ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:北朝

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 今日は、南北朝時代の1336年(延元元年/建武3)に、南北朝動乱の中で、足利尊氏によって北朝の光明天皇が即位し、再び南北朝分離がなされた日ですが、新暦では9月20日となります。
 南北朝動乱(なくぼくちょうどうらん)は、一般には、南北朝時代とも呼ばれてきました。1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、南北朝動乱が始まります。
 この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在し、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)に室町幕府第3代将軍足利義満によって、南北朝合一(明徳の和約)に至り、動乱は収まります。
 この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどりました。また、農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
 尚、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われてきました。
 
〇足利尊氏(あしかが たかうじ)とは?

 室町幕府初代将軍です。鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれ、母は上杉清子でしたが、通称は、又太郎といいました。
 1319年(元応元)に元服し、高氏と名乗り、従五位下治部大輔となり、北条久時の女登子と結婚します。1331年(元弘元年/元徳3)に、父・貞氏が死去すると足利氏の家督はを継ぐことになりました。
 同年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、天皇軍討伐の幕命を受けて上洛し、それを平定後、鎌倉に帰ります。1333年(元弘3/正慶2)に、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上しましたが、反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼしました。
 その半月後に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は京都に帰還して、建武新政が開始され、討幕の功臣として天皇の諱の一字を賜って、尊氏と改名します。その後、後醍醐天皇との対立が深まり、1335年(建武2)関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定し、翌年光明天皇を擁立して、北朝を興し、南北朝時代となりました。
 そして、「建武式目」を制定し、1338年(延元3/暦応元)には征夷大将軍となり、室町幕府を創始します。しかし、南北朝の騒乱が続き、各地で戦闘が繰り返されました。
 1352年(正平7/文和1)の観応の擾乱では鎌倉へ入り、弟の足利直義を討ったりします。一方、夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るため元に天龍寺船を派遣し、その利益で天龍寺を建立するなどしましたが、1358年(延文3/正平13年4月30日)に、京都において、53歳で亡くなりました。

☆南北朝動乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<正慶2/元弘3年(1333年)> 
・5月22日 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する 

<正慶2/元弘3年(1334年)> 
・1月 後醍醐天皇により建武の新政が行われる 

<建武2年(1335年)> 
・7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する 
・10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する 
・12月11日 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる 

<延元元/建武3年(1336年)> 
・5月25日 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する 
・5月29日 尊氏方に京都が占領される 
・8月15日 光明天皇が擁立される 
・10月13日 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る 
・11月7日 足利尊氏により「建武式目」が制定される 
・12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる 

<延元2/建武4年(1337年)> 
・3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる 

<延元3/暦応元年(1338年) 
・3月6日 越前金ヶ崎城が陥落する 
・5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる 
・閏7月2日 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる 
・8月11日 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く 

<延元4/暦応2年(1339年)> 
・8月16日 後醍醐天皇が吉野で亡くなり、後村上天皇が即位する 

<延元6/興国2年(1341年)> 
・12月 足利尊氏が天竜寺船を元に送ることを免許する 

<正平2/貞和3年(1347年)>
・11月 楠木正成の子正行、後村山天皇方の武将として、尊氏方をせめる 

<正平3/貞和4年(1348年)> 
・1月5日 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍) 
・6月 直義、尊氏の執事高師直と不和になる 

<正平4/貞和5年(1349年)> 
・9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる 

<正平5/観応元年(1350年)> 
・10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~1352年)) 

<正平6/観応2年(1351年)> 
・8月 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統) 

<正平7/観応3年(1352年)> 
・2月 南朝軍は約束を破って京都に侵入する 
・2月26日 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する 
・7月 「観応半済令」が出される 

<正平8/観応4年(1353年)> 
・6月 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平10/観応6年(1355年)> 
・1月 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平11/延文元年(1356年)> 
・8月23日 足利義詮が従三位に昇叙する 

<正平13/延文3年(1358年)> 
・4月30日 足利尊氏が亡くなる 
・12月18日 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 

<正平16/延文6年(1361年)> 
・細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る 
・南朝軍が入京する 

<正平17/康安2年(1362年)> 
・幕府・北朝側が京都を奪還する 
・7月 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される 

<正平18/貞治2年(1363年)> 
・1月28日 足利義詮が権大納言に転任する 
・大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、政権が安定化しはじめる 
・7月29日 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元 

<正平20/貞治4年(1365年)> 
・2月 足利義詮が三条坊門万里小路の新邸に移る 

<正平21/貞治5年(1366年)> 
・8月 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変) 

<正平22/貞治6年(1367年)> 
・1月5日 足利義詮が正二位に昇叙する 
・11月 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す 
・12月7日 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる 

<正平23/応安元年(1368年)> 
・3月11日 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・6月17日 「応安半済令」が出される 
・12月30日 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する 

<建徳2/応安4年(1371年)> 
・足利義満が今川了俊に九州統一を命じる 

<建徳3/応安5年(1372年)> 
・11月22日 足利義満が判始の式を行なう 

<天授4/永和4年(1378年)> 
・3月 足利義満が室町に新邸(花の御所)を造営して移住する 

<天授5/康暦元年(1379年)> 
・閏4月14日 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる 

<弘和2/永徳2年(1382年)> 
・1月26日 足利義満が左大臣となる 
  足利義満が開基として相国寺の建立を開始する 

<弘和3/永徳3年(1383年)> 
・1月14日 足利義満が准三后宣下を受ける 

<元中3/至徳3年(1386年)> 
・7月10日 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする 

<元中5/嘉慶2年(1388年)> 
・足利義満が東国の景勝遊覧に出かける 

<元中7/明徳元年(1390年)> 
・閏3月 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される 

<元中8/明徳2年(1391年)> 
・12月 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される 

<元中9/明徳3年(1392年)> 
・10月27日 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する 
・閏10月5日 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、北朝の元号「明徳」に統一される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、室町時代の1338年(建武5/延元3)に、南北朝が対立する中で、足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に室町幕府が整った日ですが、新暦では9月24日となります。
 室町幕府(むろまちばくふ)は、1336年 (建武3年/延元元年11月7日) に、足利尊氏が建武政府を打倒し、「建武式目」を定めたところから実質的に始まり、主要政務機関である引付方、侍所、政所、問注所などが翌年にかけて稼働しはじめ、1338年(建武5年/延元3年8月11日)に尊氏が北朝から征夷大将軍に任ぜられ、名実共に整ったとされてきました。最初の頃は、尊氏は北朝の光明天皇を擁し、吉野の南朝と対立しましたが、3代将軍義満に至って、南北朝の統一を果たし、全国政権となります。
 義満は、1378年(永和4年/天授4年)に京都室町に花の御所と呼ばれる邸宅を造ったので、一般にこの名で呼ばれるようになります。職制はだいたい鎌倉幕府を継承し、三管四職を中心とする有力守護大名の連合政権的性格が強いもので、統制力に欠け、大名の勢力争いが絶えず起こりました。
 また、土一揆などが相つぎ、応仁の乱(1467年~77年)以降著しく弱体化し、群雄割拠の戦国時代にはまったく有名無実の状態に陥ります。そして、1573年(元亀4年7月18日)に、15代将軍義昭が織田信長によって追放されて滅亡しました。
 尚、文化的には3代将軍義満の頃の北山文化、8代将軍義政の頃の東山文化と呼ばれる武家文化が展開し、対明貿易は中国の文物をもたらしたとされます。

〇室町幕府の歴代将軍(足利家)一覧

・初代 尊氏(たかうじ) 1338年(建武5/延元元)~1358年(延文3)
・2代 義詮(よしあきら) 1358年(延文3)~1367年(貞治6)
・3代 義満(よしみつ) 1368年(応安元)~1394年(応永元)
・4代 義持(よしもち) 1394年(応永元)~1423年(応永30)
・5代 義量(よしかず) 1423年(応永30)~1425年(応永32)
・空白 4代義持が代理 1425年(応永32)~1428年(応永35)
・6代 義教(よしのり) 1429年(正長2)~1441年(嘉吉元)
・7代 義勝(よしかつ) 1442年(嘉吉2)~1443年(嘉吉3)
・8代 義政(よしまさ) 1449年(文安6)~1473年(文明5)
・9代 義尚(よしひさ) 1473年(文明5)~1489年(長享3)
・空白 8代義政が代理 1489年(長享3)~1490年(延徳2)
・10代 義稙(よしたね) 1490年(延徳2)~1493年(明応2)
・11代 義澄(よしずみ) 1494年(明応3)~1508年(永正5)
・(再) 義稙(よしたね) 1508年(永正5)~1521年(大永元)
・12代 義晴(よしはる) 1521年(大永元)~1546年(天文15)
・13代 義輝(よしてる) 1546年(天文15)~1565年(永禄8)
・14代 義栄(よしひで) 1568年(永禄11)~1568年(永禄11)
・15代 義昭(よしあき) 1568年(永禄11)~1573年(天正16)

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