ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:南北朝時代

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 今日は、南北朝時代の1337年(延元2/建武4)に、金ヶ崎の戦いにおいて、越前国金ヶ崎城が落城し、恒良親王が捕われ尊良親王が自害、新田義貞が敗走した日ですが、新暦では4月7日となります。
 金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)から翌年3月にかけて、越前国金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いでした。金ヶ崎城は、中世の山城(標高86m)で、1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されます。
 しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
 その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
 尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
 金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。

〇『太平記』金崎城落事(巻第十八)

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瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。 ・・・・・・・・

            流布本『太平記』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

803年(延暦22)征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令される(新暦4月1日)詳細
1297年(永仁5)鎌倉幕府により「永仁の徳政令」が出される(新暦3月30日)詳細
1945年(昭和20)「国民徴用令」等5勅令を廃止・統合し、新たに「国民勤労動員令」が公布される詳細
1946年(昭和21)憲法改正過程において、日本政府より「憲法改正草案要綱」 が発表される詳細
2005年(平成17)新交通システムの一つで、日本初の実用磁気浮上式鉄道である、愛知高速交通東部丘陵線が開業する詳細
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 今日は、室町時代の1392年(元中9/明徳3)の閏月に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って、南北朝動乱が終結して南北朝合一が実現し、北朝の元号「明徳」に統一された日ですが新暦では11月19日となります。
 南北朝動乱(なくぼくちょうどうらん)は、一般には、南北朝時代とも呼ばれてきました。1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、南北朝動乱が始まります。
 この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在し、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)に室町幕府第3代将軍足利義満によって、南北朝合一(明徳の和約)に至り、動乱は収まります。
 この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどりました。また、農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
 尚、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われてきました。
 
〇南北朝動乱関係略年表 (日付は旧暦です)

<正慶2/元弘3年(1333年)> 
・5月22日 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する 

<正慶2/元弘3年(1334年)> 
・1月 後醍醐天皇により建武の新政が行われる 

<建武2年(1335年)> 
・7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する 
・10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する 
・12月11日 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる 

<延元元/建武3年(1336年)> 
・5月25日 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する 
・5月29日 尊氏方に京都が占領される 
・8月15日 光明天皇が擁立される 
・10月13日 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る 
・11月7日 足利尊氏により「建武式目」が制定される 
・12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる 

<延元2/建武4年(1337年)> 
・3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる 

<延元3/暦応元年(1338年) 
・3月6日 越前金ヶ崎城が陥落する 
・5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる 
・閏7月2日 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる 
・8月11日 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く 

<延元4/暦応2年(1339年)> 
・8月16日 後醍醐天皇が吉野で亡くなり、後村上天皇が即位する 

<延元6/興国2年(1341年)> 
・12月 足利尊氏が天竜寺船を元に送ることを免許する 

<正平2/貞和3年(1347年)>
・11月 楠木正成の子正行、後村山天皇方の武将として、尊氏方をせめる 

<正平3/貞和4年(1348年)> 
・1月5日 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍) 
・6月 直義、尊氏の執事高師直と不和になる 

<正平4/貞和5年(1349年)> 
・9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる 

<正平5/観応元年(1350年)> 
・10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~1352年)) 

<正平6/観応2年(1351年)> 
・8月 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統) 

<正平7/観応3年(1352年)> 
・2月 南朝軍は約束を破って京都に侵入する 
・2月26日 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する 
・7月 「観応半済令」が出される 

<正平8/観応4年(1353年)> 
・6月 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平10/観応6年(1355年)> 
・1月 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平11/延文元年(1356年)> 
・8月23日 足利義詮が従三位に昇叙する 

<正平13/延文3年(1358年)> 
・4月30日 足利尊氏が亡くなる 
・12月18日 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 

<正平16/延文6年(1361年)> 
・細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る 
・南朝軍が入京する 

<正平17/康安2年(1362年)> 
・幕府・北朝側が京都を奪還する 
・7月 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される 

<正平18/貞治2年(1363年)> 
・1月28日 足利義詮が権大納言に転任する 
・大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、政権が安定化しはじめる 
・7月29日 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元 

<正平20/貞治4年(1365年)> 
・2月 足利義詮が三条坊門万里小路の新邸に移る 

<正平21/貞治5年(1366年)> 
・8月 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変) 

<正平22/貞治6年(1367年)> 
・1月5日 足利義詮が正二位に昇叙する 
・11月 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す 
・12月7日 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる 

<正平23/応安元年(1368年)> 
・3月11日 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・6月17日 「応安半済令」が出される 
・12月30日 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する 

<建徳2/応安4年(1371年)> 
・足利義満が今川了俊に九州統一を命じる 

<建徳3/応安5年(1372年)> 
・11月22日 足利義満が判始の式を行なう 

<天授4/永和4年(1378年)> 
・3月 足利義満が室町に新邸(花の御所)を造営して移住する 

<天授5/康暦元年(1379年)> 
・閏4月14日 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる 

<弘和2/永徳2年(1382年)> 
・1月26日 足利義満が左大臣となる 
  足利義満が開基として相国寺の建立を開始する 

<弘和3/永徳3年(1383年)> 
・1月14日 足利義満が准三后宣下を受ける 

<元中3/至徳3年(1386年)> 
・7月10日 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする 

<元中5/嘉慶2年(1388年)> 
・足利義満が東国の景勝遊覧に出かける 

<元中7/明徳元年(1390年)> 
・閏3月 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される 

<元中8/明徳2年(1391年)> 
・12月 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される 

<元中9/明徳3年(1392年)> 
・10月27日 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する 
・閏10月5日 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、北朝の元号「明徳」に統一される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の建武2年に、箱根・竹ノ下の戦いが起き、建武新政府に叛旗を翻した足利尊氏が新田義貞軍を破って、南北朝動乱が始まった日ですが、新暦では1336年1月24日となります。
 箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、鎌倉で建武新政府に反旗を翻した足利尊氏・直義軍と後醍醐天皇の宣旨を受けて尊良親王を奉じた新田義貞軍との間の箱根・竹ノ下での戦いでした。
 1335年(建武2)8月に、北条高時の遺児時行が起こした中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は、鎌倉を奪還しますが、この知らせを受けた後醍醐天皇は、尊氏を従二位に昇叙し、帰京命令を出します。しかし、尊氏はこれに従わずに鎌倉に留まり、建武新政府に叛旗を翻しました。
 そこで、同年11月に、後醍醐天皇の尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞が尊良親王を奉じて京都を出立し、東進しながら各地で足利軍を破り、関東への出入口である駿豆国境付近に陣を取ります。ここに至って、ようやく尊氏も鎌倉から出陣し、義貞は、三島にて軍勢をニ手に分けて、自らは大友氏・菊池氏など7万騎を率いて箱根峠へ向かい、脇屋義助を副将軍にした別動隊は、尊良親王らと7千騎にて、足柄峠を目指しました。
 これに対し、足利勢は、直義が箱根に布陣し、尊氏は竹ノ下前面の足柄峠に布陣します。同年12月11日に両軍は激突。箱根方面では義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開、尊氏と義助の主戦場は足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となりました。
 ところが翌日には、新田勢の大友貞載と塩冶高貞が、尊氏軍に寝返えったため、脇屋義助らは総崩れとなり、新田勢は敗走します。13日には、伊豆国府を尊氏軍が奪回し、義貞軍は東海道を総崩れで京都に敗走、尊氏軍はこれを追って上洛しました。
 以下に、『太平記』巻第十四の「箱根竹下合戦事」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第十四

箱根竹下合戦事

去程に同十二月十一日両陣の手分有て、左馬頭直義箱根路を支へ、将軍は竹下へ向べしと被定にけり。此間度々の合戦に打負たる兵共、未気を直さで不勇、昨日今日馳集たる勢は、大将を待て猶予しける間、敵已に伊豆の府を打立て、今夜野七里山七里を超ると聞しかば、足利尾張右馬頭高経・舎弟式部大夫・三浦因幡守・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・佐々木佐渡判官・赤松雅楽助貞則、「加様に目くらべして、鎌倉に集り居ては叶まじ、人の事はよし兎も角もあれ、いざや先竹下へ馳向て、後陣の勢の著ぬ先に、敵寄せば一合戦して討死せん。」とて、十一日まだ宵に竹下へ馳向ふ。其勢僅なりしかば、物冷しくぞ見へたりける。されども義を守る勇士共なれば、族に多少不可依とて、竹下へ打襄て敵の陣を遥に直下たれば、西は伊豆の府、東は野七里山七里に焼双べたる篝火の数幾千万とも不知けり。只晴天の星の影、滄海に移る如く也。さらば御方にも篝火を焼せんとて、雪の下草打払ひ、処々刈集めて幽に火を吹著たれば、夏山の茂みが下に夜を明す、照射の影に不異。されども武運強ければにや、敵今夜は寄来らず。夜已に明なんとしける時、将軍鎌倉を打立せ給へば、仁木・細河・高・上杉、是等を宗との兵として都合其勢十八万騎竹下へ著給へば、左馬頭直義六万余騎にて箱根峠へ著給ふ。去程に、明れば十二日辰刻に、京勢共伊豆の府にて手分して、竹下へは中務卿親王に卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助・細屋右馬助・堤卿律師・大友左近将監・佐々木塩冶判官高貞を相副て、已上其勢七千余騎、搦手にて被向けり。箱根路へは又新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉・宇都宮・大友千代松丸・菊池肥後守武重・松浦党を始として、国々の大名三十余人、都合其勢七万余騎、大手にてぞ被向ける。同日午刻に軍始まりしかば、大手搦手敵御方、互に時を作りつゝ、山川を傾け天地を動し、叫喚で責戦ふ。去程に、菊池肥後守武重、箱根軍の先懸して、敵三千余騎を遥の峯へ巻上げ、坂中に楯を突双て、一息継て怺へたり。是を見て、千葉・宇都宮・河越・高坂・愛曾・熱田の大宮司、一勢々々陣を取て曳声を出して責上々々、叫喚で戦たり。中にも道場坊助注記祐覚は、児十人同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づゝ甲の真額に挿たりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵・相摸の荒夷共、「児とも云はず只射よ。」とて、散々に指攻て射ける間、面に進みたる児八人矢庭に倒れて小篠の上にぞ臥たりける。党の者共是を見て、頚を取らんと抜連て打て下けるを、道場坊が同宿共児を討せて何か可怺。三十余人太刀・長刀の鋒を双べて手負の上を飛超々々、「坂本様の袈裟切に成仏せよ。」と云侭に、追攻々々切て廻りける間、武士散々に被切立て、北なる峯へ颯と引と、且し息をぞ継だりける。此隙に祐覚が同宿共、面々の手負を肩に引懸て、麓の陣へぞ下りける。義貞の兵の中に、杉原下総守・高田薩摩守義遠・葦堀七郎・藤田六郎左衛門・川波新左衛門・藤田三郎左衛門・同四郎左衛門・栗生左衛門・篠塚伊賀守・難波備前守・川越参河守・長浜六郎左衛門・高山遠江守・園田四郎左衛門・青木五郎左衛門・同七郎左衛門・山上六郎左衛門とて、党を結だる精兵の射手十六人あり。一様に笠験を付て、進にも同く進み、又引時も共に引ける間、世の人此を十六騎が党とぞ申ける。彼等が射ける矢には、楯も物具もたまらざりければ、向ふ方の敵を射すかさずと云事なし。執事舟田入道は、馳廻て士卒を諌め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を被実検ける間、名を重じ命を軽ずる千葉・宇都宮・菊池・松浦の者共、勇進で戦ける間、鎌倉勢馬の足を立兼て、引退者数を不知けり。懸る処に竹下へ被向たる中書王の御勢・諸庭の侍・北面の輩五百余騎、憖武士に先を不被懸とや思けん。錦の御旌を先に進め竹下へ押寄て、敵未一矢も不射先に、「一天君に向奉て曳弓放矢者不蒙天罰哉。命惜くば脱甲降人に参れ。」と声々にぞ呼りける。是を見て尾張右馬頭・舎弟式部大夫・土岐弾正少弼頼遠・舎弟道謙・三浦因幡守・佐々木佐渡判官入道・赤松筑前守貞則、自宵一陣に有けるが、「敵の馬の立様、旌の紋、京家の人と覚るぞ、矢だうなに遠矢な射そ。只抜連れて懸れ。」とて三百余騎双轡、「弓馬の家に生れたる者は名をこそ惜め、命をば惜まぬ者を。云処虚事か実事か、戦て手並の程を見給へ。」とて一同に時を咄と挙げ、喚てこそ懸たりけれ。官軍は敵をかさに受て麓に引へたる勢なれば、何かは一怺も可怺、一戦にも不及して、捨鞭を打てぞ引たりける。是を見て土岐・佐々木一陣に進て、「言ばにも似ぬ人々哉、蓬し返せ。」と恥しめて、追立々々責ける間、後れて引兵五百余騎、或は生捕れ或被討、残少に成にけり。手合せの合戦をしちがへて官軍漂て見へければ、仁木・細河・高・上杉の人々勇進で、中書王の御陣へ会尺もなく打て懸る。されば引漂たる京勢にて、可叶様無りけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「云甲斐なき者共が憖に一陣に進て御方の力を失こそ遺恨なれ。こゝを散さでは叶まじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旌の足を龍装に進めて、横合に閑々と懸られける。勝誇たる敵なれば何かは少しも疼むべき。十字に合て八字に破る。大中黒と二つ引両と二の旌を入替々々、東西に靡き南北に分れ、万卒に面を進め一挙に死をぞ争ひける。誠に両方名を被知たる兵共なれば誰かは独も可遁。互に討つ討れつ、馬の蹄を浸す血は混々として洪河の流るゝが如く也。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如く也。無慙と云も疎也。爰に脇屋右衛門佐子息式部大夫とて、今年十三に成けるが、敵御方引分れける時、如何して紛れたりけん、郎等三騎相共に敵の中にぞ残りける。此人幼稚なれども心早き人にて、笠符引切て投捨、髪を乱し顔に振懸て、敵に不被見知とさはがぬ体にてぞ御坐ける。父義助是をば不知、「義治が見へぬは誅れぬるか、又生捕れぬるか、二の間をば離れじ。彼死生を見ずば、片時の命生ても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨る事只是子孫の後栄を思ふ故也。されば未幼なき身なれども、片時の別を悲んで此戦場にも伴ひつる也。其死生を知らでは、如何さて有べき。」とて、鎧の袖に泪をかけ、大勢の中へ懸入り給けるが、「誠に父の子を思ふ志、今に初ぬ事なれども、哀なる御事哉。いざや御伴仕らん。」とて義助の兵共轡を双べ三百余騎、主を討せじと懸入ける。義助の二度の懸に、指もの大勢戦疲れて、一度にばつとぞ引たりける。是に理を得て、義助尚追北進まれける処に、式部大夫義治、我が父と見成して馬を引返し、主従四騎にて脇屋殿に馳加はらんと馬を進められけるを、誰とは不知、片引両の笠符著たる兵二騎、御方が返すぞと心得て、「やさしくこそ見へさせ給候へ。御供申て討死し候。」とて、連て是も返しけり。式部大夫義治は父の義助の勢の中へつと懸入り様に、若党にきつと目くはせゝられければ義治の郎従よせ合せて、つゞいて返しつる二騎の兵を切落し、頚を取てぞ指挙たる。義助是を見給て死たる人の蘇生したる様に悦て、今一涯の勇みを成し、「且く人馬を休めよ。」とて、又元の陣へは引返されける。一陣余に闘ひくたびれしかば、荒手を入替て戦しめんとしける処に、大友左近将監・佐々木塩冶判官が、千余騎にて後に引へたるが、如何思けん一矢射て後、旗を巻て将軍方に馳加り、却て官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討れて、又も戦はず。右衛門佐の兵は両度の懸合に人馬疲れて無勢也。是ぞ荒手にて一軍もしつべき者と憑れつる大友・塩冶は、忽に翻て、親王に向奉て弓を引、右衛門佐に懸合せて戦しかば、官軍争か堪ふべき。「敵の後ろを遮らぬ前に、大手の勢と成合ん。」とて、佐野原へ引退く。仁木・細川・今川・荒川・高・上杉・武蔵・相摸の兵共、三万余騎にて追懸たり。是にて中書王の股肱の臣下と憑み思食たりける二条中将為冬討れ給ければ、右衛門佐の兵共返合々々、三百騎所々にて討死す。是をも顧ず引立たる官軍共、我先にと落行ける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の府にも支へずして、搦手の寄手三百余騎は、海道を西へ落て行く。

    「ウィキソース」より

〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1645年(正保元)臨済宗の僧沢庵宗彭の命日で「沢庵忌」とされる(新暦1646年1月27日)詳細
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1986年(昭和61)歌人宮柊二の命日 詳細
1997年(平成9)地球温暖化防止京都会議(COP3)が閉幕、温室効果ガスの削減目標を定めた「京都議定書」を採択する詳細
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 今日は、南北朝時代の1359年(正平14/延文4)に、筑後川の戦いで、南朝方の懐良親王らと北朝方の少弍頼尚が戦い、夜襲で北朝方が勝利した日ですが、新暦では8月29日となります。
 筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は、南北朝の戦いの一つで、筑後国大保原(現在の福岡県小郡市)で、征西将軍懐良親王を擁する菊池武光らの南朝方と少弐頼尚 (しようによりひさ) ・阿蘇大宮司らの北朝方による、筑後川をはさんでの戦いで、大保原の戦い、大原合戦とも呼ばれてきました。北朝方6万余騎、南朝方4万余騎が戦ったとされ、両軍あわせて2万5千の死傷者が出たと伝わる九州史上最大の合戦で、関ケ原の戦い(1600年)、川中島の戦いと並んで、日本三大合戦の一つともされています。
 1359年(正平14/延文4年)になって、九州の大宰府を本拠とする北朝方の少弐頼尚、少弐直資の父子は、大友氏時(うじとき)と呼応して、南朝方を挟撃しようとしたのに対し、菊池武光(たけみつ)は征西将軍懐良(かねよし)親王を奉じて、7月には菊池(現在の熊本県菊池郡)をたち筑後川南方に布陣しました。同月19日には筑後川を渡って、北方鰺坂荘(現在の福岡県小郡市)に陣した北朝方の少弐頼尚を攻めましたが、頼尚は退いて大保原の沼地に陣します。
 それに対し、8月6日夜半に菊池武政(たけまさ)らは先制攻撃をかけ、まもなく本隊相互の計約10万による激戦となり、一日中戦闘が続きました。この結果、北朝方の少弐直資は戦死、南朝方の懐良親王や菊池武光も負傷するなど、双方とも甚大な損害を受け、頼尚は宝満山(現在の福岡県太宰府市内山)に退却、南朝方も追撃の力なくいったん肥後に引き揚げます。その後、北朝方の少弐家は求心力を失い、2年後には南朝方の菊池武光に大宰府を奪われることとなり、九州は一時南朝方が優勢となりました。
 尚、戦い後、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(現在の福岡県三井郡大刀洗町)であるという伝承が残されています。
 以下に、『太平記』巻第三十三の筑後川の戦いの部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

〇『太平記』巻第三十三より筑後川の戦いの部分を抜粋

八月十六日の夜半許に、菊池先夜討に馴たる兵を三百人勝て、山を越水を渡て搦手へ廻す。宗との兵七千余騎をば三手に分て、筑後河の端に副て、河音に紛れて嶮岨へ廻りて押寄す。大手の寄手今は近付んと覚ける程に、搦手の兵三百人敵の陣へ入て、三処に時の声を揚げ十方に走散て、敵の陣々へ矢を射懸て、後へ廻てぞ控たる。分内狭き所に六万余騎の兵、沓の子を打たる様に役所を作り双たれば、時の声に驚き、何を敵と見分たる事もなく此に寄合彼に懸合て、呼叫追つ返つ同士打をする事数剋也しかば、小弐憑切たる兵三百余人、同士打にこそ討れけれ。敵陣騒乱て、夜已に明ければ、一番に菊池二郎、件の起請の旗を進めて、千余騎にてかけ入。小弐が嫡子太宰新小弐忠資、五十余騎にて戦けるが、父が起請や子に負けん。忠資忽に打負て、引返々々戦けるが、敵に組れて討れにけり。是を見て朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔、百余騎にて取て返し、近付く敵に引組々々差違て死ければ、菊池孫次郎武明・同越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三川守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下宗との兵八十三人、一所にて皆討れにけり。小弐が一陣の勢は、大将の新小弐討れて引退ければ、菊池が前陣の兵、汗馬を伏て引へたり。二番に菊池が甥肥前二郎武信・赤星掃部助武貫、千余騎にて進めば、小弐が次男太宰越後守頼泰、並太宰出雲守、二万余騎にて相向ふ。初は百騎宛出合て戦けるが、後には敵御方二万二千余騎、颯と入乱、此に分れ彼に合、半時許戦けるが、組で落れば下重り、切て落せば頚をとる。戦未決前に、小弐方には赤星掃部助武貫を討て悦び、寄手は引返す。菊池が方には太宰越後守を虜て、勝時を上てぞ悦ける。此時宮方に、結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同出雲守・熊谷民部大輔以下、宗との兵三百余人討死しければ、将軍方には、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、憑切たる兵共七百余人討れにけり。三番には、宮の御勢・新田の一族・菊池肥後守一手に成て、三千余騎、敵の中を破て、蜘手十文字に懸散んと喚ひて蒐る。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵二万余騎、左右へ颯と分れて散々に射る。宮方の勢射立られて引ける時、宮は三所まで深手を負せ給ければ日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮を落し進せんと蹈止て討れ給ふ。是を見て新田の一族三十三人、其勢千余騎横合に懸て、両方の手崎を追まくり、真中へ会尺もなく懸入て、引組で落、打違て死、命を限に戦けるに、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守、敵に組れて討れにけり。菊池肥後守武光・子息肥後次郎は、宮の御手を負せ給のみならず、月卿雲客・新田一族達若干討るゝを見て、「何の為に可惜命ぞや。日来の契約不違、我に伴ふ兵共、不残討死せよ。」と励されて、真前に懸入る。敵此を見知たりければ、射て落さんと、鏃をそろへて如雨降射けれ共、菊池が著たる鎧は、此合戦の為に三人張の精兵に草摺を一枚宛射させて、通らぬさねを一枚まぜに拵て威たれば、何なる強弓が射けれ共、裏かく矢一も無りけり。馬は射られて倒れ共乗手は疵を被らねば、乗替ては懸入々々、十七度迄懸けるに、菊池甲を落されて、小鬢を二太刀切れたり。すはや討れぬと見へけるが、小弐新左衛門武藤と押双て組で落、小弐が頚を取て鋒に貫き、甲を取て打著て、敵の馬に乗替、敵の中へ破て入、今日の卯剋より酉の下まで一息をも不継相戦けるに、新小弐を始として一族二十三人、憑切たる郎従四百余人、其外の軍勢三千二百二十六人まで討れにければ、小弐今は叶はじとや思けん、太宰府へ引退て、宝万が岳に引上る。菊池も勝軍はしたれども、討死したる人を数れば、千八百余人と注したりける。続て敵にも不懸、且く手負を助てこそ又合戦を致さめとて、肥後国へ引返す。其後は、敵も御方も皆己が領知の国に楯篭て、中々軍も無りけり。

<現代語訳>

八月十六日の夜半ほどに、菊池(武光)はまず夜討ちに馴れた兵を300人を選んで、山を越え渡河させて搦手に向かわせた。主力の兵7,000余騎を三手に分けると、筑後川の端に沿って、川音に紛れて険しい地形の方に回って押し寄せました。大軍の寄せ手がまさに近づこうとしている時に、搦め手の兵300人が敵の陣へ入って、三ヶ所で鬨の声を上げると、縦横無尽に走り回って、敵陣のいたるところに矢を射かけ、背後に回り込んで待機しました。所狭き場所に入り込んだ60,000余騎の兵らは、すきまなく立ち並ぶ陣所となっていたため、鬨の声を聞いて驚き、いずれが敵なのか見分けることもできなくて、こちらに押し寄せ、向こうに駆け込んだりして、呼き叫び追いつ返しつ、同士討ちをすること数時間に及んだので、少弐(頼尚)が頼りとしていた兵士ら300余人は、同士討ちにて討たれてしまった。敵陣が騒ぎ乱れている内に、夜がすでに明ければ、一番に菊池二郎(武重)は、例の起請の旗を進めて、1,000余騎で駆け入りました。少弐(頼尚)の嫡子、太宰新少弐忠資は50余騎で応戦しましたが、父の起請の報いが子に及んだのか、忠資は瞬く間に打ち負けて、引き返し引き返し戦ったものの、敵に組まれて討たれました。これを見て、朝井但馬将監胤信・筑後新左衛門・窪能登守・肥前刑部大輔が、100余騎で引き返し、近付く敵に組み付き組み付いては刺し違えて死んだので、菊池孫次郎武明・同じく越後守・賀屋兵部大輔・見参岡三河守・庄美作守・宇都宮刑部丞・国分次郎以下の主な兵83人は、一ヶ所で全員討たれました。少弐軍の一陣(先鋒)は大将の新少弐が討たれて引き退いたので、菊池軍の前陣の兵は、疲労激しい馬を休めて待機しました。二陣の菊池(武光)の甥である肥前次郎武信・赤星掃部助武貫が、1,000余騎で進んでくれば、小弐(頼尚)の次男である太宰越後守頼泰、並びに太宰出雲守が、20,000余騎で対峙しました。初の内は、敵味方100騎を互いに出し合って戦いましたが、その後は敵味方22.000余騎がさっと入り乱れ、ここかしこに分かれて、半時(約一時間)ばかりを戦ったものの、組み打ちになると折り重なって落馬し、切って落として首を捕りました。戦いがいまだ決着しない前に、少弐方では赤星掃部助武貫を討ち取ったと喜べば、寄せ手は引き返しました。また、菊池方では太宰越後守を生け捕って、勝鬨を上げて喜びました。この戦いで宮(懐良親王)方では結城右馬頭・加藤大夫判官・合田筑前入道・熊谷豊後守・三栗屋十郎・太宰修理亮・松田丹後守・同じく出雲守・熊谷民部大輔以下、主だった兵士ら300余人が討ち死にし、将軍(第二代将軍足利義詮)方では、饗庭右衛門蔵人・同左衛門大夫・山井三郎・相馬小太郎・木綿左近将監・西川兵庫助・草壁六郎以下、頼りにしていた兵士ら700余人が討たれました。三陣として、宮(懐良親王)の軍勢・新田一族・菊池肥後守(武光)が一つにまとまった3,000余騎が、敵の中央を突破して蜘手十文字に駆け散らそうと喚いて切りかかりました。小弐・松浦・草壁・山賀・島津・渋谷の兵士ら20,000余騎は、左右にさっと分かれると、散々に矢を射込みました。宮(懐良親王)方の軍勢は射立てられて引き退こうとした時に、宮(懐良親王)が三ヶ所に重傷を負われたので、日野左少弁・坊城三位・洞院権大納言・花山院四位少将・北山三位中将・北畠源中納言・春日大納言・土御門右少弁・高辻三位・葉室左衛門督に至るまで、宮(懐良親王)を逃がそうと踏み止まったため、討たれたのでした。これを見て新田の一族33人が、軍勢1,000余騎で、敵の側面から攻撃を仕掛け、両側の先頭兵を追いまくりながら、敵の真ん中に容赦なく駈け入り、取っ組んでは落ち、互いに戦って討たれたりして、命を限りに戦ったので、世良田大膳大夫・田中弾正大弼・岩松相摸守・桃井右京亮・堀口三郎・江田丹後守・山名播磨守は、敵に組み付かれて討たれました。菊池肥後守武光・子息肥後次郎(武重)の二人は、宮(懐良親王)が重傷を負われただけでなく、公卿や殿上人・新田一族らが多数討たれるのを見て、「このような事態の時になぜ命など惜しむのか。日頃の約束を違えることなく、私に従ってきた兵士達よ、残らず討ち死にを覚悟せよ」と大声を上げて、真っ先に駈け入りました。敵は彼を見知っていたので、射落とそうと鏃をそろえて、雨の降るかのように射込んできましたが、菊池(武光)が着てきた鎧は、この合戦に備えて、三人張りの強弓を扱う精兵に、草摺りを一枚づつ射させて、矢を通さなかった札(さね:鎧を構成する鉄や革製の細長い小板)を一枚づつそろえて威していたものなので、いかなる強弓で射た矢でも、裏まで貫通する矢は一本もありませんでした。馬は射られたとして倒れても乗り手は傷を負わないので、乗り換えては、駆け入り、駆け入ること17回に及ぶと、菊池(武光)は兜を落とされて、頭の側面を二太刀切られました。あわや討たれるのではと見えた時、少弐新左衛門武藤と馬を並べ組み合って落ちると、少弐の首を取って切っ先に貫き、兜も取り上げて自分が着け、その上敵の馬に乗り換えると敵中に割って入り、今日の卯の刻(午前六時頃)から酉の下(午後七時過ぎ頃)まで、一息をも継がずに戦って、新少弐をはじめとして、一族23人、頼みとしていた家来ら400余人、その他の軍勢、3,226人も討たれてしまったので、少弐(頼尚)は、これではもう戦いを続けることは不可能と考え、大宰府に退却し、宝万が岳(宝満城)に上りました。菊池(武光)も合戦には勝利を収めたものの、討ち死にした人数を数えると1,800余人だと記されました。続けて敵にいどみかかることなく、しばらくは味方の負傷者の治療に励み、その後再び合戦をするべしと、肥後国に引き返しました。その後は、敵も味方も皆、自分の領国に立て篭もり、予想外にも合戦は起こりませんでした。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1926年(大正15)東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局を統合し社団法人日本放送協会を設立する詳細
1949年(昭和24)広島平和記念都市建設法」が公布・施行される

詳細

1955年(昭和30)広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催される詳細
1981年(昭和56)電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電に成功する(太陽熱発電の日)詳細
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 今日は、南北朝時代の1361年(正平16/康安元)に、南海トラフ沿いの巨大地震である正平地震(M8~8.5)が起きた日ですが、新暦では7月26日となります。
 正平地震(しょうへいじしん)は、この日の午前4時頃に、西日本太平洋沖で起きたと推定されていますが、諸史料によると、すでに6月21日から大規模な前震が始まっていたとされてきました。この前震でも奈良の法隆寺等の社寺の被害があったことなどが記録されています。
 さらに、本震では、四天王寺で金堂が倒壊し、5 人が圧死(後愚昧記)、「熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。」(斑鳩嘉元記)、また太平洋岸には津波が押し寄せ、「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈し」、「摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。」(太平記)、「安居殿御所西浦マテシオミチテ、其間ノ在家人民多以損失」(斑鳩嘉元記)など甚大な被害が出たと書かれました。引き続いて、余震も多く発生し、10月頃まで続いたとされます。
 このため、翌年の9月23日に兵革・疫病・天変地異終息を願って「貞治」に改元されました。尚、徳島県海部郡美波町東由岐に、この時の大地震津波の死者の供養碑と伝承されている「康暦の碑」(町指定文化財)が残され、日本最古の地震津波碑とされています。
 以下に、この地震のことを記した『愚管記』、『後愚昧記』、『斑鳩(いかるが)嘉元記』、『太平記』巻第三十六の大地震並夏雪事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『愚管記』(公卿・近衛道嗣の日記)

伝聞、去月廿二日同廿四日大地震之時、熊野社頭并假殿以下、三山岩屋以下秘所秘木秘石等、悉破滅(後略)

〇『後愚昧記』(公卿・三条公忠の日記)

今暁大地震。四天王寺金堂顚倒、成微塵了。又大塔空輪落塔傾(中略)、伶人一人、承人二人、在庁二人圧死。

〇『斑鳩嘉元記』(鎌倉時代後期~南北朝時代の法隆寺寺内と近辺の出来事の記録)

康安元年、六月廿二日卯時、大地震これ在り。当寺東院、南大門西脇築地半本、同院中ノ門北脇築地一本、西寺の南大門西脇築地半本倒る。同月廿四日卯時、大地震これ在り、当寺には御塔九輪の上火災、一折燃て下もヘはをちず、金堂東の間仏壇下燃ヘ崩れをつ。東大門北脇築地少しく破れ落ち、伝法堂辰巳角かへ南へ落ち破る。薬師寺金堂の二階かたぶき破れ、御塔、中門、廻廊悉く顛倒す。同西院顛倒し、此の外諸堂破損すと云々。招提寺塔九輪大破損、西廻廊皆顚倒し、渡廊悉く破れ畢んぬ。天王寺金堂破れ倒れぬ。又安居院御所西浦までしほみちて、其の間の在家人民多く以て損失すと云々。熊野山の山路並びに山河等、多く以て破損す。或る説には湯の峰の湯止て出ずと云々。

〇『太平記』巻第三十六 

大地震並夏雪事

同年の六月十八日の巳刻より同十月に至るまで、大地をびたゝ敷動て、日々夜々に止時なし。山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千万と云数を不知。都て山川・江河・林野・村落此災に不合云所なし。中にも阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。是をこそ希代の不思議と見る処に、同六月二十二日、俄に天掻曇雪降て、氷寒の甚き事冬至の前後の如し。酒を飲て身を暖め火を焼炉を囲む人は、自寒を防ぐ便りもあり、山路の樵夫、野径の旅人、牧馬、林鹿悉氷に被閉雪に臥て、凍へ死る者数を不知。七月(注:六月の誤り)二十四日には、摂津国難波浦の澳数百町、半時許乾あがりて、無量の魚共沙の上に吻ける程に、傍の浦の海人共、網を巻釣を捨て、我劣じと拾ける処に、又俄に如大山なる潮満来て、漫々たる海に成にければ、数百人の海人共、独も生きて帰は無りけり。又阿波鳴戸俄潮去て陸と成る。高く峙たる岩の上に、筒のまはり二十尋許なる大皷の、銀のびやうを打て、面には巴をかき、台には八竜を拏はせたるが顕出たり。暫は見人是を懼て不近付。三四日を経て後、近き傍の浦人共数百人集て見るに、筒は石にて面をば水牛の皮にてぞ張たりける。尋常の撥にて打たば鳴じとて、大なる鐘木を拵て、大鐘を撞様につきたりける。此大皷天に響き地を動して、三時許ぞ鳴たりける。山崩て谷に答へ、潮涌て天に漲りければ、数百人の浦人共、只今大地の底へ引入らるゝ心地して、肝魂も身に不副、倒るゝ共なく走共なく四角八方へぞ逃散ける。其後よりは弥近付人無りければ、天にや上りけん、又海中へや入けん、潮は如元満て、大皷は不見成にけり。又八月(注:六月の誤り)二十四日の大地震に、雨荒く降り風烈く吹て、虚空暫掻くれて見へけるが、難波浦の澳より、大龍二浮出て、天王寺の金堂の中へ入ると見けるが、雲の中に鏑矢鳴響て、戈の光四方にひらめきて、大龍と四天と戦ふ体にぞ見へたりける。二の竜去る時、又大地震く動て、金堂微塵に砕にけり。され共四天は少しも損ぜさせ給はず。是は何様聖徳太子御安置の仏舎利、此堂に御坐ば、竜王是を取奉らんとするを、仏法護持の四天王、惜ませ給けるかと覚へたり。洛中辺土には、傾ぬ塔の九輪もなく、熊野参詣の道には、地の裂ぬ所も無りけり。旧記の載る所、開闢以来斯る不思議なければ、此上に又何様なる世の乱や出来らんずらんと、懼恐れぬ人は更になし。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

672年(弘文天皇元)出家・隠棲していた大海人皇子が吉野を出発し、壬申の乱が始まる(新暦7月24日)詳細
781年(天応元)公卿・文人石上宅嗣の命日(新暦7月19日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄渡辺崋山高野長英らが逮捕された新暦換算日(旧暦では5月14日)詳細
1940年(昭和15)近衛文麿による新体制運動が開始される詳細
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