ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:北條泰時

houjyouyoshitokigotobajyouk
 今日は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、北條泰時・時房の幕府軍が後鳥羽上皇方を破って京都を占領し、承久の乱が終結した日ですが、新暦では7月6日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。
 この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。
 この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。
 6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。
 その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
 以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱終結の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『吾妻鏡』第廿五巻

<原文>

承久三年六月小十五日戊辰。陰。寅剋。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿祢爲勅使。被遣武州之陣。兩院〔土御門。新院〕。兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拝院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衛尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御随心頼武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢着于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰塲之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊巧近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。」今日。關東祈祷等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草淸書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。

<読下し文> 

 承久三年六月小十五日戊辰[1]。陰り[2]。寅の剋[3]。秀康[4]。胤義[5]等四辻殿[6]に參り、宇治勢多兩所の合戰[7]に於て、官軍敗北す。道路を塞ぐの上、すでに入洛[8]を欲す。縱い萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難きの由、同音[9]に奏聞す[10]。仍て大夫の史[11]國宗宿祢を以て勅使[12]と爲し、武州[13]の陣に遣はせらる。兩院[14]〔土御門。新院〕、兩親王[15]、賀茂・貴舟等の片土[16]に遁れしめ御うと云々。
 辰の刻[17]、國宗院宣[18]を捧げ、樋口河原に於て、武州[13]に相逢い、子細を述ぶ。武州[13]院宣[18]を拝すべしと稱し、下馬しをはんぬ。共の勇士五千餘輩有り。この中に、院宣[18]を讀むべきの者候すかの由、岡村次郎兵衛の尉[19]を以て、相尋ねるの處、勅使河原小三郎云く。武藏國住人 藤田三郎は、文博士の者[20]なり。これを召し出す。藤田院宣[18]を讀む。その趣、今度の合戰、叡慮[21]に於て起こらず。謀臣[22]等の申し行う所なり。今に於ては、申し請けに任せ、宣下[23]せらるべし。洛中[24]に於て狼唳[25]に及ぶべからざるの由、東士[26]に下知[27]すべしてへり。その後また、御随心[28]頼武を以て、院中に於て武士の參入を停められをわんぬの旨、重ねて仰せ下さると云々。
 盛綱[29]・秀康[4]逃亡す。胤義[5]東寺[30]の門内に引き籠るの處、東士[26]次第に入洛[8]し、胤義[5]と三浦、佐原の輩、合戰數反。兩方の郎從[31]多く以て戰死すと云々。
 巳の刻[32]、相州[33]、武州[13]の勢六波羅[34]に着く。申の刻[35]、胤義[5]父子 西山の木嶋[36]に於て自殺す。
 廷尉[37]の郎從[31]その首を取り。太秦[38]の宅へ持向う。義村[39]これを尋ね取り、武州[13]の舘へ送ると云々。秉燭[40]の程、官兵[41]が宿廬[42]、各に放火し、數箇所燒亡す。
 運命今夜に限るの由、都人[43]皆迷い惑う。存に非ず亡に非ず。各東西に馳せ走る。秦項の災[44]に異ならず。東士[26]畿内[45]・畿外[46]に充滿し、戰塲を遁れる所の歩兵を求め出し、首を斬り、白刄を拭う[47]に暇有らず。人馬の死傷衢[48]を塞ぎ、行歩[49]安かならず。郷里に全く室無し。耕すに所無く苗殘る。武勇を好む西面[50]・北面[51]忽ち亡ぶ。邊に立ち巧む近臣・重臣、悉く虜えらる。悲いむべし。八十五代の澆季[52]に當り、皇家絶へんと欲す。
 今日、關東[53]の祈祷等の結願[54]なり。屬星祭々文[55]、民部の大夫[56]行盛[57]相兼て淸書を草す。この期に及び、官兵[41]敗績[58]せしむ。仏力[59]・神力[60]の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。

【注釈】

[1]戊辰:つちのえたつ/ぼしん=十干と十二支とを組み合わせたものの第五番目。
[2]陰り:かげり=太陽や月の光が雲などによって少し暗くなること。
[3]寅の剋:とらのこく=午前4時頃。
[4]秀康:ひでやす=藤原秀康のこと。後鳥羽院の近臣で、西面・北面・滝口の武士などを勤め、承久の乱にあたっては総大将に任ぜられた。
[5]胤義:たねよし=三浦胤義のこと。大番役で在京中、後鳥羽院の誘引を受け、承久の乱では京方についた。
[6]四辻殿:よつつじどの=一条万里小路にあった御所。
[7]宇治勢多兩所の合戰:うじせたりょうしょのかっせん=宇治川の合戦のことで、激戦の末、6月14日に北条泰時率いる幕府軍が渡河に成功し京に入る。
[8]入洛:にゅうらく=京都に入ること。
[9]同音:どうおん=声をそろえて言うこと。
[10]奏聞す:そうもんす=天子に申し上げること。奏上する。
[11]大夫の史:たいふのし=史の大夫。左大史で、五位に叙せられた者。
[12]勅使:ちょくし=勅旨を伝えるために派遣される使者。
[13]武州:ぶしゅう=北條泰時のこと。
[14]兩院:りょういん=土御門上皇と順徳上皇のこと。
[15]兩親王:りょうしんのう=六条宮・冷泉宮の両親王のこと。
[16]片土:へんど=都の近辺。近郊。
[17]辰の刻:たつのこく=午前8時頃。
[18]院宣:いんぜん=院司などが上皇、法皇の意を受けて発行する文書。
[19]岡村次郎兵衛の尉:おかむらじろうひょうえのじょう=諏訪市岡村。諏訪神党。
[20]文博士の者:もんはくじのもの=学識のある者。学者の家の者。
[21]叡慮:えいりょ=天子の考え。天子の気持ち。
[22]謀臣:ぼうしん=はかりごとをめぐらす家臣。計略に巧みな家来。
[23]宣下:せんげ=天皇が宣旨(せんじ)を下すこと。また、宣旨が下ること。
[24]洛中:らくちゅう=みやこの中。京都の市街地の中をさす。
[25]狼唳:ろうれい=狼藉。乱暴なふるまい。
[26]東士:とうし=東国の武士。鎌倉幕府軍のこと。
[27]下知:げじ=上から下へ指図すること。命令。
[28]御随心:みずいじん=上皇や、摂政・関白・大臣・大将・納言・参議などの外出の時に、弓矢を持って警衛する近衛府の官人をいう。
[29]盛綱:もりつな=下総前司小野盛綱のこと。
[30]東寺:とうじ=京都市南区にある真言宗東寺派の総本山、教王護国寺(きょうおうごこくじ)の通称。
[31]郎從:ろうじゅう=郎等。郎党。従者。身分的に主人に隷属する従僕。
[32]巳の刻:みのこく=午前十時頃。
[33]相州:そうしゅう=北条時房のこと。
[34]六波羅:ろくはら=京都市東山区、鴨川東岸の六波羅蜜寺一帯の古称。鎌倉時代には六波羅探題が所在した。
[35]申の刻:さるのこく=午後四時頃。
[36]木嶋:このしま=京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋神社のあたりか?
[37]廷尉:ていい=三浦胤義のこと。
[38]太秦:うずまさ=京都市右京区の地名。
[39]義村:よしむら=三浦義村のこと。
[40]秉燭:へいしょく=灯火をつけるころ。ひともしどき。夕暮。
[41]官兵:かんぺい=国家の兵。官軍の兵。
[42]宿廬:しゅくろ=宿所。宿舎。
[43]都人:みやこびと=都に住んでいる人。都の人。都者。
[44]秦項の災:しんこうのわざわい=秦の始皇帝が六国と戦った災難。
[45]畿内:きない=京都に近い国々。山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国。
[46]畿外:きがい=京都から遠い国々。畿内以外の地。
[47]白刄を拭う:はくじんをぬぐう=刀の血糊をぬぐうの意味。
[48]衢:ちまた=四方に通じる道。よつつじ。
[49]行歩:ぎょうぶ=あるくこと。歩行。
[50]西面:さいめん=西面の武士のこと。院の御所の西面に伺候して、警固にあたった武士。後鳥羽院の時に設置され、承久の乱以後廃止された。
[51]北面:ほくめん=北面の武士のこと。院の御所の北面に伺候して、警固にあたった武士。白河上皇の時に創設。
[52]八十五代の澆季:はちじゅうごだいのぎょうき=八十五代(仲恭天皇)まで続いてきた天皇家のこと。
[53]關東:かんとう=鎌倉幕府のこと。
[54]祈祷等の結願なり:きとうらのけちがん=戦勝祈願の祈りの満たされた時。
[55]屬星祭々文:ぞくしょうさいさいぶん=属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)に捧げる誓文。
[56]民部の大夫:みんぶのたいふ=民部省の大丞・少丞で、五位に叙せられた者の称。
[57]行盛:ゆきもり=二階堂行盛のこと。
[58]敗績:はいせき=大敗すること。
[59]仏力:ぶつりき=仏の持つ計り知れない力。
[60]神力:しんりき=神の威力。神の通力。神通力。

<現代語訳>

 承久3年6月小15日戊辰。曇天。午前四時頃、足利秀康・三浦胤義らは、一条万里小路にあった御所四辻殿に参上し、「宇治と勢多の合戦において、官軍が敗北しました。幕府軍は、道路を閉鎖した上で、すでに京都に入ろうとしています。たとえ万が一のことがあったとしても、今さら死を逃れる事は出来ないでしょう。」と、声をそろえて奏上した。よって、大夫の史国宗宿祢を勅使として、北條泰時の陣に派遣した。土御門上皇と順徳上皇、六条宮と冷泉宮は、賀茂・貴舟等の都の近辺に逃走したとということである。
 午前八時頃、国宗は後鳥羽上皇の書を奉って、樋口河原において、北條泰時に面会し、詳しい事情を述べた。北條泰時は後鳥羽上皇の書を拝見しますと言って、下馬した。随伴する勇者は五千余りもあった。この中に、後鳥羽上皇の書を読める者がいないか尋ねたので、岡村次郎兵衛の尉が聞いて回ったところ、勅使河原小三郎が言うことには、「武藏国の住人である藤田三郎は、学識のある者である。」と、そこでこれを呼び出した。藤田は後鳥羽上皇の書を読み上げた。その内容は、「今度の合戦は、後鳥羽上皇の考えによって起こったものではない。計略に巧みな家臣らが申し出て引き起こしたものである。今においては、幕府方の申し出に従って、宣旨を下そうと思う。京都中において、乱暴なふるまいに及ばないようにとのこと、幕府軍に命令してほしい。」と。その後また、警衛担当の近衛府の官人である頼武によって、「院中において武士の参入を停止すること。」重ねて伝えてきたということである。
 下総前司小野盛綱と足利秀康は逃亡した。三浦胤義は東寺(教王護国寺)の門内に立て籠っていたところ、幕府軍は次第に京都に入り、三浦胤義と三浦・佐原の連中は何度も戦い、双方の郎党は多くが戦死したということである。
 午前十時頃、北條時房・泰時の軍勢が六波羅に到着した。午後四時頃、三浦胤義父子は、西山の木嶋において自殺した。
 三浦胤義の郎党はその首を取り、太秦の宅へ持って向かいましたが、三浦義村はこれを探し当てて没収し、北條泰時の宿所へ送ったということである。夕暮の頃、官軍の兵が宿所に、各々に放火し、数か所が焼け落ちた。
 都の運命も今夜で尽きるのではないかと、都の人々は皆迷い惑った。生死の境をそれぞれ東西に走り回っています。秦の始皇帝が六国と戦った災難に異ならず。幕府軍は京都の内外に満ち溢れ、戦場を逃れようとする歩兵を探し出し、首を斬り、刀の血糊をぬぐう暇もないぐらいだ。人や馬の死傷体がちまたを塞ぎ、歩くことも儘ならない。郷里には帰るべき家もない。耕すべき所も荒れ果て、苗が殘されている。武勇を誇りにしていた西面や北面の武士もたちまち亡んでしまった。近隣に住んでいた近臣や重臣も、ことごとく捕えられた。悲しいことである。85代(仲恭天皇)まで続いてきた天皇家についても、絶えてしまうのだろうか。
 今日は、鎌倉幕府の祈祷等の満たされた時である。属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)に捧げる誓文は、民部の大夫二階堂行盛が前もって清書をしておいた。この期に及んで、官軍は大敗を喫した。神仏の力が未だ地に堕ちていないことを仰ぎ見るものである。

☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)> 
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する 
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる 
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す 
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる 
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる 
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する 
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す 
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する 
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する 
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる 
・7月9日 泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流される 
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

707年(慶雲4)第42代天皇とされる文武天皇の命日(新暦7月18日)詳細
1242年(仁治3)鎌倉幕府の第3代執権北条泰時の命日(新暦7月14日)詳細
1705年(宝永2)歌人・俳人・和学者北村季吟の命日(新暦8月4日)詳細
1770年(明和7)浮世絵師鈴木春信の命日(新暦7月7日)詳細
1896年(明治29)明治三陸地震による大津波で死者約2万7千人の被害がが出る 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、鎌倉時代の1232年(貞永元)に、鎌倉幕府第3代執権北條泰時が「御成敗式目(貞永式目)」を制定した日ですが、新暦では8月27日となります。
 御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、第3代執権北条泰時の指導の下に、評定衆に命じて編纂させた武家に関する法律で、「貞永式目」とも言われました。1221年(承久3)の承久の乱後、武士の所領関係の訴訟、特に地頭と領家の貴族社寺との争いが激増したため、源頼朝以来の慣習法・判例などを規範とし、行政・訴訟などに関して定めた成文法で、51ヶ条からなっています。
 その内容は、〇劯甸愀検1、2条)、∨詆椶料反ァ3~5、37~40条)、E效亘 7、8、36、42、43、46~48条)、し沙? 9~17、32~34条)、タ涜価蠡核 18~27条)、α幣拏蠡魁6、28~31、35、41、44、45、49~51条)となっていました。不備の補充や新事態に対応するため、折に触れて追加法が制定され、これを「式目追加」、「追加」などと称しています。武家法の根本法典として、その後の室町幕府法や戦国家法に至るまで大きな影響を与えました。
 以下に、「御成敗式目(貞永式目)」を全文掲載しておきますので、御参照下さい。

〇『御成敗式目(貞永式目)』(全文)1232年(貞永元年8月10日)制定

<原文>

一、可修理神社專祭祀事
 右神者依人之敬增威、人者依神之德添運、然則恆例之祭祀不致陵夷、如在之禮奠莫令怠慢、因茲於關東御分國々并庄園者、地頭神主等各存其趣、可致精誠也、兼 又至有封社者、任代々符、小破之時且加修理、若及大破、言上子細、隨于其左右可有其沙汰矣

一、可修造寺塔勤行佛事等事
 右寺社雖異崇敬是同、仍修造之功、恆例之勤宜准先條、莫招後勘、但恣貪寺用、於不勤其役輩者、早可令改易彼職矣

一、諸國守護人奉行事
 右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〈付、夜討強盜山賊海賊〉等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地 利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤 守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役并謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或 就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也

一、同守護人不申事由、沒收罪科跡事
 右重犯之輩出來時者、須申子細隨左右之處、不決實否不糺輕重、恣稱罪科之跡、私令沒收之條、理不盡之沙汰、甚自由之姧謀也、早注進其旨、宜令蒙裁斷、猶以 違犯者、可被處罪科、次犯科人田畠在家并妻子資財事、於重科之輩者、雖召渡守護所、至田宅妻子雜具者、不及付渡、兼又同類事、縱雖載白状、無財物者更非沙 汰之限

一、諸國地頭令抑留年貢所當事
 右抑留年貢之由、有本所之訴訟者、即遂結解可請勘定、犯用之條若無所遁者、任員數可辨償之、但於爲少分者早速可致沙汰、至過分者三箇年中可辨濟也、猶背此 旨令難澁者、可被改所職也

一、國司領家成敗不及關東御口入事
 右國衙庄園神社佛寺領、爲本所進止、於沙汰來者、今更不及御口入、若雖有申旨、敢不能敍用、次不帶本所擧状、致越訴事、諸國庄園并神社佛寺領、以本所擧状 可經訴訟之處、不帶其状者既背道理歟、自今以後不及成敗

一、右大將家以後代々將軍并二位殿御時所宛給所領等、依本主訴訟被改補否事
 右或募勳功之賞、或依宮仕之勞拜領之事、非無由緖、而稱先祖之本領於蒙裁許、一人縱雖開喜悅之眉、傍輩定難成安堵之思歟、濫訴之輩可被停止、但當時給人有 罪科之時、本主守其次企訴訟事、不能禁制歟、次代々御成敗畢後擬申亂事、依無其理被弃置之輩、歴歳月之後企訴訟之條、存知之旨罪科不輕、自今以後不顧代々 御成敗、猥致面々之濫訴者、須以不實之子細被書載所帶之證文

一、雖帶御下文不令知行、經年序所領事

 右當知行之後過廿箇年者、任右大將家之例、不論理非、不能改替、而申知行之由、掠給御下文之輩、雖帶彼状不及敍用

一、謀叛人事
 右式目之趣兼日難定歟、且任先例且依時議、可被行之

一、殺害刃傷罪科事〈付、父子咎相互被懸否事〉
 右或依當座之諍論、或依遊宴之醉狂、不慮之外若犯殺害者、其身被行死罪并被處流罪、雖被沒收所帶、其父其子不相交者、互不可懸之、次刃傷科事同可准之、次 或子或孫、於殺害父祖之敵、父祖縱雖不相知、可被處其罪、爲散父祖之憤、忽遂宿意之故也、次其子若欲奪人之所職、若爲取人之財寶、雖企殺害、其父不知之由 在状分明者、不可處縁座

一、依夫罪過、妻女所領沒收否事
 右於謀叛殺害并山賊海賊夜討強盗等重科者、可懸夫咎也、但依當座之口論、若及刃傷殺害者、不可懸之

一、惡口咎事
 右鬪殺之基起自惡口、其重者被處流罪、其輕者可被召籠也、問注之時吐惡口、則可被付論所於敵人、又論所事無其理者、可被沒收他所領、若無所帶者、可處流罪也

一、毆人咎事
 右被打擲之輩爲雪其恥、定露害心歟、毆人之科甚以不輕、仍於侍者可被沒收所領、無所帶者可處流罪、至于郞從以下者可令召禁其身也

一、代官罪過懸主人否事
 右代官之輩有殺害以下重科之時、件主人召進其身者、主人不可懸科、但爲扶代官、無咎之由主人陳申之處、實犯露顯者、主人難遁其罪、仍可被沒收所領、至彼代 官者可被召禁也、兼又代官或抑留本所之年貢、或違背先例之率法者、雖爲代官之所行、主人可懸其過也、加之代官若依本所之訴訟、若就訴人之解状、自關東被召 之、自六波羅被催之時、不遂參決、猶令張行者、同又可被召主人之所帶、但隨事之躰可有輕重歟

一、謀書罪科事
 右於侍者可被沒收所領、若無所帶者、可被處遠流也、凡下輩者、可被捺火印於其面也、執筆之者、又與同罪、次以論人所帶之證文爲謀書之由、多以稱之、披見之 處、若爲謀書者、最任先條可有其科、又無文書之紕繆者、仰謀略之輩、可被付神社佛寺之修理、但至無力之輩者、可被追放其身也

一、承久兵亂時沒收地事
 右致京方合戰之由依聞食及、被沒收所帶之輩、無其過之旨、證據分明者、宛給其替於當給人、可返給本主也、是則於當給人者、有勳功奉公故也、次關東御恩輩之 中、交京方合戰事、罪科殊重、仍即被誅其身、被沒收所帶畢、而依自然之運遁來之族、近年聞食及者、縡已違期之上、尤就寬宥之儀、割所領内、可被沒收五分 一、但御家人之外下司庄官之輩、京方之咎、縱雖露顯、今更不能改沙汰之由、去年被議定畢、者不及異儀、次以同沒收之地、稱本領主訴申事、當知行之人、依有 其過沒收之、宛給勳功之輩畢、而彼時之知行者非分之領主也、任相傳之道理可返給之由訴申之類、多有其聞、既就彼時知行普被沒收畢、何閣當時領主、可尋往代 之由緖哉、自今以後可停止濫望矣

一、同時合戰罪過父子各別事
 右父者雖交京方、其子候關東、子者雖交京方、其父候關東之輩、賞罰已異、罪科何混、又西國住人等、雖爲父雖爲子、一人參京方者、住國之父子不可遁其咎、雖 不同道、依令同心也、但行程境遙音信難通、共不知子細者、互難被處罪科歟

一、讓與所領於女子後、依有不和儀、其親悔還否事
 右男女之號雖異、父母之恩惟同、法家之倫雖有申旨、女子則頼不悔還之文、不可憚不孝之罪業、父母亦察及敵對之論、不可讓所領於女子歟、親子義絶之起也、既 敎令違犯之基也、女子若有向背之儀者、父母宜任進退之意、依之女子者爲全讓状、竭忠孝之節、父母者爲施撫育、均慈愛之思者歟

一、不論親疎被眷養輩、違背本主子孫事
 右頼人之輩、被親愛者如子息、不然者又如郞從歟、爰彼輩令致忠勤之時、本主感歎其志之餘、或渡宛文、或與讓状之處、稱和與之物對論本主子孫之條、結構之趣 甚不可然、求媚之時者、且存子息之儀、且致郞從之禮、向背之後者、或假他人之號、或成敵對之思、忽忘先人之恩顧、違背本主之子孫者、於得讓之所領者、可被 付本主之子孫矣

一、得讓状後、其子先于父母令死去跡事
 右其子雖令見存、至令悔返者、有何妨哉、況子孫死去之後者、只可任父祖之意也

一、妻妾得夫讓、被離別後、領知彼所領否事
 右其妻依有重科於被弃捐者、縱雖有往日之契状、難知行前夫之所領、又彼妻有功無過、賞新弃舊者、所讓之所領不能悔還

一、父母所領配分時、雖非義絶、不讓與成人子息事
 右其親以成人之子令吹擧之間、勵勤厚之思、積勞功之處、或就繼母之讒言、或依庶子之鍾愛、其子雖不被義絶、忽漏彼處分、侘傺之條非據之至也、仍割今所立之 嫡子分、以五分一可宛給無足之兄也、但雖爲少分於計宛者、不論嫡庶、宜依證跡、抑雖爲嫡子無指奉公、又於不孝之輩者、非沙汰之限

一 女人養子事
 右如法意者、雖不許之、右大將家御時以來至于當世、無其子之女人等讓與所領於養子事、不易之法不可勝計、加之都鄙之例先蹤惟多、評議之處尤足信用歟

一、讓得夫所領後家、令改嫁事
 右爲後家之輩讓得夫所領者、須抛他事訪夫後世之處、背式目事非無其咎歟、而忘貞心令改嫁者、以所得之領地、可宛給亡夫之子息、若又無子息者、可有別御計

一、關東御家人以月卿雲客爲婿君、依讓所領、公事足減少事
 右於所領者讓彼女子雖令各別、至公事者隨其分限可被省宛也、親父存日縱成優如之儀、雖不宛課、逝去後者尤可令催勤、若募權威不勤仕者、永可被辭退件所領 歟、凡雖爲關東祗候之女房、敢勿泥殿中平均之公事、此上猶令難澁者、不可知行所領也

一、讓所領於子息、給安堵御下文之後、悔還其領、讓與他子息事
 右可任父母意之由、具以載先條畢、仍就先判之讓、雖給安堵御下文、其親悔還之、於讓他子息者、任後判之讓、可有御成敗

一、未處分跡事
 右且隨奉公之淺深、且糺器量之堪否、各任時宜可被分宛

一、搆虚言致讒訴事
 右和面巧言掠君損人之屬、文籍所載、其罪甚重、爲世爲人不可不誡、爲望所領企讒訴者、以讒者之所領、可宛給他人、無所帶者可處遠流、又爲塞官途搆讒言者、 永不可召仕彼讒人

一、閣本奉行人、付別人企訴訟事
 右閣本奉行人、更付別人内々企訴訟之間、參差之沙汰不慮而出來歟、仍於訴人者暫可被押裁許、至執申人者可有御禁制、奉行人若令緩怠、空經廿箇日者、於庭中 可申之

一、遂問註輩、不相待御成敗、執進權門書状事
 右預裁許之者、悅強縁之力、被棄置之者、愁權門之威、爰得理之方人者、頻稱扶持之芳恩、無理之方人者、竊猜憲法之裁斷、黷政道事職而斯由、自今以後慥可停 止也、或付奉行人、或於庭中、可令申之

一、依無道理不蒙御裁許輩、爲奉行人偏頗由訴申事
 右依無其理不關裁許之輩、爲奉行人偏頗之由搆申之條、太以濫吹也、自今以後、搆出不實企濫訴者、可被收公所領三分一、無所帶者可被追却、若又奉行人有其誤 者、永不可召仕

一、隱置盜賊惡黨於所領内事
 右件輩雖有風聞、依不露顯不能斷罪、不加炳誡、而國人等差申之處、召上之時者、其國無爲也、在國之時者、其國狼藉也云々、仍於縁邊之凶賊者、付證跡可召 禁、又地頭等至穩置賊徒者、可爲同罪也、先就嫌疑之趣召置地頭於鎌倉、彼國不落居之間、不可給身暇矣、次被停止守護使入部所々事、同惡黨等出來之時者、不 日可召渡守護所也、若於拘惜者、且令入部守護使、且可改補地頭代也、若又不改代官者、被沒收地頭職、可被入守護使

一、強竊二盜罪科事付放火人事
 右既有斷罪之先例、何及猶豫之新儀哉、次放火人事、准據盜賊宜令禁遏

一、密懷他人妻罪科事
 右不論強姧和姧、懷抱人妻之輩、被召所領半分、可被罷出仕、無所帶者可處遠流也、女之所領同可被召之、無所領者又可被配流之也、次於道路辻捕女事、於御家 人者百箇日之間可止出仕、至郞從以下者、任右大將家御時之例、[可]可剃除片方鬢髮也、但於法師罪科者、當于其時可被斟酌

一、雖給度々召文不參上科事
 右就訴状遣召文事及三箇度、猶不參決者、訴人有理者、直可被裁許、訴人無理者、又可給他人也、但至所從牛馬并雜物等者、任員數被糺返、可被付寺社修理也

一、改舊境、致相論事
 右或越往昔之堺、搆新儀案妨之、或掠近年之例、捧古文書論之、雖不預裁許無指損之故、猛惡之輩動企謀訴、成敗之處非無其煩、自今以後遣實檢使糺明本跡、爲 非據之訴訟者、相計越境成論之分限、割分訴人領地内、可被付論人之方也

一、關東御家人申京都、望補傍官所領上司事
 右々大將家御時一向被停止畢、而近年以降企自由之望、非啻背禁制、令覃喧嘩歟、自今以後、於致濫望之輩者、可被召所領一所也

一、惣地頭押妨所領内名主職事
 右給惣領之人、稱所領内掠領各別村事、所行之企難遁罪科、爰給別御下文、雖爲名主職、惣地頭若伺尫弱隙、有限沙汰之外、巧非法致濫妨者、可給別納御下文於 名主也、名主又寄事於左右、不顧先例、違背地頭者、可被改名主職也

一、官爵所望輩、申請關東御一行事
 右被召成功之時、被注申所望人者、既是公平也、仍非沙汰之限、爲昇進申擧状事、不論貴賤一向可停止之、但申受領檢非違使之輩、於爲理運者、雖非御擧状、只 有御免之由、可被仰下歟、兼又新敍之輩、巡年廻來浴朝恩者、非制限

一、鎌倉中僧徒、恣諍官位事
 右依綱位亂﨟次之故、猥求自由之昇進、彌添僧綱之員數、雖爲宿老有智高僧、被越少年無才之後輩、即是且傾衣鉢之資、且乖經敎之義者也、自今以後不蒙免許昇 進之輩、爲寺社供僧者、可被停廢彼職也、雖爲御歸依之僧、同以可被停止之、此外禪侶者、偏仰顧眄之人、宜有諷諫之誡

一、奴婢雜人事
 右任右大將家御時之例、無其沙汰過十箇年者、不論理非不及改沙汰、次奴婢所生男女事、如法意者雖有子細、任同御時之例、男者付父、女者付母也

一、百姓迯散時、稱逃毀令損亡事
 右諸國住民迯脱之時、其領主等稱迯毀、抑留妻子奪取資財、所行之企甚背仁政、若被召決之處、有年貢所當之未濟者、可致其償、不然者、早可被糺返損物、但於 去留者宜任民意也

一、稱當知行掠給他人所領、貪取所出物事
 右搆無實掠領事、式目所推難脱罪科、仍於押領物者、早可令糺返、至所領者、可被沒收也、無所領者、可被處遠流、次以當知行所領、無指次申給安堵御下文事、 若以其次始致私曲歟、自今以後可被停止

一、傍輩罪過未斷以前、競望彼所帶事
 右積勞効之輩、企所望者常習也、而有所犯之由、令風聞之時、罪状未定之處、爲望件所領、欲申沈其人之條、所爲之旨敢非正義、就彼申状有其沙汰者、虎口之讒 言蜂起不可絶歟、縱使雖爲理運之訴訟、不被敍用兼日之競望

一、罪過由披露時、不被糺決改替所職事
 右無糺決之儀有御成敗者、不論犯否定貽鬱憤歟、者早究淵底可被禁斷

一、所領得替時、前司新司沙汰事
 右於所當年貢者、可爲新司之成敗、至私物雜具并所從馬牛等者、新司不及抑留、況令與恥辱於前司者、可被處別過怠也、但依重科被沒收者、非沙汰之限

一、以不知行所領文書、寄附他人事<付、以名主職不相觸本所、寄進權門事>
 右自今以後於寄附之輩者、可被追却其身也、至請取之人者、可被付寺社修理、次以名主職不令知本所、寄附權門事、自然有之、如然之族者、召名主職可被付地 頭、無地頭之所者、可被付本所

一、賣買所領事
 右以相傳之私領、要用之時、令沽却者定法也、而或募勳功或依勤勞、預別御恩之輩、恣令賣買之條、所行之旨非無其科、自今以後慥可被停止也、若又背制符令沽 却者、云賣人云買人、共以可被處罪科

一、兩方證文理非顯然時、擬遂對決事
 右彼此證文理非懸隔之時者、雖不遂對決、直可有成敗歟

一、狼藉時、不知子細出向其庭輩事
 右於同意與力之科者、不及子細、至其輕重者、兼難定式條、尤可依時宜歟、爲聞實否、不知子細、出向其庭者、不及罪科

一、帶問状御敎書、致狼藉事
 右就訴状被下問状者定例也、而以問状致狼藉事、姧濫之企難遁罪科、所申爲顯然之僻事者、給問状事一切可被停止

起請

 御評定間理非決斷事

 右愚暗之身、依了見之不及、若旨趣相違事、更非心之所曲、其外、或爲人之方人乍知道理之旨、稱申無理之由、又爲非據事、號有證跡、爲不顯人之短、乍令知子 細、付善惡不申之者、意與事相違、後日之紕繆出來歟、凡評定之間、於理非者不可有親疎、不可有好惡、只道理之所推、心中之存知、不憚傍輩、不恐權門、可出 詞也、御成敗事切之條々、縱雖不違道理一同之憲法也、誤雖被行非據一同之越度也、自今以後相向訴人并縁者、自身者雖存道理、傍輩之中以其人之説、致違亂之 由有其聞者、已非一味之義、殆貽諸人之嘲者歟、兼又依無道理、評定之庭被弃置之輩越訴之時、評定衆之中、被書與一行者、自餘之計皆無道之由、獨似被存之 歟、者條々子細如此、若雖一事、存曲折令違犯者

 梵天帝釋四大天王惣日本國中六十餘州大小神祇、殊伊豆筥根兩所權現三嶋大明神八幡大菩薩天滿大自在天神部類眷屬、神罰冥罰各可罷蒙者也、仍起請如件
    貞永元年七月十日
齊藤兵衞        沙彌    淨圓
佐藤          相模大掾  藤原業時
太田町野康俊弟之    玄蕃允   三善康連
後藤大夫判官      左衞門少尉 藤原朝臣基綱
二階堂信濃民部大夫入道 沙彌    行然
矢野外記大夫      散位    三善朝臣倫重
町野民部大夫      加賀守   三善朝臣康俊
二階堂隱岐入道     沙彌    行西
中條          前出羽守  藤原朝臣家長
三浦          前駿河守  平朝臣義村
大外記         攝津守   中原朝臣師貞
北條          武藏守   平朝臣泰時
北條          相模守   平朝臣時房

 于時天正七年己卯五月一日書之畢

<読み下し文>

一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
 右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。然れば則ち恒例の祭祀は陵夷を致さず、如在の礼奠は怠慢せしむるなかれ。これによつて関東御分の国々ならびに庄園に於ては、地頭神主ら各その趣を存し、精誠を致すべきなり。兼てまた有封の社に至つては、代々の符に任せ、小破の時は且修理を加へ、もし大破に及び子細を言上せば、その左右に随てその沙汰あるべし。

一、寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事
 右、寺社異なると雖も崇敬これ同じ。よつて修造の功、恒例の勤め、宜しく先条に准じ後勘を招ぐことなかるべし。但し恣に寺用を貪り、その役を勤めざるの輩に於ては、早く彼の職を改易せしむべし。

一、諸国守護人奉行の事
 右、右大将家の御時定め置かるゝ所は、大番催促、謀叛、殺害人<付>[夜討、強盗、山賊、海賊]等の事なり。しかるに近年に至りて代官を郡郷に分ち補し、公事を庄保に宛て課せ、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以て無道なり。
 そもそも重代の御家人たりと雖も、当時の所帯無き者は、駆り催すことあたはず。兼てまた所々の下司庄官以下、その名を御家人に仮りて、国司領家の下知と対捍すと云々。しかる如きの輩は、守護役を勤むべきの由たとへ望み申すと雖も一切催を加ふべからず。
 早く右大将家御時の例に任せ、大番役ならびに謀叛殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし。もしこの式目 に背き自余の事に相交る者、或は国司領家の訴訟により、或は地頭土民の愁鬱につき、非法の至り顕然たる者は、所帯の職を改められ穏便の輩を補すべきなり。また代官に至つては一人を定むべきなり。

一、同じく守護人、事の由を申さず、罪科の跡を没収する事
 右、重犯の輩出来の時は、須く子細を申し左右に随ふべきのところ、実否を決せず、軽重を糺さず、恣に 罪科の跡と称して私に没収せしむるの条、理不尽の沙汰甚だ自由の奸謀なり。早くその旨を注進し、宜しく裁断を蒙るべし。なほ以て違犯する者は罪科に処せらるべし。
 次に、犯科人の田畠在家ならびに妻子資財の事。重科の輩に於ては守護所に召し渡すと雖も、田宅妻子雑具に至つては付け渡すに及ばず。兼てまた同類の事。たとへ白状に載すると雖も、財物無くば更に沙汰の限りに非ず。

一、諸国地頭、年貢所当を抑留せしむる事
 右、年貢を抑留するの由、本所の訴訟有らば、即ち結解を遂げ勘定を請ふべし。犯用の条もし遁るゝところ無き者は、員数に任せてこれを弁償すべし。但し少分たるに於ては早速沙汰を致すべ し。過分に至る者は三箇年中に弁済すべきなり。なほこの旨に背き難渋せしむる者は、所職を改めらるべきなり。

一、国司領家の成敗は、関東御口入に及ばざる事
 右、国衙庄園神社仏寺、本所の進止として沙汰し来るに於ては、今更御口入に及ばず。もし申す旨ありと雖も 敢て敘用するあたはず。
 次に、本所の挙状を帯びず越訴致す事、諸国庄園ならびに神社仏寺領は本所の挙状を以て訴訟を経べきのところ、その状を帯びざる者は、既に道理に背く歟。自今以後成敗に及ばず。

一、右大将家以後代々の将軍ならびに二位殿御時宛て給はれし所領等、本主の訴訟により改補せらるゝや否やの事
 右、或は勲功の賞に募り、或は宮仕の労によつて拝領の事、由緖無きに非ず。しかるに先祖の本領と 称し裁許を蒙るに於ては、一人たとへ喜悦の眉を開くと雖も、傍輩も定めて安堵の思ひを成し難き歟。濫訴の輩停止せらるべし。但し、当時の給人罪科あるの時、本主その次を守り、訴訟を企つる事は、禁制することあたはざる歟。
 次に、代々の御成敗畢りて後、申し乱らんと擬するの事。その理無きによつて棄て置かるゝの輩、歳月を歴るの後、訴訟を企つるの条、存知の旨、罪科軽からず。自今以後、代々の御成敗を顧みず、猥りに面々の濫訴を致す者は、須く不実の子細を以て、帯ぶる所の証文に書き載せらるべし。

一、御下文を帯ぶると雖も知行せしめず年序経たる所領の事
 右、当知行の後、廿箇年を過ぎたる者は、右大将家の例に任せ、理非を論ぜず、改替するあたはず。而るに知行の由を申し御下文を掠め給はるの輩、彼の状を帯ぶと雖も敘用するに及ばず。

一、謀叛人の事
 右、式目の趣、兼日に定め難き歟。且先例に任せ、且時議によつてこれを行はるべし。

一、殺害刃傷の事〈付>[父子の咎、相互に懸けらるゝや否やの事]
 右、或は当座の諍論により、或は遊宴の酔狂によつて、不慮の外にもし殺害を犯す者は、その身死罪に行はれ、ならびに流刑 に処せられ、所帯没収せらるゝと 雖も、その父、その子相交はらざる者は、互にこれを懸くべからず。
 次に、刃傷の科の事も同じくこれに准ずべし。
 次に、或は子、或は孫、父祖の敵を殺害する に 於ては、父祖たとへ相知らずと雖も、その罪に処せらるべし。父祖の憤りを散ぜんがため、忽ち宿意を遂ぐる故なり。
 次に、もし人の所職を奪はんと欲し、もし 人の財宝を取らんとなし、殺害を企つと雖も、その父知らざるの由、在状分明の者は、縁座に処すべからず。

一、夫の罪過によつて、妻女の所領没収せらるゝや否やの事
 右、謀叛殺害ならびに山賊海賊夜討強盗等の重科に於ては、夫の咎に懸かるべきなり。但し当座の口論により、もし刃傷殺害に及べばこれを懸くべからず。

一、悪口咎の事
 右、闘殺の基は悪口より起る。その重き者は流罪に処せされ、その軽き者は召し籠めらるべきなり。問注の時悪口を吐けば、則ち論所を敵人に付けらるべし。また論所の事、その理無き者は、他の所領を没収せらるべし。もし所帯なき者は、流罪に処せられるべきなり。

一、人を殴つ咎の事
 右、打擲せらるゝの輩はその恥を雪がんため定めて害心を露す歟。人を殴つの科、甚だ以て軽からず。よつて侍に於ては所領を没収 せらるべ し。所帯無き者は流罪に処すべし。郎従以下に至つては、その身を召し禁ぜしむべき也。

一、代官の罪科は主人に懸かるや否やの事
 右、代官の輩、殺害以下の重科あるの時、件の主人その身を召し進ぜば主人に科を懸くべからず。但し代官を扶くるために、咎無きの由を 主人陳じ申すのところ、実犯露顕せば、主人その罪遁れ難し。よつて所領を没収せらるべし。彼の代官に至つては召し禁ぜ らるべきなり。
 兼てまた代官、或は本所の年貢を抑留し、或は先例の率法に違背する者は、代官の所行たりと雖も主人にその過を懸くべきなり。
 加之代官もし本所の訴訟により、もしくは訴人の解状につき、関東よりこれを召され、六波羅よりこれを催さるゝの時、参決を遂げず、なほ張行せしむる者は、同じくまた主人の所帯を召さるべし。但し、事の躰に随ひて軽 重ある べき歟。

一、謀書の罪科の事<付>[論人の所帯する証文を以て謀書と称する事]
 右、侍に於ては所領を没収せらるべし。もし所帯なき者は遠流に処せらるべきなり。凡下の輩は火印をその面に捺さるべきなり。執筆の者もま たともに同罪たり。
 次に論人所帯の証文を以て謀書たるの由、多く以てこれを称す。披見のところ、もし謀書たらば、最も先条に任せその科あるべし。ま た文書の紕繆無くば、謀略の輩に仰せて神社仏寺の修理に付せらるべし。但し無力の輩に至つて は、その身を追放せらるべきなり。

一、承久兵乱の時の没収地の事
 右、京方の合戦を致すの由、聞しめし及ぶによつて、所帯を没収せられし輩、その過無きの旨、証拠分明ならば、その替を当 給人に宛て給ひ、本主に返し給ふべきなり。これ則ち、当給人に於ては勲功の奉公あるの故なり。
 次に、関東御恩の輩の中、京方の 合戦に交はりし 事、罪科殊に重し。よつて即ちその身を誅せられ、所帯を没収せられ畢んぬ。しかるを自然の運によつて遁れ来るの族、近年 聞こしめし及ぶ者、縡すで違期の上、もつとも寛宥の儀につき、所領内を割き五分の一を没収せられるべし。但し、御家人のほかに 下司庄官の輩は、京方の咎、縦へ露顕すると雖も、今更改沙汰することあたはざるの由、去年議定せられ畢んぬ、者異儀に 及ばず。
 次 に、同じく没収の地を以て、本領主と称し訴へ申す事。当知行の人その過あるによりてこれを没収し、勲功の輩に宛て給ひ畢ん ぬ。しかるを、彼の時の知行の者は非分の領主なり相伝の道理に任せてこれを返給すべきの由、訴へ申すの類多くそ の聞こえあり。既に彼の時の知行につきて、あまねく没収せられ畢んぬ。何ぞ当時の領主を閣きて、往代の由緖を尋ぬべけんや。 自今以後、濫望を停止すべし。

一、同じ時の合戦の罪科は父子各別なる事
 右、父は京方に交ると雖もその子関東に候じ、子は京方に交ると雖もその父関東に候ずるの輩は、賞罰すでに異なり、罪科なんぞ混からん。また西国の住人等は父たりと雖も子たりと雖も、一人京方参ぜし者は、住国の父子その咎を遁るべからず。同道せずと雖も、同心せしむるによつ て なり。但し行程境遥かにして音信通じ難く、共に子細を知らざる者は、互ひに罪科に処せられ難からん歟。

一、所領を女子に讓り与へたる後、不和の儀あるによつて、その親悔い還すや否やの事
 右、男女の号異なると雖も、父母の恩これ同じ。法家の倫申す旨有りと雖も、女子則ち悔い還さゞるの文に 頼みて、不孝の罪業憚るべからず。父母また敵対の論に及ぶを察し、所領を女子に讓るべからざる歟。親子義絶の起りなり、既に教令違犯の基 な り。女子もし向背の儀有らば、父母宜しく進退の意に任すべし。これによつて、女子は讓状を全うせんがため忠孝の節を竭し、父母は撫育を施さんがため慈愛の思ひを均しうするものならん歟。

一、親疎を論ぜず眷養せらるゝ輩、本主の子孫に違背する事
 右、人を頼むの輩、親愛せらるれば子息の如く、然らずばまた郎従の如き歟。ここに彼の輩、忠勤を致さしむるの時、本主その志 に感嘆するの余り、 或は宛文を渡し、或は讓状を与ふるのところ、和与の物と称して本主の子孫に対論するの条、結構の趣甚だ然るべ か らず。媚を求むるの時は、且は子息の儀を存し、且は郎従の礼を致し、向背の後は、或は他人の号を仮り或は敵対の思ひを成し、忽ち 先人の恩顧を忘る。本 主の子孫に違背せば、讓りを得たるの所領に於ては、本主の子孫に付せらるべし。

一、讓状を得るの後、その子父母に先んじ死去せし跡の事
 右、その子見存せしむと雖も、悔い還さしむるに至つては何の妨げ有らんや。況や子孫死去の後は、只父祖の意に任すべきなり。

一、妻妾、夫の讓を得、離別せらるゝの後、彼の所領を領知するや否やの事
 右、その妻重科あるによつて棄捐せらるゝに於ては、たとへ往日の契状有りと雖も、前夫の所領を知行し難し。また彼の妻功有りて過無 く、新しきを賞し旧きを棄てば、讓る所の所領悔い還すあたはず。

一、父母所領配分の時、義絶に非ずと雖も、成人の子息に讓り与へざる事
 右、その親成人の子を以て吹挙せしむるの間、勤厚の思ひを励まし労功を積むのところ、或は継母の讒言に つき、或は庶子の鍾愛により、その子義絶せられずと雖も、忽ち彼の処分に漏る。侘?の条、非拠の至りな り。よつて今立つる所の嫡子の分を割き、五分一を以て無足の兄に宛て給るべきなり。但し少分たりと雖も計らひ 宛つるに於ては、 嫡庶を論ぜず、宜しく証跡によるべし。抑も嫡子たりと雖もさしたる奉公無く、また 不孝の輩に於ては、沙汰の限りに非ず。

一 女人養子の事
 右、法意の如くばこれを許さずといへども、右大将家の御時以来当世に至るまで、その子なきの女人ら所領を養子に讓り与ふる事、不易の法勝計すべからず。しかのみならず都鄙の例先蹤これ多し。評議のところもつ とも信用に足る歟。

一、夫の所領を讓り得たる後家、改嫁せしむる事
 右、後家たるの輩、夫の所領を讓り得ば、須く他事を抛ちて夫の後世を訪ふべきのところ、式目に背く事その咎 無きに非ざる歟。しかして忽ち貞心を忘れ改嫁せしめば、得る所の領地を以て亡夫の子息に宛て給るべし。もしまた子息無くば別の御計らひあるべし。

一、関東御家人、月卿雲客を以て婿君となし、所領を讓るによつて、公事足減少 の事
 右、所領に於ては彼の女子に讓り各別せしむると雖も、公事に至つてはその分限に随ひて省き宛てらるべき なり。親父存する日は、たとへ優恕の儀を成し宛て課せずと雖も、逝去の後はもつとも催勤せしむべし。もし権威に募り勤仕せざる者は、永く件の所領を辞退せらるべき歟。凡そ関東祗候の女房たりと雖も、敢へて殿中平均の公事に泥むなかれ。この上なほ難渋せしむ る者 は、所領を知行すべからず。

一、所領を子息に讓り、安堵の御下文を給はるの後、その領を悔い還し、他の子息に讓り与ふる事
 右、父母の意に任すべきの由、具に以て先条に載せ畢んぬ。よつて先判の讓に就きて安堵の御下文を 給はると雖も、その親これを悔い還し、他の子息に讓り与ふるに於ては、後判の讓に任せて御成敗あるべし。

一、未処分の跡の事
 右、且は奉公の浅深に随ひ、且は器量の堪否を糺し、各時宜に任せて分ち宛てらるべし。

一、虚言を搆へ、讒訴を致す事
 右、面を和らげ言を巧み、君を掠め人を損ずるの属、文籍載する所、その罪甚だ重し。世のため人のため誡 めざるべからず。所領を望まんがため讒訴を企てる者は、讒者の所領を以て他人に宛て給ふべし。所帯無き者は遠流に処すべし。官途を 塞がんがため讒言を搆ふる者は、永く彼の讒人を召仕ふべからず。

一、本奉行人を閣きて、別人に付きて訴訟を企つる事
 右、本奉行人を閣きて、更に別人に付きて内々訴訟を企つるの間、参差の沙汰不慮にして出来 せん歟。よつて訴人に於ては暫く裁許を抑へらるべし。執申人に至つては、御禁制あるべし。奉行人もし緩怠 せ しめ、空しく二十箇日を経ば、庭中に於てこれを申すべし。

一、問注を遂ぐるの輩、御成敗を相待たず、権門の書状を執り進む事
 右、裁許に預るの者は強縁の力を悦び、棄て置かるゝの者は権門の威を愁ふ。ここに得理の方人は頻りに扶持の芳恩と称し、無理の方人は窃かに憲法の裁断を猜む。政道を黷すこと職としてこれに 由る。自今以後慥かに停止すべきなり。或は奉行人に付き、或は庭中に於て、これを申さしむべき。

一、道理無きによつて御裁許を蒙らざる輩、奉行人偏頗をなすの由訴へ申す事
 右、その理無きによつて裁許に関らざるの輩、奉行人の偏頗たるの由を搆へ申すの条、太だ以て濫吹なり。自今以後、不実を搆へ出て濫訴を企つる者は、所領の三分一を収公せらるべし。所帯無き者は追却せら るべし。もしまた奉行人その誤り有らば、永く召仕へらるべからず。

一、盗賊悪党を所領の内に隠し置く事
 右、件の輩、風聞有りと雖も、露顕せざるによつて断罪にあたはず、炳誡を加へず。しかるに国人等差し申のところ、召上ぐるの時はその国無為なり、在国の時はその国狼藉なりと云々。よつて縁辺の凶賊に於ては、証跡に付きて召禁ずべし。また地頭等賊徒を隠し置くに至つては、同罪たるべきなり。先づ嫌疑の趣に就きて地頭を 鎌倉に召し置き、彼の国落居せざるの間は身暇を給ふべからず。
 次に守護使の入部を停止せらるゝ所々の事、同じく悪党ら出来の時は不日守護所に召し渡すべきなり。もし拘惜に於ては、且は守護使を入部せしめ、且は地頭代を改補すべきなり。もしまた代官を改めずば、地頭職を没収せられ、守護使を入れらるべし。

一、強窃二盗の事。付、放火人の事
 右、既に断罪の先例有り。何ぞ猶余の新儀に及ばんや。次に放火人の事、盗賊に準拠し、宜しく禁遏せしむべし。

一、他人の妻を密懐する罪科の事
 右、強姦和姦を論ぜず人妻を懐抱するの輩、所領半分を召され、出仕を罷めらるべし。所帯なき者は遠流に処すべきなり。女の所領同じ くこれを召さるべし。所領なくばまた配流せらるべきなり。次に道路の辻に於て女を捕ふる事、御家人に於ては百箇日の間出仕を止むべし。郎従以下に至つては、右大将家の御時の例に任せ、片方の鬢髮を剃り除くべきなり。ただし、法師の罪科に於ては、その時に当りて斟酌せらるべ し。

一、度々召文を給ふと雖も参上せざる科の事
 右、訴状に就きて召文を遣はす事三箇度に及び、なほ参決せざるは、訴人理有らば直ちに裁許せらるべし。訴人理無くば、またに給ふべきなり。但し、所従牛馬ならびに雑物等に至つては、員数に任せて糺し返され、寺社の修理に付せらるべきなり。

一、旧き境を改め、相論を致す事
 右、或は往昔の堺を越え、新儀の案を搆へてこれを妨げ、或は近年の例を掠め、古き文書を 捧げてこれを論ず。裁許に預らずと雖も指せる損無きの故、猛悪の輩ややもすれば謀訴を企つ。成敗の処その煩ひ無きに非ず。自今以 後、実検使を遣し、本跡を糾明し、非拠の訴訟をなす者は、境を越えて論を成すの分限を相計らひ、訴人領地の内を割き分ちて論人の方へ付けらるべきなり。

一、関東の御家人が京都に申し、傍官の所領の上司を望補する事
 右、右大将家の御時一向に停止せられ畢んぬ。而して近年以降自由の望を企て、啻に禁制に背くのみに非ず、喧譁に覃ばしめん歟。自今以後、濫望を致すの輩に於て、所領一所を召さる可き也。

一、惣地頭、所領内名主職を押妨する事
 右、惣領を給はるの人所領内と称して各別の村を掠め領する事、所行の企て罪科遁れ難し。ここに別の御下文を給はり、名主職たりと雖も、惣地頭もし?弱の隙を伺ひ、限りある沙汰の外、非法を巧み濫妨を致さば、別納の御下文を名主に給ふべきなり。
 名主また事を左右に寄せて、先例を顧みず、地頭に違背せば、名主職を改めらるべきなり。

一、官爵所望の輩、関東の御一行を申し請くる事
 右、成功を召さるゝの時、所望の人を注し申さるゝ者は、既にこれ公平なり。よつて沙汰の限 りに非ず。昇進のため挙状を申す事、貴賤を論ぜず一向これを停止すべし。但し、受領・検非違使に申すの輩、 理運たるに於ては、御挙状に非ずと雖も、ただ御免あるの由仰せ下さるべき歟。兼てまた新敘の輩、巡年廻り来り、朝恩に浴する者は制限あらず。

一、鎌倉中の僧徒、恣に官位を諍ふ事
 右、綱位によつて﨟次を乱すの故に、猥りに自由の昇進を求め、いよいよ僧綱の員 数を添ふ。宿老有智の高僧たりと雖も、少年無才の後輩に越さる。即ちこれ且は衣鉢の資を傾け、且は経教の義に乖く者なり。自今以後、 免 許を蒙らず昇進の輩、寺社の供僧となる者は、彼の職を停廃せらるべきなり。御帰依の僧たりと雖も同じく以て これを停止せらるべし。この外の禅侶は、偏に顧眄の人に仰せて、宜しく諷諫の誡 あるべし。

一、奴婢雑人の事
 右、右大将家御時の例に任せて、その沙汰無く十箇年を過ぎば、理非を論ぜず改沙汰に及ばず。次に、奴婢所生の男女の事、法意の如くば子細有りと雖も、同じき御時の例に任せ、男は父に付け、女は母に付くべきなり。

一、百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せしむる事
 右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し資財を奪ひ取る、所行の企て甚だ仁政に背く。もし召し決せられるゝのところ、年貢所当の未済有らば、その償ひを致すべし。然らざれば、早く損物を糺し返さるべし。但し、去留に於ては宜しく民意に任すべきなり。

一、当知行と称して他人の所領を掠め給はり、所出物を貪り取る事
 右、無実を搆へ掠め領する事、式目の推す所、罪科脱れ難し。よつて押領物に於ては早く糺し返さしむべし。所領に至 つては没収 せらるべきなり。所領無き者は遠流に処せらるべし。
 次に、当知行の所領を以て、指せる次無く安堵御下文を申し給はるの事。もしその次を以て始めて私曲を致す歟。自今以後、停止せらるべし。

一、傍輩の罪過未断以前、彼の所帯を競望する事
 右、労效を積むの輩、所望を企つるは常の習ひなり。しかるに所犯あるの由、風聞せしむるの時、罪状未定のところ、件の所領を望まん が ため、その人を申し沈めんと欲するの条、所為の旨敢て正義に非ず。彼の申状に就きてその沙汰あらば、虎口の讒言蜂起して絶ゆべからざる歟。たとへ理運の訴訟たりと雖も、兼日の競望を敘用せられず。

一、罪過のよし披露の時、糺決せられず所職を改替する事
 右、糺決の儀無く御成敗有らば、犯否を論ぜず、定めて鬱憤を貽す歟、てへれば早く淵底を究め禁断せらるべし。

一、所領得替の時、前司新司の沙汰の事
 右、所当年貢に於ては新司の成敗たるべし。私物雑具ならびに所従馬牛等に至つては新司抑留に及ばず。況や恥辱を前司 に与へしめば、別の過怠に処せらるべきなり。但し、重科によつて没収せられば、沙汰の限りにあらず。

一、不知行の所領の文書を以て、他人に寄附する事<付>[名主職を以て本所に相触れず、権門に寄進する事]
 右、自今以後寄附の輩に於ては、その身を追却せらるべきなり。請け取るの人に至つては寺社の修理に付せらるべし。
 次に、名主職を以て本所に知 らしめず、権門に寄附するの事。自然これ有り。然る如きの族は、名主職を召地頭に付せらるべし。地頭無きの所は本所に付せらるべし。

一、所領を売買する事
 右、相伝の私領を以て、要用の時、沽却せしむるは定法なり。而るに或は勲功に募り、或は勤労によつて別の御恩に預るの 輩、恣に売買せしむるの条、所行の旨その科無きに非ず。自今以後、慥かに停止せらるべきなり。もしまた制符に背き沽却せしめば、売人と云ひ買人と云ひ、 共に以て罪科に処せれるべし。

一、両方の証文理非顕然の時、対決を遂げんと擬する事
 右、かれこれの証文の理非懸隔の時は、対決を遂げずと雖も、直ちに成敗あるべき歟。

一、狼藉の時、子細を知らずその庭に出向く輩の事
 右、同意与力の科に於ては子細に及ばず。その軽重に至つては、兼て式条に定め難し、もつとも時宜による べき歟。実否を聞かんがため、子細を知らずその庭に出向く者は罪科に及ばず。

一、問状の御教書を帯び、狼藉を致す事
 右、訴状に就きて問状を下さるゝは定例なり。しかして問状を以て狼藉を致すこと、奸濫の 企て罪科遁れ難し。申す所 顕然の僻事たらば、問状を給すること一切停止せらるべし。

起請

 御評定の間、理非決断の事

 右、愚暗の身、了見の及ばざるによつて、もし旨趣相違せんこと、更に心の曲る所にあらず。
 そのほか、或は人の方人として道理の旨を知りながら、無理の由を称し申し、また非拠の事を 証跡ありと号し、人の短を顕はさざらんがため、子細を知りながら、善悪につきてこれを申さゞるは、意事と相違し、後日の紕繆 出来る歟。
 凡そ評定の間、理非に於ては親疎あるべからず。好悪あるべからず。ただ道理の推す所、心中の存知、傍輩を憚ら ず、権門を恐れず、詞を出すべきなり。
 御成敗の事切るの条々、たとひ道理に違はずと雖も一同の憲法なり。誤つて非拠に行はると雖も一同の越度なり。
 自今以後、訴人ならびに縁者に相向つて、自身は道理を存ずると雖も、傍輩の中その人の説を以て聊か違乱を致すの由、その聞えあらば、すでに一味の義に非ず。殆ど諸人の嘲りを貽さんもの歟。
 兼てはまた、道理無きによつて評定の庭に棄て置かるゝの輩、越訴の時、評定衆の中一行を書き与へらるれば、自余の計皆無道の由、独りこれを存ぜらるゝに似たる歟。
 てへれば、条々子細かくの如し。もし一事たりと雖も、曲折を存じ、違犯せしめば、梵天帝釈、四大天王、惣じて日本国中六十 余州の大小神祇、殊に伊豆箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神、部類眷属、神罰冥罰、各罷り蒙るべきものなり。よつて起請件の如し。

 貞永元年七月十日

斉藤兵衛        沙弥    浄円
佐藤          相模大掾  藤原業時
太田町野康俊弟之    玄蕃允   三善康連
後藤大夫判官      左衛門少尉 藤原朝臣基綱
二階堂信濃民部大夫入道 沙弥    行然
矢野外記大夫      散位    三善朝臣倫重
町野民部大夫      加賀守   三善朝臣康俊
二階堂隠岐入道     沙弥    行西
中条          前出羽守  藤原朝臣家長
三浦          前駿河守  平朝臣義村
大外記         摂津守   中原朝臣師貞
北条          武蔵守   平朝臣泰時
北条          相模守   平朝臣時房

 于時天正七年己卯五月一日書之畢
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ