ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:厚生省

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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、種痘による事故被害者の声を受け、厚生省が全国の市町村に種痘の強制定期接種の廃止を通達した日です。
 種痘(しゅとう)ハ、痘瘡(天然痘)に対する免疫をつくるための予防接種です。牛痘(ウシの痘瘡で人間に感染しても軽症ですむ)を人間の皮膚に接種して、その部分だけに痘疱を生じさせて免疫を得させ、感染を予防するものでした。
 1796年(寛政8)に、英国の外科医ジェンナーが、牛痘を発明し、その効果を立証しています。日本では、1824年(文政7)に、中川五郎治が、蝦夷(北海道)に痘瘡が流行したとき施行したのが牛痘接種としての最初となり、1849年(嘉永2)には、バタビアからオランダ船がもたらした痘苗をモーニケが楢林の子らに接種して成功しました。
 1870年(明治3)に、明治新政府が、各府藩県に種痘実施を命令し、1874年(明治7)に定期の種痘を定めた文部省告示「種痘規則」がを布達され、1876年(明治9)には、「天然痘予防規則」が制定されています。1909年(明治42)4月14日には、「種痘法」が公布(施行は翌年1月1日)され、初めて種痘が法律によって実施されるようになりましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されました。
 その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されています。

〇「種痘法」(しゅとうほう)とは?

 明治時代後期の1909年(明治42)4月14日に公布、翌年1月1日に施行された、天然痘を予防するために、種痘実施するための法律です。全20条で、定期種痘および臨時種痘の実施、市町村の定期種痘の実施義務、種痘を受けるべき者の保護者の義務、医師の種痘証、痘瘡経過証、違反者に対する罰則などを規定していました。
 天然痘の防止のために、徐々に効果を発揮しましたが、1948年(昭和23)の「予防接種法」の制定に伴い、その法律に取り込まれ、廃止されています。その後、1956年(昭和31)以降は、天然痘の発症例は無く、1976年(昭和51)には、種痘の定期予防接種が廃止されました。
 以下に、「種痘法」(明治42年法律第35号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「種痘法」(明治42年法律第35号) 1909年(明治42)4月14日公布、翌年1月1日施行

第一条 種痘ハ左ノ定期ニ於テ之ヲ行フ但シ痘瘡ヲ経過シタル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラス
 一 第一期 出生ヨリ翌年六月ニ至ル間但シ不善感ナルトキハ翌年六月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 二 第二期 数ヘ歲十歲但シ不善感ナルトキハ翌年十二月ニ至ル間ニ於テ更ニ種痘ヲ行フヘシ
 定期前二年以內ニ善感シタル種痘ハ第二期ノ種痘ト看做ス

第二条 保護者ハ未成年者ヲシテ種痘ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フ

第三条 左ニ掲クル者ハ未成年ノ生徒、院生若ハ之ニ準スヘキ者又ハ未成年ノ寄寓者ヲシテ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 一 学校、育兒院又ハ之ニ準スヘキ場所ノ校長、院長其ノ他首長
 二 教育、監護又ハ傭使ノ目的ヲ以テ人ヲ寄寓セシムル者
 前項各号ニ掲クル者ノ法定代理人アルトキハ法定代理人ニ前項ノ規定ヲ適用ス

第四条 新ニ保護者ト為リ又ハ新ニ前条ノ関係ヲ生シタルトキハ種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者ヲシテ六月以內ニ種痘ヲ受ケシメ又ハ保護者ヲシテ其ノ義務ヲ履行セシムヘシ
 前項ノ期間內ニ其ノ手続ヲ為シ難キ事由アルトキハ市町村長区長ヲ以テ戶籍吏ニ充ツル市ニ於テハ区長以下之ニ準スニ屆出ツヘシ
 未成年者ヲ傭使スル雇主ニ関シテハ其ノ之ヲ寄寓セシメサル場合ト雖前二項ノ規定ヲ適用ス
 前条第二項ノ規定ハ前三項ノ場合ニ之ヲ準用ス

第五条 市町村ハ種痘ヲ施行スヘシ

第六条 市町村長ハ種痘定期ニ在ル者ノ種痘期日ヲ指定スヘシ

第七条 疾病其ノ他ノ事故ニ因リテ市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケシムルコト能ハサル場合ニ於テハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ其ノ事由ヲ具シ市町村長ニ猶予ヲ申請スルコトヲ得
 前項ニ依リ種痘ヲ猶予シタルトキハ市町村長ハ其ノ証ヲ交付スヘシ

第八条 市町村長ハ第一期種痘ヲ完了シ又ハ之ヲ要セサルニ至リタル者ヲ戸籍吏ニ通知シ戸籍吏ハ戸籍簿ノ欄外ニ符号ヲ以テ之ヲ記入スヘシ
 前項ノ記入ニ関スル事務ニ付テハ戸籍法第五条ノ規定ヲ準用ス

第九条 市町村長ノ指定シタル期日ニ種痘ヲ受ケス其ノ他種痘ヲ怠リ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル未成年者アルトキハ市町村長ハ更ニ期日ヲ指定シテ種痘ヲ受ケシメ又ハ直ニ種痘ヲ行フヘシ

第十条 種痘ヲ怠リタル者又ハ種痘ヲ受ケタル証跡不明ナル者ノ定期外ニ受ケタル種痘ハ第一条第二項ノ場合ヲ除クノ外其ノ定期種痘ト看做ス

第十一条 第五条ノ種痘ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ市町村長ノ指定シタル期日ニ於テ検診ヲ受ケシムヘシ但シ其ノ期日ニ検診ヲ受ケシムルコト能ハサル事由アルトキハ市町村長ニ屆出ツヘシ
 市町村長ハ前項ノ検診ヲ經タル者ニ種痘済証ヲ交付スヘシ
 第一項ノ場合ニ於テ必要アルトキハ痘漿ヲ採收スルコトヲ得

第十二条 医師定期種痘ヲ施シタル者ヲ検診シタルトキハ種痘証ヲ交付スヘシ
 前項ノ場合ニ於テ種痘証ヲ受ケタル者ノ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ十日以內ニ市町村長ニ屆出ツヘシ

第十三条 医師ハ其ノ診療ニ係ル痘瘡患者全治シタルトキ之ニ痘瘡経過証ヲ交付スヘシ

第十四条 当該吏員ノ請求アルトキハ保護者又ハ第三条ノ義務者ハ種痘済証又ハ種痘証ヲ提示セシムヘシ但シ命令ニ別段ノ規定アル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第十五条 地方長官ハ痘瘡予防上必要ト認ムルトキハ種痘ヲ受クヘキ者ノ範囲及期日ヲ指定シテ臨時種痘ヲ命スルコトヲ得
 臨時種痘ニ関シテハ本法ノ規定ヲ準用スルコトヲ得

第十六条 医師虚偽ノ種痘証ヲ交付シ又ハ検診セスシテ種痘証ヲ交付シタルトキハ五十円以下ノ罰金ニ処ス

第十七条 左ニ掲クル者ハ科料ニ処ス
 一 第四条又ハ第十一条第一項ニ違反シタル者
 二 保護者又ハ第三条ノ義務者ニシテ市町村長ノ指定シタル期日迄ニ種痘ヲ受ケシメサル者

第十八条 第十二条又ハ第十四条ニ違反シタル者ハ十円以下ノ科料ニ処ス

第十九条 官庁公署及官立公立ノ学校等ニ於テハ第三条第一項及第四条第一項乃至第三項ノ規定ニ準シ其ノ措置ヲ為スヘシ

第二十条 本法ニ於テ保護者ト称スルハ未成年者ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人、親権ヲ行フ者又ハ後見人ナキトキハ戸主、戸主未成年者又ハ禁治產者ナルトキハ戸主ニ対シ親権ヲ行フ者又ハ後見人ヲ謂フ
 本法中市町村又ハ市町村長トアルハ市制町村制ヲ施行セサル地ニ於テハ之ニ準スヘキモノニ該当ス

附 則

 本法ハ明治四十三年一月一日ヨリ之ヲ施行ス
 種痘規則ハ之ヲ廃止ス
 本法施行前数ヘ歲七歲以前ニ種痘ヲ受ケタル者又ハ種痘ヲ受ケタルモ其ノ時期不明ナル者ハ本法ニ依ル第一期ノ種痘、数ヘ歲八歲以後ニ種痘ヲ受ケタル者ハ第二期ノ種痘ヲ受ケタル者ト看做ス
 本法施行前第一条第一項ノ種痘定期ヲ経過シタル未成年者ニ付テハ第四条ノ規定ハ生来種痘ヲ受ケサルカ又ハ之ヲ受ケタル証跡不明ナル者ニ関シテ之ヲ適用ス

           「官報」より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手する(新暦11月3日)詳細
1428年(正長元)正長の土一揆で京都・醍醐附近の地下人が徳政を要求して蜂起する(新暦10月26日)詳細
1868年(明治元)日本画家横山大観の誕生日(新暦11月2日)詳細
1869年(明治2)東京・築地に明治新政府により海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設立される(新暦10月22日)詳細
1927年(昭和2)小説家徳富蘆花の命日(蘆花忌)詳細
1931年(昭和6)柳条湖事件が起き、満州事変が始まる詳細
1997年(平成9)ノルウェーの首都オスロにおける、オスロ国際会議で、「対人地雷禁止条約」が発議される詳細
2004年(平成16)ガラス工芸家で日本のガラス工芸の第一人者だった藤田喬平の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、厚生省が婦人標準服研究会を組織した日です。
 婦人標準服(ふじんひょうじゅんふく)は、太平洋戦争下で厚生省が決定した女性用の服装の標準として考案されたものでした。スカート式の甲型(洋服型)と和服式の乙型(和服型)のそれぞれに一部式、二部式があり、さらにモンペ式の活動衣があり、全部で7種類が示されています。
 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、まず男子の服装として国民服を定めるため、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募、翌年1月に発表され、1940年(昭和15)11月2日に「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。
 その後、女性用には、1941年(昭和16)3月19日に、厚生省が婦人標準服研究会を組織し、同年7月に試作品と公募が行われて10月19日入選発表があり、翌年2月19日に婦人標準服と活動衣が決定されました。これは、原則として、手作りのリフォーム・リメイク服とされ、手持ち衣料から自分で作るものなので、できるだけ簡単なものが考案され、これを基本として自由に応用されたようです。
 しかし、普及はなかなか進まなかったものの、モンペ式の活動衣は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると、空襲時の防空用として、多くの女性が着るようになりました。

〇モンペ(もんぺ)とは?

 和服における袴の形状をした下半衣で、腰、膝にゆとりがあり、裾が細く絞られたものです。多くは農山村における男女が、仕事着に用いる山袴の一種でしたが、太平洋戦争中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてから、全国的に一般化しました。
 1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されます。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
 戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されるようになります。

☆国民服令(こくみんふくれい)とは?

 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、男子の服装として国民服を定めるため、1940年(昭和15)11月2日に公布・施行した勅令(昭和15年勅令第725号)です。
 国民服は、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇により「運脚の労苦に対する詔」が出される(新暦4月18日)詳細
1860年(万延元)江戸幕府が最初の貿易統制令である「五品江戸廻送令」を発令する詳細
1943年(昭和18)洋画家藤島武二の命日詳細
1907年(明治40)「癩予防ニ関スル件」(明治40年法律第11号)が公布(施行は同年4月1日)される詳細
1945年(昭和20)名古屋大空襲によって、名古屋駅等が炎上する詳細
1950年(昭和25)世界平和擁護大会で原爆禁止の「ストックホルム・アピール」が採択される詳細
2011年(平成23)北関東自動車道が太田桐生IC~佐野田沼IC間18.6kmの開通により、全線開通する詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に婦人標準服と活動衣が決定され、モンペ姿流行のきっかけとなった日です。
 婦人標準服(ふじんひょうじゅんふく)は、太平洋戦争下で厚生省が決定した女性用の服装の標準として考案されたものでした。スカート式の甲型(洋服型)と和服式の乙型(和服型)のそれぞれに一部式、二部式があり、さらにモンペ式の活動衣があり、全部で7種類が示されています。
 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、まず男子の服装として国民服を定めるため、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募、翌年1月に発表され、1940年(昭和15)11月2日に「国民服令」(昭和15年勅令第725号)が公布・施行されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。
 その後、女性用には、1941年(昭和16)3月に、厚生省が婦人標準服研究会を組織し、同年7月に試作品と公募が行われて10月19日入選発表があり、翌年2月19日に婦人標準服と活動衣が決定されました。これは、原則として、手作りのリフォーム・リメイク服とされ、手持ち衣料から自分で作るものなので、できるだけ簡単なものが考案され、これを基本として自由に応用されたようです。
 しかし、普及はなかなか進まなかったものの、モンペ式の活動衣は、足首でしぼったズボンのような服で、戦局が悪化すると、空襲時の防空用として、多くの女性が着るようになりました。

〇モンペ(もんぺ)とは?

 和服における袴の形状をした下半衣で、腰、膝にゆとりがあり、裾が細く絞られたものです。多くは農山村における男女が、仕事着に用いる山袴の一種でしたが、太平洋戦争中に婦人標準服の活動衣として着用が奨励されてから、全国的に一般化しました。
 1942年(昭和17)2月19日に厚生省が、婦人標準服の活動衣としてこれを定め、「モンペ普及運動」として奨励されます。その後の戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました。
 戦後は、その機能性から農作業着として全国的に使用されるようになります。

☆国民服令(こくみんふくれい)とは?

 昭和時代前期の日中戦争下で、政府の提唱した“国民精神総動員運動”の衣料面における一環で、男子の服装として国民服を定めるため、1940年(昭和15)11月2日に公布・施行した勅令(昭和15年勅令第725号)です。
 国民服は、「国民被服刷新委員会」を中心に制定がすすめられ、1939年(昭和14)11月に一般公募され、翌年1月に発表されました。その服装は、国防色(カーキ色)の上衣と袴(ズボン)、中衣(シャツ)、帽、外套(がいとう)、手套、靴から構成され、上衣に衽(おくみ)型と帯型をつけた甲号と、軍服調の乙号の2種とされます。尚、女性用には、1942年(昭和17)2月に、公募作品を元に、スカート式の甲号、和服式の乙号、モンペ式の活動衣の3種類の“婦人標準服”が定められました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(元暦2)屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利する(新暦3月22日)詳細
1837年(天保8)大塩平八郎の乱が起きる(新暦3月25日)詳細
1917年(大正6)詩人峠三吉の誕生日詳細
1934年(昭和9)経済学者・社会運動家野呂栄太郎の命日詳細
1946年(昭和21)GHQより「刑事裁判権行使に関する覚書」 (SCAPIN-756) が出される詳細
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定した日です。
 公害病(こうがいびょう)は、一般には、公害(大気汚染、水質汚染、土壌汚染、騒音・振動など)による健康被害として起こる疾病の総称とされますが、狭義には、公害によって健康上の被害を受けた人々を救済するため1973年(昭和48)に公布された法律「公害健康被害補償法」に指定されている疾病とされてきました。指定地域ごとに救済措置の対象疾病として指定される疾病で、慢性気管支炎、気管支喘息、喘息性気管支炎、肺気腫、水俣病、イタイイタイ病、ひ素中毒などとされていますが、水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病が四大公害病と呼ばれています。
 公害病の認定を受けた患者には、療養費、障害補償費などの補償給付がなされてきました。1987年(昭和62)に、大気汚染の改善に伴い、「公害健康被害補償法」の一部改正がなされ、大気汚染指定地域をすべて解除することと新たな患者を公害病とは認めないことなどが定められています。

〇主要な公害病一覧

<四大公害病>
・水俣病
 1953年(昭和28年)頃から1960年(昭和35年)にかけて熊本県水俣湾で発生した奇病。付近の工場廃液にふくまれる有機水銀(メチル水銀)による水質汚染や底質汚染を原因とし、魚類の食物連鎖を通じて人の健康被害が生じたもので、手足や口のしびれる症状が出て、死亡する人もいた。裁判の結果、廃液を流していた会社から賠償金の支払いと、国に対しても被害者認定の遅れを認めることになったが、最終的に認定された患者数は、2200人以上に及んだ。
・第二水俣病(新潟水俣病)
 1964年(昭和39年)頃から新潟県阿賀野川流域で発生した奇病。熊本県水俣と同じく、有機水銀(メチル水銀)による水質汚染や底質汚染を原因とし、魚類の食物連鎖を通じて人の健康被害が生じたもので、最終的に認定された患者数は700人に及んだ。 
・四日市ぜんそく
 1959年(昭和34)~1972年(昭和47)頃までの高度経済成長期に三重県四日市市を中心とした地域で発生した都市公害で、主に亜硫酸ガスによる大気汚染を原因とする。 多くの人が気管支炎やぜんそく、肝障害を起こし、死者も出たが、最終的に確認された患者数は1700人に及んだ。
・イタイイタイ病
 1910年代から1970年代前半に富山県神通川流域で発生した奇病で、子供を出産した女性に多く発症し、手足の骨がもろくなり、激しい痛みが伴うので、イタイイタイ病と名が付けられた。 カドミウムによる水質汚染を原因として、米などを通じて人々の骨に対し被害を及ぼしたもので、最終的に確認された患者数は190人に及んだ。

<その他の公害病>
・光化学スモッグ
 工場や自動車から大気中に排出された窒素酸化物や揮発性有機化合物(VOC)が、紫外線で光化学反応を起こし、光化学オキシダントが発生する。これが、人の目や呼吸器などを刺激して、健康被害が発生する。
・土呂久砒素公害
 砒素焼きをしていた宮崎県高千穂町の旧土呂久鉱山のまわりに慢性ヒ素中毒患者が発生、1971年(昭和46)に告発され、環境庁も認定し、鉱業権をもった企業への裁判もあった。
・川崎公害
 神奈川県川崎市で発生した工場及び自動車の排ガスによる大気汚染の被害があった大規模公害でした。
・西淀川公害
 大阪市西淀川区の工場からの硫黄酸化物などの排出や自動車排気ガスの大気汚染による健康被害で、1970年(昭和45)11月の段階で公害被害者認定患者は1055人に達し、西淀川区の住民の約100人に1人が公害病に認定される状況まで悪化した。
・六価クロム
 1970年代、江戸川区と江東区の日本化学工業で、従業員に肺がんや鼻中隔穿孔などの健康被害が多数発生した。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、土壌、米等のカドミウム分析の結果、神通川水系の汚染の状況が明らかにされた日です。
 イタイイタイ病は、大正時代から昭和時代にかけて、富山県の神通川流域で起きた公害病でした。岐阜県神岡町(現在の飛騨市)の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)から排出されたカドミウム汚染によって、引き起こされ、激痛や病的骨折に襲われて運動不能状態となり、さらに進行すると死に至るもので、1968年(昭和43)に日本の公害病第1号に認定されます。
 患者が「いたい、いたい」と骨の痛みを訴えて死ぬことから「イタイイタイ病」と名付けられ、「公害健康被害補償法」によって認定された患者数は194人(うち死亡者188人)となっていて、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと共に四大公害病の一つひとつとされました。患者らは三井金属を相手に損害賠償訴訟を起こし、1972年(昭和47)に勝訴し、公害防止協定などに基づき患者への補償、神岡鉱業の環境対策、土壌の復元が進み、2013年(平成25)に被害者団体と企業が「全面解決」で合意します。
 尚、イタイイタイ病裁判の勝利を記念して、1976年(昭和51)5月にイタイイタイ病対策協議会が婦中町萩島(現:富山市婦中町萩島)の被害地域に「清流会館」を建設し、館内にイタイイタイ病の闘いの年表や写真などの資料が展示されていました。これは、2012年(平成24)4月29日に開館した「富山県立イタイイタイ病資料館」へ引き継がれています。

〇イタイイタイ病関係略年表

・1955年(昭和30)8月4日 熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が富山新聞に掲載される
・1957年(昭和32)12月1日 萩野昇は第12回富山県医学会で「鉱毒説」を発表する
・1961年(昭和36)1月 萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表する
・1961年(昭和36)12月 富山県が原因究明に乗り出す、
・1963年(昭和38)6月 厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す
・1966年(昭和41)11月 被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成する
・1967年(昭和42)3月 富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、患者73人、要観察者150人を認定する
・1968年(昭和43)3月9日 患者や遺族の計28人が原告となって、原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴(第1次訴訟)
・1968年(昭和43)3月27日 厚生省「イ病の原因に関する研究」を発行、土壌,米等のカドミウムを分析、神通川水系の汚染の状況を明らかにする
・1968年(昭和43)5月 イタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になる
・1968年(昭和43)10月8日 第2次訴訟提訴(訴訟件数:148件)
・1969年(昭和44)3月10日 第3次訴訟提訴(訴訟件数:14件)
・1969年(昭和44)11月20日 第4次訴訟提訴(訴訟件数:4件)
・1970年(昭和45)2月1日 「健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)」が施行され、公害病患者96名が認定される
・1970年(昭和45)2月20日 第5次訴訟提訴(訴訟件数:13件)
・1971年(昭和46)5月7日 第6次訴訟提訴(訴訟件数:8件)
・1971年(昭和46)6月30日 富山地方裁判所が第1次訴訟の1審判決を下し、原告側の勝訴となるが、三井金属鉱業は即日控訴する
・1971年(昭和46)7月3日 第7次訴訟提訴(訴訟件数:1件)
・1971年(昭和46)7月 第2次~第7次訴訟は併合され、第1次訴訟が出た後に審理が始まる
・1972年(昭和47)8月9日 名古屋高等裁判所金沢支部は被告側の控訴を棄却するとともに、原告側の附帯控訴を認め、慰謝料額を倍増させ、原告側のほぼ全面勝訴となる
・1974年(昭和49)8月 神通川左岸の67.4haが「農用地汚染防止法」に基づく汚染地域に指定される
・1976年(昭和51)5月 イタイイタイ病対策協議会が「清流会館」を建設する
・1979年(昭和54) 汚染地域の土壌復元事業が始まる
・2008年(平成20)10月現在で、イタイイタイ病認定患者は192人となる
・2012年(平成24)3月17日 汚染地域の土壌復元事業が完了する
・2012年(平成24)4月29日 「富山県立イタイイタイ病資料館」が開館する
・2013年(平成25)12月17日 神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会が原因企業の三井金属と全面解決の合意書を交わす
・2014年(平成26)9月末時点で、イタイイタイ病認定患者は198人、要観察者延べ408人となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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