ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:勲一等旭日大綬章

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 今日は、明治時代前期の1876年(明治9)に、お雇い外国人のドイツ人医学者E・von ベルツが初めて来日した日です。
 E・von ベルツ】(エルヴィン・フォン・ベルツ)は、明治時代前期に日本に招かれたお雇い外国人の一人で、ドイツ人医師でした。1849年(嘉永2)に、南ドイツのヴュルテンベルク王国のビーティヒハイム・ビッシンゲンに生まれ、シュツットガルトの高校を経て、1866年(慶応元)にチュービンゲン大学医学部に入学します。
 1869年(明治2)に、ライプツィヒ大学医学部に転学、カール・アウグスト・ヴンダーリヒ (Karl August Wunderlich) 教授の下で内科を修めました。1870年(明治3)に軍医として普仏戦争に従軍しましたが、1872年(明治5)には、ライプツィヒ大学医学部を卒業し、助手となり、1875年(明治8)にライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれます。
 1876年(明治9)に内科学教授ウンダーリヒの下で講師となったものの、お雇い外国人として日本政府の招聘(契約2年)に応じて来日、東京医学校(現在の東京大学医学部)の内科教授として教鞭をとりました。この頃、箱根の旅館で働く女性の手の荒れているのをみて「ベルツ水」を創製したとされます。
 1878年(明治11)に契約満期となりますが、日本側の懇請で契約をさらに3年延期(その後再三延期)、新潟県下の恙虫病 (つつがむしびょう) を調査、脚気などの研究にも取り組みました。1880年(明治13)には、『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書)を著します。
 1881年(明治14)に東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚、1890年(明治23)には、明治天皇、皇太子嘉仁親王の侍医となりました。1897年(明治30)に樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問、日本人の人類学的特徴の地方変異に着目し、形態学的分類を行ないます。
 1900年(明治33)に勲一等瑞宝章を受章、1902年(明治35)には、東京帝国大学を退官し、宮内省侍医を務めることとなりました。1905年(明治38)に勲一等旭日大綬章を受章、夫人とともにドイツへ帰国し、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務めます。
 「日本人ベルツ」とあだ名されるほどの知日家として執筆や講演に活躍し、貴族に列せられました。1908年(明治41)に伊藤博文の要請で再度来日しましたが、1913年(大正2)8月31日に、ドイツ帝国のシュトゥットガルトにおいて、心臓病のため、64歳で亡くなっています。
 その後、息子トクがベルツの日記や手紙を編集した『ベルツの日記』が刊行されました。尚、夫人花子の墓がある愛知県豊川市の西明寺には、墓碑・供養塔と水原秋桜子による顕彰句碑があります。

〇E・von ベルツの主要な著作

・『日本鉱泉論』(1880年)
・『ベルツの日記』

☆E・von ベルツ関係略年表 

・1849年(嘉永2) 南ドイツのヴュルテンベルク王国のビーティヒハイム・ビッシンゲンに生まれる
・1866年(慶応元) テュービンゲン大学医学部に入学する
・1869年(明治2) ライプツィヒ大学医学部に転学、カール・アウグスト・ヴンダーリヒ (Karl August Wunderlich) 教授の下で内科を修める
・1870年(明治3) 軍医として普仏戦争に従軍する
・1872年(明治5) ライプツィヒ大学医学部を卒業し、助手となる
・1875年(明治8) ライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれる
・1876年(明治9) 内科学教授ウンダーリヒの下で講師となり、お雇い外国人として日本政府の招聘(契約2年)により来日、東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師となり、箱根の旅館で働く女性の手の荒れているのをみて「ベルツ水」を創製する
・1878年(明治11) 契約満期に日本側の懇請で契約をさらに3年延期、新潟県下の恙虫病 (つつがむしびょう) を調査する
・1880年(明治13) 『日本鉱泉論』(ベルツが日本の温泉地の改良を目的として内務省に提出した建白書)を著す
・1881年(明治14) 東海道御油宿(現在の愛知県豊川市御油町)戸田屋の荒井花子と結婚する
・1890年(明治23) 明治天皇、皇太子嘉仁親王の侍医となる
・1897年(明治30) 樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問する
・1900年(明治33) 勲一等瑞宝章を受章する
・1902年(明治35) 東京帝国大学を退官し、宮内省侍医を務める
・1905年(明治38) 勲一等旭日大綬章を受章、夫人とともにドイツへ帰国し、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務める
・1908年(明治41) 伊藤博文の要請で再度来日する
・1913年(大正2)8月31日 ドイツ帝国のシュトゥットガルトにおいて、心臓病のため、64歳で亡くなる
・1930年(昭和5) 夫人花子が愛知県豊川市の西明寺にベルツの供養塔を建立する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

760年(天平宝字4)聖武天皇の皇后・藤原不比等の娘光明皇后の命日(新暦7月27日)詳細
1866年(慶応2)江戸幕府艦隊真木清人の屋代島(周防大島)への砲撃により、第二次長州征討が開戦される詳細
1912年(明治45)日本画家奥田元宋の誕生日詳細
1924年(大正13)第二次護憲運動によって、清浦奎吾内閣が総辞職する詳細
1939年(昭和14)満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進を明治神宮外苑競技場で開催される詳細
1955年(昭和30)第1回日本母親大会が開催される(母親大会記念日)詳細
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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、数学者高木貞治が生まれた日です。
 高木貞治(たかぎ ていじ)は、明治時代前期の1875年(明治8)4月21日に、岐阜県大野郡数屋村(現在の本巣市)において、生まれました。1891年(明治24)に、第三高等中学校に入学、1894年(明治27)に卒業後、帝国大学理科大学数学科へ入学し、菊池大麓、藤沢利喜太郎のもとで学びます。
 1897年(明治30)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業後、1898年(明治31)に文部省派遣留学生としてドイツへ向かい、1900年(明治33)にベルリン大学でフロベニウスの教えを受け、ゲッティンゲン大学でヒルベルトとクラインの教えを受け、1901年(明治34)にドイツ留学から帰国し、東京帝国大学の助教授となりました。1903年(明治36)に学位論文「ガウス数体の虚数乗法論」を提出し、理学博士となり、翌年には、東京帝国大学理科大学の教授となります。
 1920年(大正9)に類体論の論文「相対アーベル数体の一理論について(高木類体論第一論文)」を発表、ストラスブールで開催された国際数学者会議に参加、1922年(大正11)には、「任意の代数体における相反定理について(高木類体論第二論文)」発表し、高木類体論を完成しました。これにより、1923年(大正12)にチェコスロバキアの数学物理学会の名誉会員に推薦され、1925年(大正14)に帝国学士院の会員となり、1926年(大正15)には従三位となります。
 1929年(昭和4)にオスロ大学から名誉学位を授与され、1932年(昭和7)には、チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、第1回フィールズ賞選考委員に選ばれました。1936年(昭和11)に東京帝国大学の教授を定年退官し、名誉教授となり、1937年(昭和12)に海軍技術研究所の依頼により暗号機である九七式印字機の規約数計算に協力、1940年(昭和15)には、文化勲章を受章します。
 1941年(昭和16)に藤原工業大学教授となり、1944年(昭和19)には、陸軍数学研究会(陸軍暗号学理研究会)の副会長に就任しました。太平洋戦争後の1951年(昭和26)に文化功労者となり、1955年(昭和30)には、日光で開催された代数的整数論の国際会議で名誉議長を務めます。
 日本の数学が国際的に認められる基礎を築いてきましたが、1960年(昭和35)2月28日に、東京において、脳卒中のため84歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇高木貞治の主要な著作

・『代数学講義』(1930年)
・『初等整数論講義』(1931年)
・『解析概論』(1938年)
・『代数的整数論』(1948年)
・『数の概念』(1949年)
・『近代数学史談』(1949年)
・『数学の自由性』(1949年)

☆高木貞治関係略年表

・1875年(明治8)4月21日 岐阜県大野郡数屋村(現在の本巣市)において、生まれる
・1891年(明治24) 第三高等中学校に入学する
・1894年(明治27) 第三高等中学校を卒業、帝国大学理科大学数学科へ入学する
・1897年(明治30) 東京帝国大学理科大学数学科を卒業する
・1898年(明治31) 文部省派遣留学生としてドイツへ向かう
・1900年(明治33) ベルリン大学でフロベニウスの教えを受け、ゲッティンゲン大学でヒルベルトとクラインの教えを受ける
・1901年(明治34) ドイツ留学から帰国し、東京帝国大学の助教授となる
・1902年(明治35) 谷としと結婚する
・1903年(明治36) 学位論文「ガウス数体の虚数乗法論」を提出し、理学博士となる
・1904年(明治37) 東京帝国大学理科大学の教授となる
・1912年(大正元) 勲四等瑞宝章を受章する
・1920年(大正9) 類体論の論文「相対アーベル数体の一理論について(高木類体論第一論文)」を発表、ストラスブールで開催された国際数学者会議に参加する
・1922年(大正11) 「任意の代数体における相反定理について(高木類体論第二論文)」発表し、高木類体論を完成する
・1923年(大正12) 任意の代数体における奇素数次相互法則を証明により、チェコスロバキアの数学物理学会の名誉会員に推薦される
・1925年(大正14) 帝国学士院の会員となる
・1926年(大正15) 従三位となる
・1929年(昭和4) オスロ大学から名誉学位を授与される
・1932年(昭和7) チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、第1回フィールズ賞選考委員に選ばれる
・1936年(昭和11) 東京帝国大学の教授を定年退官し、名誉教授となる
・1937年(昭和12) 海軍技術研究所の依頼により暗号機である九七式印字機の規約数計算に協力する
・1940年(昭和15) 文化勲章を受章する
・1941年(昭和16) 藤原工業大学教授となる
・1944年(昭和19) 陸軍数学研究会(陸軍暗号学理研究会)の副会長に就任する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1955年(昭和30) 日光で開催された代数的整数論の国際会議で名誉議長を務める
・1960年(昭和35)2月28日 東京において、脳卒中のため84歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

748年(天平20)第44代の天皇とされる元正天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1583年(天正11)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北する(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)「五箇条の御誓文」に基づき「政体書」が発布される(新暦6月11日)詳細
1952年(昭和27)「公職追放令」が廃止され、最後まで追放解除にならなかった5,700人の公職追放が解除される詳細
日本民間放送連盟(民放連)が社団法人化する(民放の日)詳細
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