ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:医学博士

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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・医師(医学博士)渡辺淳一の生まれた日です。
 渡辺淳一(わたなべ じゅんいち)は、北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれました。父が札幌工業高等学校教諭となったことをきっかけに札幌市に定住、札幌第一中学校、札幌南高等学校を経て、1952年(昭和27)に北海道大学理類に入学しましたが、1954年(昭和29)には、札幌医科大学医学部に進学しています。
 同年に、処女作『イタンキ浜にて』を発表、1957年(昭和32)には、同人雑誌「凍檣」に参加しました。1958年(昭和35)に札幌医科大学医学部を卒業、翌年には、整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し、テレビ放映されます。
 1964年(昭和39)に札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考され、1965年(昭和40)には、『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞しました。1966年(昭和41)に札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、前年の『死化粧』が第54回芥川賞候補となり、1967年(昭和42)に『霙』が第57回直木賞候補、1968年(昭和43)には、『訪れ』が第58回芥川賞候補となります。
 1969年(昭和44)に札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京、1970年(昭和45)には、総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞しました。1980年(昭和55)に『遠き落日』、『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞、1984年(昭和59)の『化身』発表後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、1986年(昭和61)の『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞します。
 1995年(平成7)に「日本経済新聞」に『失楽園』を連載、1997年(平成9)には、映画化・テレビドラマ化されて一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞しました。1998年(平成10)に「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成して一般公開され、2003年(平成15)に紫綬褒章受章、第51回菊池寛賞受賞、2007年(平成19)には、エッセー『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられます。
 医学小説、伝記、男女の愛と性をえがく恋愛小説と幅ひろく執筆してきましたが、2014年(平成26)4月30日に、東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。

〇渡辺淳一の主要な著作

・『死化粧』(1965年)第12回新潮同人雑誌賞受賞、第54回芥川賞候補
・『霙』(1967年)第57回直木賞候補
・『訪れ』(1968年)第58回芥川賞候補
・『光と影』(1970年)第63回直木賞受賞
・『花埋(はなうず)み』(1970年)
・『リラ冷えの街』(1971年)
・『野分け』(1972年)
・『冬の花火』(1975年)
・『女優』(1977年)
・『峰の記憶』(1978年)
・『白き旅立ち』(1979年)
・『流氷への旅』(1980年)
・『遠き落日』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『長崎ロシア遊女館』(1980年)第14回吉川英治文学賞受賞
・『化粧』(1982年)
・『ひとひらの雪』(1983年)
・『化身(けしん)』(1986年)
・『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』(1986年)文藝春秋読者賞受賞
・『うたかた』(1990年)
・『失楽園』(1995年)
・『愛の流刑地』(2006年)

☆渡辺淳一関係略年表

・1933年(昭和8)10月24日 北海道空知郡砂川町(現在の上砂川町)において、数学教諭だった父・鉄次郎と母・ミドリの子として生まれる
・1946年(昭和21) 札幌第一中学校入学する
・1950年(昭和25) 札幌南高等学校へ入学する
・1952年(昭和27) 北海道大学理類に入学する
・1954年(昭和29) 札幌医科大学医学部に入学、処女作『イタンキ浜にて』を発表する
・1957年(昭和32) 同人雑誌「凍檣」に参加する
・1958年(昭和35) 札幌医科大学医学部を卒業する
・1959年(昭和34) 整形外科学を専攻し,医師国家試験に合格、『境界』で道内文芸同人誌秀作選考、『人工心肺』がテレビ・ドラマ誌脚本募集に入選し,テレビ放映される
・1964年(昭和39) 札幌医科大学助手となり、『華やかなる葬礼』で道内同人誌秀作に選考される
・1965年(昭和40) 『華やかなる葬礼』を改稿した『死化粧』で第12回新潮同人雑誌賞を受賞する
・1966年(昭和41) 札幌医科大学医学部整形外科教室講師となり、『死化粧』が第54回芥川賞候補となる
・1967年(昭和42) 『霙』が第57回直木賞候補となる
・1968年(昭和43) 『訪れ』が第58回芥川賞候補となる
・1969年(昭和44) 札幌医科大学講師を辞職、本格的に作家業に専念するため上京する
・1970年(昭和45) 総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞する
・1971年(昭和46) 『リラ冷えの街』が刊行され、“リラ冷え”が季語として定着する
・1972年(昭和47) 『野分け』『氷紋』を発表する
・1974年(昭和49) 『白き旅立ち』『まひる野』を発表する
・1977年(昭和52) 『女優』を発表する
・1979年(昭和54) 『くれなゐ』を発表する
・1980年(昭和55)『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』で第14回吉川英治文学賞を受賞する
・1982年(昭和57)『化粧』を発表する
・1983年(昭和58)『ひとひらの雪』刊行後、“ひとひら族”という造語が生まれる。
・1984年(昭和59)『化身』を発表する
・1986年(昭和61) 『化身』刊行後、「新耽美派文学」として高い評価を受け、『静寂の声ー乃木希典夫妻の生涯』で文藝春秋読者賞を受賞、『別れぬ理由』を発表する
・1987年(昭和62) 『桜の樹の下で』を発表する
・1988年(昭和63) 『メトレス 愛人』『男というもの』を発表する
・1990年(平成2) 『うたかた』刊行後、“うたかた族”という造語が生まれる
・1993年(平成5) 『春の別れ』を発表。
・1995年(平成7) 「日本経済新聞」に『失楽園』を連載する
・1997年(平成9) 『失楽園』が映画化・テレビドラマ化され、一大ブームとなり、“失楽園”が平成9年度新語・流行語のグランプリを受賞する
・1998年(平成10) 「渡辺淳一文学館」が故郷の札幌に完成し、一般公開される
・2003年(平成15) 紫綬褒章を受章、第51回菊池寛賞を受賞する
・2006年(平成18) 『愛の流刑地』を刊行する
・2007年(平成19) 『鈍感力』が刊行百万部突破し、流行語大賞トップテンに挙げられる
・2008年(平成20) 『熟年革命』を刊行する
・2009年(平成21) 『欲情の作法』刊行 発売1週間で23万部を突破する
・2010年(平成22) 『幸せ上手』を刊行する、『孤舟』を刊行する
・2011年(平成23) 『天上紅蓮』を刊行する
・2013年(平成25)『愛ふたたび』を刊行する
・2014年(平成26)4月30日 東京都内の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・2015年(平成27) 集英社が文学賞「渡辺淳一文学賞」が創設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)数学者・和算の祖関孝和の命日(新暦12月5日)詳細
1876年(明治9)神風連の乱がおこる詳細
1886年(明治19)ノルマントン号が沈没し英船員は脱出、日本人25人溺死(ノルマントン号事件)詳細
1910年(明治43)小説家・詩人・評論家山田美妙の命日詳細
1936年(昭和11)東京に「日本民藝館」が開設(初代館長:柳宗悦)される詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」が発効に必要な20ヶ国のに達したため発効し、国際連合が発足する(国連デー)詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、病理学者緒方知三郎が生まれた日です。
 緒方知三郎(おがた ともざぶろう)は、東京において、幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である父・緒方惟準(これよし)の三男として生まれました。旧制第三高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)に学び、1908年(明治41)に卒業後、同大学助手となり病理学教室に勤務します。
 1910年(明治43)にドイツへ留学し、主としてアショフについて病理学を研究、1913年(大正2)に留学から帰国し、翌年には、東京帝国大学医科大学助教授となりました。1915年(大正4)に、論文「輸精管結紮及びイクテローゲン中毒に際する肝硬変及び黄疸の発生」で、医学博士を得て、1923年(大正12)には教授に昇任し、病理学を担当します。
 1926年(大正15)に、島薗順次郎と共に「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞、1943年(昭和18)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、東京医学専門学校校長に就任しました。1944年(昭和19)に、「唾液腺内分泌に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞、太平洋戦争後の1946年(昭和21)には、東京医科大学学長兼理事長、学士院会員となります。
 1954年(昭和29)に財団法人老人病研究会を設立、老人病の研究に努め、1952年(昭和27)に東京医科大学学長兼理事長を辞任し、名誉学長となり、1957年(昭和32)には、文化勲章を受章しました。1968年(昭和43)に日本医科大学に迎えられ、老人病研究所長を兼任しましたが、1973年(昭和48)8月25日に、東京において、90歳で亡くなっています。

〇緒方知三郎の主要な著作

・『病理学総論』
・『病理学入門』
・『常用医語事典』

☆緒方知三郎関係略年表

・1883年(明治16)1月31日 東京において、幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男である父・緒方惟準(これよし)の3男として生まれる
・追手門学院を卒業する
・1908年(明治41) 東京帝大医科大学を卒業後、同大学助手となり病理学教室に勤務する
・1910年(明治43) ドイツへ留学し、主としてアショフについて病理学を研究する
・1913年(大正2) 留学から帰国し、東京帝国大学医科大学講師となる
・1914年(大正3) 東京帝国大学医科大学助教授となる 
・1915年(大正4) 論文「輸精管結紮及びイクテローゲン中毒に際する肝硬変及び黄疸の発生」で、医学博士を得る
・1923年(大正12) 東京帝国大学医学部教授(病理学)となる
・1926年(大正15) 島薗順次郎と共に「ビタミンB欠乏症についての実験的研究」で、帝国学士院賞を受賞する
・1943年(昭和18) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、東京医学専門学校校長に就任する
・1944年(昭和19) 「唾液腺内分泌に関する研究」で、帝国学士院恩賜賞を受賞する
・1946年(昭和21) 東京医科大学学長兼理事長、学士院会員となる
・1954年(昭和29) 財団法人老人病研究会を設立する
・1952年(昭和27) 東京医科大学学長兼理事長を辞任し、名誉学長となる
・1957年(昭和32) 文化勲章を受章する
・1968年(昭和43) 日本医科大学に迎えられ、老人病研究所長を兼任する
・1973年(昭和48)8月25日 東京において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1892年(明治25)詩人・随筆家・翻訳家尾崎喜八の誕生日詳細
1893年(明治26)北村透谷・島崎藤村らが文藝雑誌「文学界」を創刊する詳細
1897年(明治30)哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の命日詳細
1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細
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miurakinnosuke01
 今日は、昭和時代中期の1950年(昭和25)に、医学者三浦謹之助が亡くなった日です。
 三浦謹之助(みうら きんのすけ)は、1864年(元治元年3月21日)に、陸奥国伊達郡高成田村(現在の福島県伊達市)で、父・三浦道生の子として生まれました。父は内科・眼科の西洋医となり、農業や養蚕も兼業、寺子屋も開くようになります。
 1877年(明治10)に上京して訓蒙学舎で学び、翌年に東京帝国大学医科大学予科へ入学、1883年(明治16)に本科に進み、1888年(明治21)には卒業して、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となりました。1889年(明治22)に有栖川宮威仁親王に随い、米国よりヨーロッパを歴訪、翌年からドイツへ自費留学し、マールブルグ大学、ハイデルベルク大学で学びます。
 1892年(明治25)にフランスのパリに移り、ジャン=マルタン・シャルコーに師事、同年に帰国し、東京帝国大学講師となりました。1894年(明治27)に助教授となり、東北地方に流行する首さがり病を研究、1895年(明治28)には、第一内科学講座第二代教授へと昇進します。
 1896年(明治29)に那々条虫を発見、医学博士号を受け、1902年(明治35)に日本神経学会、翌年には日本内科学会の創設に参画しました。1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、1910年(明治43)に勲三等瑞宝章受章、1912年(大正元)に宮内省御用掛、1915年(大正4)には正四位となり、大礼記念章も受章しています。
 1918年(大正7)に東京大学医学部付属病院長に就任、1920年(大正9)には、サントニン海人草の経口投与により腸液への排出をみて回虫駆除作用を証明、また勲一等瑞宝章を受章しました。1921年(大正10)に医学部付属病院長を辞し、1924年(大正13)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となります。
 1925年(大正14)に同愛記念病院院長となり、日本内科学会理事長に選出され、1929年(昭和4)に、東京同愛記念病院が落成し、院長に就任しました。日本人による医学教育・内科学の確立に努力、臨床神経学の開拓者として日本医学界に貢献したことで、1949年(昭和24)に文化勲章を受章しましたが、翌年10月11日に、東京の神田駿河台の自宅を出たところで脳卒中で倒れ、86歳で亡くなっています。

〇三浦謹之助の主要な著作

・『三浦内科学纂録』(南江堂、1912年)
・『三浦診断学』(克誠堂書店、1931年)

☆三浦謹之助関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1864年(元治元年3月21日) 陸奥国伊達郡高成田村(現在の福島県伊達市)で、父・三浦道生の子として生まれる
・1865年(慶応元年) 父・道生が内科・眼科の西洋医となる
・1866年(慶応2年) 農業や養蚕も兼業、寺子屋も開く
・1869年(明治2年) 寺子屋で学ぶ
・1871年(明治4年) 高成田小学校に入学する
・1877年(明治10年) 上京し、訓蒙学舎で学ぶ
・1878年(明治11年) 東京帝国大学医科大学予科へ入学する
・1883年(明治16年) 東京帝国大学医科大学本科に進学する
・1888年(明治21年) 東京大学医学部本科を卒業し、エルヴィン・フォン・ベルツの助手となる
・1889年(明治22年) 有栖川宮威仁親王に随い、米国よりヨーロッパを歴訪する
・1890年(明治23年) ドイツへ自費留学する
・1891年(明治24年) ドイツのマールブルグ大学、ハイデルベルク大学で学ぶ
・1892年(明治25年) 仏蘭西のパリに移り、ジャン=マルタン・シャルコーに師事、留学から帰国し、東京帝国大学講師となる
・1893年(明治26年) 男子尿中膣トリコモナス発見、日本で初めてドイツ医学週報に報告する
・1894年(明治27年) 東京帝国大学助教授となり、東北地方に流行する首さがり病の研究をする
・1895年(明治28年) 東京帝国大学医学部医学科第一内科学講座第二代教授となる
・1896年(明治29年) 那々条虫の発見、医学博士号を受ける
・1902年(明治35年) 日本神経学会の創設に参画する
・1903年(明治36年) 日本内科学会の創設に参画する
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となる
・1909年(明治42年) ロベルト・コッホ来日の際、歓迎の辞を述べる
・1910年(明治43年) 勲三等瑞宝章を受章する
・1912年(大正元年) 宮内省御用掛となる
・1915年(大正4年) 正四位となり、大礼記念章を受章する
・1918年(大正7年) 東京大学医学部付属病院長に就任する
・1919年(大正8年) パリ講和会議全権西園寺公望に随行し渡欧する
・1920年(大正9年) サントニン海人草の経口投与により腸液への排出をみて、回虫駆除作用を証明、勲一等瑞宝章を受章する
・1921年(大正10年) 東京大学医学部付属病院長を辞し、皇太子裕仁親王の欧州訪問に随行し渡欧する
・1924年(大正13年) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となる
・1925年(大正14年) 同愛記念病院院長となり、日本内科学会理事長に選出される
・1929年(昭和4年) 東京同愛記念病院落成し、院長に就任する
・1948年(昭和23) 仮性尿毒症になるが、回復する
・1949年(昭和24年) 文化勲章を受章する
・1950年(昭和25年)10月11日 東京の神田駿河台の自宅を出たところで脳卒中で倒れ、86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1231年(寛喜3)第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなる(新暦11月6日)詳細
1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)「新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細
2001年(平成13)日本画家秋野不矩の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の亡くなった日です。
 梅澤濱夫(うめざわ はまお)は、1914年(大正3)10月1日に、福井県小浜市において、医師で小浜病院院長であった父・梅澤純一(医学博士)の次男としてて生まれましたが、1923年(大正12)に父・純一が札幌鉄道病院長に任命されたのを機に、家族で札幌へ移住しました。1931年(昭和6)に東京の武蔵高校に入学し、1933年(昭和8)に卒業後、東京帝国大学医学部へ進みます。
 1937年(昭和12)に東京帝国大学医学部を卒業後、同大学の細菌学教室に入り、細菌の取り扱い方などを学びました。その後、千葉県習志野の陸軍病院に召集されましたが、1943年(昭和18)に召集解除され、東京帝国大学医学部細菌学教室の助手に就任します。
 1944年(昭和19)につくられたペニシリンの開発研究組織(後の碧素委員会)に参加、藤原工業大学(現、慶応義塾大学工学部)助教授の長兄純夫と共に日本で初めてペニシリンの分離に成功しました。同年に東京帝国大学助教授ともなり、翌年には、「ヘンリー氏マラリア血清反応に関する研究」で医学博士を取得しています。
 1947年(昭和22)に国立予防衛生研究所の抗生物質部長となり、1953年(昭和28)に、抗生物質ザルコマイシンを発見しました。1954年(昭和29)に東京大学応用微生物研究所の教授を兼任、1957年(昭和32)には、結核治療薬カナマイシンを発見、それにより、翌年に朝日賞を受賞、また、その特許料で財団法人微生物化学研究会を設立して理事長となります。
 そして、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰(1959年)、レジオンドヌール勲章(1961年)、日本学士院賞、フランス政府から衛生保健文化賞、文化勲章(1962年)など数々の栄誉にも輝きました。その後も、ブレオマイシン発見(1963年)、カスガマイシン発見(1964年)、ジョサマイシン発見(1965年)、アルベカシン創製(1973年)、ピラルビシン創製(1979年)など、抗生物質の研究で世界をリードします。
 これらの功績により、1980年(昭和55)にパウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞受賞、1981年(昭和56)にレオポルド・グリフエル賞受賞、1983年(昭和58)に国際化学療法学会賞受賞など国際的に評価されたものの、1986年(昭和61)12月25日に、東京において、72歳で亡くなりました。

〇梅澤濱夫関係略年表

・1914年(大正3)10月1日 医師梅澤純一(医学博士、元小浜病院院長、元札幌鉄道病院院長)の次男として福井県小浜市にて生まれる
・1923年(大正12) 父・純一が札幌鉄道病院長に任命されたのを機に、家族で札幌へ移住する
・1931年(昭和6) 武蔵高校に入学する
・1933年(昭和8) 武蔵高校を卒業し、東京帝国大学医学部へ入学する 
・1937年(昭和12) 東京帝国大学医学部を卒業、同大学の細菌学教室に入り、細菌の取り扱い方などを学ぶ。
・1943年(昭和18) 召集解除され、東京帝国大学医学部細菌学教室の助手に就任する
・1944年(昭和19) 東京帝国大学助教授となり、梅澤純夫と共に日本で初めてペニシリンの分離に成功する
・1945年(昭和20) 「ヘンリー氏マラリア血清反応に関する研究」で東京大学から医学博士を得る 
・1947年(昭和22) 国立予防衛生研究所の抗生物質部長となる
・1953年(昭和28) 抗生物質ザルコマイシンを発見する
・1954年(昭和29) 東京大学応用微生物研究所の教授を兼任する
・1957年(昭和32) 結核治療薬カナマイシンを発見する
・1958年(昭和33) 朝日賞(抗生物質の研究、とくにカナマイシンの発見)
・1959年(昭和34) カナマイシンの特許料で財団法人微生物化学研究会を設立して理事長となり、科学技術庁長官賞科学技術功労者の表彰を受ける
・1961年(昭和36) レジオンドヌール勲章を受章する
・1962年(昭和37) 財団法人微生物化学研究会微生物化学研究所所長となり、日本学士院賞、フランス政府から衛生保健文化賞、文化勲章を受章する
・1963年(昭和38) ブレオマイシンを発見する
・1964年(昭和39) イネのいもち病にきくカスガマイシンを発見する
・1965年(昭和40) ジョサマイシンを発見する
・1966年(昭和41) ブレオマイシンという抗生物質を制癌剤として利用する方法を創始する
・1971年(昭和46) 藤原賞を受賞する
・1973年(昭和48) アルベカシンを創製する
・1976年(昭和51) 高松宮妃癌研究基金学術賞を受賞する
・1977年(昭和52) 東京大学名誉教授となる
・1979年(昭和54) ピラルビシンを創製する
・1980年(昭和55) パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を受賞する
・1981年(昭和56) レオポルド・グリフエル賞を受賞する
・1983年(昭和58) 国際化学療法学会賞 (ISC Award)を受賞する
・1986年(昭和61)12月25日 東京において、72歳で亡くなり、勲一等瑞宝章、従三位が追贈される 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1783年(天明3)俳人・画家与謝蕪村の命日(新暦1784年1月17日)詳細
1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
1988年(昭和63)小説家・評論家大岡昇平の命日詳細
1997年(平成9)小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1976年(昭和51)に、俳人・医師(医学博士)高野素十の亡くなった日です。
 高野 素十(たかの すじゅう)は、明治時代後期の1893年(明治26)3月3日に、茨城県北相馬郡山王村大字神住(現在の藤代町)で農家の長男として生まれましたが、本名は与巳(よしみ)と言いました。1905年(明治38)に、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し、新潟県立長岡中学校に入学、第一高等学校を経て、1913年(大正2)に東京帝国大学医学部に進みます。
 1918年(大正7)に卒業後、法医学教室に入局し、法医学および血清学を専攻しました。同じ教室の先輩水原秋桜子の勧めで1923年(大正12)より句作を開始し、高浜虚子に師事しました。東大俳句会に所属し、句誌「ホトトギス」12月号において初投句にして4句が入選、1926年(大正15)には、同誌の初巻頭を取ります。
 写生俳句に独自の風格を備えてたちまち頭角を現し、水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝と共に「ホトトギス」4Sの一人として知られるようになりました。1932年(昭和7)に新潟医大助教授となってドイツへ留学、1934年(昭和9)に帰国して教授となり、1936年(昭和11)には医学博士号も取得します。
 太平洋戦争後、1949年(昭和22)に句集『初鴉(はつがらす)』を刊行、1949年(昭和24)には新潟医大学長、改組して新潟大学医学部教授・学部長となりました。1952年(昭和27)に句集『雪片(せっぺん)』を刊行、1953年(昭和28)には、奈良医大教授となり、「桐の葉」雑詠選担当ともなります。
 1954年(昭和29)に大阪毎日俳壇選者となり、1957年(昭和32)に「芹」を創刊し主宰、1960年(昭和35)に奈良県立医科大学退職後は俳句に専念しました。1970年(昭和45)に軽い脳溢血により入院、1972年(昭和47)には神奈川県相模原市に移住します。
 1976年(昭和51)8月に前立腺肥大症のため入院、同年10月4日に神奈川県相模原市の自宅において、83歳で亡くなりました。

<高野素十の代表的な句>

・「方丈の大庇より春の蝶」(初鴉)
・「くもの糸ひとすぢよぎる百合の前」
・「ひつぱれる糸まつすぐや甲虫」
・「甘草の芽のとびとびのひとならび」
・「翅わつててんたう虫の飛びいづる」
・「づかづかと来て踊子にささやける」
・「空をゆく一とかたまりの花吹雪」(雪片)
・「わが星のいづくにあるや天の川」(「芹」昭和51年11月号)

〇高野素十の代表的著作

・句集『初鴉(はつがらす)』(1947年)
・句集『雪片(せっぺん)』(1952年)
・句集『野花(やか)集』(1953年)

☆高野素十関係略年表

・1893年(明治26)3月3日 茨城県北相馬郡山王村大字神住(現在の藤代町)で農家の長男として生まれる
・1905年(明治38) 新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学する
・1913年(大正2) 東京帝国大学医学部に入学する
・1918年(大正7) 東京帝大医科大学を卒業する
・1923年(大正12) 高浜虚子に師事する
・1926年(大正15) 「ホトトギス」の初巻頭を取る
・1932年(昭和7) 新潟医大助教授となり、ドイツへ留学する
・1934年(昭和9) ドイツより帰国して教授となる
・1936年(昭和11) 論文「パラチフス腸炎菌属菌種の鑑別用免疫血清(独文) 」 により医学博士となる
・1949年(昭和22) 句集『初鴉(はつがらす)』を刊行する
・1949年(昭和24) 新潟医大学長、改組して新潟大学医学部教授・学部長となる
・1952年(昭和27) 句集『雪片(せっぺん)』を刊行する
・1953年(昭和28) 奈良医大教授となり、「桐の葉」雑詠選担当となる
・1954年(昭和29) 大阪毎日俳壇選者となる
・1957年(昭和32)5月 「芹」を創刊し主宰となる
・1960年(昭和35) 奈良県立医科大学を退職する
・1970年(昭和45)5月 軽い脳溢血により入院する
・1972年(昭和47) 神奈川県相模原市に移住する
・1976年(昭和51)8月 前立腺肥大症のため入院する
・1976年(昭和51)10月4日 神奈川県相模原市の自宅において、83歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1707年(宝永4)宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日)詳細
1872年(明治5)官営模範工場富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日)詳細
1876年(明治9)言語学者・国語学者・随筆家新村出の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)を出す詳細


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