ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:医者

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 今日は、江戸時代中期の1742年(寛保2)に、医者・俳人井上士朗の生まれた日ですが、新暦では4月14日となります。
 井上士朗(いのうえしろう)は、尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれましたが、本名は正春と言いました。叔父の町医師・井上安清(名古屋新町在住)の養子となり、専庵と号し、1757年(宝暦7年2月)には、医師として独立し、後に京都に上り、吉増周輔に師事、産科医として著名となります。
 1765年~66年(明和2~3年)頃に、水野万岱の勧めで加藤暁台に入門して、俳句を習い、それ以外にも国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を荻野検校に学び、漢学にも詳しく、幅の広い知識人となりました。師の暁台が隠居して京都に移るとその留守を預かり、1792年(寛政4)に、暁台が亡くなると、一門を同門俳友の臥央に譲り独立します。
 尾張俳壇の指導者的立場を強めていき、衰退ぎみだった俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る評価を得るようになりました。門人は、東は奥州から西は九州と全国に及びその名声は高まり、「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に寛政三大家の一人とされるようになりましたが、1812年(文化9年5月16日)に、名古屋において、数え年71歳で亡くなっています。

<井上士朗の代表的な句>

・「足軽の かたまつて行く 寒さ哉」(竪並(たてのならび)集)
・「たうたうと 滝の落ちこむ 茂りかな」
・「小倉山 鹿の子やわたる 路の欠」
・「月の舟 池の向ふへ つきやりて」
・「万代や 山の上より けふの月」

〇井上士朗の主要な著作

・句集『枇杷園句集』(1804年)
・句集『枇杷園句集後集』(1808年)
・『枇杷園随筆』(1810年)
・『枇杷園七部集』1~5編(1825年)

☆井上士朗関係略年表(日付は旧暦です)

・1742年(寛保2年3月10日) 尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)において生まれる
・1757年(宝暦7年2月) 医師として独立する
・1763年(宝暦13年) 三河国矢作で橋守園連中の『蛙啼集』に初入選する
・1765年~66年(明和2~3年頃) 水野万岱の勧めで加藤暁台に入門する
・1768年(明和5年) 『姑射文庫』で初めて枇杷園の号を使用する
・1774年(安永3年) 伊藤都貢と共に京都に上り、与謝蕪村と交流、難波、伏見、大津を経て伊勢神宮を参拝して帰宅する
・1777年(安永6年12月) 尾張藩主御目見となる
・1783年(天明3年) 『風羅念仏』法会の巻(士朗序・はせを堂蘭更跋)
・1784年(天明4年4月) 尾張藩御用懸を務める
・1789年(寛政元年3月) 本居宣長が名古屋を訪れた際、門人録に署名する
・1790年(寛政2年) 士朗・羅城・臥央等7人は千代倉家を訪れて芭蕉の笈を見る、京都の二条家屋敷で加藤暁台を宗匠とする中興御俳諧之百韻が行われた際には、士朗は萌黄散服を着用する
・1792年(寛政4年閏2月) 多度山に参詣し、『楽書日記』を著す
・1793年(寛政5年) 加藤暁台の墓参に上京し、吉野を回って帰り、『桜日記』を刊行、芭蕉の百回忌記念集『麻刈集』(士朗編)を出す
・1794年(寛政6年) 妻・貞庵が亡くなる
・1795年(寛政7年) 藤森素檗は尾張に行脚して井上士朗及びその一門らと歌仙を巻く。『草まくら』。
・1796年(寛政8年5月) 『松の炭』(蕉雨編・士朗序)が刊行される
・1798年(寛政10年6月9日) 美濃路を経て木曽に入る
・1799年(寛政11年) 『幽蘭集』(暁台編・臥央校・士朗序)
・1801年(享和元年) 二之丸御次療治を務める、門人松兄・卓池を伴い江戸へ旅をする
・1802年(享和2年11月2日) 『むぐらのおく』(南江・士朗序)
・1803年(享和3年) 名古屋市南区笠寺町の笠覆寺に「暁台塚」を建立、中風のため藩医を引退する
・1804年(文化元年5月16日) 岳輅が名古屋市の妙安寺に士朗の句碑を建立する
・1804年(文化元年) 『枇杷園句集』(桂五序。岳輅跋)を刊行する
・1807年(文化4年) 発病するも快方に向かう、見舞いに贈られた句を『花筏』に記録、医業を息子に譲って隠居し、松翁と号する
・1808年(文化5年) 多賀庵玄蛙は枇杷園で俳諧を興行する
・1809年(文化6年) 『暁台句集』(臥央編・士朗序・自跋)を刊行、倉田葛三は九州行脚の途上、井上士朗を訪ねる
・1810年(文化7年9月) 『枇杷園随筆』(士朗編・秋舉・大蘇序)が刊行される
・1811年(文化8年) 古稀を迎え、各地の門弟により賀集が出版される
・1812年(文化9年) 『惟然坊句文集』(中島秋擧編・朱樹叟士朗序)が刊行、『萍窓集』(尾張朱樹叟士朗序)
・1812年(文化9年5月16日) 名古屋において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

710年(和銅3)元明天皇が藤原京から平城京に都を遷す(新暦4月13日)詳細
1771年(明和8)八重山地震(推定M7.4)による大津波(明和の大津波)で、先島諸島に大被害が出る(新暦4月24日)詳細
1900年(明治33)「治安警察法」が公布される詳細
1945年(昭和20)東京大空襲か行われ、死傷10万人以上、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る詳細
1975年(昭和50)山陽新幹線の岡山駅~博多駅間が延伸開業し、全線開業する詳細
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 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、蘭学者・医者伊東玄朴の亡くなった日ですが、新暦では2月20日となります。
 伊東玄朴(いとう げんぼく)は、江戸時代後期の1801年2月11日(寛政12年12月28日)に、肥前国神崎郡仁比山村(現在の佐賀県神埼市)において、仁比山神社に仕え、農業を営む父・執行重助の長男として生まれましたが、本名は伯寿と言いました。母方の血縁で佐賀藩士伊東祐章の養嗣子となり、1815年(文化12)に漢方医古川佐庵の門に入り、1818年(文政元)には、医を開業します。
 1822年(文政5)に蘭方医島本竜嘯に入門、翌年には、長崎の大通詞猪股伝次右衛門にオランダ語を学び、シーボルトにも師事して蘭医学を学びました。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府にシーボルトが随行する際、一緒に江戸に出て、1828年(文政11)には、本所番場町に医業を開くものの、シーボルト事件に連座し、一時入獄します。
 1829年(文政12)に玄朴と改名、医書翻訳や蘭書教授を行ない、1831年(天保2)に佐賀藩主鍋島家の一代士として召しかかえられ、1833年(天保4)には、江戸・御徒町に蘭学塾象先堂を開設しました。1835年(天保6)にビショップの著書を翻訳して『医療正始』24巻を刊行、1838年(天保9)には、モストの『牛痘種法篇』を訳出しています。
 1843年(天保14)に佐賀藩鍋島直正の侍医として7人扶持で召し抱えられ、佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言、江戸で貢姫君に牛痘苗を接種し成功しました。1858年(安政5)に大槻俊斎・戸塚静海らと図り江戸に種痘所(お玉が池種痘所)を開設、戸塚静海とともに奥医師に任命され、コレラ流行に際し、松本良甫・吉田収庵・伊東玄圭ら蘭方医の採用を申請します。
 1860年(万延元)にお玉ケ池種痘所が幕府直轄となり、1861年(文久元)に脱疽患者の肢切断治療で日本で初めてクロロホルム麻酔を使用、蘭方医として初めて、法印に叙せられ、長春院の号を賜わりました。1862年(文久2)に林洞海や竹内玄同と共に、西洋医学所の取締に就任しましたが、翌年に緒方洪庵が死去すると、後任の頭取に松本良順が就き、その弾劾により、奥医師を免ぜられて小普請入となります。
 1864年(元治元)に小普請医師より寄合医師に昇格したものの、1868年(明治元)には、隠居して家督を養子の方成(玄伯)に譲り、1871年(明治4年1月2日)に東京において、数え年72歳で亡くなりました。

〇伊東玄朴の主要な著作

・ビショップの翻訳『医療正始』24巻(1835年)
・モストの翻訳『牛痘種法篇』(1838年)
・オランダの製鉄・鋳造の本を訳した『西洋鉄鋼鋳造篇』

☆伊東玄朴関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1801年2月11日(寛政12年12月28日) 肥前国神崎郡仁比山村(現在の佐賀県神埼市)において、仁比山神社に仕え、農業を営む父・執行重助の長男として生まれる
・1815年(文化12年) 漢方医古川佐庵の門に入る
・1818年(文政元年) 医を開業する
・1822年(文政5年) 蘭方医島本竜嘯に入門する
・1823年(文政6年) 長崎の大通詞猪股伝次右衛門にオランダ語を学び、シーボルトにも師事して蘭医学を学ぶ
・1826年(文政9年) オランダ商館長(カピタン)の江戸参府にシーボルトが随行する際、一緒に江戸に出る
・1828年(文政11年) 本所番場町に医業を開く、シーボルト事件に連座し、一時入獄する
・1829年(文政12年) 玄朴と改名、医書翻訳や蘭書教授を行なう
・1831年(天保2年) 佐賀藩主鍋島家の一代士として召しかかえられる
・1833年(天保4年) 江戸・御徒町に蘭学塾象先堂を開設する
・1835年(天保6年) ビショップの著書を翻訳して『医療正始』を刊行する
・1838年(天保9年) モストG. F. Most(1794―1832)の『牛痘種法篇』を訳出する
・1843年(天保14年12月) 佐賀藩鍋島直正の侍医として7人扶持で召し抱えられる
・1849年(嘉永2年7月20日) 佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言する
・1849年(嘉永2年11月) 江戸で貢姫君に牛痘苗を接種し成功する
・1858年(安政5年5月7日) 大槻俊斎・戸塚静海らと図り江戸に種痘所(お玉が池種痘所)を開設する
・1858年(安政5年7月3日) 戸塚静海とともに奥医師に任命される
・1858年(安政5年10月16日) コレラ流行に際し、松本良甫・吉田収庵・伊東玄圭ら蘭方医の採用を申請する
・1858年(安政5年11月) 神田相生町からの出火で「お玉ヶ池種痘所」を消失、大槻俊斎と共に自宅を臨時の種痘所に、種痘業務を続ける
・1860年(万延元年) お玉ケ池種痘所が幕府直轄となり、大槻俊斎を責任者とする
・1861年(文久元年) 脱疽患者の肢切断治療で日本で初めてクロロホルム麻酔を使用する
・1861年(文久元年12月16日) 蘭方医として初めて、法印に叙せられ、長春院の号を賜わる
・1862年(文久2年) 林洞海や竹内玄同と共に、西洋医学所の取締に就任する
・1863年(文久3年) 緒方洪庵が死去すると、後任の頭取に松本良順が就く
・1863年(文久3年1月25日) 松本良順の弾劾により、奥医師を免ぜられて小普請入となる
・1864年(元治元年10月28日) 小普請医師より寄合医師に昇格する
・1868年(明治元年) 隠居して、家督を養子の方成(玄伯)に譲る
・1871年(明治4年1月2日) 東京において、数え年72歳で亡くなる
・1915年(大正4年)11月 大正天皇即位の礼に際して従四位を贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1912年(明治45)生理学者・東京慈恵会医科大学長名取礼二の誕生日詳細
1942年(昭和17)「興亜奉公日」に代えて毎月8日を「大詔奉戴日」とすることが閣議決定される詳細
1976年(昭和51)小説家・作詞家檀一雄の命日詳細
1991年(平成3)詩人・小説家野間宏の命日詳細

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