ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:六国史

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 今日は、平安時代前期の承和7年に、藤原緒嗣らが『日本後紀』を撰上した日ですが、新暦では、841年1月5日となります。
 『日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代前期に成立した官撰の正史で、『続日本紀』に続く、「六国史」の三番目のものでした。元々は全40巻で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)の43年間を扱う漢文編年史でしたが、室町時代の応仁・文明の戦乱で散逸し、現存するのは10巻分のみです。
 819年(弘仁10)に、嵯峨天皇の勅命により、藤原冬嗣(ふゆつぐ)、藤原緒嗣(おつぐ)、藤原貞嗣(さだつぐ)、良岑安世(よしみねのやすよ)が編纂を開始したものの、3人が相次いで亡くなり、終始編纂に従事したのは緒嗣のみで、841年1月5日(承和7年12月9日)にようやく完成し、仁明天皇に撰上されました。内容では、天皇や官人について批判した伝記の記述に特色があるとされ、書中に和歌が12首あることも明らかにもなっています。
 現存しない他の30巻については、『日本紀略』、『類聚国史』等の引用文(逸文)によって部分的復元がなされてきました。
 以下に、『日本後紀』の成立について記した『日本後紀』序〔逸文〕を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『日本後紀』序(逸文)

<原文>

臣緒嗣等、討論綿書、披閲曩索、文史之興、其来尚矣、無隠毫釐之疵、咸載錙銖之善、炳戒於是森羅、徽猷所以昭晢、史之為用、蓋如斯歟、伏惟前後太上天皇、一天両日、異体同光、並欽明文思、済世利物、問養馬於牧童、得烹鮮於李老、民俗未飽昭華、薛羅早収渙汗、弘仁十年太上天皇(嵯峨)、勅大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣、参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣、参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世等、監修撰集、未了之間、三臣相尋薨逝、緒嗣独存、後太上天皇(淳和)詔、副左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田等、続令修緝、属之譲祚、日不暇給、今上陛下、稟乾坤之秀気、含宇宙之滴精、受玉璽而光宅、臨瑶図而治平、仁孝自然、聿修鴻業、聖綸重畳、筆削遅延、今更詔左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取、令遂功夫、仍令前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣等、銓次其事以備釈文、錯綜群書、撮其機要、瑣事細語、不入此録、接先史後、綴叙已畢、但事縁例行、具載曹案、今之所撰、棄而不取、自延暦十一年正月丙辰、迄于天長十年二月乙酉、上下卌二年、勒以成卌巻、名曰日本後紀、其次第、列之如左、庶令後世視今、猶今之視古、臣等才非司馬、識異董狐、代匠傷手、流汗如漿、謹詣朝堂、奉進以聞、謹序
      承和七年十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野禰祢鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

<現代語訳>

 臣緒嗣らが、先人が著した書物を調べ、古来の書索を閲覧しますと、史書が作られるようになって久しいことが判ります。そこにおいては些細な悪行についても隠すことがなく、小さな善行についてもすべて記載し、明らかな戒めとすべき事柄が限りなく含まれ、これにより正しい道が照らし出されており、史書の有用性は、ここにあります。
 伏して思いますに、前後太上天皇(嵯峨太上天皇と淳和太上天皇)は、一天における二つの太陽と同然でして、体を異にしつつ同じ光輝を発して、共に身心を慎み、道理に明らかで文徳が輝き思慮深い、という徳をもち、世を済い万物に利益を与え、中国古代の聖帝である黄帝が牧童に学んだ、と伝える牧馬の法に同じとする政治の要諦を身につけ、大国を治めるのは小魚を煮るのと同じだと説く老子の政治哲学を体得しておられます。しかし、人民が嵯峨・淳和両天皇の盛世を満喫しないうちに、お二人は退位されてしまいました。
 弘仁十年(819年)に嵯峨天皇は、大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣・参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣・参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世らに勅して、国史の編修を監督・指導させることになりましたが、作業が終了しない間に三臣が相ついで死去し、緒嗣独り存命する事態になりました。そこで、淳和天皇が詔りして、左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田らを副えて、編修作業を継続させることになりました。しかし、淳和天皇の譲祚に至りましても完成できませんでした。
 今上陛下(仁明天皇)は、天地の間の優れた気を受け継ぎ、宇宙の精気を身に有して、皇位に即いて四方に徳を及ぼし、太平をもたらし、仁と孝の徳を本性として天下を治める大事業に当たられ、国史の編修を促す勅を重ねて出されましたが、作業は遅れてしまいました。ここで、さらに左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取らに詔りして、作業を遂行させることになりました。そこで、前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣らに、資料を排列して整った文章を準備させました。錯雑する種々の書物に関しましては要点のみを採り、煩瑣な細事はこのたびの史書では省き、先史である『続日本紀』に続けて本文の叙述を完了いたしました。ただし国史編修の慣行に従い、詳しい記事を曹案(文案)に記しましたが、本文の編修に当たっては棄てて採りませんでした。延暦十一年(792年)正月丙辰(一日)から天長十年(833年)二月乙酉(二十八日)まで四十二年間の歴史を記述して四十巻にまとめ、『日本後紀』と名づけることにいたします。巻次の目録は、左記のとおりです。願わくは、この『日本後紀』により、いまの人が古の社会を視るがごとく後世の人がいまの社会を視るようになればと思います。編修に当たった私たちは、司馬遷の才能をもたず、識見は董狐(中国春秋時代の史官)に及びません。優れた能力を有する大匠でない私たちは、努力したもののみずからを傷つけ、汗を流すのみで、十分な成果をあげることができませんでした。謹んで朝廷に参内して奉進し、上奏して序文といたします。
  承和七年(840年)十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

  森田悌『日本後紀上 全現代語訳』(講談社学術文庫)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細
1993年(平成5)屋久島・白神山地・法隆寺・姫路城の4ヶ所が日本初の世界遺産に決定する詳細
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 今日は、平安時代前期の892年(寛平4)に、菅原道真が『類聚国史』を撰進した日ですが、新暦では6月2日となります。
 類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし)は、菅原道真が宇多天皇の勅を奉じて編集した、平安時代前期の歴史書でした。中国で流行した『芸文類聚』、『初学記』などの類書にならい、六国史(りっこくし)の記事を神祇・帝王・後宮・人・歳時・音楽・賞宴・奉献・政理・刑法・職官・文・田地・祥瑞・災異・仏道・風俗・殊俗など十数部の部門別に分類しなおして、検索の便をはかり、年代順に編集したものです。
 892年(寛平4)に完成・成立した当時は、本史200巻、目録2巻、帝王系図3巻からなっていましたが、応仁の乱で散逸したとされ、現存するのは本史61巻、抄出本1巻のみとなりました。原文主義をとって余計な文章の改変を一切排していて、六国史の記事検索に便利であり、『日本後紀』の欠を補う古代史研究の重要史料とされますが、『三代実録』関係の記事は後人の増補とする説もあります。

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ、幼少の頃より詩歌に才能があったと言われています。862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶元)には、文章博士となりました。
 以後、宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止します。899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。
 そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなっています。著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

☆六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
  全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
  全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
  全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
  全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1863年(文久3)長州藩が下関海峡に碇泊中のアメリカ商船に砲撃し、下関事件が始まる(新暦6月25日)詳細
1900年(明治33)鉄道唱歌』第一集東海道篇が発行される詳細
1930年(昭和5)日本画家下村観山の命日詳細
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 今日は、平安時代初期の797年(延暦16)に、六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上された日ですが、新暦では3月15日となります。
 これは、平安時代初期に成立した官撰の正史で、『日本書紀』に続くものです。全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)の95年間を扱う漢文編年史でした。
 光仁天皇の命によって石川名足・淡海三船らが撰修をはじめ、797年(延暦16年8月13日)に完成・奏上(『日本後紀』巻五による)されましたが、前半の 20巻は菅野真道ら、後半の 20巻は藤原継縄らによって完成します。
 全般に記述が簡潔で、事件の要点のみを記して詳細に及んでいませんが、その分『日本書紀』と違い、文飾や誇張記事が少なく、奈良時代の根本史料とされてきました。
 以後、『日本後紀』、『続日本後紀』 、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と官撰の正史が作成され、これらを含めて「六国史」と呼ばれるようになります。
 以下に、『続日本紀』の完成・奏上について記載されている『日本後紀』巻五 延暦16年(797年)2月己巳(13日)条の原文を掲載しておきましたので、ご参照ください。

〇『日本後紀』巻五 延暦16年(797年)2月己巳(13日)条

<原文>

延暦十六年二月己巳条

「己巳。先是。重勅從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子學士菅野朝臣眞道。從五位上守左少辨兼行右兵衛佐丹波守秋篠朝臣安人。外從五位下行大外記兼常陸少掾中科宿祢巨都雄等。撰續日本紀。至是而成。上表曰。臣聞。三墳五典。上代之風存焉。左言右事。中葉之迹著焉。自茲厥後。世有史官。善雖小而必書。惡縱微而无隱。咸能徽烈絢□。垂百王之龜鏡。炳戒昭簡。作千祀之指南。伏惟天皇陛下。徳光四乳。道契八眉。握明鏡以惣萬機。懷神珠以臨九域。遂使仁被渤海之北。貊種歸心。威振日河之東。毛狄屏息。化前代之未化。臣徃帝之不臣。自非魏魏盛徳。孰能與於此也。既而負・餘閑。留神国典。爰勅眞道等。銓次其事。奉揚先業。夫自寳字二年至延暦十年。卅四年廿卷。前年勒成奏上。但却起文武天皇元年歳次丁酉。盡寳字元年丁酉。惣六十一年。所有曹案卅卷。語多米鹽。事亦踈漏。前朝詔故中納言從三位石川朝臣名足。刑部卿從四位下淡海眞人三船。刑部大輔從五位上當麻眞人永嗣等。分帙修撰。以繼前紀。而因循舊案。竟无刊正。其所上者唯廿九卷而已。寳字元年之紀。全亡不存。臣等搜故實於司存。詢前聞於舊老。綴叙殘簡。補緝缺文。雅論英猷。義關貽謀者。惣而載之。細語常事。理非書策者。並從略諸。凡所刊削廿卷。并前九十五年・卷。始自草創。迄于斷筆。七年於茲。油素惣畢。其目如別。庶飛英騰茂。與二儀而垂風。彰善□惡。傳萬葉而作鑒。臣等輕以管窺。裁成国史。牽愚歴稔。伏増戰兢。謹以奉進。歸之策府。」
                        
                           國史大系『日本後紀』より

〇六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇「続日本紀」抜粋(歴史上面白そうなところだけ抜き出してみました)

☆和銅元年春正月乙巳(注:秩父から銅を献上)
「武蔵国秩父郡、和銅を献ず。詔して日く、『…東方武蔵国に自然に作成る和銅出でたりと奏して献れり』と。故慶雲五年を改めて和銅元年として御世の年号と定め賜う。」

☆和銅四年冬十月甲子条(注:蓄銭叙位令)
「詔して日く、夫れ銭の用たる、財を通じ有無を貿易する所以なり当今百姓なほ習俗に迷ひて、未だ其の理を解せず、僅かに売買すと雖も、猶銭を蓄ふる者無し。其の多少に随ひて節級して位を授けん。其れ従六位以下蓄銭一十貫以上有らん者には、位一階を進めて叙す。廿貫以上には二階を進めて叙す。初位以下五貫ある毎に一階を進めて叙す。(中略)其の五位以上及び正六位、十貫以上有らん者は、臨時に勅を聴け」

☆和銅五年春正月乙酉(注:役民の労苦)
「詔して日く、『諸国の役民、郷に還るの日、食糧へ乏しくして、多く道路に饉ゑて、溝壑に転填すること、其の類少なからず。国司等宜しく勤めて撫養を加へ、量りて賑恤すべし。如し死する者有らば、且つ埋葬を加へ、其の姓名を録して、本属に報ぜよ』と」

☆和銅六年三月壬午(注:運脚の労苦)
「又詔すらく、『諸国の地、江山遐かに阻たって、負担の輩、久しく行役に苦しむ。資粮を具へ備へむとすれば、納貢の恒数を闕き重負を減損せむとすれば路に饉るの少なからざることを恐る。…宣しく国郡司等、豪富の家に募って、米を路の側に置て、其の売買に任ぜしむべし』」

☆和銅六年五月甲子条(注:「風土記」の撰上)
「制すらく。畿内七道諸国の郡郷名は好き字を着けよ。其の郡内に生ずる所の、銀・銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具に色目を録せしむ。及び土地の沃せき、山川原野の名号の所由、又古老の相伝旧聞異事は、史籍に載せて亦宜しく言上すべし」

☆和銅六年五月(注:諸国からの献上品)
「又、大倭、参河をして並に雲母を献ぜしむ。伊勢は水銀、相模は石硫黄、白樊石、黄樊石、近江は慈石、美濃は青樊石、飛弾・若狭は並に樊石、信濃は石硫黄、上野は金青、陸奥は白石英、雲母、石硫黄、出雲は黄樊石、讃岐は白樊石」

☆霊亀元年五月朔条(注:諸国の百姓の逃散)
「諸国の朝集使に勅して日く、天下の百姓、多く本貫に背きて、他郷に流宕して課役を規避す。其の浮浪逗留して、三月以上を経たる者は、即ち土断して調庸を輸さしむること、当国の法に随え」

☆霊亀元年十月乙卯条(注:陸田での麦・粟奨励)
「詔して日く、国家の隆泰は要、民を富ますにあり。民を富ますの本は務めて貨食よりす。(中略)今諸国の百姓未だ産術を尽くさず、唯水沢の種に趣いて陸田の利を知らず。或は撈旱に遭えば更に余穀なく、秋稼若し罷めば多くは飢饉をいたす。(中略)宜しく百姓をして麦禾を兼ね種うること、男夫一人ごとに二段ならしむべし。凡そ粟の物たる、支うること久しくして敗れず、諸の穀の中に於て最もこれ精好なり。よろしく此の状を以てあまねく天下に告げて、力をつくして耕種せしめ、時候を失うことなかるべし。自余の雑穀は力に任せて之を課せよ。若し百姓粟を輸して稲に転ずる者あらば之を聴せ」

☆養老元年四月壬辰条(注:行基の活動)
「詔して日く。(中略)方今小僧行基并に弟子等、街懼に零畳して妄りに罪福を説く。朋党を合わせ構え、指臂を焚き剥ぎ、歴門仮設して強いて余物を乞い、詐りて聖道と称し、百姓を妖惑す。道俗擾乱し、四民業を棄つ。進みては釈教に違い、退きては法令を犯す。(中略)今より以後、更に然することを得ざれ。村里に布告して勤めて禁止を加えよ」

☆養老元年五月丙辰条(注:諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出)
「詔して日く、率土の百姓、四方に浮浪して、課役を規避し、遂に王臣に仕えて、或は資人を望み、或は得度を求む。王臣、本貫を経れずして、私に自ら駆使し、国郡に嘱請して、遂に其の志を成す。茲に因りて、天下に流宕して、郷里に帰らず。若し斯の輩有りて、轍く私に容止せば、状を揆りて罪を科すること、並びに律令の如くしよ」

☆養老二年四月乙亥条(注:耕地の開発)
「首名は少より律令を治めて、吏職を暁習す。和銅の末、出でて筑後守となり、肥後国を兼ね治む。人に生業を勧め、制条を為りて耕営を教う。(中略)また陂池を興し築きて以て潅漑を広む。肥後の味生池、及び筑後往々の陂池、皆是なり。是に由りて人その利を蒙りて今に温給することは、皆首名の力なり。故に吏事を言う者は、咸に以て弥首と為す。卒するに及びて百姓之を祀る」

☆養老四年五月癸酉条(注:日本書紀の奏上)
「是より先、一品舎人親王、勅を奉りて日本紀を修す。是に至りて功成りて奏上す。紀三十巻・系図一巻」

☆養老六年二月甲午条(注:衛士・役民の逃亡)
「詔して日く、『去る養老五年三月廿七日兵部卿従四位上阿倍朝臣首名等奏言すらく、”諸府の衛士、往々偶語して逃亡禁じ難し。然る所以は、壮年にして役に赴き、白首にして郷に帰り、艱苦弥深くして遂に疎網に陥る。望むらくは三周相替わり以って懐土の心を慰せしめん”と』」

☆養老六年閏四月乙丑条(注:百万町歩開墾計画)
「太政官奏して日く。(中略)食の本たる、これ民の天とするところ、時に随いて策をを設くるは、治国の要政なり。望み請うらくは、農を勧め、穀を積みて、以て水旱に備えん。仍て所司に委ねて人夫を差発し、膏腴の地良田一百万町を開墾せん。其の役を限ること十日、便ち糧食を給す。須いんところの調度は、官物もて之を借し、秋収して後に即ち造り備えしめん。若し国郡司詐って逗留をなし、開墾を肯ぜざることあらば、並びに即ち解却せよ。恩赦を経ると雖も免す限りにあらず。如し部内の百姓、荒野閑地に、能く功力を加えて、雑穀三千石巳上を収穫せば、勲六等を賜う」

☆養老七年四月辛亥条(注:三世一身法)
「太政官奏すらく、『頃者百姓漸く多く、田池搾狭なり。望み請ふらくは、天下に勧め課せて、田疇を開闢かしめむ。其れ新たに溝池を造り、開墾を営む者あらば、多少に限らず、給して、三世[6]に伝へしめむ。若し旧き溝池を逐はば、其の一身に給せむ』と。奏してこれを可そす。」

☆天平六年十一月戊寅条(注:得度・授戒の制)
「太政官奏すらく。仏教の流伝は必ず僧尼に在り。度人の才行は実に所司に簡ぶ。比来出家、学業を審らかにせず、多く嘱請に由る。甚だ法意に乖けり。今より以後、道俗を論ぜず、挙する所の度人は、唯法華経一部、或は最勝王経一部を闇誦し、兼ねて礼仏を解し、浄行三年以上の者を取りて得度せしめば、学問弥長えにして、嘱請自ら休まん、と。(中略)奏可す」

☆天平七年癸卯条(注:新羅との関係)
「新羅使金相貞等入京す。癸丑、中納言正三位多治比真人県守を兵部曹司に遣わし、新羅使の入朝の旨を問わしむ。しかるに新羅国、轍ち本号を改めて王城国と日う。茲に因りて其の使を返し却く」

☆天平十五年五月乙丑条(注:墾田永年私財法)
「詔して日く、『聞くが如くんば、墾田は養老七年の格に依りて、限満つるの後、例に依りて収授す。是に由りて農夫怠倦して、開ける地復た荒れると。今自り以後は、任に私財と為し、三世一身を論ずること無く、咸悉永年取る莫れ。其の親王の一品及び一位には五百町、二品及び二位には四百町、三品四品及び三位には三百町、四位には二百町、五位には一百町、六位已下八位已上五十町、初位已下庶人に至るまでは十町。但し郡司は大領少領には三十町主政・主帳には十町。若し先に給える地、茲の限りより過多なる有らば、便即ち公に還せ。□詐隠せらば、罪を科すること法の如くにせよ。其の国司在任の日は墾田は、一に前格によれ。但し人、田を開かんが為に地を占めんは、先ず国に就きて申し請い、然る後にこれを開け。茲に因りて百姓の妨げ有る地を占請すること得ざれ。若し地を受くるの後、三年に至るも本主開かざれば、他人の開墾を聴せ」

☆天平十三年三月乙巳条(注:国分寺建立の詔)
「詔して日く、『朕薄徳を以て忝く重任を承け、未だ政化を弘めず、寤寐多く慙づ。古の明主、皆先業を能くし、災除かれ福至る。何の政化を修めてか、能く此の道に臻れる。頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交集りて、唯労して己を罪す。是を以て、広く蒼生の為に、遍く景福を求む。故に前年、驛を馳せて天下の神宮を増し飾へ。去歳、普く天下を令して釈迦牟尼仏の尊像高さ一丈六尺なる者各一鋪を造り、并せて大般若経各一部を写さしむ。今春より已来、秋稼に至るまで、風雨序に順ひ、五穀豊穣なり。此に乃ち誠を徴かにし、願を啓す。靈?答ふるが如し。案ずるに經に云ふ、若し國土に講宣讀誦、恭敬供養し、此の經を流通せしむる王者あらば、我等四王、常に來つて擁護し、一切の災障、皆消殄せしめ、憂愁疾疫亦除き差へしめん。願ふところ心を遂げ、恒に歡喜を生ぜんものなりと。宜しく天下の諸国をして、各敬んで七重塔一区を造り、并に金光明最勝王経、妙法蓮華経、各一部を写さしむ。朕又別に金字の金光明最勝王経を写し、塔毎に各々一部を置かしめんと擬す。冀ふところは聖法の盛んなること、天地とともに永く流へ、擁護の恩、幽明に被らしめて恒に満たんことを。其れ造塔の寺は、また国の華たり。必ず好処を択びて、実に長久にすべし。近人は則ち薰臭の及ぶところを欲せず、遠人は則ち衆を勞して歸集することを欲せず、國司等各宜しく嚴飾に務めて、兼ねて潔淸を盡すべし。近ごろ諸天に感ず、庶幾くば臨護して、遐邇に布告し、朕の意を知らしめよ。』又国毎の僧寺には封五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町。僧寺には必ず廿僧有らしめよ。其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒を受くべし。若し闕者有れば、即ち補満すべし。其の僧尼は毎月八日、必らず最勝王經を轉讀し、月半に至る毎に、戒羯磨を誦べし。毎月六齋日に公私漁獲殺生するを得ず。国司等宜しく恒に検校を加ふべし。」

☆天平十五年十月辛巳(丁卯朔十五)冬十月辛巳条(注:大仏造立の詔)
「詔して日く。朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志兼済に存し、勤めて人物を撫す。率土の浜、已に仁恕に霑うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に浴さず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰かに、万代の福業を修めて動植咸く栄えんことを欲す。粤に天平十五年歳は癸未に次る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏金銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして、朕が知識と為し、遂には同じく利益を蒙りて共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易き心や至り難き。但恐らくは、徒に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪を生じて罪辜に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各介福を招き、宜く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当に念を存し各盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情願刷る者有らば、恣に聴せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾し、強に収斂せしむること莫。遐邇に布告して、朕が意を知らしめよ。」

☆天平勝宝四年夏四月乙酉(注:盧舎那大仏の開眼供養)
「盧舎那大仏の像も成りて始て開眼す。この日東大寺に行幸す。天皇みずから文武百官を率い、斎を設けておおいに会せしむ。その儀もはら元日に同じ。(中略)僧一万を請ず。すでにして雅楽寮及び諸寺より種々の音楽並びにことごとく来集す。また王臣諸氏の五節、久米舞、楯伏、踏歌、袍袴等の歌舞、東西より声を発し、庭を分ちて奏す。作す所の奇偉あげて記すべからず。仏法東帰より、斎会の儀いまだかって批の如くの盛なること有らざるなり」

☆神護景雲三年九月己丑条(注:宇佐八幡宮神託事件)
「(上略)始め大宰の主神習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え、因りて八幡の神教と矯りて言う。『道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん』と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負す。天皇、清麻呂を床下に召し、勅して日く。『昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、大神事を奏せしめんが為に尼法均を請うと。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命を聴くべし』と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。『大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん』と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣して日く。『我が国家、開闢より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名し、大隅に配す。其の姉法均は還俗せしめて備後に配す」

☆天応元年六月辛亥条(注:石上宅嗣と芸亭院)
「大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨ず。詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣従一位麻呂の孫、中納言従三位弟麻呂の子なり。性郎悟にして姿儀有り。経史を愛尚して渉覧する所多し。好みて文を属り、草隷を工にす。(中略)宅嗣、辞容閑雅にして時に名有り。風景山水に値うごとに、時に筆を援きてこれを題す。宝字より後、宅嗣及び淡海真人三船を文人の首となす。著す所の詩賦数十首、世多くこれを伝誦す。其の旧宅を捨して以て阿□寺となし、寺内の一偶に特に外典の院を置く。名けて芸亭と日う。もし好学の徒有りて、就きて閲せんと欲する者は、恣にこれを聴す。仍りて条式を記して後に貽す。其の略に日く。『内外の両門は本一体たり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典を足すけんがために外書を加え置く。地は是れ伽藍、事須く禁戒すべし。庶くは、同志を以て入る者は、空有に滞ること無くして兼ねて物我を忘れ、異代に来たらん者は、塵労を超出して覚地に帰せんことを』と。其の院今見に存せり。臨終に遺教して薄葬せしむ。薨ずる時年五十三。時の人これを悼む」

☆延暦元年十二月壬子条(注:勘解由使の設置)
「(中略)詔して日く。公廨の設けは、先ず欠負を補い、次に国儲を割き、然して後差を作して処分す。聞くならく、諸国曽て遵行せず、あらゆる公廨且く以て費用し、税帳を進むるに至りて詐りて未納を注すと。これに因りて、前人解由状に滞りて後人受領に煩えり。事において商量するに、甚だ道理に乖けり。又その四位以上の者は、冠蓋すでに貴く、栄禄また重く、授くるに兼国を以てし、聞を善政に佇つ。今すなわち、苟くも公廨を貪りて懲し求むること甚だし。遷替に至りては多くは解由なし。かくの如くにして責めずんば、あに皇憲といわんや。今より以後、遷替の国司、百廿日に満ちていまだ解由を得ざる者は、よろしく位禄・食封を奪い、もって将来を懲らすべし」

☆延暦四年五月戊午条(注:地方政治に対する監督の強化)
「勅して日く。調・庸を貢進すること、具に法式に著れり。しかるに遠江国より進るところの調・庸、濫穢にして官用に堪えず。凡そ頃年の間、諸国の貢物、麁悪にして多くは用に中らず。その状を准量し、法に依りて坐すべし。今より以後、かくの如き類有らば、専当の国司は見任を解却し、永く任用せざれ。自余も官司は節級して罪に科せよ。その郡司は決罰を加えて見任を解き、兼ねて譜第を断て」
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 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、六国史一番最後の『日本三代実録』が完成した日ですが、新暦では9月17日となります。
 これは、六国史の一番最後のもので、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である、858年年(天安2)8月から887年(仁和3)8月までの30年間を扱っていました。漢文の編年体の史書で、全五十巻からなっていますが、巻によりかなりの脱漏があります。
 宇多天皇の勅を奉じて、892年(寛平4)に藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが編纂に着手し、901年(延喜元)に完成しました。
 六国史の中では最も詳しく、詔勅・上表文や恒例の年中行事、祥瑞(喜ばしい前兆)・災異(地震・火災等)をも収め、また干支だけでなく日子(ひにち)も併記するなど、史書としての体裁が整備されています。
 以下に『日本三代実録』序の原文を掲載しておきましたので、ご参照ください。

〇『日本三代実録』序

<原文>
 日本三代實錄序
 臣時平等.竊惟,帝王稽古,咸置史官.述言事而徵廢興,甄善惡以備懲勸.開闢之辰,日暮於手披之處,遂初之跡,俄頃於目閱之間者也.伏惟,太上天皇生知至聖,性植純仁.體耀魄而居宸,平泰階而建極,彛倫攸敘,憲竄該舉.以為,始自貞觀,爰及仁和,三代風猷,未著篇牘.若闕文之靡補,恐盛典之長虧.詔大納言-正三位-兼行左近衛大將-皇太子傅-陸奧出羽按察使臣-源朝臣-能有、中納言-兼右近衛大將-從三位-行春宮大夫臣-藤原朝臣-時平、參議-勘解由長官-從四位下-兼守右大辨-行春宮亮臣-菅原朝臣-道真、從五位下-行大外記-兼播磨權大掾臣-大藏朝臣-善行、備中掾-從六位上三統宿禰理平等,因循舊貫,勒就撰修.四五年來,大納言-能有朝臣拜右大臣,奄然殞逝.既而搜採稍周,條流且辨.天皇,倦負扆於九重,輕脫屣於萬乘.宸旈應厭,凝神默於姑射,淨居有勸,落飾於魔宮.爾乃時屬揖讓,朝廷務般.在此際會,蹔停刑緝.
 今上陛下,承累聖之寶祚,順兆民之樂推.天縱雄才,嗤漢武於大略.德尚恭己,法虞舜之無為.思欲遵前旨之草創,從即日之財成.敕正三位-守左大臣-兼行左近衛大將臣-籐據朝臣-時平、正三位-守右大臣-兼行右近衛大將臣-菅原朝臣-道真、從五位上-行勘解由次官-兼大外記-參河權介臣-大藏朝臣-善行、大外記-正六位上臣-三統宿禰-理平等,賷其叅譁,亟有頭角.右大臣-道真朝臣坐事左降,歘向西府.洎斯文之成立,值彼臣之謫行.大外記-理平賜爵遷官,不遂其業.
 臣等,強勉專精,經引積稔,編次究數,筆削畢功.起於天安二年八月乙卯,訖于仁和三年八月丁卯,首尾三十年,都為五十卷,名曰-日本三代實錄.今之所撰,務歸簡正,君舉必書.綸言遐布,五禮沿革,萬機變通,祥瑞天之所祚於人主,灾異之所誡於人主.理燭方策,撮而悉戴之.節會儀注,烝嘗制度,蕃客朝聘.自餘諸事,永式是存,粗舉大綱.臨時之事,履行成常,聊標凡例,以示有之矣.開委巷之常,乖教世之要,妄誕之品,棄而不取焉.臣等生謝含章,辭非隱核.腐毫淹祀,靦汙失魂.謹詣朝堂,奉進以聞.謹序.
      延喜元年八月二日
            左大臣從二位兼行左近衛大將臣藤原朝臣時平
            從五位上行勘解由次官兼大外記臣大藏朝臣善行
                        
                           國史大系『日本三代實錄』より

☆六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する
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 今日は、奈良時代の720年(養老4)に、舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を完成し撰上した日ですが、新暦では7月1日となります。
 これは、天武天皇の時に着手され、舎人親王が中心となって、完成した日本最初の国史でした。全30巻(1、2は神代、巻3~30は神武天皇から持統天皇まで)で、系図1巻を付すとされていますが現存していません。
 漢文の編年体で記述され、同時代に成立した『古事記』よりも詳細で、かつ異説や異伝までも掲載し、客観性がみられ、史書として整っているとされてきました。帝紀・旧辞のほか諸氏の記録、寺院の縁起、朝鮮側資料などを利用して書かれたと考えられますが、漢文による潤色が著しく、漢籍や仏典をほとんど直写した部分もあります。
 神代巻や古い時代の巻は多量の神話や伝説を含み、また歌謡128首も掲載されるなど、上代文学史上においても貴重なものとされてきました。
 以後、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』 、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』と作成されて、これら6つの国史をあわせて、六国史と呼んでいます。

〇六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する

〇『日本書紀』卷第一の冒頭部分

<原文>

神代上

古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者薄靡而爲天・重濁者淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故、天先成而地後定。然後、神聖、生其中焉。故曰、開闢之初、洲壞浮漂、譬猶游魚之浮水上也。于時、天地之中生一物、狀如葦牙。便化爲神、號國常立尊。至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此。次國狹槌尊、次豐斟渟尊、凡三神矣。乾道獨化、所以、成此純男。

<読み下し文>

神代上(かみのよのかみのまき)

 古(いにしえ)天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰・陽、分かれざりしときに、渾沌たること鷄(とり)の子の如くして、溟涬(ほのか)に牙(きざし)を含めり。其(そ)れ清く陽(あきらか)なるは、薄靡(たなび)きて天(あめ)と爲り、重く濁れるは、淹滞(つつ)いて地(つち)と爲るに及びて、精(くわ)しく妙(たえ)なるが合えるは摶(むらが)り易(やす)く、重く濁れるが凝(こ)るは竭(かたま)り難し。故(かれ)、天(あめ)先(ま)ず成りて、地(つち)後に定まる。 然して後に、神聖(かみ)其の中に生る。故、曰く、開闢の初めに洲壤(くにつち)浮き漂うこと譬(たと)えば游(あそ)ぶ魚の水の上に浮べるが猶(ごと)し。 時に、天地の中に一つ物生(な)れり。 状(かたち)葦牙(あしかび)の如(ごと)し。便(すなわ)ち神と化爲(な)る。 國常立尊(くにのとこたちのみこと)と號(もう)す。【至りて貴きを尊と曰い、それより餘(あまり)を命と曰う。並びに美(み)舉(こ)等(と)と訓(よ)む。下(しも)皆(みな)此(これ)に效(なら)え】
 次に國狹槌尊(くにのさづちのみこと)。次に豐斟渟尊(とよくむぬのみこと)。凡(およ)そ三はしらの神。 乾道(あめのみち)獨(ひと)り化(な)す。 所以(ゆえ)に此れ純(まじりなき)男(お)と成す。
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