
同年3月15日に、「三・一五事件」という弾圧事件があり、多くの左派活動家が逮捕拘束されましたが、それに続いて、3結社を禁止した、弾圧措置です。
以下に、「労働農民党、日本労働組合評議会及全日本無産青年同盟ノ3結社治安警察法第8条ニ依リ禁止ノ件」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
この法律によって、結社を禁止された政党や労働組合などもあり、女子は結社ばかりか、集会に参加することも禁ぜられていたので、反対運動も根強く、1922年(大正11)になって、女子の政治集会参加禁止だけは削除されています。そして、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)11月21日に、GHQ(連合国最高司令部)の命令で廃止されました。
大阪市西区で開かれた結成大会には、日農、日本労働総同盟(総同盟)、日本製陶労働同盟、日本労働組合総連合、東京市電自治会など七団体が参加して、綱領、規約、宣言を決め、委員長に杉山元治郎、書記長に三輪寿壮を選出しましたが、日本労働組合評議会、政治研究会、全日本無産青年同盟、全国水平社青年同盟の左翼四団体は排除されます。しかし、10月の第4回中央委員会で日農、日本製陶労働同盟を除く五団体が脱退し、左派へも門戸を開放することとなりました。
そして、1926年(大正15)12月には右派が脱党して「社会民衆党」(委員長は安部磯雄)を結成、相前後して中間派が「日本労農党」(後の委員長が麻生久)を結成し、3つに分裂します。残ったメンバーは、委員長に大山郁夫、書記長細迫兼光を選出し、左派路線を確立しました。
その後、議会解散請願運動、山東出兵に反対する対華非干渉運動、五法律制定要求運動などを活発に展開します。その結果、1928年(昭和3)2月の第1回普通選挙では、全国で無産政党最多の28万票を獲得し、水谷長三郎と山本宣治の2名の当選者を出しました。
ところが、直後の三・一五事件で弾圧を受け、多くの党員・支持者が逮捕拘束され、4月10日に解散命令を受けます。翌年8月に「新労農党樹立の提案」を発表し、11月1日に大山郁夫を委員長に新しく結党しましたが、影響力は弱く、1931年(昭和6)7月には「全国労農大衆党」へ吸収されました。
そして、1927年(昭和2)5月の第3回大会では、金融恐慌下での困難な状況に対し、「政党政派を問わず資本に対する統一闘争のために共同」の方針を決め、工場代表者会議などの運動を組織して、失業手当、健康保険、最低賃金法、八時間労働制などの「五法律獲得闘争」を展開します。しかし、政府による数々の激しい弾圧を受け、1928年(昭和3)の三・一五事件の一環として、4月10日に、労働農民党、全日本無産青年同盟とともに安寧秩序を乱す団体として、「治安警察法」により結社を禁止されました。しかし、同年12月には日本労働組合全国協議会(全協)として再建されています。
創立大会では、18歳選挙権や青年の言論・出版・集会・結社の自由、自由結婚権の確立など41項目の要求をかかげた「綱領」を採択し、青年の全国的組織を完成させること、政治教育をすすめることなどを決定しました。労働農民党を支持し、「兵役短縮」「満期後の就職要求」「満18歳以上の選挙権被選挙権獲得」などの活動を行ない、最高時で同盟員数は1万人余といわれています。
1927年(昭和2)10月15日に、中央機関紙「青年新聞」を創刊、同年11月20日、第2回大会開催したりしましたが、翌年4月10日、三・一五事件による弾圧の一環として、労働農民党、日本労働組合評議会と共に、「治安警察法」により、結社禁止処分を受けました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1874年(明治7) | 板垣退助らが高知で、日本初の政治結社「立志社」を結成する | 詳細 |
| 1886年(明治19) | 「師範学校令」が公布される | 詳細 |
| 「小学校令」が公布される | 詳細 | |
| 「中学校令」が公布される | 詳細 | |
| 1919年(大正8) | 「史蹟名勝天然紀念物保存法」(大正8年法律第44号)が公布(同年6月1日施行)される | 詳細 |
| 「地方鉄道法」(大正8年法律第52号)が公布(施行は同年8月15日)される | 詳細 | |
| 1972年(昭和47) | 「生物兵器禁止条約(BWC)」に日・米・ソなど47ヶ国が調印(発効は1975年3月26日)する | 詳細 |
| 1988年(昭和63) | 瀬戸大橋が開通する | 詳細 |
