ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:北海道

cdb04d7c.gif
 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、北海道の新夕張炭鉱若鍋第二斜坑でガス炭塵爆発が起き、死者・行方不明者423人を出した日です。
 新夕張炭鉱若鍋坑ガス炭塵爆発事故(しんゆうばりたんこうわかなべこうがすたんじんばくはつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)11月28日に、石狩石炭株式会社が経営する新夕張炭鉱若鍋第二斜坑で起きたガス炭塵爆発事故です。この炭鉱は、石炭の産出が急拡大する一方で、炭鉱の坑道からのガスの発生が多いという特徴も持っていて、札幌鉱務署から度々ガス爆発の災害の危険性の指摘があり、炭鉱側も坑道に風穴を開けたり、常に扇風機で風を送るなど、危険を未然に防ごうと注意を払っていました。
 約600人の人間が若鍋炭坑内で作業中だった、午後3時30分に、ガス炭塵爆発が起き、炭鉱全体を揺るがすような大音響が轟きわたります。坑内全域で大規模に落盤も発生、火焔も走り、多くの者が即死しました。二日後の30日から救援活動が行われ、坑内に充満していたガスが一気に爆発し燃え尽きたので、救援隊員は落盤を排除しながら奥まで進むことが出来たものの、四日後の12月2日午後9時になって、斜坑坑口より約900mの個所で火災が発生したため、遺体の3分の2を残したまま密閉、水没させています。
 この事故は、死者・行方不明者423人、負傷者25人という大惨事となり、北海道の炭鉱史上最悪のものとなりました。

〇1914年(大正3)12月2日付「北海タイムス記事」

慄然惻然措く能ず

会社にては 既報の如く 死体引取人に対し 死者一人に付 埋葬料十円 香典十円を與へ 遺族には労働賃金一日分の百倍を交付すると予め会社対坑夫間に於ける契約として成立し居るものなるが故に 会社は之等の金円を與ふれば 遺族保護の責任を脱し得るに似たるも 保護の実を締め山には未だ遠し
今回の変災たるや 未だ嘗て見ざる惨状を呈し 一家数人の死者を出したる者 少なからず 両親共に死して 五歳 八歳の東西をも弁(わきま)へ難き幼児のみなるあり 六十歳以上の老人のみ残れるもあり
扶助を受けたる金額のみを以て 今後の生計を支え難き 其数 甚少にあらざるべし
之等に対しては契約上の金円を與ふる以外 亦 別に適切の手段を巡らして 同情の実を現はすべきなり
尚 彼らは初めより危険なる坑内の労働に従事する者なり雖も 此の変災なかりせば 尚 幾多の星霜を迎えて 快く天寿を全うし 人生の幸福を享受するを得べかりしに哀れや惨禍 身に及びて 忽ち焦熱の間に悶死し 人としての取扱いを受けずして 一片の煙と化す
一度 位 地を転じて 遺族の心に同化すれば 誰れが慄然として人世の無常を嘆せざるあらむや
彼等は今 生計を支ゆる爲に金円を求むる
夫れよりも尚 渇仰するは 社会人心の同情なり
渾然として暖かき情味に浴せんと欲するは痛切なる彼らの希望なり
実情を目撃する者にして 此の感 切なり
而して会社は先づ 其路に当たるべき責任重大なり

〇新夕張炭鉱(しんゆうばりたんこう)とは?             

 1899年(明治32)に北海道庁の地理調査班が発見、持田辰之助が鉱業権を獲得し、中野四郎を経て谷七太郎が谷新夕張炭山の第二鉱として1906年(明治39)に開削されます。その後、石狩石炭が事業を継承し、1907年(明治40)に琴平坑(西一番坑・西二番坑・西二番斜坑)と八坂坑(東二番坑・東二番斜坑)を開坑、1913年(大正2)には18万トンの石炭を算出、さらに、1914年(大正3)に平安坑(南坑又は三坑)が開坑し、数千人の坑夫・雑夫が働き、毎日約700人が坑内作業にあたっていました。
 しかし、同年11月28日に、西一番坑及び西二番斜坑において、死者・行方不明者423人を出す大事故が発生、1916年(大正5)に住吉坑(西新坑)が開坑したものの経営は悪化し、石狩石炭は最終的に1920年(大正9)に北炭に合併します。それからもガス爆発の死傷事故が相次ぎ、ガスの処理の問題が解決されず、1930年(昭和5)に一度閉山に至りました。
 その後、1937年(昭和12)に北炭平和炭鉱が旧若鍋炭鉱の鉱区にに開鉱します。戦後の1948年(昭和23)に平和第二炭鉱(第二斜坑)が開鉱、1954年(昭和29)に平和炭鉱、平和第二炭鉱を一鉱、二鉱と改称、1957年(昭和32)に一区、二区とさらに改称されました。
 一区は1964年(昭和39)に終掘しましたが、二区は1964年(昭和39)に北部第二立坑が完成します。1966年(昭和41)には、生産量が106万トンと一度100万tを越えましたが、1968年(昭和43)に坑内火災で31人の方が亡くなる事故が発生してました。1969年(昭和44)には、第二立坑が完成したものの、1975年(昭和50)に閉山に至っています。

☆日本の主な炭鉱事故

<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]

<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]

<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1835年(天保6)幕末の志士・政治家井上馨の誕生日(新暦では1836年1月16日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
1951年(昭和26)「旅券法」(昭和26年法律第267号)が公布(施行は同年12月1日)される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

33218b59.jpg
 今日は、明治時代前期の1869年(明治2)に、北海道の開拓使が設置された日ですが、新暦では8月15日となります。
 開拓使(かいたくし)は、明治時代前期に、北海道の開拓経営のためにおかれた行政機関でした。1869年(明治2年7月8日)に、版籍奉還直後の官制改革によって開拓使が設置(於:東京)され、1870年(明治3年2月13日)には、樺太開拓使を分置し、北海道開拓使と改称されます。
 同年5月に、黒田清隆(きよたか)が開拓次官となり、長官は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)でしたが、実質的権力を握り、薩摩閥が支配するようになりました。1871年(明治4)に開拓使庁が札幌に移り、東京には出張所が設けられ、その後、開拓使の名称に戻ります。
 1871年(明治4)に、10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定されました。アメリカから招聘した、ケプロン以下の顧問団の助言により、札幌本府を開き、欧米の文化・技術を積極的に取り入れることとなります。
 移民・屯田兵 (とんでんへい) の奨励、道路・鉄道の敷設、港湾・炭田の開発、ビール、砂糖、亜麻(あま)、木材、漁具、農具など各種の製造工場の開設、W.S.クラークを招いての札幌農学校の創設などに努めました。1881年(明治14)に黒田は、開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設、設備を安値で払い下げることとする中で、スキャンダル(開拓使官有物払下げ事件)も起します。
 これらにより、本土との行政一元化のため、1882年(明治15)2月8日に、開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置され、官営諸事業の多くは、翌年に置かれた農商務省北海道事業管理局に移管されることになりました。その後、1886年(明治19年)1月26日には、3県1局が廃止され、北海道庁が設置されています。

〇開拓使関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1869年(明治2年7月8日) 開拓使が設置(はじめ東京のち箱館)される 
・1870年(明治3年2月13日) 樺太開拓使を分置し、北海道開拓使と改称される
・1870年(明治3年5月) 黒田清隆(きよたか)が開拓次官となり実質的権力を握る
・1871年(明治4年5月) 開拓使庁が札幌に移る
・1871年(明治4年8月7日) 開拓使の名称に戻る
・1871年(明治4年8月19日) 10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定される
・1871年(明治4年12月) 亀田郡七重村に「七重開墾場」が開設される
・1872年(明治5年) 新規移民募集や新規移民優遇をやめ、既に定着した移民への援助に切り替える
・1872年(明治5年10月) 旧館県であった渡島国に属する福島郡、津軽郡、檜山郡、爾志郡の4郡が青森県から開拓使に移管される
・1873年(明治6年)6月 政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始するため、開拓使東京出張所に屯田課を設置する
・1874年(明治7年)8月 黒田清隆が長官となる
・1874年(明治7年)10月 屯田兵例則が制定される
・1875年(明治8年)3月 開拓使に屯田事務局が設置される
・1875年(明治8年)5月7日 「樺太・千島交換条約」によって、樺太を管轄から除き、得撫(ウルップ)島以北の千島列島を管轄に加える
・1875年(明治8年)5月17日 最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する
・1875年(明治8年)7月29日 開拓使仮学校が東京から札幌に移転し、札幌学校と改称する
・1876年(明治9年)8月14日 札幌学校は札幌農学校と改称して開校式が挙行される
・1876年(明治9年)9月 開拓使が札幌に札幌麦酒醸造所と葡萄酒醸造所を設立する
・1877年(明治10年)10月10日 開拓使の石狩缶詰所でサケの缶詰生産がはじまる
・1879年(明治12年) 官営の炭鉱として幌内炭鉱が開山する
・1880年(明治13年)11月28日 道内の開発と、産業振興に必要な幌内炭鉱の石炭を運び出すために官営幌内鉄道(手宮~札幌間)が開業する
・1880年(明治13年)12月 開拓使のてん菜糖工場を北海道胆振国有珠郡紋鼈村(今の伊達市)に建設する
・1881年(明治14年) 黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設、設備を安値で払い下げることとする(開拓使官有物払下げ事件)
・1882年(明治15年)2月8日 開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置される
・1883年(明治16年) 農商務省北海道事業管理局が設置される
・1886年(明治19年)1月26日 3県1局を廃止し、北海道庁が設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1588年(天正16)豊臣秀吉が「刀狩り令」を布告する(新暦8月29日)詳細
1783年(天明3)浅間山天明大噴火が起きる(新暦8月5日)詳細
1908年(明治41)日本画家・著述家東山魁夷の誕生日詳細
1912年(明治45)日本とロシアとの間で、「第三次日露協約」が締結される詳細
1939年(昭和14)「国民徴用令」(勅令第451号)が公布される詳細
1950年(昭和25)GHQが自衛隊の前身となる警察予備隊の創設を求める「日本警察力増強に関する書簡」を送る詳細
1955年(昭和30)日本住宅公団を設立するための「日本住宅公団法」(昭和30年法律第53号)が公布される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

meiji40nenhakodatetaika01
 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、北海道函館市で、明治40年函館大火が起き、死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸の被害を出した日です。
 明治40年函館大火(めいじ40ねんはこだてたいか)は、この日の午後10時20分頃に、東川町217番地石鹸製造所より出火した大火でした。 火は、南東の激しい風に煽られて各地に飛び火したため、消防活動が思うに任せず、焼失区域を拡げていきます。
 そのため、会所町,寿町,恵比寿町,大町,大黒町,鰪澗町,鍛治町,富岡町,旅籠町,天神町,駒止町,末広町,東浜町,船場町の14町全部を焼失、元町、曙町、汐見町、青柳町、春日町、蓬莱町、相生町、弁天町、船見町、台町、山背泊町、小舟町、豊川町、汐止町、地蔵町、西川町、宝町、東川町、仲浜町、仲町の20町の一部を焼失し、翌26日午前9時25分にようやく鎮火しました。これによって、死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸の被害を出し、損害額は31,148,000余円にのぼります。
 主要な建物では、函館庁舎、英国領事館、露国領事館、連隊区司令部、海事局、函館郵便局、函館電話局、商船学校、商業学校、高等女学校、函館病院その他私立病院8、区立小学校5、 私立小学校6、会社38、銀行8、神社3、寺院6、教会5、新聞社5、劇場4などが焼失しました。この大火に対しては、天皇・皇后より、災者救済のため13,000円の下賜金があり、北条侍従が現地の状況を視察、また、各地よりの義援金は70,098円にのぼり、米、味噌、衣類等の支援物資も多く寄せられています。
 箱館は、大規模火災の多く起きたところで、明治時代以降で10回に及びますが、一般に「函館大火」と呼ばれるのは、最も被害の大きかった、昭和9年箱館大火(死者2,054名、焼失10,176戸)のこととされてきました。

〇「北海タイムス」明治40年8月30日付記事

「丁度火事の當日は畜産共進會やら競馬やらで函館全市近来無比の大賑わひの最中で、中にも競馬に關係ある函館資産家の多数は勝祝ひやら負祝ひやらで各料理店とも笛や太鼓の大陽氣な眞最中、ソレ火事だといふが早いか今の時まで臥牛山下の平穏無事な陽氣な天地は、一瞬時にして忽ち阿鼻叫喚の焦熱地獄を演出して、時間から云へば僅かに三四時間ならぬ間に日本五港の一たる函館港を全滅に近きまで焼き盡した。今度の火事は實に安政の地震の時に江戸市中を燒き沸つたといふ江戸大火以來の大火かと思われます。」

〇明治時代以降の函館における大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火によるものを除く)

・1871年(明治4年9月12日)10月27日 明治4年箱館大火「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1873年(明治6年)3月22日 明治6年箱館大火「家根屋火事」(死者5名、焼失1,314戸)
・1879年(明治12年)12月6日 明治12年箱館大火(焼死者多数、2,326戸)
・1896年(明治29年)8月26日 明治29年箱館大火「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1899年(明治32年)9月15日 明治32年箱館大火(焼失2,494戸)
・1907年(明治40年)8月25日 明治40年箱館大火(焼失8,977戸)
・1913年(大正2年)5月4日 大正2年箱館大火(焼失1,532戸)
・1916年(大正5年)8月2日 大正5年箱館大火(焼失1,763戸)
・1921年(大正10年)4月14日 大正10年箱館大火(焼失2,141戸)
・1934年(昭和9年)3月21日 昭和9年箱館大火(死者2,054名、焼失10,176戸)

☆明治・大正時代の大火一覧(焼失1,000戸以上で、戦火・地震によるものを除く)

・1871年(明治4)9月12日 函館の「切見世火事」(焼失1,123戸)
・1872年(明治5)2月26日 東京の銀座大火(焼失4,879戸)
・1873年(明治6)3月22日 函館の「家根屋火災」(焼失1,314戸)
・1873年(明治6)3月22日~23日 横浜の「相生町の大火」(重軽傷者20余名、焼失1,577戸)
・1874年(明治7)4月27日 浜松明治7年の大火「小野組火事」(焼失家数1,318軒)
・1875年(明治8)4月24日 飛騨高山明治8年の大火(死亡者1名、焼失1,032戸)
・1879年(明治12)1月26日~27日 高崎明治13年の大火(消失2,500余戸)
・1879年(明治12)3月3日 高岡明治12年の大火(焼失2,000余戸)
・1879年(明治12)12月6日 明治12年函館大火(焼失2,326戸)
・1879年(明治12)12月26日 東京の日本橋大火(全焼10,613戸)
・1880年(明治13)5月15日 弘前明治13年の大火(焼失1,000余戸)
・1880年(明治13)5月21日 三条の大火「糸屋万平火事」(死者34名、焼失2,743戸)
・1880年(明治13)8月7日 新潟明治13年の大火(死者3名、負傷名37名、焼失6,175戸)
・1880年(明治13)12月24日 明治13年大阪南の大火「島の内出火」(死者8名、負傷者350~60名、焼失3,388戸)
・1881年(明治14)1月26日 東京の神田の大火(全焼10,673戸)
・1881年(明治14)2月11日 東京の神田区の大火(全焼7,751戸)
・1881年(明治14)4月25日 福島明治の大火「甚兵衛火事」(死者7名、焼失1,785戸)
・1882年(明治15)5月15日 富山県氷見明治の大火(焼失1,600余戸)
・1884年(明治17)5月13日 水戸明治17年「下市の大火」(焼失1,200余戸)
・1884年(明治17)11月7日~8日 盛岡明治17年の大火(焼失1,432戸)
・1885年(明治18)5月31日~6月1日 富山明治18年の大火「安田焼」(死者9名、焼失5,925戸) 
・1886年(明治19)4月30日~5月1日 秋田明治19年の大火「俵屋火事」(死者17名、負傷者186名、焼失3,554戸) 
・1886年(明治19)12月30日 水戸明治19年「上市の大火」(焼失1,800余戸)
・1888年(明治21)1月4日 松本明治21年南深志の大火(死者5名、焼失1,553戸)
・1888年(明治21)1月31日 横浜明治21年野毛の放火による大火(重軽傷者数10人、焼失1,121戸)
・1889年(明治22)2月1日~2日 静岡明治22年の大火(焼失1,100余戸) 
・1890年(明治23)2月27日 東京の浅草大火(全焼1,469戸)
・1890年(明治23)9月5日 明治23年大阪大火「新町焼け」(死者1名、軽傷者206名、全焼2,023戸、半焼60戸)
・1893年(明治26)3月17日~18日 川越大火(焼失1,302戸、土蔵60棟焼失)
・1893年(明治26)3月29日~30日 松阪明治の大火(焼失1,460戸)
・1894年(明治27)5月26日 山形明治27年「市南の大火」(死者15名、負傷者69名、焼失1,284戸) 
・1895年(明治28)4月29日 石川県七尾の大火(焼失1,000余戸)
・1895年(明治28)6月2日~3日 新潟県新発田明治28年の大火(死者4名、負傷者24名、焼失2,410戸)
・1895年(明治28)10月3日 根室明治28年の大火(焼失1,334戸)
・1896年(明治29)4月13日~14日 福井県勝山町明治29年の大火(死者5名、負傷者2名、焼失1,124戸) 
・1896年(明治29)8月26日 函館の「テコ婆火事」(焼失2,280戸)
・1897年(明治30)4月3日 柏崎明治30年の大火「日野屋火事」(焼失1,230戸)
・1897年(明治30)4月22日 八王子大火(死者42名、焼失3,500余戸)
・1898年(明治31)3月23日 東京の本郷大火(死者2名、負傷者42名、焼失1,478戸)
・1898年(明治31)6月4日 直江津(上越市)明治31年の大火「八幡火事」(焼失1,595戸)
・1899年(明治32)8月12日 富山明治32年の大火「熊安焼」(全焼4,697戸、半焼9戸) 
・1899年(明治32)8月12日~13日 横浜明治32年の大火(死者14名、全焼3,124、半焼49戸)
・1899年(明治32)9月15日 明治32年函館大火(焼失2,294戸)
・1900年(明治33)4月18日 福井「橋南大火」(死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒)
・1900年(明治33)6月27日 高岡明治33年の大火(死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸)
・1902年(明治35)3月30日 福井明治35年「橋北の大火」(焼失3,309戸)
・1903年(明治36)4月13日 福井県武生町明治の大火(死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸)  
・1904年(明治37)5月8日 小樽明治37年「稲穂町の火事」(焼失2,481戸)
・1906年(明治39)7月11日 直江津町(上越市)明治39年の大火「ながさ火事」(焼失1,041戸)  
・1907年(明治40)8月25日 明治40年函館大火(死者8名、負傷者1,000名、焼失12,390戸)
・1908年(明治41)3月8日 新潟明治41年3月の大火(焼失1,198戸)
・1908年(明治41)9月4日 新潟明治41年再度の大火(全焼2,071戸、半焼18戸)
・1909年(明治42)7月31日~8月1日 大阪明治42年「北の大火」(焼失11,365戸)
・1910年(明治43)4月16日 輪島町の大火(全焼1,055軒、半焼15軒)    
・1910年(明治43)5月3日~4日 明治43年青森大火(死者26名、負傷者163名、焼失7,519戸、半焼5戸)
・1911年(明治44)4月9日 東京の吉原大火(全焼6,189戸、半焼69戸)
・1911年(明治44)5月8日 山形明治44年「市北の大火」(全焼1,340戸)
・1911年(明治44)5月16日 小樽明治44年の大火(焼失1,251戸)
・1912年(明治45)1月16日 大阪明治45年「南の大火」(死者4名、全焼4,750戸、半焼等29戸)   
・1912年(明治45)3月21日 東京の州崎大火(全焼1,149戸、半焼11戸)
・1912年(明治45)4月22日 松本明治「北深志の大火」(死者5名、焼失1,341戸)
・1914年(大正3)2月20日 東京神田大正2年三崎町の大火(全焼2,376戸、半焼54戸)
・1917年(大正6)5月22日 米沢大火(死者11名、焼失3,325棟)
・1919年(大正8)5月19日 米沢大火(死者1名、焼失1,385棟)
・1924年(大正13)5月21日 八戸大火(死者4名、被災戸数1,393棟)
・1925年(大正14)3月18日  大正日暮里大火(全半焼約2,100戸)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1498年(明応7)東海道沖で明応地震が起きる(新暦9月20日)詳細
1543年(天文12)ポルトガル船が種子島に漂着し、日本に鉄砲伝来する(新暦9月23日)詳細
1648年(慶安元)儒者・日本陽明学の祖中江藤樹の命日(新暦10月11日)詳細
1757年(宝暦7)柄井川柳が最初の川柳評万句合を行った日(川柳発祥の日)です(新暦10月7日)詳細
1922年(大正12)日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水する詳細
1931年(昭和6)東京飛行場(現在の東京国際空港)が開港する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

bandaigousounanshyaireihi01
 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、東亜国内航空のYS11「ばんだい号」が北海道・横津岳に激突し、68人全員が死亡した「ばんだい号墜落事故」起きた日です。
 ばんだい号墜落事故(ばんだいごうついらくじこ)は、午後5時30分に札幌の丘珠空港を飛び立ち、函館空港へ向かっていた東亜国内航空のYS-11旅客機「ばんだい号」が、午後6時10分頃に函館北方の横津岳(亀田郡七飯町)に墜落した航空事故でした。翌日になって、捜索していた自衛隊のヘリコプターが横津岳(標高1,167m)の斜面に墜落している機体を発見しましたが、乗員4人、乗客64人の計68人全員の死亡が確認されています。
 事故当時は、悪天候だったとされますが、現在までに詳しい原因はわかっていないものの、1972年(昭和47)12月18日に、事故調査委員会は調査結果を発表し、パイロットが自機の位置を誤認し旋回中に降下を完了しようとした結果、さらに西に経路を逸脱した可能性が挙げられ、強い南西風によって機体が大きく流された可能性も指摘されました。

〇戦後の日本における重大航空機事故(死者30名以上)一覧

・1952年(昭和27)4月9日 日本航空301便(もく星号) 機種:マーチン2-0-2
 状況: 伊豆大島の三原山山頂付近に墜落。乗員乗客37人全員が死亡。
・1958年(昭和33)8月12日 全日本空輸25便 機種:ダグラスDC-3
 状況: エンジントラブルのため羽田空港に引き返そうとしたが、利島近海に墜落。乗員乗客33人全員が死亡。
・1966年(昭和41)2月4日 全日本空輸60便 機種:ボーイング727-81
 状況: 羽田空港着陸直前に東京湾に墜落(原因不明)。乗員乗客133人全員が死亡。
・1966年(昭和41)3月4日 カナダ太平洋航空402便 機種:ダグラスDC-8-43
 状況: 濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗し爆発炎上。乗員乗客72人中64人が死亡。
・1966年(昭和41)3月5日 英国海外航空 (BOAC) 911便 機種:ボーイング707-436
 状況: 富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解し墜落。乗員乗客124人全員が死亡。
・1966年(昭和41)11月13日 全日本空輸533便 機種:日本航空機製造YS-11-111
 状況: 松山空港への着陸に失敗したため、着陸復行したが瀬戸内海沖合に墜落。乗員乗客50人全員が死亡。
・1971年(昭和46)7月3日 東亜国内航空63便(ばんだい号) 機種:日本航空機製造YS-11A-217
 状況: 函館空港への着陸アプローチ中に山間部に墜落。乗員乗客68人全員が死亡。
・1971年(昭和46)7月30日 全日本空輸58便と航空自衛隊訓練機 機種:ボーイング727-281とノースアメリカンF-86Fセイバー
 状況: 岩手県雫石町上空で空中衝突。全日空機の乗員乗客162人全員が死亡。
・1985年(昭和60)8月12日 日本航空123便 機種:ボーイング747SR-46
 状況: 1978年6月の尻もち事故の際にボーイング社が修理ミスを起こしたために、飛行中に圧力隔壁が破壊され、操縦系統が破損し操縦不能に陥り迷走した後に墜落。乗員乗客524人中520人が死亡。
・1994年(平成6)4月26日 中華航空140便 機種:エアバスA300B4-622R
 状況:名古屋空港への着陸復行の際に操縦士と機体制御システムが相反したあげく、失速し墜落。乗員乗客271人中264人が死亡。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1722年(享保7)徳川吉宗が「上米の制」を制定する(新暦8月14日)詳細
1888年(明治21)日本画家村上華岳の誕生日詳細
1912年(明治45)大阪市浪速区に初代通天閣が完成(通天閣の日)詳細
1916年(大正5)日本とロシアとの間で、「第四次日露協約」が締結される詳細
1947年(昭和22)連合国最高司令部(GHQ)より「商事会社の解体に関する覚書」 (SCAPIN-1741) が指令される詳細
1993年(平成5)俳人・国文学者加藤楸邨の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

33218b59.jpg
 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、北海道の開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置された日です。
 開拓使(かいたくし)は、明治時代前期に、北海道の開拓経営のためにおかれた行政機関でした。1869年(明治2年7月8日)に、版籍奉還直後の官制改革によって開拓使が設置(於:東京)され、1870年(明治3年2月13日)には、樺太開拓使を分置し、北海道開拓使と改称されます。
 同年5月に、黒田清隆(きよたか)が開拓次官となり、長官は東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)でしたが、実質的権力を握り、薩摩閥が支配するようになりました。1871年(明治4)に開拓使庁が札幌に移り、東京には出張所が設けられ、その後、開拓使の名称に戻ります。
 1871年(明治4)に、10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定されました。アメリカから招聘した、ケプロン以下の顧問団の助言により、札幌本府を開き、欧米の文化・技術を積極的に取り入れることとなります。
 移民・屯田兵 (とんでんへい) の奨励、道路・鉄道の敷設、港湾・炭田の開発、ビール、砂糖、亜麻(あま)、木材、漁具、農具など各種の製造工場の開設、W.S.クラークを招いての札幌農学校の創設などに努めました。1881年(明治14)に黒田は、開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設、設備を安値で払い下げることとする中で、スキャンダル(開拓使官有物払下げ事件)も起します。
 これらにより、本土との行政一元化のため、1882年(明治15)2月8日に、開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置され、官営諸事業の多くは、翌年に置かれた農商務省北海道事業管理局に移管されることになりました。その後、1886年(明治19年)1月26日には、3県1局が廃止され、北海道庁が設置されています。

〇開拓使関係略年表

・1869年(明治2年7月8日) 開拓使が設置(はじめ東京のち箱館)される 
・1870年(明治3年2月13日) 樺太開拓使を分置し、北海道開拓使と改称される
・1870年(明治3年5月) 黒田清隆(きよたか)が開拓次官となり実質的権力を握る
・1871年(明治4年5月) 開拓使庁が札幌に移る
・1871年(明治4年8月7日) 開拓使の名称に戻る
・1871年(明治4年8月19日) 10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定される
・1871年(明治4年12月) 亀田郡七重村に「七重開墾場」が開設される
・1872年(明治5年) 新規移民募集や新規移民優遇をやめ、既に定着した移民への援助に切り替える
・1872年(明治5年10月) 旧館県であった渡島国に属する福島郡、津軽郡、檜山郡、爾志郡の4郡が青森県から開拓使に移管される
・1873年(明治6年)6月 政府は北方警備と開拓とを兼任させる屯田兵制を開始するため、開拓使東京出張所に屯田課を設置する
・1874年(明治7年)8月 黒田清隆が長官となる
・1874年(明治7年)10月 屯田兵例則が制定される
・1875年(明治8年)3月 開拓使に屯田事務局が設置される
・1875年(明治8年)5月7日 「樺太・千島交換条約」によって、樺太を管轄から除き、得撫(ウルップ)島以北の千島列島を管轄に加える
・1875年(明治8年)5月17日 最初の屯田兵が北海道の琴似(現在の札幌市西区)に入植する
・1875年(明治8年)7月29日 開拓使仮学校が東京から札幌に移転し、札幌学校と改称する
・1876年(明治9年)8月14日 札幌学校は札幌農学校と改称して開校式が挙行される
・1876年(明治9年)9月 開拓使が札幌に札幌麦酒醸造所と葡萄酒醸造所を設立する
・1877年(明治10年)10月10日 開拓使の石狩缶詰所でサケの缶詰生産がはじまる
・1879年(明治12年) 官営の炭鉱として幌内炭鉱が開山する
・1880年(明治13年)11月28日 道内の開発と、産業振興に必要な幌内炭鉱の石炭を運び出すために官営幌内鉄道(手宮~札幌間)が開業する
・1880年(明治13年)12月 開拓使のてん菜糖工場を北海道胆振国有珠郡紋鼈村(今の伊達市)に建設する
・1881年(明治14年) 黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設、設備を安値で払い下げることとする(開拓使官有物払下げ事件)
・1882年(明治15年)2月8日 開拓使が廃止され、函館・札幌・根室の3県が設置される
・1883年(明治16年) 農商務省北海道事業管理局が設置される
・1886年(明治19年)1月26日 3県1局を廃止し、北海道庁が設置される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1716年(正徳6)画家伊藤若冲の誕生日(新暦3月1日)詳細
1869年(明治2)新聞発行に関する「新聞紙印行条例」(明治2年太政官布告第135号)が公布される(新暦3月20日)詳細
1899年(明治32)「高等女学校令」が公布される詳細
1915年(大正3)歌人・小説家長塚節の命日(節忌)詳細
1946年(昭和21)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)へ「憲法改正要綱」(松本私案)が提出される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ