ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:劇作家

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 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、小説家・劇作家・評論家正宗白鳥の亡くなった日です。
 正宗白鳥(まさむね はくちょう)は、明治時代前期の1879年(明治12)3月3日に、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)で、豪農の旧家だった父・正宗浦二、母・美禰の長男として生まれましたが、本名は忠夫(ただお)と言いました。旧藩校閑谷黌を卒業し、1896年(明治29)に上京して東京専門学校(現在の早稲田大学)英語専修科に入学します。
 在学中にキリスト教夏期学校で内村鑑三に学び、キリスト教の洗礼を受けました。1901年(明治34)に卒業後、母校の出版部を経て、1903年(明治36)に読売新聞社に入社して、文芸・美術・演劇を担当します。
 翌年『寂寞』を発表して小説を書きはじめ、1907年(明治40)には最初の短編集『紅塵』を刊行し、新進作家として認められました。1908年(明治41)に「早稲田文学」へ発表した『何処へ』などで、自然主義文学運動の中心作家の一人となります。
 『安土の春』、『光秀と紹巴』(ともに1926年)などの戯曲も手掛け、1928年(昭和3)から翌年にかけての外遊後は、『文壇人物評論』などの評論分野でも活躍しました。1935年(昭和10)に島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立、1943年(昭和18)から会長に就任します。
 太平洋戦争後は、1950年(昭和25)に文化勲章受章、翌年文化功労者となったのをはじめ、1957年(昭和32)に批評活動で第5回菊池寛賞、1959年(昭和34)に小説『今年の秋』で第11回読売文学賞・小説賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。しかし、1962年(昭和37)10月28日に、東京において、83歳で亡くなっています。

〇正宗白鳥の主要な著作

・小説『寂寞』(1904年)
・小説『塵埃』(1907年)
・小説『何処へ』(1908年)
・小説『微光』(1910年)
・小説『泥人形』(1911年)
・小説『入江のほとり』(1915年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『死者生者』(1916年)
・小説『牛部屋の臭ひ』(1916年)
・小説『毒婦のやうな女』(1920年)
・戯曲『人生の幸福』(1924年)
・戯曲『安土 (あづち) の春』(1926年)
・戯曲『光秀と紹巴』(1926年)
・評論『文壇人物評論』(1932年)
・評論『文壇的自叙伝』(1938年)
・評論『自然主義盛衰史』(1948年)
・小説『日本脱出』(1949年)
・評論『内村鑑三』(1950年)
・自伝『文壇五十年』(1954年)
・小説『今年の秋』(1959年)読売文学賞受賞

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1860年(万延元)教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の誕生日(新暦12月10日)詳細
1891年(明治24)濃尾地震が起き、死者7,273人を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1872年(明治5)に、小説家・劇作家岡本綺堂の生まれた日ですが、新暦では11月15日となります。
 岡本綺堂(おかもと きどう)は、東京の芝高輪(現在の東京都)で、120石取の御家人で維新後にイギリス公使館に書記として勤めていた父・岡本敬之助の長男として生まれましたが、本名は敬二(けいじ)と言いました。幼時から父に漢文素読、漢詩を学び、叔父と公使館留学生からは英語を学びます。
 平河小学校(現在の千代田区立麹町小学校)卒業後、東京府尋常中学(のちの東京府立一中、現在の東京都立日比谷高等学校)に進み、在学中から劇作に志しました。卒業後は、1890年(明治23)に東京日日新聞へ入社、新聞社を移り、1893年(明治26)には中央新聞社会部長となって劇評も担当、その後各社を転々としつつ劇評を執筆、また劇作に励みます。
 1896年(明治29)に「歌舞伎新報」に処女戯曲『紫宸殿』を発表、1902年(明治35)には、岡鬼太郎との合作『金鯱噂高浪』が歌舞伎座で上演されました。1908年(明治41)に『維新前後』が明治座で2世市川左団次によって上演され、1911年(明治44)に『修禅寺物語』が出世作となってから、主として左団次のために作品を提供、新歌舞伎のジャンルを確立します。
 1913年(大正2)からは作家活動に専念し、新聞連載の長編や探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆しました。特に江戸市井の生活に関する造詣が深く、1916年(大正5)から新聞連載した『半七捕物帳』(68編)で推理小説の新しい領域を開拓します。
 1930年(昭和5)に、後進を育てるために月刊戯曲雑誌「舞台」を発刊、監修を務めました。1937年(昭和12)には、演劇界から初の芸術院会員ともなりましたが、1939年(昭和14)3月1日に、東京において、68歳で亡くなっています。

〇岡本綺堂の主要な著作

・戯曲『紫宸殿』(1896年)
・戯曲『金鯱噂高浪 (きんのしゃちうわさのたかなみ) 』岡鬼太郎との合作 (1902年)
・戯曲『維新前後』(1908年)
・戯曲『修禅寺物語』(1909年)
・戯曲『室町御所』(1913年)
・戯曲『鳥辺山(とりべやま)心中』(1915年)
・戯曲『番町皿屋敷』(1916年)
・小説『半七捕物帳』(1916~37年)
・回顧記『ランプの下にて』(1920~25年)
・戯曲『俳諧師』(1921年)
・戯曲『相馬の金さん』(1927年)
・回顧記『明治劇談 ランプの下にて』(1935年)
・戯曲『時雨ふる夜』
・戯曲『風鈴蕎麦屋』
・戯曲『佐々木高綱』
・戯曲『尾上伊太八(おのえいだはち)』
・戯曲『梅の由兵衛(よしべえ)』
・戯曲『権三(ごんざ)と助十(すけじゅう)』
・戯曲『新宿夜話』
・戯曲『三浦老人昔話』
・戯曲『三河万歳』
・戯曲『正雪(しょうせつ)の二代目』
・戯曲『おさだの仇討(あだうち)』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)聖武天皇が「大仏建立の詔」(東大寺大仏建立)を発する(新暦11月5日)詳細
1956年(昭和31)天竜川中流に佐久間ダムが竣工し、完成式が行われる詳細
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 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の生まれた日ですが、新暦では6月22日となります。
 坪内逍遥は、美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版します。
 1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。
 また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。
 その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇坪内逍遥の主要な作品

・翻訳『春風情話』(1880年) ウォルター・スコット著『ランマームーアの花嫁』の翻訳
・翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』(1884年)「ジュリアス・シーザー」の浄瑠璃風翻訳
・評論『小説神髄』(1885年)
・小説『当世書生気質』(1885‐86年)
・小説『新磨(しんみがき) 妹と背かゞみ』(1885‐86年)
・小説『内地雑居 未来の夢』(1888年)
・小説『細君』(1889年)
・戯曲『桐一葉』(1894‐95年)
・戯曲『牧の方』(1896年)
・戯曲『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)
・楽劇『新曲浦島』(1904年)
・戯曲『お夏狂乱』(1914年)
・戯曲『役の行者』(1917年)
・翻訳「沙翁全集」全40冊(1928年)
・翻訳『新修シェークスピヤ全集』全40冊(1933‐35年)
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