承久の乱(じょうきゅうのらん)は、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。
この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。
この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。
6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。
その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱終結の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。
この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。
この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。
6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。
その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱終結の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。
〇『吾妻鏡』第廿五巻
<原文>
承久三年六月小十五日戊辰。陰。寅剋。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿祢爲勅使。被遣武州之陣。兩院〔土御門。新院〕。兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拝院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衛尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御随心頼武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢着于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰塲之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊巧近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。」今日。關東祈祷等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草淸書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。
<読下し文>
承久三年六月小十五日戊辰[1]。陰り[2]。寅の剋[3]。秀康[4]。胤義[5]等四辻殿[6]に參り、宇治勢多兩所の合戰[7]に於て、官軍敗北す。道路を塞ぐの上、すでに入洛[8]を欲す。縱い萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難きの由、同音[9]に奏聞す[10]。仍て大夫の史[11]國宗宿祢を以て勅使[12]と爲し、武州[13]の陣に遣はせらる。兩院[14]〔土御門。新院〕、兩親王[15]、賀茂・貴舟等の片土[16]に遁れしめ御うと云々。
辰の刻[17]、國宗院宣[18]を捧げ、樋口河原に於て、武州[13]に相逢い、子細を述ぶ。武州[13]院宣[18]を拝すべしと稱し、下馬しをはんぬ。共の勇士五千餘輩有り。この中に、院宣[18]を讀むべきの者候すかの由、岡村次郎兵衛の尉[19]を以て、相尋ねるの處、勅使河原小三郎云く。武藏國住人 藤田三郎は、文博士の者[20]なり。これを召し出す。藤田院宣[18]を讀む。その趣、今度の合戰、叡慮[21]に於て起こらず。謀臣[22]等の申し行う所なり。今に於ては、申し請けに任せ、宣下[23]せらるべし。洛中[24]に於て狼唳[25]に及ぶべからざるの由、東士[26]に下知[27]すべしてへり。その後また、御随心[28]頼武を以て、院中に於て武士の參入を停められをわんぬの旨、重ねて仰せ下さると云々。
盛綱[29]・秀康[4]逃亡す。胤義[5]東寺[30]の門内に引き籠るの處、東士[26]次第に入洛[8]し、胤義[5]と三浦、佐原の輩、合戰數反。兩方の郎從[31]多く以て戰死すと云々。
巳の刻[32]、相州[33]、武州[13]の勢六波羅[34]に着く。申の刻[35]、胤義[5]父子 西山の木嶋[36]に於て自殺す。
廷尉[37]の郎從[31]その首を取り。太秦[38]の宅へ持向う。義村[39]これを尋ね取り、武州[13]の舘へ送ると云々。秉燭[40]の程、官兵[41]が宿廬[42]、各に放火し、數箇所燒亡す。
運命今夜に限るの由、都人[43]皆迷い惑う。存に非ず亡に非ず。各東西に馳せ走る。秦項の災[44]に異ならず。東士[26]畿内[45]・畿外[46]に充滿し、戰塲を遁れる所の歩兵を求め出し、首を斬り、白刄を拭う[47]に暇有らず。人馬の死傷衢[48]を塞ぎ、行歩[49]安かならず。郷里に全く室無し。耕すに所無く苗殘る。武勇を好む西面[50]・北面[51]忽ち亡ぶ。邊に立ち巧む近臣・重臣、悉く虜えらる。悲いむべし。八十五代の澆季[52]に當り、皇家絶へんと欲す。
今日、關東[53]の祈祷等の結願[54]なり。屬星祭々文[55]、民部の大夫[56]行盛[57]相兼て淸書を草す。この期に及び、官兵[41]敗績[58]せしむ。仏力[59]・神力[60]の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。
【注釈】
[1]戊辰:つちのえたつ/ぼしん=十干と十二支とを組み合わせたものの第五番目。
[2]陰り:かげり=太陽や月の光が雲などによって少し暗くなること。
[3]寅の剋:とらのこく=午前4時頃。
[4]秀康:ひでやす=藤原秀康のこと。後鳥羽院の近臣で、西面・北面・滝口の武士などを勤め、承久の乱にあたっては総大将に任ぜられた。
[5]胤義:たねよし=三浦胤義のこと。大番役で在京中、後鳥羽院の誘引を受け、承久の乱では京方についた。
[6]四辻殿:よつつじどの=一条万里小路にあった御所。
[7]宇治勢多兩所の合戰:うじせたりょうしょのかっせん=宇治川の合戦のことで、激戦の末、6月14日に北条泰時率いる幕府軍が渡河に成功し京に入る。
[8]入洛:にゅうらく=京都に入ること。
[9]同音:どうおん=声をそろえて言うこと。
[10]奏聞す:そうもんす=天子に申し上げること。奏上する。
[11]大夫の史:たいふのし=史の大夫。左大史で、五位に叙せられた者。
[12]勅使:ちょくし=勅旨を伝えるために派遣される使者。
[13]武州:ぶしゅう=北條泰時のこと。
[14]兩院:りょういん=土御門上皇と順徳上皇のこと。
[15]兩親王:りょうしんのう=六条宮・冷泉宮の両親王のこと。
[16]片土:へんど=都の近辺。近郊。
[17]辰の刻:たつのこく=午前8時頃。
[18]院宣:いんぜん=院司などが上皇、法皇の意を受けて発行する文書。
[19]岡村次郎兵衛の尉:おかむらじろうひょうえのじょう=諏訪市岡村。諏訪神党。
[20]文博士の者:もんはくじのもの=学識のある者。学者の家の者。
[21]叡慮:えいりょ=天子の考え。天子の気持ち。
[22]謀臣:ぼうしん=はかりごとをめぐらす家臣。計略に巧みな家来。
[23]宣下:せんげ=天皇が宣旨(せんじ)を下すこと。また、宣旨が下ること。
[24]洛中:らくちゅう=みやこの中。京都の市街地の中をさす。
[25]狼唳:ろうれい=狼藉。乱暴なふるまい。
[26]東士:とうし=東国の武士。鎌倉幕府軍のこと。
[27]下知:げじ=上から下へ指図すること。命令。
[28]御随心:みずいじん=上皇や、摂政・関白・大臣・大将・納言・参議などの外出の時に、弓矢を持って警衛する近衛府の官人をいう。
[29]盛綱:もりつな=下総前司小野盛綱のこと。
[30]東寺:とうじ=京都市南区にある真言宗東寺派の総本山、教王護国寺(きょうおうごこくじ)の通称。
[31]郎從:ろうじゅう=郎等。郎党。従者。身分的に主人に隷属する従僕。
[32]巳の刻:みのこく=午前十時頃。
[33]相州:そうしゅう=北条時房のこと。
[34]六波羅:ろくはら=京都市東山区、鴨川東岸の六波羅蜜寺一帯の古称。鎌倉時代には六波羅探題が所在した。
[35]申の刻:さるのこく=午後四時頃。
[36]木嶋:このしま=京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋神社のあたりか?
[37]廷尉:ていい=三浦胤義のこと。
[38]太秦:うずまさ=京都市右京区の地名。
[39]義村:よしむら=三浦義村のこと。
[40]秉燭:へいしょく=灯火をつけるころ。ひともしどき。夕暮。
[41]官兵:かんぺい=国家の兵。官軍の兵。
[42]宿廬:しゅくろ=宿所。宿舎。
[43]都人:みやこびと=都に住んでいる人。都の人。都者。
[44]秦項の災:しんこうのわざわい=秦の始皇帝が六国と戦った災難。
[45]畿内:きない=京都に近い国々。山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国。
[46]畿外:きがい=京都から遠い国々。畿内以外の地。
[47]白刄を拭う:はくじんをぬぐう=刀の血糊をぬぐうの意味。
[48]衢:ちまた=四方に通じる道。よつつじ。
[49]行歩:ぎょうぶ=あるくこと。歩行。
[50]西面:さいめん=西面の武士のこと。院の御所の西面に伺候して、警固にあたった武士。後鳥羽院の時に設置され、承久の乱以後廃止された。
[51]北面:ほくめん=北面の武士のこと。院の御所の北面に伺候して、警固にあたった武士。白河上皇の時に創設。
[52]八十五代の澆季:はちじゅうごだいのぎょうき=八十五代(仲恭天皇)まで続いてきた天皇家のこと。
[53]關東:かんとう=鎌倉幕府のこと。
[54]祈祷等の結願なり:きとうらのけちがん=戦勝祈願の祈りの満たされた時。
[55]屬星祭々文:ぞくしょうさいさいぶん=属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)に捧げる誓文。
[56]民部の大夫:みんぶのたいふ=民部省の大丞・少丞で、五位に叙せられた者の称。
[57]行盛:ゆきもり=二階堂行盛のこと。
[58]敗績:はいせき=大敗すること。
[59]仏力:ぶつりき=仏の持つ計り知れない力。
[60]神力:しんりき=神の威力。神の通力。神通力。
<現代語訳>
承久3年6月小15日戊辰。曇天。午前四時頃、足利秀康・三浦胤義らは、一条万里小路にあった御所四辻殿に参上し、「宇治と勢多の合戦において、官軍が敗北しました。幕府軍は、道路を閉鎖した上で、すでに京都に入ろうとしています。たとえ万が一のことがあったとしても、今さら死を逃れる事は出来ないでしょう。」と、声をそろえて奏上した。よって、大夫の史国宗宿祢を勅使として、北條泰時の陣に派遣した。土御門上皇と順徳上皇、六条宮と冷泉宮は、賀茂・貴舟等の都の近辺に逃走したとということである。
午前八時頃、国宗は後鳥羽上皇の書を奉って、樋口河原において、北條泰時に面会し、詳しい事情を述べた。北條泰時は後鳥羽上皇の書を拝見しますと言って、下馬した。随伴する勇者は五千余りもあった。この中に、後鳥羽上皇の書を読める者がいないか尋ねたので、岡村次郎兵衛の尉が聞いて回ったところ、勅使河原小三郎が言うことには、「武藏国の住人である藤田三郎は、学識のある者である。」と、そこでこれを呼び出した。藤田は後鳥羽上皇の書を読み上げた。その内容は、「今度の合戦は、後鳥羽上皇の考えによって起こったものではない。計略に巧みな家臣らが申し出て引き起こしたものである。今においては、幕府方の申し出に従って、宣旨を下そうと思う。京都中において、乱暴なふるまいに及ばないようにとのこと、幕府軍に命令してほしい。」と。その後また、警衛担当の近衛府の官人である頼武によって、「院中において武士の参入を停止すること。」重ねて伝えてきたということである。
下総前司小野盛綱と足利秀康は逃亡した。三浦胤義は東寺(教王護国寺)の門内に立て籠っていたところ、幕府軍は次第に京都に入り、三浦胤義と三浦・佐原の連中は何度も戦い、双方の郎党は多くが戦死したということである。
午前十時頃、北條時房・泰時の軍勢が六波羅に到着した。午後四時頃、三浦胤義父子は、西山の木嶋において自殺した。
三浦胤義の郎党はその首を取り、太秦の宅へ持って向かいましたが、三浦義村はこれを探し当てて没収し、北條泰時の宿所へ送ったということである。夕暮の頃、官軍の兵が宿所に、各々に放火し、数か所が焼け落ちた。
都の運命も今夜で尽きるのではないかと、都の人々は皆迷い惑った。生死の境をそれぞれ東西に走り回っています。秦の始皇帝が六国と戦った災難に異ならず。幕府軍は京都の内外に満ち溢れ、戦場を逃れようとする歩兵を探し出し、首を斬り、刀の血糊をぬぐう暇もないぐらいだ。人や馬の死傷体がちまたを塞ぎ、歩くことも儘ならない。郷里には帰るべき家もない。耕すべき所も荒れ果て、苗が殘されている。武勇を誇りにしていた西面や北面の武士もたちまち亡んでしまった。近隣に住んでいた近臣や重臣も、ことごとく捕えられた。悲しいことである。85代(仲恭天皇)まで続いてきた天皇家についても、絶えてしまうのだろうか。
今日は、鎌倉幕府の祈祷等の満たされた時である。属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)に捧げる誓文は、民部の大夫二階堂行盛が前もって清書をしておいた。この期に及んで、官軍は大敗を喫した。神仏の力が未だ地に堕ちていないことを仰ぎ見るものである。
☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です)
<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される
<承久3年(1221年)>
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる
・7月9日 泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流される
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
707年(慶雲4) | 第42代天皇とされる文武天皇の命日(新暦7月18日) | 詳細 |
1242年(仁治3) | 鎌倉幕府の第3代執権北条泰時の命日(新暦7月14日) | 詳細 |
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