ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:公害病

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 今日は、昭和時代後期の1971年(昭和46)に、新潟水俣病裁判で新潟地裁が被告の昭和電工に損害賠償を命じる判決を出した日です。
 新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)は、新潟県の阿賀野川流域で確認された、有機水銀による中毒症(水俣病)で、第二水俣病とも呼ばれています。昭和電工鹿瀬工場において、アセトアルデヒド・合成酢酸を製造する過程で生じた廃水が阿賀野川へ流され、廃水中の有機水銀によって汚染された魚介類を食べた、沿岸住民が発症したものとされました。
 1965年(昭和40)に、新潟市下山など阿賀野川下流域に有機水銀中毒症患者が発生していることが、新潟大学医学部教授らによって公表されます。1967年(昭和42)6月12日に、患者らが、昭和電工を相手に、損害賠償を求めて提訴(新潟水俣病第1次訴訟)しましたが、1971年(昭和46)9月29日に、新潟地裁から判決が出され、原告が勝訴し、判決が確定しました。これは、水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病とならんで四大公害訴訟と言われています。
 その後、1973年(昭和48)6月21日に、新潟水俣病被災者の会・新潟水俣病共闘会議と昭和電工が、要求を全面的に獲得した「新潟水俣病問題に関する協定書」に調印しました。しかし、この間に認定を棄却された患者および新たな申請者合わせて232人が国と昭和電工を相手取り、第2次訴訟を起こしています。
 1992年(平成4)3月31日に第2次訴訟の新潟地裁判決が出され、原告の大半を水俣病と認定したものの、国の責任は否定しました。そこで、原告側と昭和電工側の双方が東京高裁に控訴しましたが、原告の高齢化が進み、死亡者が増えたため、早期和解を求める声が強まり、政府・与党の最終解決案を受けて1995年(平成7)12月に、被告の昭和電工が救済対象者に対して、一律260万円の一時金の支払い、被害者団体に4億4000万円の加算金の支払い、新潟県へ地域振興策として2億5000万円の寄付金の支払いを行うなどの協定が締結されています。
 それからも、2007年(平成19)に提訴された第3次訴訟など、主なものだけで3つの裁判が起こされてきました。

〇新潟水俣病関係略年表

<1936年(昭和11)>
・3月 昭和合成化学工業の鹿瀬工場が、水銀等を触媒にしてアセトアルデヒドの生産を開始する

<1939年(昭和14)>
・6月 昭和肥料と日本電気工業が合併して昭和電工を設立する

<1957年(昭和32)>
・5月 昭和電工が、昭和合成化学工業を吸収合併し、鹿瀬工場のアセトアルデヒドの生産設備を増強する

<1964年(昭和39)>
・11月12日 新潟市の住民が、原因不明の神経疾患で新潟大学附属病院に入院する

<1965年(昭和40)>
・1月10日 昭和電工鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産を停止する
・1月18日 東京大学の椿助教授(後に新潟大学教授)が、新潟市の入院患者を診察し、有機水銀中毒症と疑う  
・5月31日 新潟大学の椿教授、植木教授が、「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流沿岸に多く発生」と新潟県に報告する(新潟水俣病発生の公式確認) 
・6月12日 新潟大学の椿教授、植木教授と新潟県が「阿賀野川流域に有機水銀中毒患者が7人発生、うち2人死亡」と正式に発表する  
・6月28日 新潟県が、阿賀野川の魚介類漁獲規制の行政指導実施を決定する
・8月25日 患者の支援組織「新潟県民主団体水俣病対策会議」(後の新 潟水俣病共闘会議)を結成する
・10月7日 患者団体「阿賀野川有機水銀中毒被災者の会」(後の新潟水俣病被災者の会)を結成する
・12月8日 新潟県が、新潟県有機水銀中毒症患者診査会の設置を決定する 

<1966年(昭和41)>
・5月17日 新潟大学の滝澤助教授が、「昭和電工鹿瀬工場の排水口の水ごけからメチル水銀を検出した」と新潟県水銀中毒対策本部に報告する  
 
<1967年(昭和42)>
・6月12日 患者らが、昭和電工を相手に、損害賠償を求めて提訴する(新潟水俣病第1次訴訟)

<1968年(昭和43)>
・9月26日 政府が、水俣病に関する統一見解を発表 
※新潟水俣病は、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物を含む排水が大きく関与して中毒発生の基盤となっている 

<1971年(昭和46)>
・9月29日 新潟水俣病第1次訴訟の判決が出される(原告が勝訴、判決が確定する)
 
<1973年(昭和48)>
・6月21日 新潟水俣病被災者の会・新潟水俣病共闘会議と昭和電工が、「新潟水俣病問題に関する協定書」に調印する
 
<1977年(昭和52)>
・7月1日 環境庁(現環境省)環境保健部長が「後天性水俣病の判断条件について」通知する
 
<1978年(昭和53)>
・3月24日 阿賀野川の水銀汚染について安全宣言が出される
・4月17日 新潟県が、阿賀野川の大型魚の食用規制を解除する
 
<1982年(昭和57)>
・5月26日 認定申請を認められなかった人たちが、「新潟水俣病被害者の会」を結成する 
・6月21日 認定申請を認められなかった人たちが、国・昭和電工を相手に、損害賠償を求めて裁判を提訴する(新潟水俣病第2次訴訟)
 
<1992年(平成4)>
・3月31日 新潟水俣病第2次訴訟第1陣の判決が出される(原告91人中88人の水俣病罹患を認定、国の責任は否定、原告と昭和電工が控訴する)
 
<1995年(平成7)>
・12月11日 新潟水俣病被害者の会・新潟水俣病共闘会議と昭和電工が、解決協定を締結する
・12月15日 政府が、「水俣病対策について」を閣議決定し、内閣総理大臣が水俣病問題の解決に当たっての談話を発表する 
 
<1996年(平成87)>
・1月22日 新潟県が、水俣病総合対策医療事業の申請受付を再開する(~1996年7月1日)  
 
<1996年(平成8)>
・2月23日 新潟水俣病第2次訴訟第1陣、東京高裁で和解が成立する  
・2月27日 新潟水俣病第2次訴訟第2陣~第8陣、新潟地裁で和解が成立する
 
<1997年(平成9)>
・5月14日 新潟水俣病被害者の会が、「新潟水俣病被害者の会環境賞」をつくり、優れた個人や団体の表彰を始める 
 
<2001年(平成13)>
・8月1日  豊栄市(現新潟市北区)に、新潟水俣病の歴史と教訓を伝える「新潟県立環境と人間のふれあい館」が開館する 
 
<2003年(平成15)>
・4月1日 環境と人間のふれあい館のサブネームに、「新潟水俣病資料館」を使用するようになる 
 
<2005年(平成17)>
・6月6日 新潟県知事が、新潟水俣病公式確認から40年を契機に、「ふるさとの環境づくり宣言」を発表する
・8月20日 新潟県主催で、新潟水俣病40年記念事業「阿賀ルネサンス」を開催する(~8月28日) 
・10月13日 水俣病総合対策事業における保健手帳の申請受付を再開する 
 
<2006年(平成18)>
・5月1日 水俣市で水俣病犠牲者慰霊式が開催される(新潟県知事が出席)
・5月10日 公害健康被害補償不服審査会が、不服審査請求に対し、新潟市の棄却処分を取り消す裁決を出す
・9月19日 国の「水俣病問題に係る懇談会」が環境大臣に提言書を提出する
 
<2007年(平成19)>
・2月8日 新潟県知事が、新潟水俣病問題の包括的な検証と今後のもやい直しの取組について助言を得るため、「新潟水俣病問題に係る懇談会」を発足させる
・3月7日 関西訴訟最高裁判決以後、初めて認定審査会を開催し、2名がを認定される
・4月27日 新潟水俣病の被害者12人が、国、県、昭和電工を相手取り、新潟地裁に提訴する(新潟水俣病第3次訴訟)
・6月23日 「新潟水俣病阿賀野患者会」が結成される

<2008年(平成2)>
・3月25日 「新潟水俣病問題に係る懇談会」が最終提言書を取りまとめ、県独自施策を新潟県知事に提言する
・10月10日 新潟県の「新潟水俣病地域福祉推進条例」が制定される

<2009年(平成21)>
・4月1日 新潟県の「新潟水俣病地域福祉推進条例」が施行される
・4月16日 政府が、特別措置法に基づき、「特別措置法の救済措置の方針」を閣議決定する  
・6月12日 新潟水俣病の被害者26人、認定患者1人が国、昭和電工を相手取り、新潟地裁に提訴する(新潟水俣病第4次訴訟-ノーモア・ミナマタ新潟全被害者救済訴訟-)  
・7月15日 「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が公布・施行される 

<2010年(平成22)>
・5月1日 特別措置法に基づく給付申請の受付を開始する  
 
<2011年(平成23)>
・3月3日 ノーモア・ミナマタ新潟全被害者救済訴訟について、新潟地裁で和解が成立する 
・9月 新潟水俣病第3次訴訟原告らが患者団体「新潟水俣病患者会」を設立する 
 
<2012年(平成24)>
・7月31日 環境省、特別措置法に基づく給付申請の受付が終了する
 
<2013年(平成25)>
・12月11日 ノーモア・ミナマタ新潟第2次全被害者救済訴訟、新潟地裁に提訴する(新潟水俣病第5次訴訟)
 
<2014年(平成26)>
・3月7日 環境省、「公健法に基づく水俣病の認定における総合的検討について」関係自治体に通知する 
・12月4日 環境と人間のふれあい館の来館者が50万人を突破する

<2015年(平成27)>
・3月23日 新潟水俣病第3次訴訟、新潟地裁判決(原告10人中7人の水俣病罹患を認めたが、国・県の責任は否定、原告、昭和電工が控訴)  
・5月31日 新潟水俣病公式確認50年式典を開催し、新潟県知事が50年を契機に、「ふるさとの環境づくり宣言2015」を発表する 
・9月2日  2013年(平成25)の最高裁判決後、初めて認定審査会を開催 (2名を認定)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

747年(天平19)東大寺大仏の鋳造が開始される(新暦11月6日)詳細
930年(延長8)第60代の天皇とされる醍醐天皇の命日(新暦10月23日)詳細
949年(天暦3)第57代の天皇とされる陽成天皇の命日(新暦10月23日)詳細
1801年(享和元)国学者本居宣長の命日(新暦11月5日)詳細
1879年(明治12)「学制」が廃止され、「教育令」が制定される詳細
1972年(昭和47)日本と中国が「日中共同声明」に調印する詳細
2013年(平成25)小説家山崎豊子の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1967年(昭和42)に、四日市市の市民9人が四日市石油コンビナートの企業各社に慰藉料を請求する民事訴訟(四日市公害訴訟)を起こした日です。
 四日市公害訴訟(よっかいちこうがいそしょう)は、大気汚染により引き起こされた健康被害に対して公害病認定患者が、四日市石油コンビナート6社を相手どって損害賠償、慰謝料などを請求した訴訟です。昭和時代中期の1960年(昭和35)に四日市市塩浜にコンビナートが建設されると、翌年夏から開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状(四日市喘息)を訴えて駆け込む患者が急増しました。
 1964年(昭和39)に東海労働弁護団への相談を契機に、裁判提訴の動きが出ますが、翌年には、磯津地区を中心に塩浜地区、港地区などコンビナート周辺で硫黄酸化物など大気汚染物質により、激しい咳や呼吸困難など呼吸器系の疾患の被害が続出するようになります。1965年(昭和40)に、“公害病認定制度”が発足したものの、1966年(昭和41)には、公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出ました。
 そこで、1967年(昭和42)9月1日に、県立塩浜病院入院中の磯津の公害患者9名が原告として第1コンビナート企業6社を相手に裁判を起こします。その後、審理が続き、1972年(昭和47)7月24日には、津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を出しましたが、原告らの喘息等の疾病と大気汚染との因果関係を肯定し、各工場の大気汚染源の排出と疾病との因果関係については民法第719条1項の共同不法行為の規定を適用してこれを肯定し、さらに被告らの過失をも肯定して、結局被告6社全部に連帯して合計8,800万円余りの損害賠償を支払うよう命じたものでした。
 その後、被告である企業は控訴を断念したことにより、判決が確定します。この判決により、被告の共同不法行為を認めたことは、集合公害救済への道を開くものとなり、国に「公害健康被害補償法」を制定させる契機となるなど、その後の公害被害者の救済面に大きな影響を及ぼしました。

〇四日市公害訴訟関係略年表

・1960年(昭和35) 四日市市塩浜にコンビナートが建設される
・1961年(昭和36)夏 開業医の中山医院に、「咳が出る」「のどがおかしい」「激しいぜんそく発作が出る」などの症状(四日市喘息)を訴えて駆け込む患者が急増する
・1964年(昭和39) 東海労働弁護団への相談を契機に、裁判提訴の動きが出る
・1965年(昭和40)頃 磯津地区を中心に塩浜地区、港地区などコンビナート周辺で硫黄酸化物など大気汚染物質により、激しい咳や呼吸困難など呼吸器系の疾患の被害が続出する
・1965年(昭和40)5月 “公害病認定制度”が発足する
・1966年(昭和41) 公害ぜんそくを苦に、首つり自殺するという痛ましい犠牲者が出る
・1967年(昭和42)9月1日 県立塩浜病院入院中の磯津の公害患者9名が原告として第1コンビナート企業6社を相手に裁判を起こす
・1972年(昭和47)7月24日 四日市公害訴訟で津地方裁判所四日市支部が原告勝訴の判決を出し、被告である企業は控訴を断念する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1732年(享保17)俳人・蕉風復興運動の中心者加藤暁台の誕生日(新暦10月19日)詳細
1904年(明治37)与謝野晶子が文芸誌『明星』に反戦詩「君死にたまふこと勿れ」を発表詳細
1911年(明治44)平塚らいてうらが女性文藝雑誌「青踏」を創刊し、「元始、女性は太陽であつた」が掲げられる詳細
1916年(大正5)「工場法」が施行される詳細
1923年(大正12)関東大震災が起き、190万人が被災、10万5千人余が死亡・行方不明(防災の日)詳細
1931年(昭和6)清水トンネルが開通し、上越線が全通する詳細
1939年(昭和14)第1回興亜奉公日が実施され、国旗掲揚、宮城遥拝、勤労奉仕等が行われる詳細
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、厚生省が水俣病と新潟水俣病を公害病として認定した日です。
 公害病(こうがいびょう)は、一般には、公害(大気汚染、水質汚染、土壌汚染、騒音・振動など)による健康被害として起こる疾病の総称とされますが、狭義には、公害によって健康上の被害を受けた人々を救済するため1973年(昭和48)に公布された法律「公害健康被害補償法」に指定されている疾病とされてきました。指定地域ごとに救済措置の対象疾病として指定される疾病で、慢性気管支炎、気管支喘息、喘息性気管支炎、肺気腫、水俣病、イタイイタイ病、ひ素中毒などとされていますが、水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病が四大公害病と呼ばれています。
 公害病の認定を受けた患者には、療養費、障害補償費などの補償給付がなされてきました。1987年(昭和62)に、大気汚染の改善に伴い、「公害健康被害補償法」の一部改正がなされ、大気汚染指定地域をすべて解除することと新たな患者を公害病とは認めないことなどが定められています。

〇主要な公害病一覧

<四大公害病>
・水俣病
 1953年(昭和28年)頃から1960年(昭和35年)にかけて熊本県水俣湾で発生した奇病。付近の工場廃液にふくまれる有機水銀(メチル水銀)による水質汚染や底質汚染を原因とし、魚類の食物連鎖を通じて人の健康被害が生じたもので、手足や口のしびれる症状が出て、死亡する人もいた。裁判の結果、廃液を流していた会社から賠償金の支払いと、国に対しても被害者認定の遅れを認めることになったが、最終的に認定された患者数は、2200人以上に及んだ。
・第二水俣病(新潟水俣病)
 1964年(昭和39年)頃から新潟県阿賀野川流域で発生した奇病。熊本県水俣と同じく、有機水銀(メチル水銀)による水質汚染や底質汚染を原因とし、魚類の食物連鎖を通じて人の健康被害が生じたもので、最終的に認定された患者数は700人に及んだ。 
・四日市ぜんそく
 1959年(昭和34)~1972年(昭和47)頃までの高度経済成長期に三重県四日市市を中心とした地域で発生した都市公害で、主に亜硫酸ガスによる大気汚染を原因とする。 多くの人が気管支炎やぜんそく、肝障害を起こし、死者も出たが、最終的に確認された患者数は1700人に及んだ。
・イタイイタイ病
 1910年代から1970年代前半に富山県神通川流域で発生した奇病で、子供を出産した女性に多く発症し、手足の骨がもろくなり、激しい痛みが伴うので、イタイイタイ病と名が付けられた。 カドミウムによる水質汚染を原因として、米などを通じて人々の骨に対し被害を及ぼしたもので、最終的に確認された患者数は190人に及んだ。

<その他の公害病>
・光化学スモッグ
 工場や自動車から大気中に排出された窒素酸化物や揮発性有機化合物(VOC)が、紫外線で光化学反応を起こし、光化学オキシダントが発生する。これが、人の目や呼吸器などを刺激して、健康被害が発生する。
・土呂久砒素公害
 砒素焼きをしていた宮崎県高千穂町の旧土呂久鉱山のまわりに慢性ヒ素中毒患者が発生、1971年(昭和46)に告発され、環境庁も認定し、鉱業権をもった企業への裁判もあった。
・川崎公害
 神奈川県川崎市で発生した工場及び自動車の排ガスによる大気汚染の被害があった大規模公害でした。
・西淀川公害
 大阪市西淀川区の工場からの硫黄酸化物などの排出や自動車排気ガスの大気汚染による健康被害で、1970年(昭和45)11月の段階で公害被害者認定患者は1055人に達し、西淀川区の住民の約100人に1人が公害病に認定される状況まで悪化した。
・六価クロム
 1970年代、江戸川区と江東区の日本化学工業で、従業員に肺がんや鼻中隔穿孔などの健康被害が多数発生した。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)哲学者・評論家・思想家三木清の命日詳細
1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆する詳細
洞爺丸台風の暴風下において、北海道で岩内大火が起き、3,298戸が焼失する詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、厚生省が「イタイイタイ病の原因に関する研究」を発行、土壌、米等のカドミウム分析の結果、神通川水系の汚染の状況が明らかにされた日です。
 イタイイタイ病は、大正時代から昭和時代にかけて、富山県の神通川流域で起きた公害病でした。岐阜県神岡町(現在の飛騨市)の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)から排出されたカドミウム汚染によって、引き起こされ、激痛や病的骨折に襲われて運動不能状態となり、さらに進行すると死に至るもので、1968年(昭和43)に日本の公害病第1号に認定されます。
 患者が「いたい、いたい」と骨の痛みを訴えて死ぬことから「イタイイタイ病」と名付けられ、「公害健康被害補償法」によって認定された患者数は194人(うち死亡者188人)となっていて、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと共に四大公害病の一つひとつとされました。患者らは三井金属を相手に損害賠償訴訟を起こし、1972年(昭和47)に勝訴し、公害防止協定などに基づき患者への補償、神岡鉱業の環境対策、土壌の復元が進み、2013年(平成25)に被害者団体と企業が「全面解決」で合意します。
 尚、イタイイタイ病裁判の勝利を記念して、1976年(昭和51)5月にイタイイタイ病対策協議会が婦中町萩島(現:富山市婦中町萩島)の被害地域に「清流会館」を建設し、館内にイタイイタイ病の闘いの年表や写真などの資料が展示されていました。これは、2012年(平成24)4月29日に開館した「富山県立イタイイタイ病資料館」へ引き継がれています。

〇イタイイタイ病関係略年表

・1955年(昭和30)8月4日 熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が富山新聞に掲載される
・1957年(昭和32)12月1日 萩野昇は第12回富山県医学会で「鉱毒説」を発表する
・1961年(昭和36)1月 萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表する
・1961年(昭和36)12月 富山県が原因究明に乗り出す、
・1963年(昭和38)6月 厚生省及び文部省が独自に原因究明に乗り出す
・1966年(昭和41)11月 被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成する
・1967年(昭和42)3月 富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、患者73人、要観察者150人を認定する
・1968年(昭和43)3月9日 患者や遺族の計28人が原告となって、原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴(第1次訴訟)
・1968年(昭和43)3月27日 厚生省「イ病の原因に関する研究」を発行、土壌,米等のカドミウムを分析、神通川水系の汚染の状況を明らかにする
・1968年(昭和43)5月 イタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になる
・1968年(昭和43)10月8日 第2次訴訟提訴(訴訟件数:148件)
・1969年(昭和44)3月10日 第3次訴訟提訴(訴訟件数:14件)
・1969年(昭和44)11月20日 第4次訴訟提訴(訴訟件数:4件)
・1970年(昭和45)2月1日 「健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)」が施行され、公害病患者96名が認定される
・1970年(昭和45)2月20日 第5次訴訟提訴(訴訟件数:13件)
・1971年(昭和46)5月7日 第6次訴訟提訴(訴訟件数:8件)
・1971年(昭和46)6月30日 富山地方裁判所が第1次訴訟の1審判決を下し、原告側の勝訴となるが、三井金属鉱業は即日控訴する
・1971年(昭和46)7月3日 第7次訴訟提訴(訴訟件数:1件)
・1971年(昭和46)7月 第2次~第7次訴訟は併合され、第1次訴訟が出た後に審理が始まる
・1972年(昭和47)8月9日 名古屋高等裁判所金沢支部は被告側の控訴を棄却するとともに、原告側の附帯控訴を認め、慰謝料額を倍増させ、原告側のほぼ全面勝訴となる
・1974年(昭和49)8月 神通川左岸の67.4haが「農用地汚染防止法」に基づく汚染地域に指定される
・1976年(昭和51)5月 イタイイタイ病対策協議会が「清流会館」を建設する
・1979年(昭和54) 汚染地域の土壌復元事業が始まる
・2008年(平成20)10月現在で、イタイイタイ病認定患者は192人となる
・2012年(平成24)3月17日 汚染地域の土壌復元事業が完了する
・2012年(平成24)4月29日 「富山県立イタイイタイ病資料館」が開館する
・2013年(平成25)12月17日 神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会が原因企業の三井金属と全面解決の合意書を交わす
・2014年(平成26)9月末時点で、イタイイタイ病認定患者は198人、要観察者延べ408人となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃する(新暦5月1日)詳細
1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1933年(昭和8)昭和天皇が「国際連盟脱退ノ詔書」を出し、日本政府が国際連盟事務局に国際連盟脱退の通告を行なう詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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