
1903年(明治36)に卒業して、同大学講師に就任、1907年(明治40)には、助教授に昇任しました。1910年(明治43)に、ドイツ、イギリス、イタリアに留学し、ベルリン大学ではリスト、フェリに師事、1913年(大正2)に帰国し、教授に昇任、翌年には、法学博士となります。
フェッリやリストの新派刑法学を日本に導入、教育刑論、主観主義刑法理論を唱え、刑法学界に大きな影響を与えました。1936年(昭和11)に帝国学士院会員、1938年(昭和13)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、翌年には、海軍経理学校講師に就任します。
太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に貴族院議員となり、第90帝国議会貴族院小委員会にて、「日本国憲法」前文を起草し、司法法制審議会委員として「民法」改正に取り組みました。1950年(昭和25)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)に文化功労者となり、1952年(昭和27)には、東京家庭学園(白梅学園短期大学の前身)学長に就任します。
1958年(昭和33)に高山市名誉市民、1965年(昭和40)に勲一等瑞宝章を受章、1966年(昭和41)に茅ヶ崎市名誉市民など数々の栄誉を受けましたが、1970年(昭和45)4月18日に、92歳で亡くなり、叙従二位、賜銀杯一組を追贈されました。