ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:公家

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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、公家・政治家・伯爵東久世通禧の亡くなった日です。
 東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)は、1834年1月1日(天保4年11月22日)に京都・丸太町で東久世通徳の子(母は柳沢信子)として生まれましたが、幼名は保丸と言いました。1842年(天保13)に童形のまま東宮に出仕し、1849年(嘉永2)に侍従、1859年(安政6年)には左近権少将にまで累進します。
 863年(文久2)に国事御用掛、続いて国事参政となり、攘夷を唱えましたが、「八月十八日の政変」によって、三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳と共に船で長州へ逃れ、官位を剥奪されました(七卿落ち)。1867年(慶応3年12月9日)の王政復古によって復権を果たし、翌年に外国事務総督の1人に任命され、横浜裁判所総督、神奈川裁判所総督、神奈川府知事となり明治初年の外交を担当します。
 1869年(明治2)に第2代開拓長官に任命され、箱館に着任し、ガルトネル開墾条約事件の和解にこぎつけるなどしました。1871年(明治4)に侍従長に転じ、同年11月12日から岩倉具視を全権とする岩倉使節団に理事官として随行し、欧米を巡視します。
 1882年(明治15)に元老院副議長となり、1884年(明治17)の「華族令」施行に伴い伯爵となり、1888年(明治21)には枢密顧問官となりました。1890年(明治23)に貴族院副議長、1892年(明治25)に枢密院副議長を歴任し、1906年(明治39)には旭日桐花大綬章を受章します。
 著作として、『東久世通禧日記』、『竹亭回顧録維新前後』などを残し、1912年(明治45)1月4日に、東京において、数え年80歳で亡くなりました。

〇東久世通禧関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1834年1月1日(天保4年11月22日) 京都・丸太町で東久世通徳の子(母は柳沢信子)として生まれる
・1842年(天保13年) 童形のまま東宮に出仕する
・1849年(嘉永2年) 侍従となる
・1859年(安政6年) 左近権少将にまで累進する
・1863年(文久2年12月9日) 国事御用掛となる
・1863年(文久3年2月13日) 国事参政となり、攘夷を唱える
・1863年(文久3年8月18日) 「八月十八日の政変」によって、長州藩兵に守られ、三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳とともに船で長州へ逃れた。(七卿落ち)
・1863年(文久3年8月24日) 官位が剥奪される
・1864年(元治元年) 長州から大宰府に移される
・1867年(慶応3年12月9日) 王政復古によって復権を果たす
・1868年(慶応4年1月17日) 外国事務総督の1人となる
・1868年(慶応4年3月19日) 横浜裁判所総督となる
・1868年(慶応4年4月20日) 神奈川裁判所総督となる
・1868年(慶応4年6月17日) 神奈川府知事となる
・1869年(明治2年8月25日) 第2代開拓長官に任命される
・1869年(明治2年9月21日) 開拓使吏員、農工民約200人をともない、テールス号で品川を出帆する
・1869年(明治2年9月25日) 箱館に着任する
・1869年(明治2年9月) 王政復古の功績として賞典禄1000石を給される
・1870年(明治3年) ガルトネル開墾条約事件の和解にこぎつける
・1871年(明治4年10月15日) 侍従長に転じる
・1871年(明治4年11月12日) 岩倉具視を全権とする岩倉使節団に理事官として随行する
・1873年(明治6年9月13日) 横浜港へ帰国する
・1882年(明治15年) 元老院副議長となる
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」施行に伴い伯爵となる
・1888年(明治21年) 枢密顧問官となる
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章受章
・1889年(明治22年)12月27日 勲一等瑞宝章受章
・1890年(明治23年) 貴族院副議長となる
・1892年(明治25年) 枢密院副議長となる
・1898年(明治31年)12月28日 旭日大綬章受章
・1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章受章
・1912年(明治45年)1月4日 東京において、数え年80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1946年(昭和21)GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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 今日は、鎌倉時代の1204年(元久元)に、公家・歌人藤原俊成の亡くなった日ですが、新暦では12月22日となります。
 平安時代後期の1114年(永久2)に、父権中納言・藤原俊忠、母伊予守藤原敦家の娘の子として、京都で生まれました。
 10歳で父と死別し、葉室顕頼の養子となり、初め顕広(あきひろ)と名乗ります。1127年(大治2)に、従五位下に叙せられ、美作守に任官後は、加賀守、遠江守、三河守、丹後守などの国司を歴任し、その間、『為忠家百首』など藤原為忠の催しに参加、1138年(保延4)には藤原基俊の門弟になるなどして、歌人としての基礎を形成しました。
 『為忠家両度百首』、『述懐百首』などで認められ、1150年(久安6)に崇徳上皇主催の『久安百首』の作者の一人となり、かつその部類を任されて頭角を現します。
 1167年(仁安元)には、正三位に昇叙して公卿(非参議)となり、そして御子左流に復し、俊成(としなり・しゅんぜい)と改名しました。
 1183年(寿永2)後白河院の院宣を受け、1188年(文治4)に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進し、名実ともに歌壇の第一人者となります。
 幽玄体の歌を確立し、王朝歌風の古今調から中世の新古今調への橋渡しをし、歌論『古来風体抄』、家集『長秋詠藻』『俊成家集』などのほか、書の名筆を多く遺しましたが、1204年(元久元年11月30日)に、91歳で亡くなりました。
 尚、子供は藤原定家で、以来歌道に重きをなす家柄を築きます。
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 今日は、鎌倉時代の1241年(仁治2)に、公家・歌人藤原定家の亡くなった日ですが、新暦では9月26日となります。
 藤原定家は、鎌倉時代前期の公家・歌人で、名は「さだいえ」とも呼ばれます。1162年(応保2)に、父は藤原俊成、母は美福門院加賀の子として生まれました。
 14歳のときに赤斑瘡、16歳には痘という重病にかかり、生死の境をさまよいますが回復し、早くから歌才を発揮していたものの、1178年(治承2)3月の賀茂別雷社の歌合に出詠して、歌人として出発します。
 1180年(治承4)従五位上への昇叙により、内の昇殿が認められ、この頃から和歌に専念し始め、『初学百首』を詠みました。そして、1183年(寿永2)に父藤原俊成が後白河上皇の命により『千載和歌集』の編纂を行うことになって、それを手伝います。
 しかし、1186年(文治2)和歌革命を行い(「二見浦百首」)、六条家など旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」との誹謗を受け、長く苦境にあえぎました。
 その後、1200年(正治2)に百首歌を企画してからは後鳥羽上皇に見出され、翌年に和歌所が置かれると、寄人に選ばれたのです。さらに、『新古今和歌集』の編纂を藤原有家、源通具、藤原家隆・雅経、寂蓮らと共に命じられて、歌人としての地位を確立しました。
 1211年(建暦元)に公卿、1232年(貞永元)に権中納言になり、『新勅撰和歌集』を単独で撰進するまでになったのです。
 1235年(文暦2)頃には、「小倉百人一首」を撰したとされていますが、1241年(仁治2年8月20日)に80歳で亡くなりました。
 主な著書に、家集「拾遺愚草」、歌論書「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌大概」、日記「明月記」などがあり、歌学歌論や古典研究の面にも大きな足跡を残したのです。

〇藤原定家が関わった代表的な著作等

<勅撰和歌集>
・「新古今和歌集」第8番目の勅撰和歌集で後鳥羽院親撰
・「新勅撰和歌集」第9番目の勅撰和歌集で、藤原定家の単独撰

<家集等>
・「拾遺愚草」
・「拾遺愚草員外」
・「定家卿百番自歌合」
・「定家卿独吟詩歌」

<秀歌集>]
・「秀歌大体」
・「定家八代抄」
・「八代集秀逸」
・「百人秀歌」
・「物語二百番歌合」
・「小倉百人一首」

<歌学書・注釈書>
・「詠歌大概」
・「衣笠内府歌難詞」
・「近代秀歌」源実朝に送ったとされる
・「下官集」
・「顕註密勘」
・「五代簡要」
・「三代集之間事」
・「先達物語」
・「定家十体」
・「定家物語」
・「僻案抄」
・「毎月抄」
・「万葉集長歌短歌説」
・「和歌会次第」

<日記・物語等>
・「明月記」藤原定家の日記
・「松浦宮物語」
・「定家小本」
・「奥入」
・「釈奠次第」
・「次将装束抄」
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