ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:八月十八日の政変

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 幕末明治維新期の1863年(文久3)に、七卿落ちで三條実美ら公家7人が長州へ向かった日ですが、新暦では10月1日となります。
 七卿落ち(しちきょうおち)は、八月十八日の政変によって、7人の公家が京都から追放された事件でした。一般的に、七卿と呼ばれますが、実際に公卿(公は太政大臣、左大臣、右大臣、卿は大・中納言、参議および三位以上の貴族で、それを合わせた呼称)に列していたのは、三条実美(従三位権中納言)と三条西季知(正二位行権中納言)の2人だけで、他は、四条隆謌(従四位上行侍従)、東久世通禧(正四位下行左近衛権少将)、壬生基修(従四位上行修理権大夫)、錦小路頼徳(従四位上行右馬頭)、澤宣嘉(正五位下行主水正)の5人の公家で、二卿五朝臣と呼ぶ方が良いとの説もあります。
 八月十八日の政変で、これらの公家は失脚し、謹慎処分となりましたが、長州藩の久坂玄瑞、真木和泉は藩重役らと事後策を練ったすえ、この7人の公家を一時長州藩に逃れさせて、再起を図ることに決しました。そこで、19日に京都を脱出させ、21日に兵庫より乗船、27日に周防国三田尻の招賢閣に入ります。
 その後、錦小路頼徳は1864年(元治元)に病没、澤宣嘉は生野の変で挙兵したのちに脱出して四国伊予小松藩周辺に匿われた後、長州に脱出、残る5人は第一次長州征伐の後に筑前国太宰府(現在の福岡県太宰府市)に移されました。そして、1867年(慶応3)の王政復古の大号令の前夜、朝議において赦免され、官位や諱が復されています。

<追放された7人の公家>

・三条実美(27歳:従三位権中納言)
・三条西季知(53歳:正二位行権中納言)
・四条隆謌(36歳:従四位上行侍従)
・東久世通禧(31歳:正四位下行左近衛権少将)
・壬生基修(29歳:従四位上行修理権大夫)
・錦小路頼徳(27歳:従四位上行右馬頭)
・澤宣嘉(28歳:正五位下行主水正)

〇八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは?

 幕末明治維新期の1863年(文久3年8月18日)に、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放したクーデターです。
 この前年から長州藩を中心とした攘夷派勢力の活動が活発となり、8月の大和行幸、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画しました。これに対し、薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内佐幕派公卿と結んで8月18日に兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放します。
 このため、三条実美をはじめ東久世通禧、沢宣嘉、三条西季知、壬生基修、錦小路頼徳、四条隆謌の公家7人は長州藩兵護衛のもと、真木和泉ら激派浪士と共に、翌日京都を脱出し、周防国に逃れることになり、これが七卿落と呼ばれることになりました。その結果、攘夷親征は中止され、しばらくの間公武合体派の勢力が強くなることとなります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1680年(延宝8)第108代の天皇とされる後水尾天皇の命日(新暦9月11日)詳細
1881年(明治14)文部省によって「師範学校教則大綱」が制定される詳細
1944年(昭和19)第12回御前会議で「世界情勢判断及戦争指導大綱」を決定する詳細
1946年(昭和21)全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成される詳細
1969年(昭和44)小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の命日詳細

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 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、第121代の天皇とされる孝明天皇の生まれた日ですが、新暦では7月22日となります。
 孝明天皇(こうめいてんのう)は、京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として生まれましたが、名は統仁(おさひと)と言いました。1835年(天保6)に親王宣下され、1840年(天保11)には、立太子の儀が行われ皇太子となります。
 1846年(弘化3)に、父・仁孝天皇が亡くなると践祚の儀を行い、翌年には即位礼をあげて、第121代とされる天皇となりました。黒船来航(1853年)、大地震(1854年)、内裏炎上(1854年)と不安の状況が続いたため、1855年(嘉永3年11月27日)に元号を安政と改元します。
 1858年(安政5)に上洛してきた老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めた時、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず、幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明、井伊直弼の幕政指導に不信を示して、戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達しました。1860年(万延元)に公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁による第14代将軍徳川家茂との婚姻を認め、1862年(文久2)には、島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣します。
 続いて、薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促、翌年には将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下しました。1863年(文久3)の「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放、翌年に再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じています。
 1865年(慶応元)に幕府の要請を受けて長州再征を許可、翌年の第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、征長の停止を幕府に指示しました。しかし、1866年(慶応2年12月25日)に京都において、36歳で急逝し、墓所は京都東山泉涌寺の後月輪東山陵(現在の京都市東山区今熊野)とされています。

〇孝明天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1831年(天保2年6月14日) 京都において、仁孝天皇の第四皇子(母は贈左大臣正親町実光の女雅子)として誕生する
・1835年(天保6年6月21日) 儲君治定される
・1835年(天保6年9月18日) 親王宣下される、
・1840年(天保11年3月14日) 立太子の儀が行われ皇太子となる
・1843年(天保14年) 侍講に中沼了三を迎える
・1846年(弘化3年2月13日) 父天皇の崩御のあとをうけて践祚の儀をあげる
・1846年(弘化3年8月29日) 対外関係が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を厳重にするよう沙汰書を出す
・1847年(弘化4年3月9日) 学習所(学習院)の開講式が行われる
・1847年(弘化4年4月25日) 石清水臨時祭にあたり外夷を打ち払い四海静謐を祈る
・1847年(弘化4年9月23日) 即位礼をあげる
・1847年(弘化4年9月27日) 将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀する
・1850年(嘉永3年4月8日) 「万民安楽、宝祚長久」の祈りを七社七寺へ命じる
・1854年(嘉永7年4月6日)、内裏が炎上する
・1858年(安政5年2月) 上洛の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」調印の承認を求めたとき、諸大名の意見を聞いた上で判断するとして許可を与えず
・1858年(安政5年6月) 幕府が独断で「日米修好通商条約」調印を行ったとの報告に接し譲位を表明する
・1858年(安政5年8月) 井伊直弼の幕政指導に不信を示す、いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達する
・1858年(安政5年12月) 鎖国の状態に引き戻すことを条件に「日米修好通商条約」調印を了承する
・1860年(万延元年) 公武の合体による国内一致のため、妹和宮の江戸降嫁を認める
・1861年(文久元年) 長井雅楽の「航海遠略策」を受理する
・1862年(文久2年5月) 島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣する
・1862年(文久2年10月) 薩長土3藩主の要請に基づき三条実美、姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促する
・1863年(文久3年3月) 将軍家茂の上洛に際して、攘夷の勅命を下す
・1863年(文久3年3月) 攘夷の成功を祈願するため、賀茂社に行幸する
・1863年(文久3年4月) 攘夷の成功を祈願するため、石清水社に行幸する
・1863年(文久3年8月) 「文久三年八月十八日の政変」の時、攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七卿と長州藩兵を京都から追放する
・1864年(元治元年1月) 再度上洛した将軍家茂に公武一和の協力を命じる
・1865年(慶応元年9月) 幕府の要請を受けて長州再征を許可する
・1865年(慶応元年10月) 徳川慶喜の強要を容れ条約を許可、ただし兵庫開港は不可とする
・1866年(慶応2年7月) 第二次長州征伐中に将軍家茂が死去すると、天皇は征長の停止を幕府に指示する
・1866年(慶応2年12月25日) 京都において、痘瘡によって36歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1571年(元亀2)戦国武将・大名毛利元就の命日(新暦7月6日)詳細
1899年(明治32)小説家川端康成の誕生日詳細
1920年(大正9)北炭夕張炭鉱(北上坑)で爆発事故があり、死者・行方不明者209人を出す詳細
1992年(平成4)「環境と開発に関する国際連合会議」が「環境と開発に関するリオ宣言」などを採択して閉幕する詳細


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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、公家・政治家・伯爵東久世通禧の亡くなった日です。
 東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)は、1834年1月1日(天保4年11月22日)に京都・丸太町で東久世通徳の子(母は柳沢信子)として生まれましたが、幼名は保丸と言いました。1842年(天保13)に童形のまま東宮に出仕し、1849年(嘉永2)に侍従、1859年(安政6年)には左近権少将にまで累進します。
 863年(文久2)に国事御用掛、続いて国事参政となり、攘夷を唱えましたが、「八月十八日の政変」によって、三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳と共に船で長州へ逃れ、官位を剥奪されました(七卿落ち)。1867年(慶応3年12月9日)の王政復古によって復権を果たし、翌年に外国事務総督の1人に任命され、横浜裁判所総督、神奈川裁判所総督、神奈川府知事となり明治初年の外交を担当します。
 1869年(明治2)に第2代開拓長官に任命され、箱館に着任し、ガルトネル開墾条約事件の和解にこぎつけるなどしました。1871年(明治4)に侍従長に転じ、同年11月12日から岩倉具視を全権とする岩倉使節団に理事官として随行し、欧米を巡視します。
 1882年(明治15)に元老院副議長となり、1884年(明治17)の「華族令」施行に伴い伯爵となり、1888年(明治21)には枢密顧問官となりました。1890年(明治23)に貴族院副議長、1892年(明治25)に枢密院副議長を歴任し、1906年(明治39)には旭日桐花大綬章を受章します。
 著作として、『東久世通禧日記』、『竹亭回顧録維新前後』などを残し、1912年(明治45)1月4日に、東京において、数え年80歳で亡くなりました。

〇東久世通禧関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1834年1月1日(天保4年11月22日) 京都・丸太町で東久世通徳の子(母は柳沢信子)として生まれる
・1842年(天保13年) 童形のまま東宮に出仕する
・1849年(嘉永2年) 侍従となる
・1859年(安政6年) 左近権少将にまで累進する
・1863年(文久2年12月9日) 国事御用掛となる
・1863年(文久3年2月13日) 国事参政となり、攘夷を唱える
・1863年(文久3年8月18日) 「八月十八日の政変」によって、長州藩兵に守られ、三条実美・三条西季知・澤宣嘉・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳とともに船で長州へ逃れた。(七卿落ち)
・1863年(文久3年8月24日) 官位が剥奪される
・1864年(元治元年) 長州から大宰府に移される
・1867年(慶応3年12月9日) 王政復古によって復権を果たす
・1868年(慶応4年1月17日) 外国事務総督の1人となる
・1868年(慶応4年3月19日) 横浜裁判所総督となる
・1868年(慶応4年4月20日) 神奈川裁判所総督となる
・1868年(慶応4年6月17日) 神奈川府知事となる
・1869年(明治2年8月25日) 第2代開拓長官に任命される
・1869年(明治2年9月21日) 開拓使吏員、農工民約200人をともない、テールス号で品川を出帆する
・1869年(明治2年9月25日) 箱館に着任する
・1869年(明治2年9月) 王政復古の功績として賞典禄1000石を給される
・1870年(明治3年) ガルトネル開墾条約事件の和解にこぎつける
・1871年(明治4年10月15日) 侍従長に転じる
・1871年(明治4年11月12日) 岩倉具視を全権とする岩倉使節団に理事官として随行する
・1873年(明治6年9月13日) 横浜港へ帰国する
・1882年(明治15年) 元老院副議長となる
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」施行に伴い伯爵となる
・1888年(明治21年) 枢密顧問官となる
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章受章
・1889年(明治22年)12月27日 勲一等瑞宝章受章
・1890年(明治23年) 貴族院副議長となる
・1892年(明治25年) 枢密院副議長となる
・1898年(明治31年)12月28日 旭日大綬章受章
・1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章受章
・1912年(明治45年)1月4日 東京において、数え年80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1946年(昭和21)GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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