ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:化学者

kurobachika01
 今日は、昭和時代の1968年(昭和43)に、化学者で日本で2番めの女性理学博士だった黒田チカが亡くなった日です。
 黒田チカ(くろだ ちか)は、明治時代前期の1884年(明治17)3月24日に、佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれました。1901年(明治34)に、佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就きましたが、翌年には、上京して女子高等師範学校理科へ進みます。
 1906年(明治39)に同校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得ましたが、翌年には、女子高等師範学校の研究科に入学し、1909年(明治39)に研究科を修了し、同校の助教授となりました。1913年(大正2)に、女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究します。
 1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得て、翌年に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となりました。1918年(大正7)に天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表、1921年(大正10)には、英国オックスフォード大学へ国費留学します。
 1923年(大正12)に2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始めました。1929年(昭和4)に「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与され、1936年(昭和11)には、第1回真島賞 (日本化学会) を受賞します。
 大平洋戦争後の1949年(昭和24)に新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任しました。1952年(昭和27)にタマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となり、翌年(昭和28)には、特許を得てケルチンCとして市販されます。
 1958年(昭和33)に日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任し、1959年(昭和34)には、紫綬褒章を受章しました。1965年(昭和40)には、勲三等宝冠章を受章したものの、1968年(昭和43)11月8日に、福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙されています。
 尚、1999年(平成11)には、東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設されました。

〇黒田チカ関係略年表

・1884年(明治17)3月24日 佐賀県佐賀郡松原町(現在の佐賀市松原)において、父・黒田平八、母・トクの7人兄弟姉妹の三女として生まれる
・1901年(明治34) 佐賀師範学校女子部(現在の佐賀大学文化教育学部)を卒業し、小学校教員の職に就く
・1902年(明治35) 上京して女子高等師範学校理科へ進む
・1906年(明治39) 女子高等師範学校を卒業し、福井県師範学校女子部に職を得る
・1907年(明治40) 女子高等師範学校の研究科に入学する
・1909年(明治39) 女子高等師範学校研究科を修了し、東京女子高等師範学校の助教授となる
・1913年(大正2) 女子に門戸を開いた東北帝国大学理学部化学科に帝大初の女子研究生として入学し、真島利行に師事、有機化学を研究する
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学化学科を卒業し、日本女性初の理学士となると副手の職を得る
・1917年(大正6) 東京駒込に財団法人理化学研究所が設立され、主任研究員のl人となる
・1918年(大正7) 天然色素の研究『紫根の色素について』を東京化学会(現在の日本化学会)で発表する
・1921年(大正10) 英国オックスフォード大学へ国費留学する
・1923年(大正12) 2年間の在外研究を終えアメリカ経由で帰国、東京女子高等師範学校講師となり、理化学研究所の真島研究室で紅花の色素の構造研究を始める
・1929年(昭和4) 「紅花の色素カーサミンの構造決定」で、東北帝国大学から理学博士号(日本で女性として2番目)を授与される
・1936年(昭和11) 第1回真島賞 (日本化学会) を受賞する
・1949年(昭和24) 新設されたお茶の水女子大学にて、理学部化学科生物化学講座初代教授に就任する
・1952年(昭和27) タマネギの色素研究から血圧降下剤を作り出すことに成功、お茶の水女子大学を退官し、名誉教授となる
・1953年(昭和28) 特許を得てケルチンCとして市販される
・1958年(昭和33) 日本婦人科学者の会が発足し、会長に就任する
・1959年(昭和34) 紫綬褒章を受章する
・1964年(昭和39) 黒田を主人公とするNHKの子供向けドラマは「たまねぎおばさん」が放送される
・1965年(昭和40) 勲三等宝冠章を受章する
・1968年(昭和43)11月8日 福岡県において、84歳で亡くなり、従三位を追叙される
・1999年(平成11) 東北大学により、学業で成果や努力が認められた同大の女子大学院生に贈られる黒田チカ賞が創設される
・2013年(平成25) 日本化学会がその関連資料を化学遺産に認定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

794年(延暦13)桓武天皇が山背国を山城国と改め、新京を「平安京」と称する詔を発布する(新暦12月4日)詳細
1629年(寛永6)幕府の「勅許の紫衣」の無視・反対(紫衣事件)等で、後水尾天皇が退位する(新暦12月22日)詳細
1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1895年(明治28)ロシア・フランス・ドイツの勧告(三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印する詳細
1896年(明治29)神宮司庁蔵版『古事類苑』の刊行が開始される詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1864年(元治元)に、化学者池田菊苗の生まれた日ですが、新暦では10月8日となります。
 池田菊苗(いけだ きくなえ)は、山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれましたが、幼名は完二郎と言いました。9歳の時に東京に出て約2年間英語を勉強し、京都に帰ってからも宣教師から英語を学びます。
 1880年(明治13)の16歳の時、大阪衛生試験所長村橋次郎から化学を学び、翌年に親に内緒で家出して上京、1882年(明治15)には、大学予備門に入学しました。予備門理科を卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部化学科に入学し、桜井錠二教授に師事、1889年(明治22)には、卒業して大学院へ進学します。
 1891年(明治24)に高等師範学校教授となり、1896年(明治29)には、東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任しました。1899年(明治32)に物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事、1901年(明治34)には、ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進します。
 1902年(明治35)に理学博士の学位を取得、1907年(明治40)には、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手しました。1908年(明治41)に昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得します。
 1909年(明治42)にうまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売され、1912年(大正元)には、勲三等瑞宝章を受章しました。1913年(大正2)に日本化学会会長、1917年(大正6)に理化学研究所の創立に参加して化学部長、1919年(大正8)には、帝国学士院会員となります。
 1922年(大正11)に理化学研究所主任研究員となり、1923年(大正12)には、東京帝国大学を退職し、正三位となりました。1926年(大正15)に帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞、1931年(昭和6)には、自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究します。
 1932年(昭和7)に理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となったものの、1936年(昭和11)5月3日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、他に酸性白土を利用した乾燥剤など日本の特許40件、欧米などの特許20件を取得しています。
 没後の1985年(昭和60)には、日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰されました。

〇池田菊苗関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1864年(元治元年9月8日) 山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれる
・1880年(明治13) 大阪衛生試験所で化学を学び始める
・1881年(明治14) 親に内緒で家出して上京する
・1882年(明治15) 大学予備門に入学する
・1889年(明治22) 帝国大学理科大学化学科(現在の東京大学理学部化学科)を卒業し、大学院へ進学する
・1891年(明治24) 高等師範学校教授に就任し、従七位となる
・1896年(明治29) 東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任する
・1899年(明治32) 物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事する
・1901年(明治34) ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進する
・1902年(明治35) 理学博士の学位を取得する
・1904年(明治37) 従五位となる
・1907年(明治40) 甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手する
・1908年(明治41) 昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得する
・1909年(明治42) うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売される
・1912年(大正元) 勲三等瑞宝章を受章する
・1913年(大正2) 日本化学会会長となる
・1917年(大正6) 理化学研究所の創立に参加し、化学部長となる
・1919年(大正8) 帝国学士院会員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所主任研究員となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学を退職し、正三位となる
・1926年(大正15) 帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞する
・1931年(昭和6) 自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究する
・1932年(昭和7) 理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となる
・1936年(昭和11)5月3日 東京において、71歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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inokuchihiroo01
 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、化学者井口洋夫が生まれた日です。
 井口洋夫(いのくち ひろお)は、広島県広島市段原(現在の南区段原)において、広島高等工業学校教授を務めた父・井口豊八郎の子として生まれました。東京府立第一中学、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部化学科で学びます。
 1948年(昭和23)に卒業後、1950年(昭和25)に東京大学理学部助手となり、有機半導体を発見しました。1954年(昭和29)に、有機物質にシリコンなどと同じ電気的性質をもたせられるとして有機半導体の概念を提唱、1956年(昭和31)には、学位論文「有機化合物の半導体的性質の研究」で、東京大学より理学博士を得ます。
 1959年(昭和34)に東京大学理学部助教授、1960年(昭和35)には、同大学物性研究所助教授となりました。1965年(昭和40)に、赤松秀雄との共同研究で、日本学士院賞を受賞、1967年(昭和42)に東京大学物性研究所教授、1975年(昭和50)には、分子科学研究所教授となります。
 1978年(昭和53)に日本化学会賞を受賞、1987年(昭和62)に岡崎国立共同研究機構分子科学研究所所長となり、1988年(昭和63)には、豊田理化学研究所理事ともなりました。1989年(平成元)に藤原賞を受賞、1993年(平成5)に岡崎国立共同研究機構長となり、1994年(平成6)には、文化功労者ともなります。
 1995年(平成7)に退官、1996年(平成8)に日本学士院会員、国際高等研究所副所長、宇宙開発事業団(NASDA)宇宙環境利用研究システム長となりました。2001年(平成13)に‎文化勲章を受章、広島県名誉県民となり、2003年(平成15)には、宇宙航空研究開発機構(JAXA) 顧問となります。
 2007年(平成19)に京都賞先端技術部門を受賞、2009年(平成21)には、豊田理化学研究所所長となったものの、2014年(平成26)3月20日に、東京都内の病院において、脳出血のため87歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇井口洋夫の主要な著作

・『金属の話』培風館
・『物質(もの)とは何か』国際高等研究所
・中田、籏野との共著『有機半導体』(1966年)共立出版
・木下實との共著『新版化学』(1990年)実教出版

☆井口洋夫関係略年表

・1927年(昭和2)2月3日 広島県広島市段原(現在の南区段原)において、広島高等工業学校教授を務めた父・井口豊八郎の子として生まれる
・1948年(昭和23) 東京大学理学部化学科を卒業する
・1950年(昭和25) 東京大学理学部助手となり、有機半導体を発見する
・1954年(昭和29) 有機物質にシリコンなどと同じ電気的性質をもたせられるとして有機半導体の概念を提唱する
・1956年(昭和31) 学位論文「有機化合物の半導体的性質の研究」で、東京大学より理学博士を得る
・1959年(昭和34) 東京大学理学部助教授となる
・1960年(昭和35) 東京大学物性研究所助教授となる
・1965年(昭和40) 赤松秀雄との共同研究で、日本学士院賞を受賞する
・1967年(昭和42) 東京大学物性研究所教授となる
・1975年(昭和50) 分子科学研究所教授となる
・1978年(昭和53) 日本化学会賞を受賞する
・1987年(昭和62) 岡崎国立共同研究機構分子科学研究所所長となる
・1988年(昭和63) 豊田理化学研究所の理事となる
・1989年(平成元) 藤原賞を受賞する
・1993年(平成5) 岡崎国立共同研究機構長となる
・1994年(平成6) 文化功労者となる
・1995年(平成7) 退官する
・1996年(平成8) 日本学士院会員、国際高等研究所副所長、宇宙開発事業団(NASDA)宇宙環境利用研究システム長となる
・2001年(平成13) 文化勲章を受章、広島県名誉県民となる
・2003年(平成15) 宇宙航空研究開発機構(JAXA) 顧問となる
・2007年(平成19) 京都賞先端技術部門を受賞する
・2009年(平成21) 豊田理化学研究所所長となる
・2014年(平成26)3月20日 東京都内の病院において、脳出血のため87歳で亡くなり、従三位を追贈される
・2018年(平成30) 日本の科学技術や豊田理化学研究所の発展に大きく貢献したとして、同研究所敷地内に井口洋夫記念ホールが開設される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)書家・陶芸家・芸術家本阿弥光悦の命日(新暦2月27日)詳細
1943年(昭和18)長生炭鉱(山口県)で海水流入事故がおこり、死者・行方不明者183人を出す詳細
1946年(昭和21)皇典講究所、大日本神祇会、神宮奉斎会を母体に神社本庁が設立される詳細
1972年(昭和47)札幌オリンピック(第11回冬季オリンピック・札幌大会)が開幕する詳細
2006年(平成18)農林水産省と「疏水百選」実施事務局が合同で、「疏水百選」を決定する詳細
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murakamitakejirou01

 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、冶金学者・化学者村上武次郎の亡くなった日です。
 村上武次郎(むらかみ たけじろう)は、明治時代前期の1882年(明治15)11月10日に、京都府南桑田郡(現在の亀岡市)で生まれました。高等小学校を卒業して小学校の代用教員を務め、その後、京都府師範学校へ入学、卒業後小学校の教諭となります。
 その後上京し、東京高等師範学校へ入学、1907年(明治40)に同校数物化学科を卒業後、京都府立第一高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校)の教師職に就きました。しかし再び学問を志し、29歳で京都帝国大学純正化学科へ入学、1914年(大正3)に卒業後も大学に残り講師を務めます。
 本多光太郎の懇請で、1916年(大正5)に東北帝国大学臨時理化学研究所へ入所、KS鋼・新KS鋼の研究に携わり、1919年(大正8)には、東北帝国大学講師、理学博士となりました。1923年(大正12)に同大学工学部金属工学科教授に就任、1927年(昭和2)には、『特殊鋼の物理冶金学的研究』で帝国学士院賞を受賞します。
 1936年(昭和11)に東北帝国大学教授となり、金属材料研究所の第3代所長を務め、1939年(昭和14)には、日本金属学会の設立発起人となりました。1942年(昭和17)に第4回日本金属学会賞を受賞、1944年(昭和19)には、東北帝国大学教授を定年退官し、名誉教授となります。
 1950年(昭和25)に日本金属学会の第4代会長となり、1956年(昭和31)に文化勲章受章、1958年(昭和33)に第1回本多記念賞受賞、1959年(昭和34)に仙台市名誉市民となるなど数々の栄誉にも輝きました。特に合金についての状態図、および特殊鋼の組織図などの研究者、顕微鏡組織を見るための村上試薬などで知られましたが、1969年(昭和44)7月29日に、86歳で亡くなっています。

〇村上武次郎関係略年表

・1882年(明治15)11月10日 京都府南桑田郡(現在の亀岡市)で生まれる
・1907年(明治40) 東京高師数物化学科を卒業する
・1914年(大正3) 京都帝国大学理学部純正化学科を卒業する
・1916年(大正5) 東北帝国大学臨時理化学研究所へ入所する
・1919年(大正8) 東北帝国大学講師、理学博士となる
・1923年(大正12) 東北帝国大学工学部金属工学科教授に就任する
・1927年(昭和2) 『特殊鋼の物理冶金学的研究』で帝国学士院賞を受賞する
・1936年(昭和11) 東北帝国大学教授となり、金属材料研究所の第3代所長を務める
・1939年(昭和14) 日本金属学会の設立発起人となる
・1942年(昭和17) 第4回日本金属学会賞を受賞する
・1944年(昭和19) 東北帝国大学教授を定年退官し、名誉教授となる
・1950年(昭和25) 日本金属学会の第4代会長となる
・1956年(昭和31) 文化勲章を受章する
・1958年(昭和33) 第1回本多記念賞を受賞する
・1959年(昭和34)6月10日 仙台市名誉市民となる
・1969年(昭和44)7月29日 86歳で亡くなる。妻ゆうとともに故郷亀岡市の保津町墓地に埋葬されている。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1855年(安政2)矢田堀景蔵、勝海舟らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる(新暦9月10日)詳細
1871年(明治4)日清修好条規」が調印される(新暦9月13日)詳細
1989年(平成元)小説家森敦の命日詳細


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 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の亡くなった日です。
 福井謙一(ふくい けんいち)は、大正時代の1918年(大正7)10月4日に、奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれました。旧制今宮中学校、旧制大阪高等学校を経て、1938年(昭和13)に京都帝国大学工学部工業化学科に入学します。
 1941年(昭和16)に卒業後、大学院へ入学すると共に、短期将校として燃料研究所へ入所して軍務につき、航空添加燃料イソオクタンの製造研究に従事しました。1943年(昭和18)に、京都帝国大学工学部燃料化学科講師となり、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に助教授となります。
 1948年(昭和23)に「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」によって工学博士となり、1951年(昭和26)には教授となりました。翌年に有機化学反応に関与する電子のふるまいを解明した「フロンティア電子理論」を発表して注目を集め、1954年(昭和29)に第2報が発表されます。
 1962年(昭和37)に「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞、1964年(昭和39)に「HOMO-LUMO相互作用の理論」、1970年(昭和45)に化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表しました。1970年(昭和45)に京都大学評議員、1971年(昭和46)には工学部長となり、1981年(昭和56)には米国科学アカデミー外国人客員会員にも選ばれます。
 1981年(昭和56)に文化功労者となり、文化勲章も受章、同年12月には、「フロンティア電子理論」により、日本人初のノーベル化学賞(ノーベル賞としては日本人6人目)をロアルド・ホフマン博士と共同受賞しました。1982年(昭和57)に京都大学退官後、名誉教授となると共に、京都工芸繊維大学学長となります。
 1990年(平成2)に学術審議会会長、1995年(平成7)には日本学術振興会会長ともなりましたが、1998年(平成10)1月9日に京都において、満79歳で亡くなりました。

〇福井謙一の主要な著作

・『量子化学』(1968年)朝倉書店
・『化学反応と電子の軌道』(1976年)丸善
・『学問の創造』(1984年)佼成出版社
・『教育への直言』(1985年)パンリサーチインスティテュート
・『21世紀日本の選択』(1994年)ダイヤモンド社 
・『哲学の創造』梅原猛との共著(1996年)PHP研究所
・『複雑系の経済学』(1997年)ダイヤモンド社 

☆福井謙一の関係略年表

・1918年(大正7)10月4日 奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれる
・1930年(昭和5)3月 大阪市玉出第二尋常小学校を卒業する
・1935年(昭和10)3月 旧制今宮中学校を卒業する
・1938年(昭和13)3月 旧制大阪高等学校を卒業する
・1941年(昭和16)3月 京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として燃料研究所へ入所する
・1943年(昭和18)8月 京都帝国大学工学部燃料化学科講師(1966年 石油化学科に改組)となる
・1943年(昭和18)12月 正七位となる
・1945年(昭和20)9月 京都帝国大学工学部燃料化学科助教授となる
・1948年(昭和23)6月 工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」)となる
・1951年(昭和26)4月 京都大学工学部燃料化学科教授(高温化学講座)となる
・1952年(昭和27) フロンティア軌道理論 (frontier orbital theory) を発表
・1954年(昭和29) フロンティア軌道理論の第2報を発表する
・1962年(昭和37)5月 「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞する
・1964年(昭和39) HOMO-LUMO相互作用の理論を発表する
・1966年(昭和41) 高圧化学講座が炭化水素物理化学講座に改称される
・1970年(昭和45) 化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表する
・1970年(昭和45)11月 京都大学評議員となる
・1971年(昭和46)4月 京都大学評議員を辞める
・1971年(昭和46)4月 京都大学工学部長となる
・1973年(昭和48)3月 京都大学工学部長を退任する
・1981年(昭和56) 米国科学アカデミー外国人客員会員に選ばれる
・1981年(昭和56)11月 文化功労者となり、文化勲章も受章する
・1981年(昭和56)12月 ノーベル化学賞を受賞する
・1982年(昭和57)4月 京都大学退官 京都大学名誉教授となる
・1982年(昭和57)6月 京都工芸繊維大学学長となる
・1988年(昭和63)5月 京都工芸繊維大学学長を退任する
・1988年(昭和63)6月 京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長となる
・1988年(昭和63)11月 勲一等旭日大綬章を受章する
・1989年(平成元)6月 ロンドン王立協会外国人会員となる
・1990年(平成2)2月 学術審議会会長となる
・1995年(平成7)9月 日本学術振興会会長となる
・1998年(平成10)1月9日 京都において、満79歳で亡くなる
・1998年(平成10)1月 従二位が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1891年(明治24)第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる詳細
1918年(大正7)日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる詳細


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