ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:冠位十二階

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 今日は、飛鳥時代の622年(推古天皇30)に、政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日ですが、新暦では4月8日となります。
 聖徳太子(しょうとくたいし)は、574年(敏達天皇3年1月1日)に、飛鳥池辺雙槻宮において、用明天皇の第2皇子(母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女)として生まれたとされますが、名は廏戸豊聡耳皇子と言いました。585年(用明天皇元)に敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子(用明天皇)が即位しましたが、587年(用明天皇2)に亡くなり、皇位を巡って争いになり、物部守屋討伐に関わったとされます。
 戦後に蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけたものの、対立が激化し、592年(崇峻天皇5)に馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させました。翌年に馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して、初の女帝として皇位につけ、聖徳太子が皇太子となって、馬子と共に天皇を補佐することになります。
 同年に摂津国難波に四天王寺を建立し、翌年には「仏教興隆の詔」を発しました。601年(推古天皇9)に斑鳩宮を造営、603年(推古天皇11)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15)に屯倉を各国に設置、高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘るなど政治・経済面の整備を行います。
 また、同年に小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り、翌年に返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れ、608年(推古天皇16)には、返書と裴世清の帰国のため、妹子を高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣するなど外交面でも活躍しました。さらに、615年(推古天皇23)までに『三経義疏』を著し、620年(推古天皇28)には、馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂するなどしています。
 しかし、622年(推古天皇30)に斑鳩宮で倒れ、妃の膳大郎女が亡くなった翌2月22日に、大和国斑鳩宮において、数え年49歳で亡くなり、墓所は磯長墓(現在の大阪府太子町叡福寺)とされました。尚、『日本書紀』では、621年(推古天皇29年2月5日)のことと記しています。

〇聖徳太子関係略年表(日付は旧暦です)

・574年(敏達天皇3年1月1日) 飛鳥池辺雙槻宮において、用明天皇の第2皇子(母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女)として生まれる
・585年(用明天皇元年) 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子(用明天皇)が即位する
・587年(用明天皇2年4月9日) 用明天皇が崩御する
・587年(用明天皇2年8月2日) 皇位を巡って争いになり、戦後に馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につける
・592年(崇峻天皇5年11月3日) 馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる
・593年(崇峻天皇5年12月8日) 馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して皇位につけ(初の女帝)、
・593年(推古天皇元年4月10日) 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・605年(推古天皇13年) 斑鳩宮へ移り住む
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月21日) 厩戸皇子妃・膳大郎女が亡くなる
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、数え年49歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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 今日は、飛鳥時代の推古天皇11年に、日本最初の位階制度である冠位十二階が制定された日ですが、新暦では604年1月11日となります。
 冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、聖徳太子が制定したとされる日本で初めての冠による位階制(官人社会における個人の地位を表す序列・等級)でした。六つの徳目(徳・仁・礼・信・義・智)を、それぞれ大と小二つに区分して、 十二階とし、これを紫、青、赤、黄、白、黒の色の冠とし、その濃淡によって大と小を区別します。
 従来の氏姓による政治的地位の世襲を打ち破るため、位階を個人の能力によって授与し、また昇進を行って、人材登用を図ろうとしたものでした。しかし、647年(大化3)に七色十三階の冠位が制定され、その翌年4月1日を以て廃止されます。
 以下に、『日本書紀』巻第廿二の冠位十二階の部分を抜粋しておきますので、ご参照下さい。

『日本書紀』巻第廿二(冠位十二階の部分の抜粋)

<原文>

(推古天皇十一年の条)
十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。髻花、此云于孺。
(推古天皇十二年の条)
春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。

<読み下し文>

(推古天皇十一年の条)
十二月戊辰朔壬申、始めて冠位を行ふ。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷せて十二階。並びに當色の絁を以て之を縫へり。頂は撮總べて囊の如くし、而して緣焉を着けたり。唯だ、元日に髻花を着す。(髻花、此を孺と云ふ。)
(推古天皇十二年の条)
春正月戊戌朔、始めて冠位を諸臣に賜ふ。各差有り。

<現代語訳>

(推古天皇11年の条)
12月5日、はじめて冠位を制定した。大德(だいとく)・小德(しょうとく)・大仁(だいにん)・小仁(しょうにん)・大禮(だいらい)・小禮(しょうらい)・大信(だいしん)・小信(しょうしん)・大義(だいぎ)・小義(しょうぎ)・大智(だいち)・小智(しょうち)、あわせて十二階である。ならびに階ごとに決めた色の絁(きぬ)を縫い付けるものとする。髪は頂にまとめて括り、袋のごとく包み、そうして縁飾りをつける。ただ元日だけは、髻花(髪飾)を挿すこととする。(髻花はこれをうずと言う)
(推古天皇12年の条)
春1月1日、はじめて冠位を諸臣に賜わった。それぞれに差が有った。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細
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