八月十八日の政変で、これらの公家は失脚し、謹慎処分となりましたが、長州藩の久坂玄瑞、真木和泉は藩重役らと事後策を練ったすえ、この7人の公家を一時長州藩に逃れさせて、再起を図ることに決しました。そこで、19日に京都を脱出させ、21日に兵庫より乗船、27日に周防国三田尻の招賢閣に入ります。
その後、錦小路頼徳は1864年(元治元)に病没、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのちに脱出して四国伊予小松藩周辺に匿われた後、長州に脱出、残る5人は第一次長州征伐の後に筑前国太宰府(現在の福岡県太宰府市)に移されました。そして、1867年(慶応3)の王政復古の大号令の前夜、朝議において赦免され、官位や諱が復されています。
この前年から長州藩を中心とした攘夷派勢力の活動が活発となり、8月の大和行幸、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画しました。これに対し、薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内佐幕派公卿と結んで8月18日に兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放します。
このため、三条実美をはじめ東久世通禧、沢宣嘉、三条西季知、壬生基修、錦小路頼徳、四条隆謌の公家7人は長州藩兵護衛のもと、真木和泉ら激派浪士と共に、翌日京都を脱出し、周防国に逃れることになり、これが七卿落と呼ばれることになりました。その結果、攘夷親征は中止され、しばらくの間公武合体派の勢力が強くなることとなります。
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