ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:南北朝

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 今日は、南北朝時代の1333年(正慶2/元弘3)に、北朝の光厳天皇が南朝の後醍醐天皇に譲位し一旦南北朝が合一し、建武の新政に向かうことになった日ですが、新暦では7月7日となります。
 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、建武の新政を行なった第96代とされる天皇です。鎌倉時代の1288年(正応元年11月2日)に、後宇多天皇(第91代天皇)の第2皇子(母は談天門院忠子)として生まれましたが、名は尊治(たかはる)と言いました。
 1302年(乾元元)に、親王宣下を受け、1303年(嘉元元)に三品に叙品、1304年(嘉元2)大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれます。1308年(延慶元)には、持明院統(当時皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していた)の花園天皇(第95代天皇)の即位に伴って皇太子に立てられ、1318年(文保2)に花園天皇の譲位を受けて第96代天皇に即位しました。
 1321年(元亨元)から院政を廃して天皇親政を復活し、吉田定房、北畠親房らの人材を登用、記録所を再興するなど、政治改革に努力します。その中で、鎌倉幕府打倒を企て、1324年(正中元)には、六波羅探題に漏れて、多数の側近が逮捕(正中の変)されました。
 さらに、1331年(元弘元)に、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけたものの、幕府軍に包囲され捕らえられて、翌年隠岐島に配流(元弘の変)されます。1333年(元弘3/正慶2)に、名和長年らを頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵、追討のため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に寝返って、六波羅探題を攻略しました。
 一方、東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させます。京都に戻って、幕府の擁立した持明院統の光厳天皇を廃し、いわゆる「建武の新政」を行いますが、論功行賞が公家優先で、従来の所領の領有権に介入したり、皇居造営の臨時賦課を強行するなどして、地方武士の不満が急速に高まりました。
 これは、足利尊氏らの離反を招き、2年余で新政は瓦解し、1336年(建武3/延元元)に吉野に移り南朝を立て、以後南北朝併立時代(南北朝動乱)に入ります。諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたものの、これもなかなかうまくいかず、吉野に従う公家も少数派となり、孤立が深まるなかで、1339年(延元4/暦応2)に後村上天皇に譲位しました。
 京都回復の夢を果たせぬまま、同年(延元4年8月16日)に、吉野において、数え年52歳で亡くなりました。

〇南北朝動乱(なくぼくちょうどうらん)とは?
 一般には、南北朝時代とも呼ばれています。1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、南北朝動乱が始まりました。
 この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在し、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きます。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)に室町幕府第3代将軍足利義満によって、南北朝合一(明徳の和約)に至り、動乱は収まりました。
 この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどります。また、農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきました。
 尚、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われてきています。

☆南北朝動乱関係年表(日付は旧暦です)

<正慶2/元弘3年(1333年)>
・5月22日 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する
・5月25日 北朝の光厳天皇が南朝の後醍醐天皇に譲位する

<正慶2/元弘3年(1334年)>
・1月 後醍醐天皇により建武の新政が行われる

<建武2年(1335年)>
・7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
・12月11日 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる

<延元元/建武3年(1336年)>
・5月25日 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する
・5月29日 尊氏方に京都が占領される
・8月15日 光明天皇が擁立される
・10月13日 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・11月7日 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる

<延元2/建武4年(1337年)>
・3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる

<延元3/暦応元年(1338年)>
・3月6日 越前金ヶ崎城が陥落する
・5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・閏7月2日 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる
・8月11日 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く

<延元4/暦応2年(1339年)>
・8月16日 後醍醐天皇が吉野で亡くなり、後村上天皇が即位する

<延元6/興国2年(1341年)>
・12月 足利尊氏が天竜寺船を元に送ることを免許する

<正平2/貞和3年(1347年)>
・11月 楠木正成の子正行、後村山天皇方の武将として、尊氏方をせめる

<正平3/貞和4年(1348年)>
・1月5日 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・6月 直義、尊氏の執事高師直と不和になる

<正平4/貞和5年(1349年)>
・9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる

<正平5/観応元年(1350年)>
・10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~1352年))

<正平6/観応2年(1351年)>
・8月 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統)

<正平7/観応3年(1352年)>
・2月 南朝軍は約束を破って京都に侵入する
・2月26日 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・7月 「観応半済令」が出される

<正平8/観応4年(1353年)>
・6月 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる

<正平10/観応6年(1355年)>
・1月 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる

<正平11/延文元年(1356年)>
・8月23日 足利義詮が従三位に昇叙する

<正平13/延文3年(1358年)>
・4月30日 足利尊氏が亡くなる
・12月18日 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる

<正平16/延文6年(1361年)>
・細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る
・南朝軍が入京する

<正平17/康安2年(1362年)>
・幕府・北朝側が京都を奪還する
・7月 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される

<正平18/貞治2年(1363年)>
・1月28日 足利義詮が権大納言に転任する
・大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、政権が安定化しはじめる
・7月29日 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元

<正平20/貞治4年(1365年)>
・2月 足利義詮が三条坊門万里小路の新邸に移る

<正平21/貞治5年(1366年)>
・8月 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変)

<正平22/貞治6年(1367年)>
・1月5日 足利義詮が正二位に昇叙する
・11月 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・12月7日 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる

<正平23/応安元年(1368年)>
・3月11日 南朝の後村上天皇が亡くなる
・6月17日 「応安半済令」が出される
・12月30日 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する

<建徳2/応安4年(1371年)>
・足利義満が今川了俊に九州統一を命じる

<建徳3/応安5年(1372年)>
・11月22日 足利義満が判始の式を行なう

<天授4/永和4年(1378年)>
・3月 足利義満が室町に新邸(花の御所)を造営して移住する

<天授5/康暦元年(1379年)>
・閏4月14日 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる

<弘和2/永徳2年(1382年)>
・1月26日 足利義満が左大臣となる
・足利義満が開基として相国寺の建立を開始する

<弘和3/永徳3年(1383年)>
・1月14日 足利義満が准三后宣下を受ける

<元中3/至徳3年(1386年)>
・7月10日 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする

<元中5/嘉慶2年(1388年)>
・足利義満が東国の景勝遊覧に出かける

<元中7/明徳元年(1390年)>
・閏3月 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される

<元中8/明徳2年(1391年)>
・12月 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される

<元中9/明徳3年(1392年)>
・10月27日 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する
・閏10月5日 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、北朝の元号「明徳」に統一される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1654年(承応3)第112代の天皇とされる霊元天皇の誕生日(新暦7月9日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
1910年(明治43)長野県の機械工宮下太吉が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、大逆事件の検挙が始まる詳細
1951年(昭和26)内閣が「人名用漢字別表」を告示し、人名用漢字92字を定める詳細
1955年(昭和30)岩波書店より新村出編『広辞苑』初版が刊行される詳細
1960年(昭和35)大修館書店が諸橋轍次著の『大漢和辞典』の最終巻を刊行する詳細
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 今日は、南北朝時代の1392年(元中9/明徳3)に、武将・守護大名・室町幕府管領細川頼之の亡くなった日ですが、新暦では3月25日となります。
 細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、鎌倉時代末期の1329年(元徳元)に、三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、阿波守護・侍所頭人だった父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれましたが、幼名は弥九郎と言いました。父・頼春は、元弘の変より足利尊氏に従い、鎌倉幕府を倒すのに貢献し、建武政権では蔵人となります。
 1350年(正平5/観応元)から翌年にかけて、父の名代として阿波に派遣され、南朝方と戦いました。1352年(正平7/文和元)に、父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継承し、1354年(正平9/文和3)には、伊予守護も兼ねます。
 1356年(正平11/延文元)に中国管領となって足利直冬党を追討、1358年(正平13/延文3)に足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任しました。しかし、1362年(正平17/貞治元)に、幕命により従兄の前幕府執事細川清氏を讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねます。
 1367年(正平22/貞治6)に第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の第3代将軍義満を助けることとなり、翌年には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行しました。1369年(正平24/応安2)に、楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功、翌年には、今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐し、南朝勢力に大打撃を与えます。
 ところが、斯波義将らの諸大名の反発を招き、1379年(天授5/康暦元)に失脚し、剃髪して四国に下り(康暦の政変)、1381年(弘和元/永徳元)には、通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進めました。1389年(元中6/康応元)に第3代将軍義満の厳島神社参詣の折には、船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免され、翌年には、備後守護となって山名時煕の反乱を討ちます。
 1391年(元中8/明徳2)に斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画、明徳の乱の鎮定に殊功を収めたものの、1392年(元中9/明徳3年3月2日)には、病気によって数え年64歳で亡くなりました。尚、歌や連歌の素養もあり、『新千載和歌集』他に13首が掲載されていますし、失脚して四国に落ちていく際に詠んだ漢詩「海南行」も有名です。

〇「海南行」(かいなんこう)

<原文>
 人生五十愧無功
 花木春過夏已中
 満室蒼蝿掃難尽
 去尋禅榻臥清風

<書き下し文>
 人生五十功無きを愧(は)ず
 花木(かぼく)春過ぎて夏已(すで)に中ばなり
 満室の蒼蝿(そうよう)掃(はら)えども去り難し
 起って禅榻(ぜんとう)を尋ねて清風に臥(が)せん

<現代語訳>
 人生50にもなって、何の功績もないのが恥ずかしい。
 花や木は、春が過ぎ去り、夏は既に半ばになっている。
 部屋中に青蠅が飛び交っており、いくら追い払っても逃げ去らない。
 座禅に使う腰掛をもってきて、清らかな風の吹くところで寝転がろうか。

〇『太平記』巻第四十 

細河右馬頭自西国上洛事

爰に細河右馬頭頼之、其比西国の成敗を司て、敵を亡し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍、少し先代貞永・貞応の旧規に相似たりと聞へける間、則天下の管領職に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴に定りしかば、右馬頭頼之を武蔵守に補任して、執事職を司る。外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也。

☆細川頼之関係略年表(日付は旧暦です)

・1329年(元徳元年) 三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町)で、父・細川頼春と母・黒沢禅尼の息子として生まれる
・1350年(正平5/観応元年) 父の名代として阿波にある南朝方と戦う
・1352年(正平7/文和元年) 父・頼春が京都で討ち死にすると阿波守護を継ぐ
・1354年(正平9/文和3年) 伊予守護を兼ねる
・1356年(正平11/延文元年) 中国管領となって足利直冬党を追討する
・1358年(正平13/延文3年) 足利尊氏がなくなって、義詮が第2代将軍となり、従兄細川清氏が執事に就任する
・1362年(正平17/貞治元年) 従兄の前幕府執事細川清氏を幕命により讃岐に討ち取り、一族の分立を淘汰して讃岐・土佐守護を兼ねる
・1367年(正平22/貞治6年) 室町幕府第2代将軍義詮の遺命により、幕府の管領となって幼少の将軍義満を助ける
・1368年(正平23/応安元年) 公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行、武蔵守となる
・1369年(正平24/応安2年) 楠木正儀を足利方に寝返らせる工作に成功する
・1370年(建徳元/応安3年) 今川貞世が九州探題に任じて懐良親王(後醍醐天皇の皇子)の軍勢を駆逐する
・1371年(建徳2/応安4年) 相模守となる
・1379年(天授5/康暦元年) 失脚し、剃髪して四国に下る(康暦の政変)
・1381年(弘和元/永徳元年) 通堯の遺児通義と和睦し、分国統治を進める
・1389年(元中6/康応元年) 義満の厳島神社参詣の折には船舶の提供を手配し、讃岐の宇多津で赦免される
・1390年(元中7/明徳元年) 備後守護となって山名時煕の反乱を討つ
・1391年(元中8/明徳2年) 斯波義将が義満と対立して管領を辞任したことを機に、管領に就任した細川頼元を後見してふたたび幕政に参画し、明徳の乱の鎮定に殊功を収める
・1392年(元中9/明徳3年3月2日) 病気によって数え年64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

959年(天徳3)第64代の天皇とされる円融天皇の誕生日(新暦4月12日)詳細
1886年(明治19)「帝国大学令」が公布される詳細
1899年(明治32)北海道アイヌの「保護」を名目として、「北海道旧土人保護法」が公布(同年4月1日施行)される詳細
1943年(昭和18)敵性語をやめ、野球用語も全面日本語化することを職業野球の理事会で決定する詳細
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