ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:勘解由使

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 今日は、奈良時代の延暦元年に、桓武天皇が国司交替に際しての不正を正し、解由状の徹底を命じた日ですが、新暦では783年1月11日となります。
 解由状(げゆじょう)は、官人の任期満了に際して作成された文書で、前任者の任期中、過怠のなかったことを新任者が証して前任者に渡し、これを中央(太政官)に提出するものでした。特に、国司の場合は、120日以内に解由状が新任国司から前任者に渡され、これが太政官に上申されて承認を受けることで交替が完了するとされています。
 解由状がいつ頃より行われたかは不明ですが、遅くとも731年(天平3)まではさかのぼるとされ、当初は財政監察の意図から国司交代時のみに発給されてきましたが、解由状がないままに、交替する例が目立つようになり、783年(延暦元年12月4日)に桓武天皇が、「これ以後交替する国司は120日以内に解由を得ることが出来なければ、位禄と食封を剥奪せよ。」と厳命しました。さらに、797年(延暦16)頃に、国司の監察強化のために解由状を監察する目的で、勘解由使が太政官の内局として設置されています。809年(延暦28)以降は官吏全般に解由制度が適用されるようになりました。
 以下に、『続日本紀』巻第三十七(桓武紀二)延暦元年12月4日の条の解由状の徹底を命じた部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇勘解由使(かげゆし)とは?

 律令制下の令外官の一つで、国司などの官吏が交代するとき、新任者が無事に事務を引き継いだことを証明する解由状(げゆじょう)の審査にあたった職です。国司交替の際に、前任者が新任者に出す事務引継ぎの文書に不正が多く,新任者が前任者の不正のなかったことを証明する解由状の発給に関して紛争がふえたため、その対策として設置されました。
 その役所は太政官の北西隅、中務省の南にあり、職員は長官(かみ)1人、次官(すけ)2人、判官(じょう)3人、主典(さかん)3人の四等官制をとっていて、その下に史生(ししょう)、使部(しぶ)などが所属しています。平安時代初期の797年(延暦16)頃、桓武天皇がこれをを設置してその処理にあたらせ、翌798年(延暦19)には使職員の待遇を定めましたたが、806年(大同元)に至って、平城天皇が一時廃止しました。
 その後、824年(天長元)に淳和天皇によって復活され、長官一人、次官二人以下の職員が定められ、これ以降は常置の官となります。857年(天安元)に長官は従四位下相当官となって存続したものの、鎌倉時代以後、律令国家機構が衰えると共に有名無実化しました。

〇『続日本紀』巻第三十七(桓武紀二)延暦元年12月4日の条

<原文>

壬子。詔曰。公廨之設。先補欠負。次割国儲。然後作差処分。如聞。諸国曾不遵行。所有公廨。且以費用。至進税帳。詐注未納。因茲。前人滞於解由。後人煩於受領。於事商量。甚乖道理。又其四位已上者。冠蓋既貴。栄禄亦重。授以兼国。佇聞善政。今乃苟貪公廨。徴求以甚。至于遷替。多無解由。如此不責。豈曰皇憲。自今以後。遷替国司。満百廿日。未得解由者。宜奪位禄食封以懲将来。
 <読み下し文>

壬子[1]。詔して日く、「公廨[2]の設けは、先ず欠負[3]を補い、次に国儲[4]を割き、然して後差を作して処分す。聞くならく、諸国曽て遵行[5]せず、あらゆる公廨[2]且く以て費用し、税帳[6]を進むるに至りて詐りて未納を注すと。これに因りて、前人解由状[7]に滞りて後人受領[8]に煩えり[9]。事において商量[10]するに、甚だ道理に乖けり[11]。又その四位以上の者は、冠蓋[12]すでに貴く、栄禄[13]また重く、授くるに兼国[14]を以てし、聞を善政に佇つ。今すなわち、苟くも公廨[2]を貪りて懲し求むること甚だし。遷替[15]に至りては多くは解由[16]なし。かくの如くにして責めずんば、あに皇憲[17]といわんや。今より以後、遷替[15]の国司[18]、百廿日に満ちていまだ解由[16]を得ざる者は、よろしく位禄[19]・食封[20]を奪い、もって将来を懲らすべし。」と。

【注釈】

[1]壬子:じんし=十干と十二支を組み合わせたものの第四九番目。みずのえね。ここでは12月4日のこと。
[2]公廨:くがい=公廨稲のこと。令制で、諸国で公田賃租の地子稲や、正税の一部をさいて出挙(すいこ)して得た利を官司の入用や官人の俸給にあてた稲。
[3]欠負:かんぷ=所定の数、量に満たないこと。租税未納などにいう。
[4]国儲:こくちょ=令制で、臨時の用に備えて諸国に貯えておいた官稲。
[5]遵行:じゅんこう=命令・きまりなどに従って行うこと。
[6]税帳:ぜいちょう=令制で、諸国の一年間の正税の出納を記入した帳簿。
[7]解由状:げゆじょう=官人の任期満了に際して作成された文書で、前任者の任期中、過怠のなかったことを新任者が証して前任者に渡し、これを中央(太政官)に提出するもの。
[8]受領:ずりょう=新任の国司が前任者から事務を継承すること。
[9]煩えり:わずらえり=悩ます。
[10]商量:しょうりょう=考えはかること。
[11]乖けり:そむけり=離れている。背いている。もとっている。
[12]冠蓋:かんがい=冠と馬車などのおおい。転じて、権勢のある人。貴人。
[13]栄禄:えいろく=栄誉ある官職と俸祿。光栄をもたらす高い地位と、それに伴う秩祿。
[14]兼国:けんこく=本来の官職のほかに、国司の官を兼任すること。
[15]遷替:せんたい=任期が満ちて、他の、一般には上級の官職に転じること。
[16]解由:げゆ=令制で、任期満了の際、交代の事務引き継ぎをすること。また、引継完了を証する文書。
[17]皇憲:こうけん=天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法。
[18]国司:こくし=令制で、中央から派遣され、諸国の政務をつかさどった地方官。
[19]位禄:いろく=令制において、位階に応じて四位・五位の官人に与えられた給与。
[20]食封:じきふ=令制で、皇族・高位高官者・社寺などに禄として封戸(ふこ)を与えた制度。

<現代語訳>

4日。詔して言うことには、「公廨稲の制度は、まず租税未納などを補い、次に国に貯えておく官稲に割り当て、そして後に残った差分について処分するものである。聞くところによると、諸国ではあえて命令に従って行なわず、すべての公廨稲はひとまず消費して、正税の出納を記入した帳簿を提出する際に至って、虚偽報告して未納と記していると。これによって、前任国司の過怠のなかったことを示す引継完了を証する文書を得るのに手間取り、後任国司の事務継承を悩ましている。この事態をよく考えてみるに、とても道理に背いている。また、その四位以上の者は、権勢は貴く、俸禄も多く、授ける時に本来の官職の他に、国司を兼任させてきたが、善政を行ってきたと聞いてきた。ところが、今ではいやしくも公廨稲を貪って、利益を得ようとしていることが甚だしい。国司の交替に至っては、多くは引継完了を証する文書がない。このような状態を放置して責め正さなければ、どうして従うべきであるとされる国法が存在すると言えるだろうか。これより後は、交替する国司で、120日を経過してもまだ引継完了を証する文書を得られない者は、よろしく位禄・食封を剥奪し、もって将来の懲らしめとせよ。」と。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1027年(万寿4)公卿藤原道長の命日(新暦1028年1月3日)詳細
1942年(昭和17)小説家中島敦の命日詳細
1965年(昭和40)日本科学者会議が結成される詳細
1961年(昭和36)歴史学者・思想史家津田左右吉の命日詳細


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 今日は、平安時代前期の806年(延暦25)に、桓武天皇の亡くなった日ですが、新暦では4月9日となります。
 桓武天皇(かんむてんのう)は、奈良時代の737年(天平9)に、京都において白壁王(後の光仁天皇)の長男(母・高野新笠)として生まれましたが、名は日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)と言いました。
 770年(宝亀元年10月1日)に、父の白壁王が第49代の光仁天皇として即位すると、四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、母が渡来人の出身だったため第一皇子でしたが、皇太子となれないでいます。しかし、772年(宝亀3)に、皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后とされ、翌年にその子他戸親王も廃太子されると、773年(宝亀4年1月2日)に皇太子となりました。
 781年(天応元年4月3日)に父・光仁天皇から譲位されて、数え年48歳で第50代の天皇となるとすぐに、同母弟の早良親王を皇太子と定めます。
 782年(延暦元)に、勘解由使を設置し、翌年には藤原百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后としました。784年(延暦3)には、奈良寺院勢力の抑制も意図し、それまでの平城京から、山背国(現在の京都府)の長岡京への遷都を断行しましたが、翌年藤原種継暗殺の廉により、早良親王を廃太子の上で流罪に処し、死に至らしめる事件が起きます。
 その後、皇后乙牟漏、夫人旅子など近親の死亡が相次ぎ、早良親王の怨霊の所為とされたため、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、長岡京造営を中止し、794年(延暦13)に、山背の葛野(かどの)に遷都し、平安京と命名するとともに、山背国を山城国と改めました。
 一方、律令国家としての強化・拡大をはかって、789年(延暦8)に、紀古佐美を征東大使とする最初の東北への遠征軍を送りますが惨敗しました。792年(延暦11)には、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布き、794年(延暦13年)の東北への2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が活躍します。
 795年(延暦14年)に、公出挙を5割から3割に減税したり、雑徭の日限を30日に半減するなど農民の負担軽減を図り、797年(延暦16年8月13日)には、2番目の官撰国史『続日本紀』が完成し、奏上されました。また、801年(延暦20年)には、東北への3度目の遠征で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送り、翌年に胆沢(いさわ)城(現在の岩手県)を築かせるなどして、東北地方へ朝廷権力を拡大します。
 尚、804年(延暦23年)に、遣唐使により、最澄と空海を唐に渡らせ、奈良時代の仏教政治の弊害を除くために、新宗派(天台宗・真言宗)の設立を助けました。
 しかし、晩年に政策は行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年3月17日に、京都において数え年70歳で亡くなっています。

〇桓武天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・737年(天平9年) 京都において白壁王(後の光仁天皇)の長男(母・高野新笠)として生まれる
・770年(宝亀元年10月1日) 父の白壁王が第49第の光仁天皇として即位すると、四品が授けられる
・772年(宝亀3年3月2日) 皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后とされる
・772年(宝亀3年5月27日) 井上内親王の子他戸親王も廃太子される
・773年(宝亀4年1月2日) 皇太子となる
・781年(天応元年4月3日) 父・光仁天皇から譲位されて第50代の天皇となる
・781年(天応元年4月4日) 同母弟の早良親王を皇太子と定める
・782年(延暦元年12月4日) 勘解由使が設置される
・783年(延暦2年4月18日) 藤原百川の兄・藤原良継の娘・藤原乙牟漏を皇后とする
・784年(延暦3年) 長岡京を造営する
・785年(延暦4年9月頃) 早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、死に至らしめる
・785年(延暦4年11月25日) 安殿親王を皇太子とする
・789年(延暦8年) 最初の東北遠征で紀古佐美を征東大使とする軍を送るが惨敗する
・792年(延暦11年6月) 陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布く
・794年(延暦13年) 2度目の東北遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が活躍する
・794年(延暦13年10月22日) 山背の葛野(かどの)に遷都する
・794年(延暦13年11月) 詔を出し、新京を平安京と命名するとともに、山背国を山城国と改める
・795年(延暦14年) 公出挙を5割から3割に減税する
・795年(延暦14年) 雑徭の日限を30日に半減する
・797年(延暦16年8月13日) 2番目の官撰国史『続日本紀』が完成し、奏上される
・801年(延暦20年) 3度目の東北遠征で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送る
・802年(延暦21年) 坂上田村麻呂に胆沢(いさわ)城(現在の岩手県)を築かせる
・802年(延暦21年) 坂上田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送する
・803年(延暦22年) 征夷大将軍の坂上田村麻呂が紫波城を造営する
・804年(延暦23年) 遣唐使により、最澄と空海が唐に渡る
・805年(延暦24年) 最澄(伝教大師)が唐より帰り、天台宗を伝える
・805年(延暦24年) 藤原緒嗣の建議によって、平安京の造作と東北への軍事遠征を中止する
・806年(延暦25年3月17日) 京都において、数え年70歳で亡くなる
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