ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:南北朝争乱

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 今日は、南北朝時代の明徳2/元中8年に、武将・守護大名(丹波・和泉・山城・但馬)の山名氏清が明徳の乱の内野の合戦に敗れて、戦死した日ですが、新暦では1392年1月24日となります。
 山名氏清(やまな うじきよ)は、1344年(康永3/興国5)に、守護大名山名時氏の四男として生まれました。1371年(建徳2/応安4)に、父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承します。
 1376年(天授2/永和2)に、長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承し、不満を持ちますが、翌年には侍所頭人に任じられました。1378年(天授4/永和4)に、次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ、和泉守護にも任命されます。1382年(永徳2/弘和2)に、南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させ、1385年(至徳2/元中2)には、新たに設置された山城守護職に就任しました。
 1388年(元中5/嘉慶2)に、紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利(平尾合戦)します。1389年(元中6/康応元)に、弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継いだものの、1390年(元中7/康応2)に、叔父満幸と共に、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討って但馬を分国に加えられ、丹波・和泉・山城・但馬の4ヶ国守護職となり、家督にも就きました。
 1391年(元中8/明徳2)に、次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、室町幕府側と対峙し、明徳の乱が始まります。しかし、1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日)に、京都の内野の合戦で大内義弘らの幕府軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死しました。
 これによって、山名氏の勢力は一挙に衰退することとなります。

〇山名氏清関係略年表(日付は旧暦です)

・1344年(康永3年/興国5年) 守護大名山名時氏の四男として生まれる
・1370年(建徳元年/応安3年) 父・山名時氏は長兄・師義に家督を譲る
・1371年(建徳2年/応安4年) 父・山名時氏が没し、長兄・師義が惣領となりましたが、分国のうち丹波を継承する
・1376年(天授2年/永和2年) 長兄・師義が死去したのち、家督は弟・時義が継承する
・1377年(天授3年/永和3年) 侍所頭人に任じられる
・1378年(天授4年/永和4年) 次兄・義理と共に紀伊国の橋本正督討伐を成し遂げ和泉守護にも任命される
・1382年(永徳2年/弘和2年閏1月) 南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1385年(至徳2年/元中2年12月) 新たに設置された山城守護職に就任する
・1388年(元中5年/嘉慶2年8月17日) 紀州遊覧から帰京中の足利義満への奇襲を試みた南朝の楠木正勝を、河内国平尾(現在の大阪府堺市美原区平尾)で迎え撃って勝利する(平尾合戦)
・1389年(元中6年/康応元年) 弟・時義が死去しその後を時義の子・時熙が継ぐ
・1390年(元中7年/康応2年3月) 氏清・満幸の叔父甥に命じて、同族の時義の子時煕・氏幸兄弟を討たせ、氏清は但馬を分国に加えられて家督となる
・1391年(元中8年/明徳2年) 次兄・義理、甥の氏家(兄・氏冬の子)らと共に挙兵し、明徳の乱が始まる
・1392年1月24日(明徳2/元中8年12月30日) 明徳の乱における京都の内野の合戦で大内義弘らの幕軍と戦って敗れ、数え年48歳で戦死する

☆明徳の乱(めいとくのらん)とは?

 南北朝時代の1392年1月13日(元中8/明徳2年12月19日)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱です。
 山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放しました。しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになります。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。
 これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立します。 

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2年/永徳2年閏1月) 山名氏清が南朝方楠木正儀と河内平尾で交戦し敗走させる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の元中8年/明徳2年に、守護大名一族・山名氏清・満幸が室町幕府に叛乱(明徳の乱)を起こした日ですが、新暦では1392年1月13日となります。
 明徳の乱(めいとくのらん)は、南北朝時代の1391年(元中8/明徳2)に山名氏(山名氏清、山名満幸等)が室町幕府に対して起こした反乱でした。山名氏は、この頃一族で11か国の守護職をして勢力を振るい、六分一殿と呼ばれていて、室町幕府3代将軍足利義満はその勢力を抑えるため、山名氏の内紛に乗じて、山名満幸を丹波に追放します。
 しかし、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵することになりました。それに対し、室町幕府側は大内・細川・畠山らの兵を集めて戦い、山名氏清を敗死させ、満幸を敗走させます。これによって、山名氏の勢力は衰退することになり、翌年10月27日の足利義満による南北朝の合一(明徳の和約)の実現へと向かい、室町幕府の将軍の権威が確立しました。
 以下に、明徳の乱のことを記した『明徳記』の一部を抜粋して、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『明徳記』より

山名満幸[1]、和泉へ馳越て[2]奥州[3]に申されけるは、『抑[4]近日京都の式法[5]何とか思召され候、只事[6]に触て此一門を亡ぼさるべき御結構[7]なり。其故は、去年は貴殿[8]・我等に仰付られて予州[9]の一跡[10]を失はる。当年は又彼等を御免[11]の上は、定て我等が讒訴[12]の所存[13]を此時彼等申開べし。さるに於ては又我等を御退治[14]の沙汰[15]に及ぶべし。所詮[16]、事体を案ずるに、当家世を取とも人驚にも侍らず、一族悉く同心[18]して分国[19]の勢を併せ方々より京都に責上[20]ば、今程誰か在京の大名の中に、味方と対揚[21]の合戦をも仕るべき。先ず京をだにも一度打随へなば、他家一族も大略[22]同心[18]こそ仕候はんずらめ。其外土岐[23]・富樫[24]を始として、近日世にせばめられ面目[25]を失者あまた侍れば、是等は最前に同意仕べし。(中略)時の儀に随ひて御旗を揚らるるの事、何の子細[27]か侍るべき』と終宵[28]かき口説[29]申されたり。

【注釈】

[1]山名満幸:やまなみつゆき=南北朝~室町時代の武将。山名師義の4男。丹後、出雲の守護。
[2]馳越て:はせこえて=馬で駈け越えてきて。
[3]奥州:おうしゅう=陸奥守山名氏清のこと。南北朝時代の武将で、山名時氏の4男。丹波、和泉、山城、但馬の守護。
[4]抑:そも=一体。さて。
[5]式法:しきほう=儀式・作法。また、定まった形式。特定のきまり。
[6]只事:ただごと=ふつうのこと。世のつねのこと。あたりまえのこと。
[7]結構:けっこう=心の中で、ある考えを作りかまえること。計画。意図。企て。
[8]貴殿:きでん=男性が目上または同等の男性に対して用いる。あなた。貴兄。貴堂。
[9]予州:よしゅう=伊予守山名時義のこと。美作国・伯耆国・但馬国・備後国守護で、第3代将軍足利義満から命じられた山名氏清・満幸らの追討を受けた。
[10]一跡:いっせき=後継ぎに譲る物のすべて。遺産。転じて全財産、身代。
[11]御免:ごめん=容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。
[12]讒訴:ざんそ=他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。
[13]所存:しょぞん=心に思う所。考え。おもわく。
[14]退治:たいじ=こらしめたり殺したりして、害を与える者がいなくなるようにする。退治する。うちほろぼす。うちたいらげる。
[15]沙汰:さた=決定したことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。
[16]所詮:しょせん=詮ずるところ。つまるところ。要するに。結局。また、こうなったからには。
[18]同心:どうしん=ともに事にあたること。仕事を手伝うこと。また、戦闘で味方すること。
[19]分国:ぶんこく=守護や大名の領国。
[20]責上:せめあげ=徹底的に責める。
[21]対揚:たいよう=ある事柄や相手に応じること。あい対すること。
[22]大略:たいりゃく=おおよそ。大体。あらまし。
[23]土岐:とき=土岐康行のことで、美濃の乱で鎮圧された。
[24]富樫:とがし=富樫詮親のことで、明徳の乱に乗じて幕府に反抗して滅ぼされた。
[25]面目:めんもく=世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
[26]最前:さいぜん=いちばん先。真っ先。
[27]子細:しさい=特別の理由。こみいったわけ。
[28]終宵:しゅうしょう=一晩中。夜通し。終夜。
[29]口説:くどく=くどくどと繰り返していう。嘆きのことばを繰り返す。しつこくいう。

<現代語訳>

山名満幸は、和泉国へ馬で駈け越えてきて、山名氏清に言われたことは、『さて近頃の京都(室町幕府)のなされ方をどのように思われていますか、あたりまえの事にかこつけて、この一門を亡ぼそうとしている企てではないか。その理由は、去年はあなたと私たちにご命令されて山名時義の身代を失わせた。今年はまた彼等を赦免されたことに対しては、明らかに我等を陥れようとする考えであることをこの時彼等に申し開きするべきだ。その内に、また私たちをうち亡ぼすというご命令に及ぶことであろう。要するに、事体を思案するに、当家は代々人の驚にかしこまって控えるものではない、一族すべて力を合わせて領国の勢力を併せて、各方面より京都(室町幕府)を徹底的に責めたならば、今時、誰か在京の大名の中に、味方と相対する合戦をすることができようか。まず京都(室町幕府)だけでも一度打ち負かしてしまったならば、他家の一族も大方は味方してくれるのではないか。その他、土岐康行・富樫詮親をはじめとして、近頃に世間に肩身のせまい思いをさせられ面目をつぶされた者が多くあるので、これらは真っ先に同意してくれるであろう。(中略)時節に従って、錦の御旗を立てて戦を起こしとのことだが、どのような特別の理由かあったのか』と一晩中しつこく言われたことであった。

☆南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元年1月) 建武の新政が行われる
・1335年(建武2年7月) 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2年10月) 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武2年12月11日) 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都が占領される
・1336年(延元元/建武3年8月) 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1336年(延元元/建武3年11月) 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1337年(延元元/建武3年12月) 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4年3月) 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ヶ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年5月) 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・1338年(延元3/暦応元年8月) 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2年8月16日) 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2年) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4年1月) 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5年9月) 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元年10月) 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1351年(正平6/観応2年8月) 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7/観応3年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1352年(正平7/観応3年2月26日) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3年7月) 観応半済令が出される
・1353年(正平8/観応4年6月) 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10/観応6年1月) 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 足利義詮が従三位に昇叙する
・1358年(正平13/延文3年4月) 足利尊氏が亡くなる
・1359年(正平13/延文3年12月18日) 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1361年(正平16/康安元年) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2年) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 足利義詮が権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平21/貞治5年8月) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 足利義詮が正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる
・1368年(正平23/応安元年3月11日) 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・1368年(正平23/応安元年6月17日) 「応安半済令」が出される
・1369年(正平23/応安元年12月30日) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4年)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1372年(応安5/建徳3年) 足利義満が判始の式を行なう
・1378年(天授4/永和4年) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元年閏4月14日) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2年1月26日) 足利義満が左大臣となる
・1382年(弘和2/永徳2年) 足利義満が開基として相国寺の建立を開始する
・1383年(弘和3/永徳3年1月14日) 足利義満が准三后宣下を受ける
・1386年(元中3/至徳3年) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1388年(元中5/嘉慶2年) 足利義満が東国の景勝遊覧に出かける
・1390年(元中7/明徳元年閏3月) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2年12月) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3年10月27日) 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の1367年(正平22/貞治6)に、室町幕府第2代将軍足利義詮の亡くなった日ですが、新暦では12月28日となります。
 足利義詮(あしかが よしあきら)は、1330年(元徳2年6月18日)に、室松幕府初代将軍足利尊氏の三男(母は北条久時の娘赤橋登子)として生まれましたが、幼名は千寿王と言いました。1333年(正慶2/元弘3)の元弘の乱で父・尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留されましが、鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加します。
 1335年(建武2)に従五位下に叙され、1335年(建武2)に父・尊氏が建武政府にそむき、南北朝の動乱が始ると足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守りました。1344年(興国5/康永3)に正五位下に昇叙、左馬頭に任官、1347年(正平2/貞和3)に従四位下に昇叙します。
 1349年(正平4/貞和5)に父・尊氏、高師直と叔父足利直義との間に不和が生じて観応の擾乱が始まり、直義が失脚すると講和条件に従って入京し政務を執り、参議に補任され、左近衛中将を兼任しました。1351年(正平6/観応2)に父・尊氏が直義派に対抗するために父と共に南朝に降伏(正平一統)、翌年に南朝軍は約束を破って京都に侵入、1353年(正平8)には、異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われ、神器と3上皇を伴って賀名生に逃げます。
 畿内各地を転戦し、直義方、南朝軍と京都争奪戦を展開、1356年(正平11/延文元)に従三位に昇叙、1358年(正平13/延文3)に父・尊氏が亡くなると征夷大将軍に宣下され、第2第将軍となりました。1361年(正平16/延文6)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降りましたが、1362年(正平17/貞治元)の清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命、翌年には、大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめます。
 1363年(正平18/貞治2)に権大納言に転任、大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、従二位に昇叙しました。1365年(正平20/貞治4)に三条坊門万里小路の新邸に移り、翌年に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命(貞治の変)、1367年(正平22/貞治6)には、正二位に昇叙します。
 しかし、1367年(正平22/貞治6)に幼少の嫡男・義満を細川頼之に託して、同年12月7日に、京都において、病によって数え年38歳で亡くなりました。

〇足利義詮関係略年表(日付は旧暦です)

・1330年(元徳2年6月18日) 室松幕府初代将軍足利尊氏の三男(母は北条久時の娘赤橋登子)として生まれる
・1333年(正慶2/元弘3年) 元弘の乱で父・尊氏が西上すると人質として母と共に鎌倉に抑留されるが、鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加する
・1335年(建武2年 4月7日) 従五位下に叙される
・1335年(建武2年) 父・尊氏が建武政府にそむき、南北朝の動乱が始ると足利軍の関東における軍事統率者として鎌倉を守る
・1344年(興国5/康永3年3月16日) 正五位下に昇叙する
・1344年(興国5/康永3年3月18日) 左馬頭に任官する
・1347年(正平2/貞和3年12月3日) 従四位下に昇叙する
・1349年(正平4/貞和5年) 父・尊氏、高師直と叔父足利直義との間に不和が生じる
・1350年(正平5/観応元年) 観応の擾乱が始まり、執政の叔父足利直義が失脚すると講和条件に従って入京し政務を執る 
・1350年(正平5/観応元年8月22日) 参議に補任され、左近衛中将を兼任する
・1351年(正平6/観応2年8月) 父・尊氏が直義派に対抗するために父と共に南朝に降伏する(正平一統)
・1352年(正平7年2月) 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・1353年(正平8年6月) 異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われる
・1355年(正平10年1月) 再び、一時的に京都を奪われる
・1356年(正平11/延文元年8月23日) 従三位に昇叙。参議左近衛中将如元
・1358年(正平13/延文3年4月) 父・尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3年12月18日) 征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2第将軍となる 
・1359年(正平14/延文4年2月4日) 武蔵守を兼任する
・1361年(正平16/延文6年) 細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・1362年(正平17/貞治元年7月) 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめる
・1363年(正平18/貞治2年1月28日) 権大納言に転任する
・1363年(正平18/貞治2年) 大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一する
・1363年(正平18/貞治2年7月29日) 従二位に昇叙、権大納言如元
・1365年(正平20/貞治4年2月) 三条坊門万里小路の新邸に移る
・1366年(正平22/貞治6年) 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)
・1367年(正平22/貞治6年1月5日) 正二位に昇叙する
・1367年(正平22/貞治6年11月) 側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託する
・1367年(正平22/貞治6年12月7日) 京都において、数え年38歳で亡くなる 
・1367年(正平22/貞治6年12月20日) 従一位左大臣が追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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