ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:千載和歌集

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 今日は、鎌倉時代の1187年(文治3)に、藤原俊成が『千載和歌集』(第七番目の勅撰和歌集)を後白河法皇に撰進した日ですが、新暦では10月23日となります。
 『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、1183年(寿永2)の後白河法皇の院宣で藤原俊成が命を受けて編纂、1187年(文治3年9月20日)に撰進し、翌年4月22日に奏覧した、第七番目の勅撰和歌集で、八代集の一つです。全二十巻で、仮名序があり、四季、離別、羇旅、哀傷、賀、恋、雑、釈教、神祇の部立に分かれ、平安時代中期から当代までの作、約1,290首を収めました。
 俊成編の私撰集『三五代集』(現存しない)を母胎として編纂されたとされ、『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』の歌人の歌は含まれていません。最多入集歌人は源俊頼(52首)で、藤原俊成(36首)がそれに次ぎ、藤原基俊(26首)、崇徳院(23首)らが上位を占めています。
 『金葉和歌集』、『詞花和歌集』の行過ぎを是正したとされ、古今的伝統への復帰を志し、平明温雅ですが、清新な感覚に支えられた感傷的情緒性が目立つものの、宗教的傾向もありました。

<収載されている代表的な歌>

・「夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり 深草の里」(藤原俊成)
・「なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる 我が涙かな」(西行法師)
・「夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり」(俊恵法師)
・「さくら花 うき身にかふる ためしあらば 生きて散るをば 惜しまざらまし」(源通親)
・「五月雨に 花橘の かをる夜は 月すむ秋も さもあらばあれ」(崇徳院)
・「おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも」(紫式部)
・「月のすむ 空には雲も なかりけり うつりし水は 氷へだてて」(道因法師)

〇勅撰和歌集とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

〇「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
1943年(昭和18)農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の命日詳細
1945年(昭和20)「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(勅令第542号)が公布・施行される(ポツダム命令)詳細
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 今日は、鎌倉時代の1204年(元久元)に、公家・歌人藤原俊成の亡くなった日ですが、新暦では12月22日となります。
 平安時代後期の1114年(永久2)に、父権中納言・藤原俊忠、母伊予守藤原敦家の娘の子として、京都で生まれました。
 10歳で父と死別し、葉室顕頼の養子となり、初め顕広(あきひろ)と名乗ります。1127年(大治2)に、従五位下に叙せられ、美作守に任官後は、加賀守、遠江守、三河守、丹後守などの国司を歴任し、その間、『為忠家百首』など藤原為忠の催しに参加、1138年(保延4)には藤原基俊の門弟になるなどして、歌人としての基礎を形成しました。
 『為忠家両度百首』、『述懐百首』などで認められ、1150年(久安6)に崇徳上皇主催の『久安百首』の作者の一人となり、かつその部類を任されて頭角を現します。
 1167年(仁安元)には、正三位に昇叙して公卿(非参議)となり、そして御子左流に復し、俊成(としなり・しゅんぜい)と改名しました。
 1183年(寿永2)後白河院の院宣を受け、1188年(文治4)に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進し、名実ともに歌壇の第一人者となります。
 幽玄体の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをし、歌論『古来風体抄』、家集『長秋詠藻』『俊成家集』などのほか、書の名筆を多く遺しましたが、1204年(元久元年11月30日)に、91歳で亡くなりました。
 尚、子供は藤原定家で、以来歌道に重きをなす家柄を築きます。
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 今日は、鎌倉時代の1241年(仁治2)に、公家・歌人藤原定家の亡くなった日ですが、新暦では9月26日となります。
 藤原定家は、鎌倉時代前期の公家・歌人で、名は「さだいえ」とも呼ばれます。1162年(応保2)に、父は藤原俊成、母は美福門院加賀の子として生まれました。
 14歳のときに赤斑瘡、16歳には痘という重病にかかり、生死の境をさまよいますが回復し、早くから歌才を発揮していたものの、1178年(治承2)3月の賀茂別雷社の歌合に出詠して、歌人として出発します。
 1180年(治承4)従五位上への昇叙により、内の昇殿が認められ、この頃から和歌に専念し始め、『初学百首』を詠みました。そして、1183年(寿永2)に父藤原俊成が後白河上皇の命により『千載和歌集』の編纂を行うことになって、それを手伝います。
 しかし、1186年(文治2)和歌革命を行い(「二見浦百首」)、六条家など旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」との誹謗を受け、長く苦境にあえぎました。
 その後、1200年(正治2)に百首歌を企画してからは後鳥羽上皇に見出され、翌年に和歌所が置かれると、寄人に選ばれたのです。さらに、『新古今和歌集』の編纂を藤原有家、源通具、藤原家隆・雅経、寂蓮らと共に命じられて、歌人としての地位を確立しました。
 1211年(建暦元)に公卿、1232年(貞永元)に権中納言になり、『新勅撰和歌集』を単独で撰進するまでになったのです。
 1235年(文暦2)頃には、「小倉百人一首」を撰したとされていますが、1241年(仁治2年8月20日)に80歳で亡くなりました。
 主な著書に、家集「拾遺愚草」、歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」、日記「明月記」などがあり、歌学歌論や古典研究の面にも大きな足跡を残したのです。

〇藤原定家が関わった代表的な著作等

<勅撰和歌集>
・「新古今和歌集」第8番目の勅撰和歌集で後鳥羽院親撰
・「新勅撰和歌集」第9番目の勅撰和歌集で、藤原定家の単独撰

<家集等>
・「拾遺愚草」
・「拾遺愚草員外」
・「定家卿百番自歌合」
・「定家卿独吟詩歌」

<秀歌集>]
・「秀歌大体」
・「定家八代抄」
・「八代集秀逸」
・「百人秀歌」
・「物語二百番歌合」
・「小倉百人一首」

<歌学書・注釈書>
・「詠歌大概」
・「衣笠内府歌難詞」
・「近代秀歌」源実朝に送ったとされる
・「下官集」
・「顕註密勘」
・「五代簡要」
・「三代集之間事」
・「先達物語」
・「定家十体」
・「定家物語」
・「僻案抄」
・「毎月抄」
・「万葉集長歌短歌説」
・「和歌会次第」

<日記・物語等>
・「明月記」藤原定家の日記
・「松浦宮物語」
・「定家小本」
・「奥入」
・「釈奠次第」
・「次将装束抄」
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