMIST』をモデルに「東京経済雑誌」を創刊し、自由主義経済を唱えました。1880年(明治13年)に東京府会議員となり、憲法制定や、条約改正などの政治問題に関しても発言、自由党機関紙「自由新聞」の客員として参加し経済関係の論説を担当しました。1882年(明治15)に『日本開化小史』全6巻の刊行が完結、翌年に東京株式取引所の肝煎となり、1884年(明治17)には『大日本人名辞書』の編纂に着手します。
 一方で、1887年(明治20)に両毛鉄道の社長となり、翌年には小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役となって、鉄道敷設などに尽力し、1890年(明治23)には南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行いました。1891年(明治24)に歴史研究の個人雑誌『史海』を発刊、1894年(明治27)に尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、衆議院議員に当選、1896年(明治29)には進歩党を結成します。
 1897年(明治30)に島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織、『国史大系』全17巻の発刊を開始、1898年(明治31)に憲政党創設委員に参加、翌年には法学博士となりました。また、『群書類従』の編集・刊行に携わったり、1900年(明治33)に義和団の乱に際して視察を行うなど多方面で活躍してきましたが、1905年(明治38)4月13日に、東京において、慢性腎炎のため数え年51歳で亡くなっています。

〇田口卯吉の主要な著作

・『自由貿易日本経済論』(1878年)
・『日本開化小史』 (1877~82年)
・『大日本人名辞書』(1884~86年)
・『日本開化之性質』(1885年)
・『日本之意匠及情交』(1886年)
・『日本社会事彙(じい)』全4巻(1890~91年)
・『支那開化小史』全5巻(1890年)
・『楽天論』(1895年)
・編纂『国史大系』全17巻(1897~1901年)
・編纂『続国史大系』全15巻(1902~04年)
・編纂『群書類従』

☆田口卯吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年4月29日) 江戸目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台)で、幕臣の父・田口樫郎の次男(母は町子)として生まれる
・1859年(安政6年) 父の樫郎が亡くなる
・1860年(万延元年) 長兄の貫一郎が亡くなり、家督を相続する
・1866年(慶応2年) 元服して従士見習いとなる
・1866年(慶応2年12月) 幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属される
・1868年(明治元年) 徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿する
・1870年(明治3年9月) 第六期資業生試験に合格する
・1870年(明治3年12月) 静岡病院での医学修行を拝命する
・1871年(明治4年) 廃藩置県で静岡藩が解消され主な人材が東京へ移ると、乙骨と共に上京する
・1872年(明治5年) 大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる
・1874年(明治7年) 大蔵省翻訳局が廃止となり、大蔵省紙幣寮に異動となる
・1876年(明治9年) 旧幕臣の娘・千代と結婚する
・1877年(明治10年) 嚶鳴社に参加、自費出版で『日本開化小史』の刊行を開始する
・1878年(明治11年) 『自由交易日本経済経済論』を出版する
・1879年(明治12年) 大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、「東京経済雑誌」を創刊する
・1880年(明治13年) 東京府会議員となり、憲法制定や条約改正などの政治問題に関しても発言、自由党機関紙「自由新聞」の客員も務める
・1882年(明治15年) 『日本開化小史』全6巻の刊行が完結する
・1883年(明治14年) 東京株式取引所の肝煎となる
・1884年(明治17年) 『大日本人名辞書』の編纂に着手する
・1887年(明治20年) 両毛鉄道の社長となる
・1888年(明治21年) 小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役となる
・1890年(明治23年) 南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う、『日本社会事彙』の刊行を開始する
・1891年(明治24年)5月 歴史研究の個人雑誌『史海』を発刊する
・1894年(明治27年) 尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、衆議院議員に当選する
・1896年(明治29年) 進歩党を結成する
・1897年(明治30年) 島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する、『国史大系』全17巻の発刊を開始する
・1898年(明治31年) 憲政党創設委員に参加する
・1899年(明治32年) 法学博士となる
・1900年(明治33年) 義和団の乱に際して視察を行う
・1902年(明治35年) 『続国史大系』15巻の発刊を開始する
・1905年(明治38年)4月13日 東京において、慢性腎炎のため数え年51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)沖縄社会大衆党、沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成される詳細
2006年(平成18)生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)の開通で西瀬戸自動車道が全通する詳細