ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:南海トラフ

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 今日は、戦国時代の1498年(明応7)に、東海道沖で明応地震(推定M8.6)が起きた日ですが、新暦では9月20日となります。
 明応地震(めいおうじしん)は、午前8時頃に南海トラフの東海道沖で発生し、東南海、南海と連動した海洋性巨大地震(マグニチュード推定8.6)でした。揺れの記録は会津から京都まで広範囲に及び、熊野本宮の社殿が倒れ、那智の坊舎が崩れ、湯の峰温泉の湧出が止まり、遠江では山が崩れ、地が裂けたされています。
 また、高さ4mから10m以上の大津波が房総半島から紀伊半島にかけての沿岸を襲い、安房国の小湊では誕生寺が流され、伊勢国でも大湊(おおみなと)が破壊され、天然の良港といわれた安濃津(あのつ)も大津波によって一瞬のうちに海中に没し、海港としての機能を失いました。また、当時は淡水湖であった遠江国の浜名湖は、湖と太平洋を隔てる陸地が決壊し、現在のように海とつながった汽水湖となります。人命の被害も数万人に及び、牛馬の被害は数知れず、余震も続いたとされてきました。
 以下に、『後法興院記』、『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』、『実隆公記』、『内宮子良館記』の明応地震に関する記事を現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『後法興院記』関白・太政大臣・公卿・近衛政家の日記

明應七年八月廿五日己丑、辰時[1]大地震、去六月十一日地震[2]一倍事也、九月二十五日傳聞[3]、去月大地震之日、伊勢、參河、駿河、伊豆、大浪[4]打寄、海邊二三十町之民屋、悉溺水[5]、數千人沒命、其外牛馬類不知其數云々、前代未聞[6]事也、

【注釈】

[1]辰時:たつのとき=午前8時頃。
[2]六月十一日地震:ろくがつじゅういちにちのじしん=明応7年(1498年)6月11日に畿内付近で起きた大地震のこと。
[3]傳聞:でんぶん=人から伝え聞くこと。また、その内容。
[4]大浪:おおなみ=大きななみ。ここでは、地震で起きた津波のこと。
[5]溺水:できすい=水におぼれること。
[6]前代未聞:ぜんだいみもん=これまでに聞いたこともないような珍しく変わったこと。また、たいへんな出来事。

<現代語訳>
明応7年(1498年)8月25日、午前8時頃に大地震があった、去る6月11日の地震に倍することであった。9月25日に伝え聞くところでは、去る月の大地震の日に、伊勢・三河・駿河・伊豆に大波が押し寄せ、海辺二、三十町の民家がことごとく流されてしまい、人命も数千人亡くなり、その他牛馬の類は数知れず失われたと言う、前代未聞の事である。

〇『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』心清水八幡神社の年日記

明応七年八月二十五日、大地震、一日一夜三十度震、鎌倉由井浜[7]海水涌、大仏殿[8]迄上ル。

【注釈】

[7]由井浜:ゆいがはま=鎌倉の相模湾に面した浜辺。
[8]大仏殿:だいぶつでん=鎌倉の大仏殿のこと。

<現代語訳>
明応7年(1498年)8月25日に、大地震があり、一日一夜で三十回揺れた、鎌倉の由井浜では海水が涌きだし、大仏殿まで上った。

〇『実隆公記』巻三下(明応7年8月25日) 公家、三条西実隆の記した日記

早朝地震大動、五十年以来無如此事云々、予出生[9]以来未知如此之事。

【注釈】

[9]出生:しゅっしょう=うまれでること。人がうまれること。

<現代語訳>
早朝に地震によって大きく動いた。50年来なかったことであると言う、私は生まれてからこれまで知らないことであった。

〇『内宮子良館記』三重県伊勢市の内宮境内の「子良館(こらかん)」で書き継がれた日記

今度大地震ノ高鹽[10]ニ、大湊[11]ニハ家千間餘人五千人計流死[12]ト云々、其外伊勢島間[13]ニ、彼是一萬人計モ流死[12]也。

【注釈】

[10]高鹽:たかしお=海水面が異常に高まる現象。ここでは、地震で起きた津波のこと。
[11]大湊:おおみなと=伊勢国の港町、現在の三重県伊勢市にある。
[12]流死:りゅうし=水に流されて死ぬこと。
[13]伊勢島間:いせしまかん=伊勢国と志摩国において。

<現代語訳>
今度の大地震の高潮によって、伊勢国の大湊では家が千軒余り、人が五千ばかり、流れ死んだと言う、その他、伊勢・志摩の間ではかれこれ一万人ばかりが流れ死んだ。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
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 今日は、南北朝時代の1361年(正平16/康安元)に、南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震(M8~8.5)が起きた日ですが、新暦では7月26日となります。
 正平地震(しょうへいじしん)は、この日の午前4時頃に、西日本太平洋沖で起きたと推定されていますが、諸史料によると、すでに6月21日から大規模な前震が始まっていたとされてきました。この前震でも奈良の法隆寺等の社寺の被害があったことなどが記録されています。
 さらに、本震では、四天王寺で金堂が倒壊し、5 人が圧死(後愚昧記)、「熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。」(斑鳩嘉元記)、また太平洋岸には津波が押し寄せ、「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈し」、「摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。」(太平記)、「安居殿御所西浦マテシオミチテ、其間ノ在家人民多以損失」(斑鳩嘉元記)など甚大な被害が出たと書かれました。引き続いて、余震も多く発生し、10月頃まで続いたとされます。
 このため、翌年の9月23日に兵革・疫病・天変地異終息を願って「貞治」に改元されました。尚、徳島県海部郡美波町東由岐に、この時の大地震津波の死者の供養碑と伝承されている「康暦の碑」(町指定文化財)が残され、日本最古の地震津波碑とされています。
 以下に、この地震のことを記した『愚管記』、『後愚昧記』、『斑鳩(いかるが)嘉元記』、『太平記』巻第三十六の大地震並夏雪事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『愚管記』(公卿・近衛道嗣の日記)

伝聞、去月廿二日同廿四日大地震之時、熊野社頭并假殿以下、三山岩屋以下秘所秘木秘石等、悉破滅(後略)

〇『後愚昧記』(公卿・三条公忠の日記)

今暁大地震。四天王寺金堂顚倒、成微塵了。又大塔空輪落塔傾(中略)、伶人一人、承人二人、在庁二人圧死。

〇『斑鳩嘉元記』(鎌倉時代後期~南北朝時代の法隆寺寺内と近辺の出来事の記録)

康安元年、六月廿二日卯時、大地震これ在り。当寺東院、南大門西脇築地半本、同院中ノ門北脇築地一本、西寺の南大門西脇築地半本倒る。同月廿四日卯時、大地震これ在り、当寺には御塔九輪の上火災、一折燃て下もヘはをちず、金堂東の間仏壇下燃ヘ崩れをつ。東大門北脇築地少しく破れ落ち、伝法堂辰巳角かへ南へ落ち破る。薬師寺金堂の二階かたぶき破れ、御塔、中門、廻廊悉く顛倒す。同西院顛倒し、此の外諸堂破損すと云々。招提寺塔九輪大破損、西廻廊皆顚倒し、渡廊悉く破れ畢んぬ。天王寺金堂破れ倒れぬ。又安居院御所西浦までしほみちて、其の間の在家人民多く以て損失すと云々。熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。

〇『太平記』巻第三十六 

大地震並夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月(注:六月の誤り)二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月(注:六月の誤り)二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄渡辺崋山高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1707年(宝永4)に日本最大級の地震である宝永地震が起き甚大な被害が出た日ですが、新暦では10月28日となります。
 宝永地震(ほうえいじしん)は、14時前に東海道沖から南海道沖(震央は北緯33.2°、東経135.9°)を震源域として発生した南海トラフ巨大地震(マグニチュード8.4~8.6)でした。この地域では震度6~7のゆれがあり,10mを超える大津波も発生して、被害は東海道・伊勢湾・紀伊半島を中心に、関東地方から九州地方にまで及んでいます。
 その結果、多くの家屋が倒壊・焼失・流失し、死者約2万人、家屋倒壊約6万戸、流失約2万戸と言われ、農畜産物、道路・橋梁などへも甚大な被害が出ました。室戸岬で1.5m、串本で1.2m、御前埼付近は1~2mの隆起、高知東部では約20㎢で最大2mの沈下が見られ、また地震後、道後温泉の湧出が145日間止まったほか、紀伊の湯峰・山地・龍神・瀬戸船山でも湯が止まったとされています。
 この後大きな余震も続き、49日後の12月16日に起きた、富士山宝永大噴火との関連も指摘されてきました。

〇当時の文献による宝永地震の記載例

・「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事、将棋倒を見るが如し」『万変記』(『弘列筆記』)

〇江戸時代に起きた巨大地震(マグニチュード8以上)

・1611年(慶長15年10月28日) 慶長三陸地震[マグニチュード8.1]
・1703年(元禄16年11月23日) 元禄地震[マグニチュード8.2]
・1707年(宝永4年10月4日) 宝永地震[マグニチュード8.4~8.6]
・1854年(嘉永7年11月4日) 安政東海地震[マグニチュード8.4]
・1854年(嘉永7年11月5日) 安政南海地震[マグニチュード8.4]

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