今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、土佐藩の後藤象二郎らが、前藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」を幕府に提出した日ですが、新暦では10月29日となります。
土佐藩の大政奉還建白書(とさはんのたいせいほうかんけんぱくしょ)は、坂本龍馬の大政奉還を含めた構想「船中八策」に、後藤象二郎が共感し、前土佐藩主山内豊信(容堂)に大政奉還を進言、これをもとに公武合体派の容堂名により、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜に提出したものでした。内容は、諸外国の脅威が迫る中で国内が分裂状態に陥っている現状を憂い、「王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と存じたてまつり候」と説いたものです。また、広島藩からも10月6日に大政奉還建白書が出されました。
これらの建白を受けて、慶喜は幕府有司に意見を聴き、10月13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出します。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになりました。
以下に、前土佐藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」と別紙を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇土佐藩「大政奉還建白書」 1867年(慶応3年10月3日)提出
山内豊信慶喜ニ致ス書
誠惶誠恐[1]謹テ建言[2]仕候、天下憂世[3]ノ士、口ヲ噤シテ敢テ不言ニ至リ候ハ、誠ニ可懼ノ時ニ候、朝廷、幕府、公卿[4]、諸侯[5]旨趣[6]相違フノ状アルニ似タリ、誠ニ可懼ノ事ニ候、此二懼ハ我ノ大患[7]ニシテ、彼ノ策於是乎成矣ト可謂候、如此事態ニ陷リ候ハ、其責任竟誰ニ可歸ヤ、併シ既往ノ是非曲直[8]ヲ喋々辧難[9]ストモ何ノ益カアラン、唯願クハ大活眼[10]大英斷ヲ以テ、天下萬民ト共ニ同心協力[12]公明正大ノ道理ニ歸シ、萬世[13]ニ亙テ不愧、萬國ニ臨ンテ恥[14]サルノ大根柢[15]ヲ建テサルヘカラス、此旨趣[6]、前月上京ノ砌ニモ追々建言[2]仕候心得ニ御坐候ヘトモ、何分阻隔[16]ノ筋ノミ有之、其内不圖[17]モ舊疾再發仕、不得止歸國仕候以來、起居[18]動作ト雖モ不隋意[19]ノ事ニ成リ至リ、再上ノ儀、暫時相調不申候ハ、誠ニ遺憾ノ次第ニテ、只管此事ノミ日夜焦心苦思[20]仕罷在候、因テ愚存[21]ノ趣、一二家來共ヲ以テ言上仕候、唯幾重ニモ公明正大ノ道理ニ歸シ、天下萬民ト共ニ、皇國數百年ノ國體[22]ヲ一變シ、至誠[23]ヲ以テ萬國ニ接シ、王政復古[24]ノ業ヲ建テサルヘカラサルノ一大機會ト奉存候、猶又別紙[25]得度御細覽被仰付度、懇々[26]ノ至情[27]難默止、泣血流涕[28]ノ至ニ不堪候。
慶應三年丁卯九月 松平容堂
別紙
宇内[29]ノ形勢、古今ノ得失ヲ鑒シ[30]、誠惶誠恐[1]頓首再拜[31]、伏惟[32] 皇國[33]興復[34]ノ基業[35]ヲ建テント欲セハ、國體[22]ヲ一定シ、政度[36]ヲ一新シ、王政復古[24]、萬國萬世[13]ニ不恥者ヲ以テ本旨[37]トスヘシ、奸ヲ除キ良ヲ擧ケ、寬恕ノ政[38]ヲ施行シ、朝幕諸侯[39]齊ク[40]此大基本ニ注意スルヲ以テ、方今[41]急務ト奉存候、前月四藩上京仕、一二獻言[42]ノ次第モ有之、容堂儀ハ病症ニ因テ歸國仕候以來、猶又篤ト熟慮[43]仕候ニ、實ニ不容易[44]時態ニテ、安危[45]ノ決今日ニ有之哉ニ愚慮[46]仕候、因テ早速再上仕、右ノ次第一々乍不及[47]警言[48]仕候志願[49]ニ御坐候處、今ニ至テ病症難澀仕、不得已微賤[50]ノ私共ヲ以テ、愚存[21]ノ趣乍恐言上爲仕候、
一天下ノ大政ヲ議定スル全權ハ朝廷ニアリ、乃我 皇國[33]ノ制度法則一切萬機[51]、必ス京師[52]ノ議政所[53]ヨリ出ツヘシ、
一議政所[53]上下ヲ分チ、議事官[54]ハ上公卿[4]ヨリ下陪臣[55]庶民ニ至ル迄、正明[56]純良[57]ノ士ラ選擧スヘシ、
一庠序[58]學校[59]ヲ郡會[60]ノ地ニ設ケ、長幼ノ序ヲ分チ、學術技藝[61]ヲ敎導[62]セサルヘカラス、
一一切外蕃[63]トノ規約ハ、兵庫港[64]ニ於テ、新ニ 朝廷ノ大臣ト諸藩ト相議シ、道理明確之新條約ラ結ヒ、誠實ノ商法ヲ行ヒ、信義ヲ外藩[65]ニ失セサルヲ以テ主要トスヘシ、
一海陸軍備ハ一大至要[66]トス、軍局ヲ京攝ノ間[67]ニ築造シ、朝廷守護ノ親兵[68]トシ、世界ニ比類ナキ兵隊ト爲ンコトヲ要ス、
一中古[69]以來、政刑[70]武門[71]ニ出ツ、洋艦來港[72]以後、天下紛紜[73]、國家多難、於是、政權梢動ク、是自然ノ勢ナリ、今日ニ至リ、古來ノ舊弊[74]ヲ改新シ、枝葉[75]ニ馳セス、小條理[76]ニ止マラス、大根基[77]ヲ建ルラ以テ主トス、
一朝廷ノ制度法則、從昔ノ律例[78]アリト雖、方今[41]ノ時勢ニ參合[79]シ、間或當然ナラサルモノアラン、宜ク其弊風[80]ヲ一新シ改革シテ、地球上ニ獨立スルノ國本[81]ヲ建ツヘシ、
一議事ノ士大夫[82]ハ私心ヲ去リ、公平ニ基キ、術策ヲ設ケス、正直ヲ旨トシ、既往ノ是非曲直[8]ヲ問ハス、一新更始[83]、今後ノ事ヲ見ルヲ要ス、言論多ク、實效[84]少キ通弊[85]ヲ踏ムヘカラス、
右ノ條目、恐ラクハ當今ノ急務、内外各般ノ至要、是ヲ捨テゝ他ニ求ムヘキモノハ有之間敷ト奉存候、然則、職ニ當ル者、成敗利鈍ヲ不顧、一心協力、萬世ニ亙テ貫徹致シ候樣有之度、若或ハ從來ノ事件ヲ執リ、辨難抗論、朝幕諸侯、互ニ相爭ノ意アルハ尤然ルへカラス、是則、容堂ノ志願ニ御坐候、因テ愚昧不才ヲ不顧、大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第、空シク御聽捨ニ相成候テハ、天下ノ爲遺憾不鮮候、猶又、此上寬仁ノ御趣意ヲ以テ、微賤ノ私共ト雖モ、御親問被 仰付度奉懇願候。
松平土佐守内
慶應三年丁卯九月
寺村左膳
後藤象二郞
福岡藤次
神山佐多衞
『復古記』巻一より
【注釈】
[1]誠惶誠恐:せいこうせいきょう=心からおそれかしこまることの意味。
[2]建言:けんげん=政府・上役などに対して意見を申し立てること。また、その意見。
[3]憂世:ゆうせい=世の中や国家の安危を憂えること。憂国。
[4]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいうが、参議は四位も含める。
[5]諸侯:しょこう=諸大名のこと。
[6]旨趣:ししゅ=事のわけ。おもむき。内容。趣意。
[7]大患:たいかん=大きな心配事。
[8]是非曲直:ぜひきょくちょく=よいことと悪いことと曲がっていることとまっすぐなこと。物事のよしあしや正邪。
[9]辧難:べんなん=ことばで非難すること。論難。
[10]活眼:かつがん=生きた眼。物の道理を見抜く見識。物事を見抜く能力。
[11]英斷:えいだん=きっぱりと事を決めること。また、すぐれた決断。
[12]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにし、協力し合い、皆で団結して事にあたること。
[13]萬世:ばんせい=限りなく何代も続く永い世。万代。永遠。
[14]不愧:ふかい=恥じない。
[15]根柢:こんてい=物事の根本(こんぽん)。基礎。よりどころ。
[16]阻隔:そかく=じゃまをして、へだたりをつくること。また、へだたりができること。
[17]不圖:はからず=思いもよらず。不意に。ふと。
[18]起居:ききょ=立ったり、すわったりすること。立ち居ふるまい。転じて、日常の生活。
[19]不隋意:ふずいい=思いのままにならないこと。意志のとおりにならないこと。また、そのさま。
[20]焦心苦思:しょうしんくし=心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩むこと。
[21]愚存:ぐぞん=自分の考えをへりくだっていう語。愚見。愚意。愚案。
[22]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[23]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[24]王政復古:おうせいふっこ=政治体制が、君主制から武家政治、共和制などに変わったのち、再びもとの君主制に戻ること。
[25]別紙:べっし=大政奉還後の新政体綱領八ヶ条のこと。
[26]懇々:こんこん=心をこめたさま。また、親切に繰り返し言うさま。
[27]至情:しじょう=誠心誠意の感情。まごころ。赤心。
[28]泣血流涕:きゅうけつりゅうてい=血の涙を流すこと。
[29]宇内:うだい=天下。世界。
[30]鑒シ:かんし=かんがみて。手本と照らし合わせてよく考えて。見分けて。
[31]頓首再拜:とんしゅさいはい=手紙や書簡で敬意を表して用いる言葉で、頭を地面に打ちつけて、二度続けてお辞儀する意味。
[32]伏惟:ふくい=謹んで私が考えてみると。
[33]皇國:こうこく=天皇が統治する国。
[34]興復:こうふく=おとろえたものを、もとの状態にたてなおすこと。再興すること。復興。
[35]基業:きぎょう=基礎となる事業や業績。
[36]政度:せいど=国家・政治を動かす一定のきまり。憲法・法律・政令・条例など。
[37]本旨:ほんし=本来の趣旨。もとの主旨。
[38]寬恕ノ政:かんじょのせい=心が広く思いやりがある政治。
[39]朝幕諸侯:ちょうばくしょこう=朝廷・幕府・諸大名。
[40]齊ク:ひとしく=そろって。平らに。揃えて。
[41]方今:ほうこん=ただいま。現在。現今。
[42]獻言:けんげん=主君や目上の人に意見を申し上げること。また、その意見。
[43]熟慮:じゅくりょ=よくよく考えること。十分に考えをめぐらすこと。熟考。
[44]不容易:ふようい=容易ではないこと。たいへんなこと。難しいこと。
[45]安危:あんき=安全か危険かの瀬戸際の状態。
[46]愚慮:ぐりょ=おろかな考え。また、自分の考えをへりくだっていう語。愚考。
[47]乍不及:およばずながら=不十分ではあるが。完全にはできないが。行き届かないが。およばぬながら。
[48]警言:けいげん=いましめることば。さとす言葉。
[49]志願:しがん=ある事をこころざし願うこと。望み願うこと。また、こころざして願い出ること。
[50]微賤:びせん=身分・地位が低いこと。
[51]一切萬機:いっさいばんき=すべての諸々の重要な政務。特に、天皇の政務。天下の政治。
[52]京師:けいし=みやこ。帝都。
[53]議政所:ぎせいしょ=討議によって政治を行うところ。
[54]議事官:ぎじかん=議政所において公議に参与する議員。
[55]陪臣:ばいしん=臣下の、また臣。家来の家来。
[56]正明:せいめい=正しく明らかなこと。正しくて公明なこと。また、そのさま。
[57]純良:じゅんりょう=純粋で善良であること。まじりけがなく質がよいこと。また、そのさま。
[58]庠序:しょうじょ=郷校を中国周代では「庠」、殷(いん)代では「序」といったところからそれを意味する。
[59]學校:がっこう=昌平黌や藩校などの教育機関。
[60]郡會:ぐんかい=行政単位として国の下にあり、郷、里、村などを含むまとまり。
[61]學術技藝:がくじゅつぎげい=学問・技術。
[62]敎導:きょうどう=教え導くこと。
[63]外蕃:がいばん=外国や外国人をさげすんでいった語。
[64]兵庫港:ひょうごこう=現在の兵庫県神戸港の母胎となった港湾。
[65]外藩:がいはん=外蕃。外国や外国人をさげすんでいった語。
[66]至要:しよう=最もだいじなこと。また、そのさま。
[67]京攝ノ間:きょうせつのあいだ=京都と摂津国の間。
[68]親兵:しんぺい=君主などの側近くに仕える兵。また、天皇の身辺を護衛する兵。
[69]中古:ちゅうこ=その時点からある程度年代のへだたった昔。なかむかし。中世。
[70]政刑:せいけい=政治と刑罰。
[71]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[72]洋艦來港:ようかんらいこう=1854年(安政元)にアメリカ使節ペリー艦隊が下田に来航したことを指す。
[73]紛紜:ふんうん=物事の入り乱れていること。事がもつれること。また、その乱れ。
[74]舊弊:きゅうへい=古い習慣・制度などの弊害。
[75]枝葉:しよう=枝(えだ)と葉(は)。転じて、主要でないものや事柄。
[76]條理:じょうり=物事のすじみち。もののことわり。物事の道理。
[77]根基:こんき=おおもと。ねもと。根本。根源。
[78]律例:りつれい=律(永久不変の根本法)と例(時代によって作られる条例)。刑法。また、広く法規をいう。
[79]參合:さんごう=いろいろのものを照らし合わせて考えること。
[80]弊風:へいふう=悪い風俗や習慣。悪習。
[81]國本:こくほん=国家の基本。国の基礎。国基(こっき)。
[82]士大夫:したいふ=中国で、士と大夫。のち、知識階級や科挙に合格して官職にある者をさした。
[83]一新更始:いっしんこうし=新たに物事を始めるにあたって、古いものを全て新しくすること。
[84]實效:じっこう=実際に現れる効力や効果。実効。
[85]通弊:つうへい=全般に共通して見られる弊害。
<現代語訳>
山内豊信が徳川慶喜にお届けする書
恐れかしこみ謹んで意見を申し上げます、天下の安危を憂う者として、口をとざして敢えて何も言わなかったならば、誠におそろしき時であります。朝廷、幕府、公卿、諸大名、趣旨は相異なる状況にあるに似て、誠におそろしき事であります。ここに恐れるは私の大きな心配事であって、薩長の討幕運動がここにおいて成就するかということであります。このような事態に陥ったことは、その責任は結局誰にあるのでしょうか、しかれどもそれまでの物事のよしあしや正邪をしきりに非難することは何の利益があるというのでしょうか、ただ願うのは大いなる見識と大いなる決断をもって、天下の人々と共に心を一つにして協力し合い、公明正大の道理に基づいて、永きにわたって恥じず、諸外国に臨んでも恥じない大いなる基礎を建てないわけにはいかないことです。この趣旨は、前月上京した折にも追々意見を申し上げたように心得てはいますが、なにぶん隔たりが出来ることが有り、そのうち思いもよらず古い病が再発し、やむを得ず帰国して以来、日常の生活の動作といっても思いのままにならない事になり至って、再び上京することは、しばらくは出来かねる状態で、誠に遺憾の次第であって、ひたすらこの事のみ日夜心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩んでいます、よって愚見の趣旨は、一つ二つ家来共によって言上させます。ただ幾重にも公明正大の道理に基づき、天下の人々と共に、天皇の国としての数百年の国のあり方を一変し、真心をもって諸外国に接し、王政復古の事業を建てねばならない一大機会と考えます。なおまた、別紙をとくとお命じいただきたく、切々たる真心を止めることが出来ず、血の涙を流すことに至るのを耐えることが出来ないのです。
慶応3年(1867年)丁卯9月 松平容堂
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