ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:古典学者

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 今日は、室町時代の1502年(文亀2)に、連歌師・古典学者宗祇の亡くなった日ですが、新暦では9月1日となります。
 宗祇(そうぎ)は、1421年(応永28)に生まれたとされますが、生国は紀伊とも近江とも言われ、姓は飯尾とも言われるもののはっきりしません。若年より京都相国寺に入り、30歳のころより文芸を志したとされます。連歌を宗砌(そうぜい)、心敬、専順に師事し、和歌・古典を飛鳥井雅親、東常縁(とうのつねより)、一条兼良らに学び、神道の教を卜部兼倶に受けました。
 1461年(寛正2)独吟の『何人百韻』が現存する最初の連歌作品で、各地の連歌会に参加して、頭角を現します。1471年(文明3)、伊豆に出陣中の常縁より『古今集』の講釈を聴聞し、古今伝授を受けたとされてきました。
 1473年(文明5)以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、自撰句集『萱草(わすれぐさ)』を編み、先達7人の句を集めた『竹林抄』を撰します。1480年(文明12)大内政弘の招きにより山口に下り、その勢力下の北九州を回って、『筑紫道記』を著しました。
 三条西実隆、細川政元ら公家、幕府要人と親交を結び、1488年(長享2)に北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となります。1495年(明応4)に猪苗代兼載、一条冬良らと『新撰菟玖波集』を撰集しました。
 また、『古今集』、『源氏物語』など多くの古典を講釈し、その注釈の書を残しています。大名高家に招かれ、各地を旅して連歌を普及、古典一般にも通じ、文化の地方伝播にも貢献しましたが、1502年(文亀2年7月30日)に、旅の途中の相模国箱根湯本において、82歳で亡くなりました。

<宗祇の代表的な句>
・「雪ながら 山もとかすむ 夕かな」(水無瀬三吟百韻)
・「松むしに さそはれそめし 宿出でて」(湯山三吟百韻)

〇宗祇の主要な著作

・『何人(なにひと)百韻』(1461年)
・連歌作法書『藻塩草』(1466年)
・連歌論書『吾妻問答』 (1467年?)
・紀行『白河紀行』(1468年)
・古典注釈書『古今集両度聞書』(1471年)
・連歌句集『萱草 (わすれぐさ) 』(1474年)
・連歌撰集『竹林抄』(1476年)
・連歌論書『老のすさみ』 (1479年)
・紀行『筑紫道記(つくしみちのき)』(1480年)
・連歌句集『老葉 (わくらば) 』(1481年頃)
・『水無瀬三吟百韻』肖柏、宗長らとの共著(1488年)
・『湯山三吟百韻』肖柏、宗長らとの共著(1491年)
・連歌句集『下草』(1493年)
・『新撰菟玖波集』兼載、一条冬良と共に編纂(1495年)
・連歌句集『宇良葉(うらば)』
・連歌論書『長六文(ちょうろくぶみ)』
・連歌論書『淀渡(よどのわたり)』
・連歌論書『分葉(ぶんよう)』
・歌集『宗祇法師集』
・古典注釈書『弄花抄』
・『葉守千句』
・古典注釈書『種玉編次抄』
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 今日は、室町時代の1481年(文明13)に、公卿・古典学者一条兼良の亡くなった日ですが、新暦では4月30日となります。
 一条兼良(いちじょう かねよし)は、1402年(応永9年5月7日)に、関白だった父・一条経嗣(つねつぐ)の子(母は東坊城秀長の娘)として生まれましたが、名は「かねら」とも呼ばれてきました。
 1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
 しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きました。
 その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。
 1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。
 1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなっています。

〇一条兼良の主要な著作

・『公事根源』
・教訓書『樵談治要(しょうだんちよう)』(1480年)
・『桃華蘂葉』
・『日本書紀纂疏(さんしょ)』(1472年頃)
・『伊勢物語愚見抄』
・『尺素往来』
・『花鳥余情(かちょうよせい)』(1472年)
・『源語秘訣』(花鳥余情の秘伝書)
・『源氏和秘抄』
・『源氏物語之内不審条々』
・『口伝抄』(源氏物語の注釈書)
・『源氏物語年立』
・『世諺問答』
・『梁塵愚案抄』(神楽歌と催馬楽の注釈書)
・『江家次第抄』
・『古今集童蒙抄』
・歌学書『歌林良材集』
・教訓書『文明一統記』
・『代始和抄』
・『世諺問答』
・『二判問答』
・歌学書『連珠合璧集』
・教訓書『小夜寝覚』
・紀行文『藤河の記』
・『桃華老人申楽後証記』
・『勧修念仏記』
・『多武峰縁起』
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