ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:公卿

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 今日は、奈良時代の781年(天応元)に、公卿・文人石上宅嗣の亡くなった日ですが、新暦では7月19日となります。
 石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ)は、729年(天平元)に、中納言石上乙麻呂の子として生まれましたが、才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えられてきました。751年(天平勝宝3)に従五位下に昇叙し、治部少輔となり、757年(天平勝宝9)には、従五位上に昇叙し、相模守となります。
 その後、759年(天平宝字3)に三河守、761年(天平宝字5)に上総守と地方官を歴任後、761年(天平宝字5)に遣唐副使となりましたが、翌年免ぜられ、藤原田麻呂と交替しました。763年(天平宝字7)に文部大輔となったものの、同年の藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画し失敗、翌年に大宰少弐に左遷されています。
 しかし、同年の藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚すると復権し、正五位上(越階)に昇叙、常陸守となりました。それからの道鏡政権下では順調に昇進し、765年(天平神護元)に従四位下に昇叙し、中衛中将となり、翌年に参議となって公卿に列し、同年正四位下、768年(神護景雲2)には従三位に昇叙します。
 770年(神護景雲4)に称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立するに功があり、同年、兼大宰帥、翌年には兼式部卿となりました。771年(宝亀2)に中納言となり、775年(宝亀6)に石上朝臣から物部朝臣に改姓、777年(宝亀8)には兼中務卿となります。
 779年(宝亀10)に宣勅使として唐使をもてなし、779年(宝亀10)に石上大朝臣の姓を賜わり、780年(宝亀11日)には、大納言にまで進みました。一方、詩文と書にすぐれ、淡海三船と並び称された文人で、漢詩が『経国集』に収められ、和歌は『万葉集』に採られています。
 また、晩年は私邸に阿閦寺を建立し、その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設けて公開し、日本における公開図書館の発祥とされてきました。781年(天応元)には、正三位に昇叙したものの、同年6月24日に、奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られています。
 以下に、『続日本紀』巻第三十六の天応元年(781年)6月24日の条の石上宅嗣と芸亭院の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十六の天応元年6月24日の条の石上宅嗣の死去と芸亭院の記述

<原文>
大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣従一位麻呂之孫。中納言従三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚経史。多所渉覧。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辞容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自宝字後。宅嗣及淡海真人三船為文人之首。所著詩賦数十首。世多伝誦之。捨其旧宅。以為阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好学之徒。欲就閲者恣聴之。仍記条式。以貽於後。其略曰。内外両門本為一体。漸極似異。善誘不殊。僕捨家為寺。帰心久矣。為助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滞空有。兼忘物我。異代来者。超出塵労。帰於覚地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。

<読み下し文>

大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨ず。詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣従一位麻呂の孫、中納言従三位弟麻呂の子なり。性郎悟にして姿儀有り[1]。経史[2]を愛尚して渉覧[3]する所多し。好みて文を属り、草隷[4]を工にす。勝寳三年從五位下を授けられ、治部少輔に任す。稍く文部大輔に遷て、内外に歴居す[5]。景雲二年參議[6]從三位に至る。寳龜の初め、出て大宰の帥[7]と爲る。居ること幾も無くして式部卿[8]に遷る。中納言[9]を拜す。姓を物部朝臣と賜ふ。其の情願[10]を以てなり也。尋て皇太子の傅を兼ぬ。改めて姓を石上大朝臣と賜ふ。十一年、大納言[11]に轉し、俄に正三位を加へらる。宅嗣、辞容[12]閑雅[13]にして時に名有り。風景山水に値うごとに、時に筆を援きてこれを題す。宝字より後、宅嗣及び淡海真人三船[14]を文人の首となす。著す所の詩賦数十首、世多くこれを伝誦[15]す。其の旧宅を捨して以て阿閦寺[16]となし、寺内の一偶に特に外典[17]の院を置く。名けて芸亭[18]と日う。もし好学の徒有りて、就きて閲せんと欲する者は、恣にこれを聴す。仍りて条式[19]を記して後に貽す。其の略に日く。「内外の両門[20]は本一体たり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典[21]を足すけんがために外書[22]を加え置く。地は是れ伽藍[23]、事須く禁戒[24]すべし。庶くは、同志を以て入る者は、空有[25]に滞ること無くして兼ねて物我[26]を忘れ、異代[27]に来たらん者は、塵労[28]を超出して覚地[29]に帰せんことを」と。其の院今見に存せり。臨終に遺教[30]して薄葬[31]せしむ。薨ずる時年五十三。時の人これを悼む[32]。

【注釈】

[1]姿儀有り:けいし=姿が整っている。風采が立派。
[2]経史:けいし=経書と史書。
[3]渉覧:しょうらん=いろいろと回って広く見る。多方面に通じる。
[4]草隷:そうれい=草書と隷書。転じて、書道。
[5]歴居す:そうれい=歴任する。
[6]參議:さんぎ=四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの。
[7]大宰の帥:だざいのそち=大宰府の長官。
[8]式部卿:しきぶきょう=式部省の長官。内外文官の名帳、考課、選叙、礼儀、版位、位記などをつかさどる。
[9]中納言:ちゅうなごん=令外の官。大納言に次ぎ、大臣と政事を議し、献替の任にあたる重職で、相当位は従三位。
[10]情願:じょうがん=実状を述べて願い出ること。心から願うこと。嘆願。懇願。
[11]大納言:だいなごん=太政官の次官にあたる要職で、天皇に近侍して庶政に参画し、大臣が参内しないときは代わって政務を行った。
[12]辞容:じよう=言葉や立ち居ふるまい。
[13]閑雅:かんが=しとやかで優雅なこと。また、そのさま。
[14]淡海真人三船:おうみのまひとみふね=奈良時代の文人(学者)で、大友皇子の曽孫、文章博士・大学頭などを歴任した。
[15]伝誦:でんしょう=代々伝えてとなえること。また、口から口へととなえ伝えること。
[16]阿閦寺:あしゅくじ=781年(天応元)に石上宅嗣が平城京付近にあった私邸を寺にしたもの。
[17]外典:げてん=仏教以外の教えを説く書籍。特に儒教の経典。
[18]芸亭:うんてい=日本最初の公開図書館で、石上宅嗣が私邸を阿閦寺とし、その一隅に図書を集め、好学の士に閲読させたもの。
[19]条式:じょうしき=規則。
[20]内外の両門:ないがいのりょうもん=仏教と儒教。
[21]内典:ないてん=仏教の典籍。
[22]外書:がいしょ=仏教以外の書籍。外典。
[23]伽藍:がらん=僧が集まり住んで、仏道を修行する、清浄閑静な場所。
[24]禁戒:きんかい=禁じ戒めること。また、おきて。法度。
[25]空有:くうう=実体のないことと、あること。
[26]物我:ぶつが=物と我。外物と自己。他者と自己。
[27]異代:いだい=異なった時代。別の世代。
[28]塵労:じんろう=俗世間での苦労。煩悩。
[29]覚地:かくち=迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。
[30]遺教:いきょう=死ぬときに残したことばや教訓。
[31]薄葬:はくそう=簡略にした葬儀。
[32]悼む:いたむ=人の死を悲しみ嘆く。

<現代語訳>

大納言正三位兼式部卿の石上大朝臣宅嗣が亡くなった。(光仁天皇)詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣・従一位麻呂の孫で、中納言従三位・弟麻呂の子である。賢明で悟りが早く、姿が整っている。経書と史書を愛読して、多方面に通じる所も多かった。好んで文章を作り、書道が巧みであった。天平勝宝3年(751年)に從五位下を授けられ、治部少輔に任じられた。しばらくして文部大輔に遷り、内外の官職を歴任した。神護景雲2年(768年)に参議・従三位に至る。宝亀の初め、出向して大宰の帥となる。在任わずかにして式部卿に遷って、中納言を拝命した。その懇願によって、物部朝臣の姓を賜わった。次に皇太子の傅を兼任し、改めて石上大朝臣の姓を賜わった。宝亀11年(780年)に大納言に昇進し、ほどなくして正三位を加へられる。宅嗣、言葉や立ち居ふるまいがしとやかで優雅で、当時は有名であった。風景山水に出会う度に、筆を執って詩文などの主題と成した。天平宝字の頃より後、宅嗣および淡海真人三船を文人の首座となした。著作するところの漢詩や賦は数十首あり、世間の多くで口から口へと唱え伝えられている。その旧宅を喜捨して阿閦寺となし、寺内の一偶に特別に仏教以外の教えを説く書籍のための院を設置し、芸亭と命名した。もし学問を志す者が有って、閲覧を欲したならば、自由にこれを許可し、そのために規則を決めて後世に残す。その概略として言っていることは、「仏教と儒教は根本は一つである。斬新的と極端の違いはあるといっても、よく導けば異なるものではない。自分の家を喜捨して寺とし、仏門に帰依してからも久しいが、仏教の典籍の理解を助けるために、仏教以外の書籍を加えて置いておく。この地は仏道を修行する、清浄閑静な場所であって、何事においても禁じ戒めるべきである。どうか、同じ志を持って入居した者は、実体のないこととあることを論じて滞ることなく、あわせて他者と自己を忘れ、別の世代として来た者は、俗世間での苦労を超越して真理をつかまんことを」と。その院は現在も存在している。臨終にあたって簡略にした葬儀にするようにと教え残した。亡くなったのは53歳であった。当時の人はこれを悲しみ嘆いた。

☆石上宅嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・729年(天平元年) 中納言石上乙麻呂の子として生まれる
・751年(天平勝宝3年1月25日) 従五位下に昇叙する
・751年(天平勝宝3年日付不詳) 治部少輔となる
・757年(天平勝宝9年5月20日) 従五位上に昇叙する
・757年(天平勝宝9年6月16日) 相模守となる
・757年(天平勝宝9年日付不詳) 紫微少弼となる
・759年(天平宝字3年5月17日) 三河守となる
・761年(天平宝字5年1月16日) 上総守となる
・761年(天平宝字5年10月22日) 遣唐副使となる
・762年(天平宝字6年3月1日) 遣唐副使罷ぜられ、藤原田麻呂と交替する
・763年(天平宝字7年1月9日) 文部大輔となる
・763年(天平宝字7年) 藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画する
・764年(天平宝字8年1月21日) 大宰少弐に左遷される
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚する
・764年(天平宝字8年10月3日) 正五位上(越階)に昇叙、常陸守となる
・765年(天平神護元年1月7日) 従四位下に昇叙する
・765年(天平神護元年2月8日) 中衛中将となる
・766年(天平神護2年1月8日) 参議となる
・766年(天平神護2年10月25日) 正四位下に昇叙する
・768年(神護景雲2年正月10日) 従三位に昇叙する
・768年(神護景雲2年10月24日) 綿4000屯を賜わる
・770年(神護景雲4年8月4日) 称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立する
・770年(神護景雲4年9月16日) 兼大宰帥となる
・771年(宝亀2年3月13日) 兼式部卿となる
・771年(宝亀2年11月23日) 中納言となる
・775年(宝亀6年12月25日) 石上朝臣から物部朝臣に改姓する
・777年(宝亀8年10月13日) 兼中務卿となる
・779年(宝亀10年) 宣勅使として唐使をもてなす
・779年(宝亀10年11月18日) 物部朝臣から石上大朝臣の姓を賜わる
・780年(宝亀11年2月1日) 大納言となる
・781年(天応元年) 平城京付近にあった私邸を阿閦寺とする
・781年(天応元年4月15日) 正三位に昇叙する
・781年(天応元年6月24日) 奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られる
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 今日は、平安時代中期の1041年(長久2)に、公卿・歌人藤原公任の亡くなった日ですが、新暦では2月4日となります。
 藤原公任(ふじわら の きんとう)は、966年(康保3)に関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれました。980年(天元3)に清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙され、翌年に従四位下、982年(天元5)に従四位上、983年(天元6)に讃岐守を兼ね、985年(寛和元)には正四位下に昇叙します。
 漢詩・和歌・管弦に優れ、986年(寛和2)には、円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟(漢詩・和歌・管弦の3艘の舟)に併せ乗る名誉を得ました。989年(永延3)に蔵人頭となり、992年(正暦3)には、27歳で参議となって公卿に列します。
 藤原道長と親しくなり、道長主催の歌合や遊興にはよく出席し和歌を披露し、999年(長保元)秋の嵯峨遊覧では大覚寺の滝がなくなったのを惜しみ、「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」と詠じたことは有名で、後に「小倉百人一首」にも採られました。1001年(長保3)に中納言兼左衛門督となり、正三位に昇叙、1005年(寛弘2)に従二位、1009年(寛弘6)には44歳で権大納言、1012年(寛弘9)には正二位に昇叙されます。
 有職故実に通じて『北山抄』を著し、『新撰髄脳』、『和歌九品』などの歌学書を書き、秀歌選として『金玉集』、『深窓秘抄』を撰び、『和漢朗詠集』の撰者となり、名筆家としても知られました。しかし、1024年(万寿元)に権大納言を辞し、1026年(万寿3)には洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たします。
 多才博識で知られ、道長全盛時の歌壇を代表する指導者の位置を占めていましたが、1041年(長久2)1月1日に、数え年76歳で亡くなりました。尚、勅撰集には『拾遺集』以下に91首入集しています。

<藤原公任の代表的な歌>

・「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(小倉百人一首)
・「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」(大鏡)
・「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」(拾遺集)
・「うき世をば峰の霞やへだつらむなほ山里は住みよかりけり」(千載集)

〇藤原公任の主要な著作

・故実書『北山(ほくざん)抄』
・私選集『拾遺抄』
・歌学書『新撰髄脳(しんせんずいのう)』
・歌学書『和歌九品(くほん)』
・秀歌選『三十六人撰』
・秀歌選『金玉集』
・秀歌選『深窓秘抄』
・私撰集『和漢朗詠(ろうえい)集』
・私撰集『如意宝集』
・家集『公任集』

☆藤原公任関係略年表(日付は旧暦です)

・966年(康保3) 関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれる
・980年(天元3年2月25日) 清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙される
・980年(天元3年3月3日) 禁色となる
・980年(天元3年7月1日) 侍従となる
・981年(天元4年1月7日) 従四位下に昇叙される
・982年(天元5年5月8日) 従四位上に昇叙される
・983年(天元6年1月26日) 兼讃岐守となる
・983年(天元6年12月13日) 左近衛権中将、讃岐守如元
・984年(永観2年2月1日) 兼尾張権守となる
・985年(寛和元年11月21日) 正四位下に昇叙される
・986年(寛和2年3月5日) 兼伊予権守となる
・986年(寛和2年10月) 円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟に併せ乗る名誉を得る
・989年(永延3年2月23日) 蔵人頭となる
・990年(永祚2年4月5日) 兼備前守となる
・992年(正暦3年8月28日) 参議となってて公卿に列する
・993年(正暦4年1月13日) 兼近江守となる
・993年(正暦4年) 一条天皇の大原野神社への行幸に不参する事件を起し、一時参内を止められる
・994年(正暦5年) 藤原道兼の養女(実は昭平親王の娘)と結婚する
・995年(長徳元年8月28日) 兼左兵衛督
・995年(長徳元年9月21日) 兼皇后宮大夫(皇后・藤原定子)となる
・996年(長徳2年1月) 兼讃岐守となる
・996年(長徳2年7月14日) 兼右衛門督・検非違使別当となる
・998年(長徳4年1月25日) 兼備前権守となる
・998年(長徳4年10月23日) 兼勘解由長官となる
・999年(長徳5年1月7日) 従三位に昇叙される
・999年(長徳5年閏3月29日) 勘解由長官を辞する
・999年(長徳5年5月6日) 藤原道長邸の改築に伴う祝宴に参加する
・999年(長徳5年9月12日) 道長に随行して西山に紅葉を尋ねる
・999年(長徳5年10月27日) 藤原彰子入内に際して、屏風歌を詠進する
・1001年(長保3年8月25日) 中納言となる
・1001年(長保3年10月3日) 兼左衛門督となる
・1001年(長保3年10月10日) 正三位に昇叙される
・1001年(長保3年12月7日) 検非違使別当を辞する
・1001年(長保3年12月16日) 皇后宮大夫(藤原定子崩御)を辞し、兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原遵子)となる
・1005年(寛弘2年7月21日) 従二位に昇叙される
・1009年(寛弘6年3月4日) 権大納言となる
・1012年(寛弘9年2月14日) 兼太皇大后宮大夫(藤原遵子太皇太后贈号)
・1012年(寛弘9年4月) 長女を藤原教通に嫁がせる
・1012年(寛弘9年12月22日) 正二位に昇叙される
・1017年(寛仁元年6月1日) 太皇太后宮大夫を辞する
・1021年(寛仁5年1月28日) 兼陸奥出羽按察使となる
・1023年(治安3年) 次女(遵子の養女)を亡くする
・1024年(翌治安4年) 長女(藤原教通室)を亡くする
・1024年(万寿元年12月12日) 権大納言を辞し、陸奥出羽按察使となる
・1025年(万寿2年1月) 邸宅の四条宮が焼亡する
・1026年(万寿3年1月4日) 洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たす
・1040年(長久元年12月) 瘡湿に罹る
・1041年(長久2年1月1日) 数え年76歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

646年(大化2)改新の詔」が発布される(新暦1月22日)詳細
1946年(昭和21)昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する詳細
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 今日は、平安時代中期の万寿4年に、公卿藤原道長が亡くなった日ですが、新暦では1028年1月3日となります。
 藤原道長(ふじわら の みちなが)は、966年(康保3年)に京都において、摂政・関白・太政大臣の父・藤原兼家の五男(母は左京大夫藤原中正の女)として生まれました。980年(天元3年)に従五位下に叙位され、982年(天元5)に昇殿を許され、翌年には侍従に任官します。
 986年(寛和2)に父・兼家が一条天皇の摂政となると、翌年に従四位から一気に従三位に昇位し、991年(正暦2)には、26歳の若さで権大納言に任じられました。995年(長徳元)に疫病が流行し、兄の関白道隆・道兼が相ついで没したため、その地位を道隆の嫡子内大臣伊周 (これちか) と争いましたが、道長の姉で天皇の生母である東三条院詮子の強力な後援により、この争いに勝って、同年内覧、右大臣、氏長者となって政権の首座に就きます。
 翌年に伊周の失脚により左大臣となり、娘彰子・妍子・威子・嬉子・盛子を入内させて三代の外戚となりました。1016年(長和5)には外孫の後一条天皇の践祚とともに摂政となり、翌年にはこれを嫡子頼通に譲り、太政大臣となって、父子並んで政権を独占して権勢を振るい、藤原氏摂関政治の最盛期を築きます。
 その中で、1018年(寛仁2年)に娘・威子立后の夜の宴席では、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」と歌いました。しかし、同年太政大臣を辞し、さらに1019年(寛仁3)に出家し、行観 (同年行覚と改める) と名乗り、法成寺を造営します。
 詩歌も良くし、詩は『本朝麗藻』に、歌は勅撰集に43首が入集していますが、1028年1月3日(万寿4年12月4日)に、京都において、病のため数え年63歳で、亡くなりました。

〇藤原道長関係略年表(日付は旧暦です)

・966年(康保3年) 京都において、父・摂政・関白・太政大臣の兼家の五男(母は左京大夫藤原中正の女)として生まれる
・980年(天元3年1月7日)  従五位下に叙位される
・982年(天元5年1月10日)  昇殿を許される
・983年(天元6年1月27日) 侍従に任官する
・984年(永観2年2月1日) 右兵衛権佐に転任する
・984年(永観2年4月14日) 禁色を許される
・984年(永観2年4月28日) 東宮(のちの花山天皇こと、師貞親王)昇殿を許される
・986年(寛和2年2月8日) 昇殿を許される
・986年(寛和2年6月23日) 一条天皇が践祚し、父の兼家が摂政となるとあらためて昇殿を許される
・986年(寛和2年7月23日) 従五位上に昇叙し、蔵人に補任される
・986年(寛和2年7月27日) 正五位下に昇叙する
・986年(寛和2年8月15日) 少納言を兼任する
・986年(寛和2年10月15日) 左近衛少将に転任する
・986年(寛和2年11月18日) 従四位下に昇叙し、禁色と昇殿をあらためて許される
・987年(寛和3年1月7日) 従四位上に昇叙する
・987年(寛和3年1月27日) 讃岐権守を兼任する
・987年(永延元年7月11日) 備前権守を兼任し、讃岐権守を去る
・987年(永延元年9月4日) 左京大夫を兼任する
・987年(永延元年9月20日) 従三位に昇叙する
・987年(永延元年9月26日) 左近衛少将を止むが、帯剣を許される
・988年(永延2年1月29日) 権中納言に転任する
・989年(永延3年3月4日) 右衛門督を兼任する
・990年(永祚2年1月7日) 正三位に昇叙する
・990年(永祚2年10月5日) 中宮(道隆の娘で一条天皇中宮・藤原定子)大夫を兼任する
・991年(正暦2年9月7日) 26歳の若さで権大納言に転任する
・992年(正暦3年4月27日) 従二位に昇叙する
・995年(長徳元年4月27日) 左近衛大将を兼任する
・995年(長徳元年5月) 内覧宣下される
・995年(長徳元年9月19日) 右大臣に転任し、藤原氏長者宣下される
・996年(長徳2年7月20日) 正二位に昇叙し、左大臣に転任する
・996年(長徳2年8月9日) 左近衛大将を辞任する
・1015年(長和4年10月27日) 准摂政宣下される
・1016年(長和5年1月29日) 摂政宣下される
・1017年(長和5年12月7日) 左大臣を辞任する
・1017年(長和6年3月16日) 摂政を辞し、子頼通(よりみち)に譲り、従一位に昇叙する
・1017年(寛仁元年12月4) 太政大臣を宣下される
・1018年(寛仁2年2月9日) 太政大臣を辞任する
・1019年(寛仁3年3月21日) 出家して法名を行観とする
・1025年(万寿2年8月) 娘の嬉子が皇子(後の後冷泉天皇)を産んで亡くなる
・1026年(万寿3年9月) 娘の妍子が亡くなる
・1028年(万寿4年12月4日) 京都において、病のため数え年63歳で、亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1942年(昭和17)小説家中島敦の命日詳細
1961年(昭和36)歴史学者・思想史家津田左右吉の命日詳細
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 今日は、平安時代前期の826年(天長3)に、公卿藤原冬嗣の亡くなった日ですが、新暦では8月30日となります。
 藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)は、奈良時代の775年(宝亀6)に、藤原北家の出身で右大臣となった藤原内麻呂の次男(母は飛鳥部奈止麻呂の娘)として生まれました。806年(大同元)に、平城天皇が即位し、賀美能親王(後の嵯峨天皇)が皇太弟となった時、従五位下・春宮大進(とうぐうだいしん)となり、信任を得ます。
 809年(大同4)に嵯峨天皇が即位すると一挙に従四位下・左衛士督に叙任されました。810年(大同5年9月)に起きた薬子の変に際して、嵯峨天皇が蔵人所を設置すると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられ、乱収束後の11月には従四位上、翌年には参議に任ぜられ、公卿に列します。
 その後、814年(弘仁5)に従三位、816年(弘仁7)に権中納言、817年(弘仁8)に中納言、818年(弘仁9)には正三位・大納言と急速に昇進しました。その中で、818年(弘仁9)に嵯峨天皇の勅命を受け編集させた『文華秀麗集』を撰上し、820年(弘仁11)に『弘仁格式』の編纂を主導し完成させ、821年(弘仁12)には、『内裏式』の編纂を主導し完成させ、国史の監修に参画するなど実績を積みます。
 一方で、藤原北家隆盛のため、813年(弘仁4)に氏寺の興福寺に南円堂を建立させ、821年(弘仁12)には一族子弟の大学生のための寄宿舎として勧学院を建てさせるなどしました。
 そして、821年(弘仁12)に右大臣、823年(弘仁14)に正二位、825年(天長2)には左大臣にまでなり、娘の順子を仁明天皇の后とするなど皇室との血縁関係を強く結び、藤原氏による摂関政治の基礎を築きましたが、826年(天長3年7月24日)に、数え年52歳で亡くなっています。没後、翌年に正一位を追贈され、850年(嘉祥3)には、太政大臣も贈られました。
 尚、詩歌にも優れ、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に漢詩が、『後撰和歌集』には4首の和歌が採録されています。

〇藤原冬嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・775年(宝亀6年) 藤原内麻呂の次男(母は飛鳥部奈止麻呂の娘)として生まれる
・794年(延暦13年10月) 平安京へ遷都される
・801年(延暦20年閏正月6日) 大判事となる
・802年(延暦21年3月) 左衛士大尉となる
・802年(延暦21年5月14日) 左衛士大尉となる
・806年(大同元年10月9日) 従五位下、春宮大進(春宮・賀美能親王)となる
・807年(大同2年正月23日) 春宮亮となる
・809年(大同4年正月16日) 兼侍従となる
・809年(大同4年2月13日) 右少弁となる
・809年(大同4年4月13日) 嵯峨天皇即位に伴い、正五位下に昇叙する
・809年(大同4年4月14日) 従四位下に昇叙し、左衛士督となる
・809年(大同4年5月5日) 兼大舎人頭となる
・809年(大同4年12月) 兼中務大輔となる
・810年(大同5年正月) 兼備中守となる
・810年(大同5年3月10日) 蔵人頭となる
・810年(大同5年7月16日) 美作守となる
・810年(大同5年9月) 薬子の変が起きる
・810年(大同5年9月6日) 造宮使となる
・810年(大同5年9月16日) 兼式部大輔となる
・810年(大同5年11月22日) 従四位上に昇叙する
・811年(弘仁2年正月29日) 参議となり、公卿に列する
・811年(弘仁2年6月) 左衛門督
・811年(弘仁2年10月11日) 兼春宮大夫(春宮:大伴親王)、停式部大輔
・812年(弘仁3年10月) 父服喪のため辞官する
・812年(弘仁3年11月28日) 復本官
・812年(弘仁3年12月5日) 正四位下に昇叙し、兼左近衛大将となる
・813年(弘仁4年) 興福寺に南円堂を建立させる
・814年(弘仁5年4月) 自邸閑院に嵯峨天皇を迎えて詩宴を催す
・814年(弘仁5年4月28日) 従三位に昇叙する
・816年(弘仁7年正月) 兼近江守となる
・816年(弘仁7年10月18日) 権中納言となる
・817年(弘仁8年2月2日) 中納言となる
・818年(弘仁9年) 嵯峨天皇の勅命を受け編集させた『文華秀麗集』が撰上される
・818年(弘仁9年6月16日) 正三位に昇叙し、大納言となる
・820年(弘仁11年4月) 『弘仁格式』の編纂を主導し完成させる
・821年(弘仁12年) 一族子弟の大学生のための寄宿舎として勧学院を建てる
・821年(弘仁12年正月9日) 右大臣となる
・821年(弘仁12年) 『内裏式』の編纂を主導し完成させる
・822年(弘仁13年正月7日) 従二位に昇叙する
・823年(弘仁14年4月27日) 正二位に昇叙する
・825年(天長2年4月5日) 左大臣となる
・826年(天長3年7月24日) 数え年52歳で亡くなる
・826年(天長3年7月26日) 正一位を追贈される
・850年(嘉祥3年7月17日) 太政大臣を追贈される
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 今日は、室町時代の1481年(文明13)に、公卿・古典学者一条兼良の亡くなった日ですが、新暦では4月30日となります。
 一条兼良(いちじょう かねよし)は、1402年(応永9年5月7日)に、関白だった父・一条経嗣(つねつぐ)の子(母は東坊城秀長の娘)として生まれましたが、名は「かねら」とも呼ばれてきました。
 1412年(応永19)に元服して正五位下に叙位、翌年従三位に叙せられて公卿に列し、翌々年に正三位・権中納言となり、1416年(応永23)に権大納言となって家督を継ぎます。その後も昇進を重ね、1429年(永享元)に従一位左大臣、1432年(永享4)には摂政へと昇りつめました。
 しかし、実権は従兄弟の二条持基に握られ、一端辞任に追い込まれたものの、1444年(文安元)に、足利義政が室町幕府第8代将軍になると、1446年(文安3)に太政大臣、翌年には関白へと返り咲きました。
 その後、1450年(宝徳2)に太政大臣を辞し、1453年(享徳2)に関白も辞任、同年准三宮に叙せられました。学者としての名声は高まり、将軍家の歌道などに参与、歴史・有職故実・文学等に通じ、当代随一の学者と言われるようになります。
 1467年(応仁元)に関白に還補しましたが、同年に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」を焼失、奈良興福寺大乗院門跡に疎開することになりました。ここでは講書、著作の生活を送ったものの、1470年(文明2)に再び関白を辞して、1473年(文明5)に美濃(現在の岐阜県)に下向し、奈良に戻ってまもなく大乗院で出家します。
 1477年(文明9)に、応仁の乱が終息し、京都に戻って、第9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうけるようになりました。古典を研究し、源氏物語注釈書『花鳥余情』、『日本書紀纂疎』などを著し、有職故実や歌学書、紀行等多くの著作を残し、1481年(文明13年4月2日)に、京都において、数え年80歳で亡くなっています。

〇一条兼良の主要な著作

・『公事根源』
・教訓書『樵談治要(しょうだんちよう)』(1480年)
・『桃華蘂葉』
・『日本書紀纂疏(さんしょ)』(1472年頃)
・『伊勢物語愚見抄』
・『尺素往来』
・『花鳥余情(かちょうよせい)』(1472年)
・『源語秘訣』(花鳥余情の秘伝書)
・『源氏和秘抄』
・『源氏物語之内不審条々』
・『口伝抄』(源氏物語の注釈書)
・『源氏物語年立』
・『世諺問答』
・『梁塵愚案抄』(神楽歌と催馬楽の注釈書)
・『江家次第抄』
・『古今集童蒙抄』
・歌学書『歌林良材集』
・教訓書『文明一統記』
・『代始和抄』
・『世諺問答』
・『二判問答』
・歌学書『連珠合璧集』
・教訓書『小夜寝覚』
・紀行文『藤河の記』
・『桃華老人申楽後証記』
・『勧修念仏記』
・『多武峰縁起』
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