ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:全日本無産者芸術連盟

proletarierbijyutsu01

 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、「全日本無産者芸術団体協議会」(ナップ)傘下に「日本プロレタリア美術家同盟」(AR)が創立された日です。
 「日本プロレタリア美術家同盟(にほんぷろれたりあびじゅつかどうめい)」(AR)は、1928年(昭和3)に設立された、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の美術部門の組織だった無産者美術団体協議会が独立して結成されました。一方で、1925年(大正14)11月に岡本唐貴、矢部友衛、吉田謙吉、神原泰など11人によって結成された「造型」が、1927年(昭和2)5月のロシア革命10周年記念「新ロシヤ美術展覧会」を契機としたプロレタリア美術運動は急速な高まりの中で、拡大再組織されて同年末には「造型美術家協会」となり、1929年(昭和4)4月に(AR)と合体され、略称(P・P)となります。
 その第二回大会に於いて採択された「行動綱領」では、「わが同盟はプロレタリアートが美術に要求する宣伝煽動性の階級的役割を、その生産および発表の実践課程に於いて遂行しつつ、プロレタリア美術の確立を目的とする美術家の大衆的組織である。」とし、①労働者農民の解放のための美術闘争、②言論、集会、出版、展覧、結社の自由獲得の闘争、③一切の反動美術並びにその機構の克服の闘争、④プロレタリア美術運動の国際的結合の闘争、⑤プロレタリア美術確立の闘争を掲げました。その中で、「反資本主義的反官僚主義的美術家を糾合、それを労働者農民解放闘争に結び付け、プロレタリア美術の確立」を目的とし、1930年(昭和5)に機関誌「プロ」、「造型通信」を発行、1932年(昭和7)に略称を(P・P)から(ヤップ)へと改称しましたが、1934年(昭和9)には、政府による弾圧により解散しています。
 これらの美術運動において、1928年(昭和3)11月には上野・東京府美術館で第1回プロレタリア美術大展覧会が開催され、その後1932年(昭和7)の第5回展まで毎年開催されました。また、1929年(昭和4)4月に、東京府長崎町大和田(現在の豊島区)に「造形美術研究所」が建設され、翌年6月に「プロレタリア美術研究所」と改称、さらに1932年(昭和7)12月には、「東京プロレタリア美術学校」に名称変更し、美術家の育成も行っていましたが、ほどなく弾圧によって破壊されて消滅しています。

〇「日本プロレタリア美術家同盟」(P・P)の第二回大会で採択された「行動綱領」

=行動綱領=
わが同盟はプロレタリアートが美術に要求する宣伝煽動性の階級的役割を、その生産および発表の実践課程に於いて遂行しつつ、プロレタリア美術の確立を目的とする美術家の大衆的組織である。
Ⅰ 労働者農民の解放のための美術闘争
Ⅰ 言論、集会、出版、展覧、結社の自由獲得の闘争
Ⅰ 一切の反動美術並びにその機構の克服の闘争
Ⅰ プロレタリア美術運動の国際的結合の闘争
Ⅰ プロレタリア美術確立の闘争

☆全日本無産者芸術連盟とは?

 昭和時代前期の1928年(昭和3)3月25日に結成(初代委員長藤森成吉)された、プロレタリア芸術運動(労働者階級に根差した芸術を確立しようとする運動)の団体で、エスペラント語のNippona Proleta ArtistaFederacioの頭文字を組み合わせた略称を用い、NAPF(ナップ)とも呼ばれ、機関紙『戦旗』 (1928年5月~1931年12月) を発行しました。1928年(昭和3)3月15日に、三・一五事件(社会主義運動への弾圧事件)が起こり、プロレタリア芸術運動も大きな打撃を受けます。しかし、それに対抗して活動を強化すべく、それまで、プロレタリア芸術運動の分野で分裂していた「日本プロレタリア芸術連盟」(中野重治ら)と「前衛芸術家連盟」(蔵原惟人ら)が合同して、文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部を設け、それらの領域でプロレタリア芸術運動を確立すべく活動しました。同年12月には、それぞれの部を独立させ、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)、「日本プロレタリア劇場同盟」(プロット)、「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)、「日本プロレタリア美術家同盟」(ヤップ)、日本プロレタリア音楽家同盟(PM)などの諸組織の協議体となり、「全日本無産者芸術団体協議会」と改称したものの、略称ナップはそのまま使用しました。さらに、芸術運動機関誌として新たに『ナップ』 (1930年9月~1931年11月) を創刊します。その後、いっそう弾圧が厳しくなる中で、1931年(昭和6)にプロレタリア文化団体の総結集をねらいとして、発展的に解消し、運動は「日本プロレタリア文化連盟」(略称:コップ)に引継がれました。

☆「全日本無産者芸術団体協議会」を構成した芸術団体

・「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)
・「日本プロレタリア劇場同盟」(プロット)――のち演劇同盟と改称
・「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)
・「日本プロレタリア美術家同盟」(ヤップ)
・「日本プロレタリア音楽家同盟」(P・M)
・「日本プロレタリア写真同盟」(プロフォト)――のちに参加

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1893年(明治26)歌舞伎狂言作者河竹黙阿弥の命日詳細
1941年(昭和16)人口政策確立要綱」を閣議決定し、1夫婦の出産目標数を平均5児とする詳細
1993年(平成5)小説家・劇作家・演出家安部公房の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

honjyoumutsuo01

 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、小説家・教育評論家本庄陸男の亡くなった日です。
 本庄陸男(ほんじょう むつお)は、1905年(明治38)2月20日に北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれました。その後、北見渚滑に再移住し、紋別高等小学校卒業後、尋常小学校の代用教員をしていましたが、16歳の時、樺太に渡って、王子製紙に1年間勤務、その貯金を持って、上京して青山師範学校へ入学します。
 在学中から文学活動を始め、雑誌に小品を投稿したり、教育評論を発表し、1925年(大正14)に卒業後、本郷誠之小学校に勤務しました。新興教育運動に参加するようになり、下町にある深川の明治小学校に自ら望んで転任します。
 その中で、前衛芸術家連盟に参加、1928年(昭和3)に全日本無産者芸術連盟(ナップ)に合流し、「文学新聞」の発行責任者を務め、出版部員として活動しました。同年に、『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となり、1930年(昭和5)には、教員組合事件で明治小学校を免職となります。
 それを機にプロレタリア文学の作家活動に専念し、小説、童話、評論などを発表、1931年(昭和6)の日本プロレタリア作家同盟(ナップ文学部の後身)第4回大会で中央委員となり、1934年(昭和9)の日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加し『白い壁』などを発表して、注目されました。1936年(昭和11)に雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となり、同年の『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞します。
 1938年(昭和13)に同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、歴史長編小説『石狩川』の連載を開始、明治初期の北海道開拓団の苦闘を描いて代表作となりました。しかし、肺結核に侵され、1939年(昭和14)7月23日に東京において、34歳の若さで亡くなっています。

〇本庄陸男の主要な著作

・『北の開墾地』(1928年)
・『資本主義下の小学校』(1928年)発禁
・『白い壁』(1935年)
・『橋梁(きょうりょう)』(1936年)
・『女の子男の子』(1936年)第2回人民文庫賞受賞
・『石狩は懐く』(1939年)
・『石狩川』(1939年)

☆本庄陸男関係略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 紋別高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる
・1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙に勤務する
・1921年(大正10) 17歳の時、上京して青山師範学校本科へ編入する
・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する
・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する
・1928年(昭和3) 『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる
・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する
・1930年(昭和5)2月 教員組合事件で明治小学校を免職となる
・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作『石狩川』の連載を開始する
・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ