ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:公卿

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 今日は、平安時代中期の949年(天暦3)に、公卿藤原忠平の亡くなった日ですが、新暦では9月9日となります。
 藤原忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期の880年(元慶4年)に、京都において、関白だった藤原基経の四男(母は人康親王の娘)として生まれました。891年(寛平3)に父・藤原基経が亡くなりましたが、895年(寛平7)に元服し、正五位下に叙せられ、昇殿を許されます。
 宇多天皇の皇女(異説あり)順子を室として迎え、900年(昌泰3)に数え年21歳で参議となりましたが、一旦叔父清経に譲り、908年(延喜8)に再任されました。翌年に、氏長者だった長兄・時平が亡くなると次兄・仲平を越えて、氏長者となり、従三位に昇叙し、権中納言となります。
 以後急速に累進し、910年(延喜10)に中納言、911年(延喜11)に大納言、914年(延喜14)に右大臣、916年(延喜16)に従二位に昇叙し、924年(延長2)には、正二位に昇叙し、左大臣ともなりました。927年(延長5)に、先に勅命によって時平が編纂を開始した『延喜格式』を完成撰進させます。
 930年(延長8)に醍醐天皇が亡くなると、妹穏子の生んだ朱雀天皇が8歳で即位、その摂政として政治を後見(40年ぶりの摂関政治復活)し、932年(承平2)に従一位に昇叙、936年(承平6)には太政大臣ともなりました。941年(天慶4)に朱雀天皇が元服したため摂政を辞しましたが、詔して引き続き万機を委ねられ、関白に任じられます。
 946年(天慶9)の村上天皇即位後も、949年(天暦3)まで関白にあり、温厚で勤勉なため人望を得ていましたが、949年(天暦3年8月14日)に、京都の小一条第において、数え年70歳で亡くなり、正一位を追贈され、信濃国に封じ、貞信公と諡されました。その日記『貞信公記』は公卿日記として最も古く、摂関政治成立期の動向を伝えるものとなり、和歌は、『後撰和歌集』初出後、勅撰入集は十三首に及び、後世「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今一度(ひとたび)の みゆき待たなむ」が『小倉百人一首』に採られています。

<藤原忠平の代表的な歌>

・「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今一度(ひとたび)のみゆき待たなむ」(拾遺和歌集・百人一首)
・「折りて見るかひもあるかな梅の花ふたたび春に逢ふ心ちして」(続後撰和歌集)
・「君がため祝ふ心のふかければひじりの御代のあとならへとぞ」(後撰和歌集)
・「春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは」(後撰和歌集)

〇藤原忠平関係略年表(日付は旧暦です)

・880年(元慶4年) 京都において、関白藤原基経の四男(母は人康親王の娘)として生まれる
・891年(寛平3年1月13日) 父・藤原基経が亡くなる
・895年(寛平7年8月21日) 元服し、正五位下となる
・895年(寛平7年9月15日) 雑袍を聴す。昇殿
・896年(寛平8年1月26日) 侍従となる
・897年(寛平9年2月14日) 備後権守を兼任する
・898年(寛平10年1月29日) 再び備後権守を兼任する
・898年(昌泰元年11月22日) 従四位下に昇叙される
・900年(昌泰3年1月28日) 参議となる
・900年(昌泰3年2月20日) 宇多天皇の命により参議を辞退する
・900年(昌泰3年4月23日) 昇殿元の如し
・900年(昌泰3年5月15日) 右大弁に補任される
・903年(延喜3年1月7日) 従四位上に昇叙される
・905年(延喜5年1月11日) 備後権守を兼任する
・908年(延喜8年1月12日) 参議に還任する
・908年(延喜8年2月24日) 春宮大夫をを兼任する
・908年(延喜8年3月9日) 昇殿元の如し
・908年(延喜8年8月26日) 右大弁を去り、左兵衛督を兼任する
・908年(延喜8年9月1日) 検非違使別当に補任される
・909年(延喜9年4月4日) 氏長者だった長兄・藤原時平が亡くなる
・909年(延喜9年4月9日) 従三位に昇叙し、権中納言となり、氏長者ともなる
・909年(延喜9年5月11日) 蔵人所別当に補任される
・909年(延喜9年9月27日) 左兵衛督を去り、右近衛大将をを兼任する
・909年(延喜9年10月22日) 検非違使別当元の如し
・910年(延喜10年1月13日) 中納言となる
・911年(延喜11年1月13日) 大納言となる
・911年(延喜11年12月28日) 検非違使別当を止む
・913年(延喜13年1月7日) 正三位に昇叙する
・913年(延喜13年4月15日) 左近衛大将を兼任する
・914年(延喜14年8月25日) 右大臣となる
・916年(延喜16年2月28日) 従二位に昇叙される
・924年(延長2年1月7日) 正二位に昇叙される
・924年(延長2年1月22日) 左大臣となる
・925年(延長3年10月21日) 東宮傅を兼任する
・927年(延長5年) 『延喜格式』を完成撰進させる
・930年(延長8年9月22日) 東宮傅を止め、摂政となる
・930年(延長8年12月17日) 左近衛大将を止める
・932年(承平2年3月29日) 従一位に昇叙される
・936年(承平6年8月19日) 太政大臣となる
・939年(天慶2年2月28日) 准三宮となる(年官・年爵を賜うこと三宮に准ず)。
・941年(天慶4年11月8日) 摂政を止め、関白となる
・946年(天慶9年5月20日) 関白元の如し
・949年(天暦3年8月14日) 京都の小一条第において、数え年70歳で亡くなる
・949年(天暦3年8月18日 贈正一位、信濃国に封じ、貞信公と諡す

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)藤原良房らが『続日本後紀』20巻を撰上する(新暦9月23日)詳細
1511年(永生8)室町幕府第11代将軍足利義澄の命日(新暦9月6日)詳細
1656年(明暦2)彦根藩士・俳人で蕉門十哲の一人森川許六の誕生日(新暦10月1日)詳細
1885年(明治18)「専売特許条例」に基づいて、日本初の専売特許7件がが交付される(専売特許の日)詳細
1945年(昭和20)昭和天皇臨席の第15回御前会議において、無条件でのポツダム宣言受諾を決定し、太平洋戦争に敗れる詳細
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 今日は、平安時代後期の1074年(延久6)に、公卿・歌人藤原頼通が亡くなった日ですが、新暦では3月2日となります。
 藤原頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期の992年(正暦3年1月)に、京都において、摂政・関白・太政大臣だった、父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれましたが、幼名は田鶴(たづ)と言いました。1003年(長保5)に元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許され、侍従に任官します。
 翌年には、従四位下に昇叙し、近江介を兼任、春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれました。1006年 (寛弘3) に従三位、1009年(寛弘6)に権中納言、1011年(寛弘8)に正二位、1013年(長和2)に権大納言、1015年(長和4)に左近衛大将と順調に昇叙・任官します。
 同年に内大臣となり、後一条天皇の摂政を父・道長から譲られ、藤原氏長者ともなり、1019年(寛仁3)には関白宣下されました。1021年(治安元)に居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集め、1021年(治安元)に従一位に昇叙し、左大臣に転任します。
 1024年(万寿元)に高陽院において競馬を催したりしますが、1028年(万寿4)には、父・道長が亡くなりました。1035年(長元8)に関白左大臣頼通歌合を開催、1037年(長暦元)に養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内、1051年(永承6)には、平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となり、天皇との姻戚関係を強め、藤原氏全盛時代を築きます。
 一方で、1040年(長久元)、1045年(寛徳2)、1055年(天喜3)に「荘園整理令」に着手したものの、権門擁護策に終わりました。後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の3代、50余年に渡って、摂政あるいは関白の座を占め、女子を天皇の後宮にいれて、外孫皇子の誕生を期待しましたが、その誕生がないままとなります。
 1061年(康平4)に太政大臣まで上り詰めたものの、翌年には辞し、1064年(康平7)に藤原氏長者も辞め、1067年(治暦3)には関白も辞し、准三宮を宣下されました。翌年には、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位し、1072年(延久4)には、出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とします。
 1052年(永承8)に宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立していましたが、そこに隠遁し、1074年(延久6年2月2日)に宇治において、数え年83歳で亡くなりました。尚、歌人としても知られ、歌壇の後援者として大きな存在で、私家集の集成や歌合類聚事業など、和歌史上の功績も大きく、『後拾遺和歌集』初出後、勅撰集入集は15首にも及んでいます。

<藤原頼通の代表的歌>

・「そらならば たづねきなまし 梅の花 まだ身にしまぬ 匂ひとぞみる」(新勅撰和歌集)
・「有明の 月だにあれや ほととぎす ただ一声の ゆくかたも見む」(後拾遺和歌集)
・「見もはてで さめけむ夢を 思ふにも これぞうつつと いかで知らせむ」(玉葉和歌集)

〇藤原頼通関係略年表(日付は旧暦です)

・992年(正暦3年1月) 京都において、摂政・関白・太政大臣だった父・藤原道長の嫡男(母は左大臣源雅信の娘倫子)として生まれる
・1003年(長保5年2月20日) 元服し、正五位下に叙位、昇殿と禁色を許される
・1003年(長保5年2月28日) 侍従に任官する
・1004年(長保6年1月7日) 従四位下に昇叙し、右近衛少将如元
・1004年(長保6年1月24日) 近江介を兼任する
・1004年(長保6年) 春日祭使(藤原氏の氏社奈良の春日社の大祭に朝廷から派遣される使者)に選ばれる
・1005年(寛弘2年10月22日) 従四位上に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年3月4日) 従三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1006年(寛弘3年9月22日) 正三位に昇叙し、右近衛少将如元
・1007年(寛弘4年1月28日) 春宮(のちの三条天皇こと、居貞親王)権大夫に転任する
・1008年(寛弘5年10月16日) 従二位に昇叙し、春宮権大夫如元
・1009年(寛弘6年3月4日) 権中納言に転任し、左衛門督を兼任、春宮権大夫如元
・1011年(寛弘8年6月9日) 正二位に昇叙し、権中納言・左衛門督如元
・1011年(寛弘8年6月13日) 春宮権大夫如元
・1013年(長和2年6月23日) 権大納言に転任し、春宮権大夫如元
・1015年(長和4年10月27日) 左近衛大将を兼任する
・1016年(長和5年1月29日) 春宮権大夫を停む
・1017年(長和6年3月4日) 内大臣に転任する
・1017年(長和6年3月6日) 左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月16日) 摂政宣下、内大臣・左近衛大将如元
・1017年(長和6年3月22日) 左近衛大将を辞任する
・1019年(寛仁3年12月22日) 摂政を止め、関白宣下、内大臣如元
・1021年(治安元年) 居邸高陽院を壮麗に造営して世の耳目を集める
・1021年(治安元年1月7日) 従一位に昇叙し、関白・内大臣如元
・1021年(治安元年7月25日) 左大臣に転任し、関白如元
・1021年(治安元年8月10日) 太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり
・1024年(万寿元年秋) 高陽院において競馬を催す
・1028年(万寿4年12月4日) 父・藤原道長が亡くなる
・1035年(長元8年) 関白左大臣頼通歌合を開催する
・1037年(長暦元年) 養女嫄子(げんし)が後朱雀天皇に入内する
・1040年(長久元年) 「荘園整理令」を出す
・1045年(寛徳2年) 「荘園整理令」を出す
・1051年(永承6年) 陸奥国で前九年の役が勃発する
・1051年(永承6年) 平親王の女との間に生まれた寛子(かんし)が後冷泉天皇の皇后となる
・1052年(永承8年) 宇治の別荘を宇治平等院鳳凰堂として建立する
・1055年(天喜3年) 「荘園整理令」を出す
・1060年(康平3年7月17日) 左大臣を辞し、関白如元
・1061年(康平4年12月21日) 太政大臣宣下、関白如元
・1062年(康平5年9月2日) 太政大臣を辞す
・1064年(康平7年12月13日) 藤原氏長者を辞す
・1067年(治暦3年4月16日) 関白を辞し、准三宮宣下される
・1068年(治暦4年4月19日) 170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位する
・1072年(延久4年4月29日) 出家し法名を蓮華覚、のち、寂覚とする
・1074年(延久6年2月2日) 山城国宇治において、数え年83歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

749年(天平21)社会事業に尽力した法相宗の僧行基の命日詳細
1929年(昭和4)日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)が結成される詳細
1942年(昭和17)大日本国防婦人会・愛国婦人会・大日本聯合婦人会を統合し、大日本婦人会が発足詳細
1971年(昭和46)湿地の保存に関する「ラムサール条約」が調印される(世界湿地デー)詳細
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 今日は、奈良時代の757年(天平宝字元)に、皇族・公卿・歌人橘諸兄が亡くなった日ですが、新暦では1月30日となります。
 橘諸兄(たちばな の もろえ)は、684年(天武13)に、敏達天皇の玄孫で、従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれましたが、最初は葛城王と称しました。710年(和銅3)に無位から従五位下に叙され、翌年に馬寮監に任ぜられると、以後累進して、724年(神亀元)に聖武天皇の即位後間もなく、従四位下に昇叙されます。
 729年(神亀6)の「長屋王の変」後に行われたの叙位にて正四位下に昇叙され、続いて左大弁に任ぜられ、731年(天平3)には、藤原宇合、麻呂らと共に諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列しました。732年(天平4)に従三位に昇叙し、736年(天平8)には、弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改めます。
 737年(天平9)に天然痘の流行による藤原4卿(武智麻呂、房前、宇合、麻呂) の急死によって、大納言に任ぜられ、翌年に正三位・右大臣、翌々年には従二位に昇叙され、唐から帰国した玄昉や吉備真備らを顧問に起用しました。740年(天平12)秋に、大宰少弐の藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こすと、鎮圧後に恭仁京を都と定められ、その遷都に尽力します。
 741年(天平13)に聖武天皇によって「国分寺建立の詔」が出され、743年(天平15)には、「墾田永年私財法」、「大仏造立の詔」が出され、それにあたりました。同年に従一位・左大臣に叙任されたものの、744年(天平15)に恭仁京の造営が中止され、翌年には難波宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出されましたが、745年(天平17)には、平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰します。
 749年(天平感宝元)の東大寺行幸に際し、正一位に昇叙されて、翌年に朝臣の姓を賜るなど全盛を極めたものの、藤原仲麻呂の台頭によって、しだいに実権を失っていきました。755年(天平勝宝7年11月)に祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴されると、翌年には辞職を申し出て致仕します。
 歌人としても知られ、『万葉集』に7首所載されましたが、757年(天平宝字元年1月6日)に失意のうちに、数え年74歳で亡くなりました。

<橘諸兄の代表的な和歌>

・「降る雪の白髪(しろかみ)までに大君に仕へまつれば貴くもあるか」(万葉集)
・「あぢさゐの八重咲くごとく弥つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」(万葉集)
・「高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪」(万葉集)

〇橘諸兄関係略年表(日付は旧暦です)

・684年(天武13年) 敏達(びだつ)天皇の玄孫で従四位下の美努(みぬ)王の子(母は県犬養橘三千代)として生まれる
・710年(和銅3年1月) 無位から従五位下に叙される
・711年(和銅4年12月) 馬寮監に任ぜられる
・717年(霊亀3年1月) 従五位上に昇叙される
・721年(養老5年1月) 正五位下に昇叙される
・723年(養老7年1月) 正五位上に昇叙される
・724年(神亀元年2月) 聖武天皇の即位後間もなく従四位下に昇叙される
・729年(神亀6年2月13日) 長屋王が自殺する(長屋王の変)
・729年(神亀6年3月) 長屋王の変後に行われたの叙位にて、正四位下に昇叙される
・729年(神亀6年9月) 左大弁に任ぜられる 
・731年(天平3年8月) 藤原宇合、麻呂らとともに諸司の挙によって、参議に任ぜられ、公卿に列する
・732年(天平4年1月) 従三位に昇叙される
・736年(天平8年11月) 弟の作為王と共に、朝廷に請うて臣籍に降り、母の氏姓橘宿禰姓を賜わって、名を諸兄と改める
・737年(天平9年9月) 天然痘の流行による藤原4卿の急死によって、大納言に任ぜられる
・738年(天平10年1月) 正三位に昇叙され、右大臣に任ぜられる
・739年(天平11年1月) 従二位に昇叙される
・740年(天平12年)秋 大宰少弐の)藤原広嗣が九州で大軍を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を起こす
・740年(天平12年12月15日) 恭仁京を都と定める 
・741年(天平13年3月24日) 聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される 
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が「大仏造立の詔」を出す 
・743年(天平15年5月) 従一位に昇叙され、左大臣に任ぜられる
・744年(天平15年12月26日) 恭仁京の造営を中止する 
・744年(天平16年2月26日) 難波(なにわ)宮行幸があり、諸兄の宣で難波を皇都とする詔が出される
・745年(天平17年)頃 諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始める
・745年(天平17年5月1日) 平城京に還都し、諸兄の遷都計画は失敗に帰する 
・749年(天平感宝元年4月) 東大寺行幸に際し、正一位に昇叙される
・749年(天平勝宝元年7月2日) 聖武天皇が譲位し、安倍内親王が孝謙天皇として即位する
・750年(天平勝宝2年1月) 朝臣の姓を賜る  
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が開催される 
・755年(天平勝宝7年11月) 祗承人佐味宮守に、太上天皇不予の際、飲酒の庭で礼なしと告訴される
・756年(天平勝宝8年2月) 辞職を申し出て致仕する
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武上皇が崩御し、道祖王が立太子する 
・757年(天平宝字元年1月6日) 失意のうちに数え年74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
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 今日は、平安時代後期の1075年(承保2)に、平安時代の公卿・関白藤原教通が亡くなった日ですが、新暦では11月6日となります。
 藤原教通(ふじわら の のりみち)は、996年(長徳2年6月7日)に、京都において摂政藤原道長の三男(母は左大臣源雅信の女倫子)として生まれましたが、同母兄・頼通と同じく嫡子として扱われました。1006年(寛弘3)に元服し、正五位下となり、昇殿を許され、侍従となります。
 1008年(寛弘5)に従四位下、1008年(寛弘5)に従四位上、1010年(寛弘7)に従三位となり公卿に列しました。その後も順調に昇進し、1011年(寛弘8)に正三位、1013年(長和2)に権中納言、従二位、1019年(寛仁3)に権大納言、1021年(寛仁5)には内大臣となります。
 1028年(万寿4)に父・道長が亡くなりましたが、1039年(長暦3)には、娘・生子が第69代後朱雀天皇のもとに入内しました。それからも1047年(永承2)に右大臣となり、1047年(永承2)に娘・歓子が第70代後冷泉天皇のもとへ入内、1057年(天喜5)に従一位、1060年(康平3)には左大臣に至ります。
 1064年(康平7)に兄・頼通より藤原氏長者を譲られ、1068年(治暦4)には関白宣下されました。しかし、娘2人にいずれも皇子が生まれなかったことから、同年に藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位し、摂関家抑圧策をとったため,以後摂関家は衰退に向かいます。
 1070年(延久2)に太政大臣宣下されたものの、翌年には辞し、1075年(承保2)に京都において、数え年83歳で亡くなり、正一位を追贈されています。

〇藤原教通関係略年表(日付は旧暦です)

・996年(長徳2年6月7日) 京都において摂政藤原道長の三男(母は左大臣源雅信の女倫子)として生まれる
・1006年(寛弘3年12月5日) 元服し、正五位下となり、昇殿を許される
・1006年(寛弘3年12月16日) 侍従、禁色
・1007年(寛弘4年1月28日) 右兵衛佐となる
・1007年(寛弘4年11月2日) 右近衛少将となる
・1008年(寛弘5年1月7日) 従四位下となる
・1008年(寛弘5年1月28日) 右近衛中将、兼近江介となる
・1008年(寛弘5年10月16日) 従四位上となる
・1009年(寛弘6年3月20日) 左近衛中将となる
・1010年(寛弘7年11月28日) 従三位となる
・1011年(寛弘8年8月11日) 正三位となる
・1011年(寛弘8年12月18日) 兼中宮権大夫(中宮・藤原彰子)となる
・1012年(寛弘9年1月27日) 兼近江権守となる
・1012年(寛弘9年2月14日) 兼皇太后宮権大夫(皇太后・藤原彰子)となる
・1013年(長和2年6月23日) 権中納言、兼左衛門督となる
・1013年(長和2年9月16日) 従二位となる
・1013年(長和2年12月19日) 兼検非違使別当となる
・1014年(長和3年8月) 正室・藤原公任の娘との間に生子(後に第69代後朱雀天皇の女御)が生まれる
・1014年(長和3年11月) 去検非違使別当となる
・1015年(長和4年10月21日) 正二位となる
・1017年(長和6年4月3日) 兼左近衛大将となる
・1017年(長和6年8月9日) 兼春宮大夫(皇太子:敦良親王)となる
・1019年(寛仁3年12月21日) 権大納言となる
・1021年(寛仁5年7月25日) 内大臣となる
・1021年(治安元年) 正室・藤原公任の娘との間に歓子(後に第70代後冷泉天皇の皇后)が生まれる
・1028年(万寿4年12月4日) 父・道長が亡くなる
・1037年(長元10年8月17日) 兼東宮傅(皇太子・親仁親王)となる
・1039年(長暦3年11月21日) 娘・生子が第69代後朱雀天皇のもとに入内する
・1045年(寛徳2年1月16日) 東宮傅を辞す
・1046年(寛徳3年11月25日) 兼東宮傅(皇太子・尊仁親王)となる
・1047年(永承2年8月1日) 右大臣となる
・1047年(永承2年8月9日) 左近衛大将となる
・1047年(永承2年10月14日) 娘・歓子が第70代後冷泉天皇のもとへ入内する
・1057年(天喜5年1月7日) 従一位となる
・1060年(康平3年7月17日) 左大臣となる
・1062年(康平5年4月11日) 左近衛大将を辞す
・1064年(康平7年12月13日) 兄・頼通より藤原氏長者を譲られる
・1068年(治暦4年4月16日) 関白宣下される
・1068年(治暦4年4月19日) 藤原氏と外戚関係のない第71代後三条天皇が即位する
・1068年(治暦4年4月19日) 東宮傅を止める
・1069年(治暦5年8月13日) 左大臣を辞す
・1070年(延久2年3月23日) 太政大臣宣下される
・1071年(延久3年8月10日) 太政大臣を辞す
・1074年(延久6年2月2日) 兄・頼通が亡くなる
・1075年(承保2年9月25日) 京都において、数え年83歳で亡くなる
・1075年(承保2年10月6日) 正一位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

769年(神護景雲3)宇佐八幡宮神託事件が起きる(新暦10月28日)詳細
1691年(元禄4)大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の命日(新暦11月14日)詳細
1829年(文政12)P.F.vonシーボルトシーボルト事件で、国外追放処分を受ける(新暦10月22日)詳細
1985年(昭和60)奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石室等の発堀について発表される詳細


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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
 岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
 1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
 1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
 1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
 それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
 1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
 また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。

〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日)  岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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