ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:医師

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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、医師・細菌学者秦佐八郎が亡くなった日です。
 秦佐八郎(はた さはちろう)は、明治時代前期の1873年(明治6)3月23日に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれましたが、本姓は山根でした。しかし、1887年(明治20)に同村の医家秦徳太・ツタの養子となり、秦姓となっています。
 1895年(明治28)に岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊(東京)に入営しました。1897年(明治30)には、岡山に戻って、岡山県立病院に勤務するようになります。
 1898年(明治31)に、上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事、1903年(明治36)には、国立血清薬院部長を兼任しました。1904年(明治37)に日露戦争に従軍し、南満州(現在の中国東北部)各地に赴いた後、1907年(明治40)には、国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学びます。
 その後、エールリヒ、さらにヤコビーのもとで研究し、1910年(明治43)には、サルバルサンを発見、ドイツ学会に発表後、日本へ帰国しました。1911年(明治44)にサルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受章、1912年(明治45)には、学位論文「螺旋菌病のヘモテラピー」により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与されています。
 1913年(大正2)に国産のサルバルサンを製造することに協力し、日本結核予防協会設立に参画、1914年(大正3)には、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となりました。1915年(大正4)に国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売します。
 1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じ、1926年(大正15)には、ドイツ帝国自然科学院会員に推されました。1931年(昭和6)に恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任、1933年(昭和8)には、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受けます。
 1934年(昭和9)に深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞、1935年(昭和10)には、財団法人保生会創設に参画、常務理事長となったものの、1938年(昭和13)11月22日に、東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなりました。

〇秦佐八郎の主要な著作

・エールリッヒ共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』(1910年)
・『化学療法ノ研究』(1911年)
・『サルヴァルサン療法』(1913年)
・『黴毒ノ診断 黴毒ノ療法』(1915年)

☆秦佐八郎関係略年表

・1873年(明治6)3月23日 島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれる
・1887年(明治20) 同村医家 秦徳太・ツタの養子となる
・1891年(明治24) 岡山第三高等中学校医学部に入学する
・1895年(明治28) 岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚する
・1897年(明治30) 岡山県立病院に勤務する
・1898年(明治31) 上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事する
・1903年(明治36) 国立血清薬院部長を兼任する
・1904年(明治37) 日露戦争従軍・南満州(現中国)各地に赴く
・1907年(明治40) 国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学ぶ
・1910年(明治43) ドイツ国立実験治療研究所でエールリッヒ博士を扶けてサルバルサンを発見、ドイツ学会に発表、日本へ帰国する
・1911年(明治44) サルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受ける
・1912年(明治45) 学位論文『螺旋菌病のヘモテラピー』により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与される
・1913年(大正2) 国産のサルバルサンを製造することになり、協力し、日本結核予防協会設立に参画する
・1914年(大正3) 伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となる
・1915年(大正4) 国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売する
・1920年(大正9) 慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じる
・1921年(大正10) 極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張する
・1923年(大正12) アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察する
・1926年(大正15) ドイツ帝国自然科学院会員に推される
・1928年(昭和3) ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席する
・1931年(昭和6) 恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任する
・1933年(昭和8) 帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける
・1934年(昭和9) 深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞する
・1935年(昭和10) 財団法人保生会創設に参画、常務理事長となる
・1938年(昭和13)11月22日 東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1724年(享保9)浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日)詳細
1917年(大正6)江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日詳細
1941年(昭和16)「国家総動員法」第5条に基づいて、「国民勤労報国協力令」が交布(施行は同年12月1日)される詳細
1944年(昭和19)米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる詳細
1945年(昭和20)「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される詳細
GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」が指令される詳細
1969年(昭和44)「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が出される詳細
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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、細胞生物学者・医師岡田善雄が亡くなった日です。
 岡田善雄(おかだ よしお)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)3月10日に、広島県呉市において生まれ、広島県立呉第一中学校(現在の呉三津田高校)を経て、1943年(昭和18)に海軍兵学校に入学しました。太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に海軍兵学校(第75期)を卒業し、高知高等学校を経て、1952年(昭和27)に大阪大学医学部を卒業します。
 1953年(昭和28)に大阪大学微生物病研究所助手(防疫学部)となり、1957年(昭和32)に世界で最初に細胞融合に関する論文を発表、1962年(昭和37)に大阪大学微生物病研究所助教授となり、1971年(昭和46)には、「細胞融合現象の解析」で、朝日賞を受賞しました。1973年(昭和48)に大阪大学微生物病研究所教授となり、1975年(昭和50)に「HVJによる細胞融合現象の発見と細胞工学的応用」で武田医学賞、1978年(昭和53)には、日本人類遺伝学会賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に「HVJによる細胞融合現象の発見と研究」で、藤原賞、1980年(昭和55)には、「細胞融合現象の解析と細胞工学的応用」で、日本学士院賞恩賜賞を受賞しました。1982年(昭和57)に大阪大学細胞工学センター長(~1987年3月)、文化功労者となり、1987年(昭和62)に文化勲章を受章、1989年(平成元)には、広島県名誉県民となります。
 1990年(平成2)に財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長(~2007年3月)となり、1991年(平成3)に大阪大学を定年退官して名誉教授、1993年(平成5)には、日本学士院会員となりました。2000年(平成12)に勲一等瑞宝章を受章、2001年(平成13)には、『細胞融合と生命科学』を刊行しましたが、2008年(平成20)1月16日に、大阪府府吹田市において、解離性大動脈瘤によって、79歳で亡くなり、従三位を追贈されています。


〇岡田善雄の主要な著作

・『細胞融合』 (1971年)
・『細胞行動と器官形成』 (1973年)
・『細胞融合と細胞工学』(1976年)
・『体細胞遺伝学』 共著(1981年)
・『細胞の増え方』(1989年)
・『細胞融合と生命科学』(2001年)

☆岡田善雄関係略年表

・1928年(昭和3)3月10日 広島県呉市において、生まれる
・1943年(昭和18) 広島県立呉第一中学校(現在の呉三津田高校)を卒業し、海軍兵学校に入学する
・1945年(昭和20) 海軍兵学校(第75期)を卒業する
・1952年(昭和27) 大阪大学医学部を卒業する
・1953年(昭和28) 大阪大学微生物病研究所助手(防疫学部)となる
・1957年(昭和32) 世界で最初に細胞融合に関する論文を発表する
・1962年(昭和37) 大阪大学微生物病研究所助教授となる
・1971年(昭和46) 「細胞融合現象の解析」で、朝日賞を受賞する
・1973年(昭和48) 大阪大学微生物病研究所教授となる
・1975年(昭和50) 「HVJによる細胞融合現象の発見と細胞工学的応用」で、武田医学賞を受賞する
・1978年(昭和53) 日本人類遺伝学会賞を受賞する
・1979年(昭和54) 「HVJによる細胞融合現象の発見と研究」で、藤原賞を受賞する
・1980年(昭和55) 「細胞融合現象の解析と細胞工学的応用」で、日本学士院賞恩賜賞を受賞する
・1982年(昭和57) 大阪大学細胞工学センター長(~1987年3月)、文化功労者となる
・1987年(昭和62) 文化勲章を受章する
・1989年(平成元) 広島県名誉県民となる
・1990年(平成2) 財団法人千里ライフサイエンス振興財団理事長(~2007年3月)となる
・1991年(平成3) 大阪大学を定年退官し、名誉教授となる
・1993年(平成5) 日本学士院会員となる
・2000年(平成12) 勲一等瑞宝章を受章する
・2001年(平成13) 『細胞融合と生命科学』を刊行する
・2008年(平成20)1月16日 大阪府府吹田市において、解離性大動脈瘤によって、79歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、医師・細菌学者二木謙三の生まれた日です。
 二木謙三(ふたぎ けんぞう)は、秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町)において、秋田藩主の侍医であった父・樋口順泰、母・ヱイの二男として生まれましたが、1876年(明治9)には、土崎港に住まいする二木家の養子となりました。1893年(明治26)に秋田中学を卒業し、仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学したものの、神経衰弱に襲われて休学後、官立山口高等学校に転校します。
 その後、東京帝国大学医科大学に進み、1901年(明治34)に卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力しました。1903年(明治36)に志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立します。
 1905年(明治38)にドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻、1908年(明治41)に帰国し、翌年には駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務しました。1914年(大正3)に助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となります。
 1917年(大正6)に高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見、1919年(大正8)には、駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行しました。1921年(大正10)に東京帝国大学教授に昇任し、1923年(大正12)に日本医科大学教授を兼任、1924年(大正13)には、嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表します。
 1926年(大正15)に日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となり、1929年(昭和4)に共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1931年(昭和6)には、駒込病院の第5代院長を辞めました。1932年(昭和7)に豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂、1933年(昭和8)に東京帝国大学名誉教授となり、1939年(昭和14)には、東宮御成婚記念賞を受賞します。
 1951年(昭和26)に日本学士院会員となり、1955年(昭和30)に文化勲章を受章、1966年(昭和41)には、勲一等瑞宝章も受章しましたが、4月27日に東京において、老衰により、93歳で亡くなりました。

〇二木謙三の主要な著作

・『栄養の適応と体質改善』(1943年)
・『健康への道 : 完全正食の医学』(1957年)
・『完全にして正しき食物』(1961年)
・『二木博士講話集』(1966年)
・『食べ物と病気 : 栄養の適応と体質改善』(1969年)

☆二木謙三関係略年表

・1873年(明治6)1月10日 秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町)において、秋田藩主の侍医であった父・樋口順泰、母・ヱイの二男として生まれる
・1876年(明治9) 土崎港に住まいする二木家の養子となる
・1893年(明治26) 秋田中学を卒業し、仙台の官立第二高等学校(東北大学教養部の前身)に進学する
・1901年(明治34) 東京帝国大学医学部を卒業、直ちに東京市駒込病院(現:東京都立駒込病院)に勤務、伝染病研究のかたわら食べ物に関する研究に注力する
・1903年(明治36) 志賀潔発見の赤痢菌と異なる2種の赤痢菌(駒込A・B菌と名付けられる)を発見、赤痢病原多元説の基礎を確立する
・1905年(明治38) ドイツへ留学し、ミュンヘン医科大学衛生学教室で細菌学、免疫学を専攻する
・1908年(明治41) ドイツ留学より帰国する
・1909年(明治42) 駒込病院副院長となり、東大伝染病研究所や医科大学で研究を続け、医学博士となり、東京帝国大学講師も兼務する
・1914年(大正3) 東京帝国大学助教授に昇任して、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の第4代病院長となる
・1917年(大正6) 高木逸麿らと鼠咬症スピロヘータを発見する
・1919年(大正8) 駒込病院の第5代院長となり、二木式保健学の出発点となる『保健学』を刊行する
・1921年(大正10) 東京帝国大学教授を兼任する
・1923年(大正12) 日本医科大教授を兼任する
・1924年(大正13) 嗜眠(しみん)性脳炎や流行性脊髄炎と異なる病原の分離に成功、夏季脳炎(現在の日本脳炎)として発表する
・1926年(大正15) 日本伝染病学会(1974年に日本感染症学会に改称)を創立し、初代会長となる
・1929年(昭和4) 共同研究「鼠咬症の実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1931年(昭和6) 駒込病院の第5代院長を辞める
・1932年(昭和7) 豊島岡女子学園理事長に就任し、『古史読本』を編纂する
・1933年(昭和8) 東京帝国大学名誉教授となる
・1939年(昭和14) 東宮御成婚記念賞を受賞する
・1951年(昭和26) 日本学士院会員となる
・1955年(昭和30) 文化勲章を受章する
・1966年(昭和41)4月27日 勲一等瑞宝章を受章、東京において、老衰により、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人島村抱月の誕生日(新暦2月28日)詳細
1891年(明治24)刑法学者・弁護士小野清一郎の誕生日詳細
1920年(大正9)東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が筆禍事件(森戸辰男事件)により休職処分を受ける詳細
1922年(大正11)政治家・教育者大隈重信の命日詳細
1947年(昭和22)小説家織田作之助の命日詳細
1951年(昭和26)「日本の現代物理学の父」とも言われる物理学者仁科芳雄の命日詳細
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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、医師・生化学者・分子生物学者早石修が生まれた日です。
 早石修(はやいし おさむ)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンにおいて生まれましたが、旧制北野中学校を4修で卒業後、旧制大阪高校を経て、大阪帝国大学医学部医学科に入学しました。1942年(昭和17)に卒業後、同大学医学部副手となりましたが、太平洋戦争中に海軍軍医(中尉)として従軍し、戦後の1946年(昭和21)には、医化学第一講座助手に昇任します。
 1949年(昭和24)に「抗菌性物質に関する研究」で、大阪大学より博士号を授与され、アメリカ留学して、ウィスコンシン大学酵素研究所研究員となりました。1950年(昭和25)にカリフォルニア大学研究員、1951年(昭和26)にアメリカ国立衛生研究所研究員となり、1952年(昭和27)には、セントルイス・ワシントン大学医学部助教授(微生物学教室)となります。
 1954年(昭和29)にアメリカ国立衛生研究所(N.I.H)毒物学部長となり、1956年(昭和31)には、酸素添加酵素「オキシゲナーゼ」を発見しました。1958年(昭和33)に帰国して、京都大学医学部(生化学)教授となり、1961年(昭和36)には、大阪大学医学部(生化学第一講座)教授併任(~1963年)となります。
 1964年(昭和39)に「トリプトファンによるNADの生合成に関する研究」で日本ビタミン学会賞、「酸素添加酵素の研究」で松永賞を受賞、1965年(昭和40)に「酸素添加酵素の発見と研究」で朝日文化賞、1967年(昭和42)には、「酸素添加酵素の研究」で日本学士院賞を受賞しました。1968年(昭和43)にヴァンダービルト大学教授、1970年(昭和45)に東京大学医学部(栄養学講座)教授併任(~1974年)となり、1972年(昭和47)には、文化功労者となり、文化勲章を受章します。
 1973年(昭和48)に国際生化学・分子生物学連合の総裁を務め(~1976年)、1974年(昭和49)に日本学士院会員となり、1975年(昭和50)に「POLY(ADP-RIB)の発見、その合成分解酵素の生物学的意義に関する研究」で、第16回藤原賞を受賞、パリ市長ブロンズメダルを得て、1976年(昭和51)には、ニューヨーク科学アカデミー生化学賞を受賞、イギリス・チバ金牌を得ました。1978年(昭和53)にWHO医学研究顧問、1979年(昭和54)に京都大学評議員(~12月)、京都大学医学部長(~1981年)となり、スペイン ヒメネス・ディアズ記念賞受賞、1983年(昭和58)には、京都大学を退官して名誉教授となり、大阪医科大学学長(~1989年)となります。
 1984年(昭和59)に京都市名誉市民、1986年(昭和61)にウルフ賞医学部門受賞、1987年(昭和62)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所所長、1990年(平成2)にニューオーリンズ市国際名誉市民、1993年(平成5)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1995年(平成7)にイタリア ルイジ・ムサジョ賞受賞、1998年(平成10)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所名誉所長、1999年(平成11)にルイジアナ州立大学医学部・神経科学センター総長賞、カルフォルニア酸素クラブ賞・終身名誉会員、第3回世界睡眠学会連合総会(WFSRS)第1回優秀科学者賞を受賞します。
 2004年(平成16)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長、2007年(平成19)に大阪医科大学賞を受賞しましたが、2015年(平成27)12月17日に、京都府京都市の病院において、老衰のために、95歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇早石修の主要な著作

・『酸素と生命』(1984年)
・『プロスタグランジンの基礎と臨床 研究の歴史・現況と将来への展望』(1988年)

☆早石修関係略年表

・1920年(大正9)1月8日 アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンにおいて、生まれる
・1942年(昭和17) 大阪帝国大学医学部医学科を卒業し、同大学医学部副手となる
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学医学部医化学第一講座助手に昇任する
・1949年(昭和24) 「抗菌性物質に関する研究」で、大阪大学より博士号を授与され、アメリカ留学して、ウィスコンシン大学酵素研究所研究員となる
・1950年(昭和25) カリフォルニア大学研究員となる
・1951年(昭和26) アメリカ国立衛生研究所研究員となる
・1952年(昭和27) セントルイス・ワシントン大学医学部助教授(微生物学教室)となる
・1954年(昭和29) アメリカ国立衛生研究所(N.I.H)毒物学部長となる
・1956年(昭和31) 酸素添加酵素「オキシゲナーゼ」を発見する
・1958年(昭和33) 帰国して、京都大学医学部(生化学)教授となる
・1961年(昭和36) 大阪大学医学部(生化学第一講座)教授併任となる(~1963年)
・1964年(昭和39) 「トリプトファンによるNADの生合成に関する研究」で、日本ビタミン学会賞、「酸素添加酵素の研究」で、松永賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「酸素添加酵素の発見と研究」で、朝日文化賞を受賞する
・1967年(昭和42) 「酸素添加酵素の研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1968年(昭和43) ヴァンダービルト大学教授となる
・1970年(昭和45) 東京大学医学部(栄養学講座)教授併任となる(~1974年)
・1972年(昭和47) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1973年(昭和48) 国際生化学・分子生物学連合の総裁を務める(~1976年)
・1974年(昭和49) 日本学士院会員(第7分科(医学・薬学・歯学))となる
・1975年(昭和50) 「POLY(ADP-RIB)の発見、その合成分解酵素の生物学的意義に関する研究」で、第16回藤原賞を受賞、パリ市長ブロンズメダルを得る
・1976年(昭和51) ニューヨーク科学アカデミー生化学賞を受賞、イギリス・チバ金牌を得る
・1978年(昭和53) WHO医学研究顧問となる
・1979年(昭和54) 京都大学評議員(~12月)、京都大学医学部長となり(~1981年)、スペイン ヒメネス・ディアズ記念賞を受賞する
・1983年(昭和58) 京都大学を退官して名誉教授となり、大阪医科大学学長となる(~1989年)
・1984年(昭和59) 京都市名誉市民となる
・1986年(昭和61) ウルフ賞医学部門を受賞する
・1987年(昭和62) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所所長となる
・1990年(平成2) ニューオーリンズ市国際名誉市民となる
・1993年(平成5) 勲一等瑞宝章を受章する
・1995年(平成7) イタリア ルイジ・ムサジョ賞を受賞する
・1998年(平成10) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所名誉所長となる
・1999年(平成11) ルイジアナ州立大学医学部・神経科学センター総長賞、カルフォルニア酸素クラブ賞・終身名誉会員、第3回世界睡眠学会連合総会(WFSRS)第1回優秀科学者賞を受賞する
・2004年(平成16) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長となる
・2007年(平成19) 大阪医科大学賞を受賞する
・2015年(平成27)12月17日 京都府京都市の病院において、老衰のために、95歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の生まれた日です。
 渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)は、北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれました。父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住、札幌第一中学校、札幌南高等学校を経て、1952年(昭和27)に北海道大学理類に入学しましたが、1954年(昭和29)には、札幌医科大学医学部に進学しています。
 同年に、処女作『イタンキ浜にて』を発表、1957年(昭和32)には、同人雑誌「凍檣」に参加しました。1958年(昭和35)に札幌医科大学医学部を卒業、翌年には、整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し、テレビ放映されます。
 1964年(昭和39)に札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考され、1965年(昭和40)には、『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞しました。1966年(昭和41)に札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、前年の『死化粧』が第54回芥川賞候補となり、1967年(昭和42)に『霙』が第57回直木賞候補、1968年(昭和43)には、『訪れ』が第58回芥川賞候補となります。
 1969年(昭和44)に札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京、1970年(昭和45)には、総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞しました。1980年(昭和55)に『遠き落日』、『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞、1984年(昭和59)の『化身』発表後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、1986年(昭和61)の『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞します。
 1995年(平成7)に「日本経済新聞」に『失楽園』を連載、1997年(平成9)には、映画化・テレビドラマ化されて一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞しました。1998年(平成10)に「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成して一般公開され、2003年(平成15)に紫綬褒章受章、第51回菊池寛賞受賞、2007年(平成19)には、エッセー『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられます。
 医学小説、伝記、男女の愛と性をえがく恋愛小説と幅ひろく執筆してきましたが、2014年(平成26)4月30日に、東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。

〇渡辺淳一の主要な著作

・『死化粧』(1965年)第12回新潮同人雑誌賞受賞、第54回芥川賞候補
・『霙』(1967年)第57回直木賞候補
・『訪れ』(1968年)第58回芥川賞候補
・『光と影』(1970年)第63回直木賞受賞
・『花埋(はなうず)み』(1970年)
・『リラ冷えの街』(1971年)
・『野分け』(1972年)
・『冬の花火』(1975年)
・『女優』(1977年)
・『峰の記憶』(1978年)
・『白き旅立ち』(1979年)
・『流氷への旅』(1980年)
・『遠き落日』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『長崎ロシア遊女館』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『化粧』(1982年)
・『ひとひらの雪』(1983年)
・『化身(けしん)』(1986年)
・『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』(1986年)文藝春秋読者賞受賞
・『うたかた』(1990年)
・『失楽園』(1995年)
・『愛の流刑地』(2006年)

☆渡辺淳一関係略年表

・1933年(昭和8)10月24日 北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれる
・1946年(昭和21) 札幌第一中学校入学する
・1950年(昭和25) 札幌南高等学校へ入学する
・1952年(昭和27) 北海道大学理類に入学する
・1954年(昭和29) 札幌医科大学医学部に入学、処女作『イタンキ浜にて』を発表する
・1957年(昭和32) 同人雑誌「凍檣」に参加する
・1958年(昭和35) 札幌医科大学医学部を卒業する
・1959年(昭和34) 整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し,テレビ放映される
・1964年(昭和39) 札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考される
・1965年(昭和40) 『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞する
・1966年(昭和41) 札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、『死化粧』が第54回芥川賞候補となる
・1967年(昭和42) 『霙』が第57回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『訪れ』が第58回芥川賞候補となる
・1969年(昭和44) 札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京する
・1970年(昭和45) 総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『リラ冷えの街』が刊行され、“リラ冷え”が季語として定着する
・1972年(昭和47) 『野分け』『氷紋』を発表する
・1974年(昭和49) 『白き旅立ち』『まひる野』を発表する
・1977年(昭和52) 『女優』を発表する
・1979年(昭和54) 『くれなゐ』を発表する
・1980年(昭和55)『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞する
・1982年(昭和57)『化粧』を発表する
・1983年(昭和58)『ひとひらの雪』刊行後、“ひとひら族”という造語が生まれる。
・1984年(昭和59)『化身』を発表する
・1986年(昭和61) 『化身』刊行後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞、『別れぬ理由』を発表する
・1987年(昭和62) 『桜の樹の下で』を発表する
・1988年(昭和63) 『メトレス 愛人』『男というもの』を発表する
・1990年(平成2) 『うたかた』刊行後、“うたかた族”という造語が生まれる
・1993年(平成5) 『春の別れ』を発表。
・1995年(平成7) 「日本経済新聞」に『失楽園』を連載する
・1997年(平成9) 『失楽園』が映画化・テレビドラマ化され、一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞する
・1998年(平成10) 「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成し、一般公開される
・2003年(平成15) 紫綬褒章を受章、第51回菊池寛賞を受賞する
・2006年(平成18) 『愛の流刑地』を刊行する
・2007年(平成19) 『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられる
・2008年(平成20) 『熟年革命』を刊行する
・2009年(平成21) 『欲情の作法』刊行 発売1週間で23万部を突破する
・2010年(平成22) 『幸せ上手』を刊行する、『孤舟』を刊行する
・2011年(平成23) 『天上紅蓮』を刊行する
・2013年(平成25)『愛ふたたび』を刊行する
・2014年(平成26)4月30日 東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・2015年(平成27) 集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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