ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:兵農分離

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 今日は、安土桃山時代の1598年(慶長3)に、武将・大名・天下人豊臣秀吉が亡くなった日ですが、新暦では9月18日となります。
 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)は、1537年(天文6)に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の百姓で織田信秀の足軽だった父・木下弥右衛門、母・なか(天瑞院)の子として生まれましたが、幼名は日吉丸と言いました。7歳のときに父を亡くし、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚します。
 1551年(天文20)元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出、行商ののち、今川氏の家臣松下之綱、次いで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲城主であった織田信長に小者として仕えました。1561年(永禄4)に浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗るようになります。
 清洲城普請、墨俣築城、京都警備などで活躍し、1570年(元亀元)の姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功を上げました。1573年(天正元)には、羽柴藤吉郎秀吉と名のり、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となって、近江長浜に築城します。
 1577年(天正5)に中国征伐の将として毛利氏と対戦しますが、1582年(天正10)に信長が明智光秀のために本能寺の変で横死すると、山崎の戦いで明智光秀を破り、次いで柴田勝家を倒して、信長の後継者としての地位を獲得しました。1583年(天正11)に大坂城を築城、四国・九州を征し、徳川家康を臣従させ、1590年(天正18)には小田原北条氏を滅ぼして天下統一を完成します。
 この間、1585年(天正13)に関白、翌年に太政大臣となり、豊臣の姓を賜りました。1591年(天正19)には関白を養子秀次に譲り太閤と称し、1592年(文禄元)と1597年(慶長2)の2度朝鮮に出兵しますが失敗します。
 貨幣統一、兵農分離、太閤検地、石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくったとされますが、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城において、数え年63歳で亡くなりました。

〇豊臣秀吉関係略年表(日付は旧暦です)

・1537年(天文6年正月元日?) 尾張国愛知郡中村で織田信長の足軽木下弥右衛門の子として生まれる
・1543年(天文12年) 秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死する
・1551年(天文20年) 元服に当たり父の遺産永楽銭1貫文をもって家出する
・1554年(天文23年) 18歳のとき、尾張清洲の城主であった織田信長に小者として仕えた
・1561年(永禄4年) 弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女)と結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗る
・1566年(永禄9年) 濃尾国境に位置する墨俣(岐阜県大垣市)に築城し、美濃攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられる
・1568年(永禄11年9月) 信長が足利義昭を擁して上洛すると、京都の奉行の一人として活動する
・1570年(元亀元年) 姉川の戦い、小谷城の攻略などで戦功をたてる
・1573年(天正元年7月) 木下を改め羽柴 藤吉郎秀吉と名のる
・1573年(天正元年8月) 浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となる
・1575年(天正3年) 越前一向一揆攻めで活躍する
・1575年(天正3年12月) 筑前守に任じられる
・1577年(天正5年) 播磨に出陣して姫路城に本拠を置く
・1582年(天正10年) 備中に出兵し、清水宗治の拠る高松城に迫って水攻めにする
・1582年(天正10年6月2日) 信長が明智光秀のために本能寺の変で横死する
・1582年(天正10年6月13日) 光秀を山崎の戦いで破る
・1582年(天正10年6月27日) 清須会議が行われる
・1583年(天正11年) 秀吉打倒を策する信長の三男信孝、滝川一益に対し、美濃・伊勢に出兵して攻める
・1583年(天正11年) 柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、越前に攻め入って北庄城の柴田氏を滅ぼす
・1583年(天正11年) 滝川一益を降して尾張・伊勢を支配下に入れる
・1584年(天正12年) 信雄・徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いをする
・1584年(天正12年11月) 従三位・権大納言となる
・1585年(天正13年) 信雄・家康に呼応して蜂起した紀伊根来・雑賀の一揆を討伐する
・1585年(天正13年) 四国征伐を行って長宗我部氏を降す
・1585年(天正13年3月) 正二位・内大臣となる
・1585年(天正13年) 徳川家康に対しては、実妹(旭姫)を嫁がせる
・1585年(天正13年7月) 近衛龍山の猶子として関白・従一位となる
・1586年(天正14年) 徳川家康を臣従させる
・1586年(天正14年12月) 太政大臣となり、豊臣の姓を賜る
・1587年(天正15年) 九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多・長崎を直轄化する
・1587年(天正15年) キリシタン禁令を発する
・1587年(天正15年9月13日) 聚楽第が完成する
・1587年(天正15年10月1日) 茶頭千利休の演出のもとで、庶民を集めて北野大茶湯を催す
・1588年(天正16年) 聚楽第に後陽成天皇の行幸を仰ぐ
・1590年(天正18年) 小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、天下統一を成し遂げる
・1591年(天正19年) 側室淀殿との間にもうけた愛児鶴丸を喪う
・1591年(天正19年8月) 関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤と称する
・1591年(天正19年) 全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握する
・1592年(文禄元年) 関白秀次により人掃令が出され、全国の家数・人数の調査が行われる
・1592年(文禄元年) 諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋の本陣に赴き、総指揮にあたる(文禄の役)
・1593年(文禄2年) 側室淀殿に実子秀頼が生まれる
・1594年(文禄3年8月) 伏見城が完成し、秀吉が入城する 
・1595年(文禄4年7月) 秀次を謀反人として切腹せしめ、妻妾子女悉くを処刑する
・1597年(慶長2年) ふたたび朝鮮出兵となる(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 醍醐の花見を行なう
・1598年(慶長3年8月5日) 五大老に幼い秀頼の将来のことを訴えた遺言状を認める
・1598年(慶長3年8月18日) 伏見城において、数え年63歳で亡くなる
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 今日は、1588年(天正16)豊臣秀吉が「刀狩り令」を布告した日です。(新暦では8月29日)
 刀狩りは、 武士以外の者の武器所有を禁止し、没収することで、鎌倉時代から、いろいろな領主によって行われてきました。
 特に有名なのが、安土桃山時代の1588年(天正16年7月8日)に、豊臣秀吉が出した「刀狩令」で、農民の一揆防止と耕作専念のために、大仏(方広寺)建立の釘(くぎ)・鎹(かすがい)として活用するとして行われました。これによって兵農分離を行い、近世封建体制の基礎をつくったと言われています。
 以下に、豊臣秀吉による「刀狩り令」(全文)と現代語訳を載せておきます。

〇豊臣秀吉による「刀狩り令」(全文)

条々

一、諸国百姓、刀、脇指、弓、やり、てっはう其外武具のたぐい、所持候事、堅く御停止候。其子細は、不入道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人に対し非儀の動をなすやから、勿論御成敗有るべし。然れば、其所の田畠不作せしめ、知行ついえになり候の間、其国主、給人、代官として、右武具悉く取あつめ、進上致すべき事。

一、右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度大仏建立の釘かすがいひに仰せ付けらるべし。然者、今生の儀者申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。

一、百姓は農具さへもち、耕作専に仕る候へば、子々孫々まで長久に候。百姓御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基也。異国にては唐尭のそのかみ、天下を鎮撫せしめ、宝剣利刀を農器にもちひると也。本朝にてはためしあるべからず。此旨を守り、其趣を存知し、百姓は 農桑に精を入べき事。

  右道具急度取集め、進上あるべく候也。

   天正十六年七月八日    秀吉朱印

<現代語訳>

条々

一、諸国の百姓が、刀・脇指・弓・槍・鉄砲その他の武具の類を所持することを厳禁する。その理由は,農耕に不要な武器を持てば、年貢や雑税を出ししぶり、万一、一揆を企て、領主に対してけしからぬ行為をなす者があれば、当然処罰される。そうなれば,その所の田畑は耕作するものがいなくなり,知行が無になってしまう。したがって、大名・領主・代官は、右の武具を全て没収して差し出すようにすること。

一、右のように取り集めた刀・脇指は無駄にするのではなくて、今度、京都方広寺の大仏を建立するにあたって、釘・鎹(かすがい)に再生するのである。そうすれば、現世はもとより来世までも百姓は助かることである。

一、百姓は農具だけを持って、耕作に専念していれば、子孫末代まで長く安泰なのである。百姓のことを憐れんで、命令されたのである。まことに国土の安全、万民の安楽の基になるものである。中国では陶唐氏がその昔に天下を治めた時に、剣や刀を没収して、農機具に作り直した先例があるという。日本には、そのような例がないので、習おうとしているのだ。それぞれがその趣旨をよく承知し、農耕と養蚕に精を出すようにせよ。

 右の通り,武具類は必ず取り集め、差し出すようにせよ。

     天正16年7月8日    秀吉朱印
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