ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:児童文学者

yamamurabochyou01
 今日は、大正時代の1924年(大正13)に、詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥が亡くなった日です。
 山村暮鳥(やまむら ぼちょう)は、明治時代前期の1884年(明治17)1月10日に、群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれましたが、本名は志村八九十(しむら はくじゅう)と言いました。1889年(明治22)に父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現前橋市)の木暮家に帰り、養子となって、木暮八九十となります。
 1895年(明治28)に、父が事業に失敗したため、堤ヶ岡尋常小学校高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学びました。1899年(明治32)に堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となり、翌年に前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通います。
 1902年(明治35)に聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任、翌年には、ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学しました。1905年(明治38)に北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣されましたが、1906年(明治39)には、満州より帰国、聖三一神学校に復学します。
 1908年(明治41)に卒業後、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任したものの、各地に転任し、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらいました。1910年(明治43)に自由詩社同人となり、1913年(大正2)には、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版します。
 1917年(大正6)に随筆集『小さな穀倉より』を刊行、1918年(大正7)には、水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を刊行しました。1919年(大正8)に結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職、1920年(大正9)に福島県平町に移りましたが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を刊行、1921年(大正10)には、童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』、詩選集『穀粒』を刊行します。
 1922年(大正11)に「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』、童謡童話集『万物の世界』、童話『葦舟の児』、童話『少年行』、童話『お菓子の城』を刊行しました。1923年(大正12)には、ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を刊行したものの、翌年12月8日に、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなっています。
 尚、没後の1925年(大正14)に詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』が刊行され、1926年(大正15)には、雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』が刊行されました。

〇山村暮鳥の主要な著作

・詩集『三人の処女』(1913年)
・詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915年)
・詩集『風は草木にささやいた』(1918年)
・童話集『ちるちる・みちる』(1920年)
・詩集『梢(こずえ)の巣にて』(1921年)
・童話『鉄の靴』(1923年)
・詩集『雲』(1925年)
・遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926年)

☆山村暮鳥関係略年表

・1884年(明治17)1月10日 群馬県西群馬郡棟高村(現在の高崎市)において、農業を営む父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれる
・1889年(明治22) 父は祖父の確執のため家を出て、母と共に元総社村(現在の前橋市)の木暮家に帰る。暮鳥は養子という形で引き取られ、木暮八九十となる
・1890年(明治23) 元総社尋常小学校に入学する
・1891年(明治24) 祖父が死去したため、穂高村の志村家に帰り、堤ヶ丘尋常小学校に転入する
・1895年(明治28) 父が事業に失敗したため、高等科を中退し、一家で上郊村に移り、松山寺の住職に、漢籍を学ぶ
・1899年(明治32) 堤ヶ岡尋常小学校(現在の高崎市立堤ヶ岡小学校)の代用教員となる
・1901年(明治34) 前橋の聖マッテア教会で英語夜学校が開校され、小学校の宿直を務めながら夜学校に通う
・1902年(明治35) 聖マッテア教会で洗礼を受け、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任する
・1903年(明治36) ミス・ウォールの尽力により、東京佃島にある聖三一神学校に入学する
・1904年(明治37) 「白百合」に木暮流星の筆名で短歌を発表し、キーツの詩を愛読する
・1905年(明治38) 北海道旭川連帯に入隊、補充兵として満州に派遣される
・1906年(明治39) 満州より帰国、聖三一神学校に復学する
・1907年(明治40) 雑誌「南北」を創刊し、3号まで発刊、短歌から詩へ移る
・1908年(明治41) 聖三一神学校卒業、秋田市秋田聖救世主教会に伝道師として着任する
・1909年(明治42) 秋田県湯沢町日本聖公会湯沢講義所に転任、ついで仙台日本聖公会に転任、人見東明から「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」という意味をこめて「山村暮鳥」の筆名をもらう
・1910年(明治43) 東京諸聖徒教会に転籍、自由詩社同人となる
・1911年(明治44) 水戸聖公会に転任、常陸太田講義所に転任する
・1912年(明治45) 福島県平町新田町講義所に転任、詩集の刊行を計画し島崎藤村の序を得るが、刊行を断念する
・1913年(大正2) 教父土田三秀の長女冨士と結婚、萩原朔太郎、室生犀星と詩、宗教、音楽の研究を目的とする「にんぎょ詩社」を設立、教会の信者や知人達を中心に「新詩研究会」を結成、詩集『三人の処女』を新声社から自費出版する
・1914年(大正3) にんぎょ詩社の機関誌「卓上噴水」が創刊される
・1916年(大正5) 暮鳥を編集人、室生犀星を発行人とする雑誌「LE PRISM」を創刊、雑誌「感情」に準同人として加わる
・1917年(大正6) 畑を借りて、野菜などを作り始め、随筆集『小さな穀倉より』を白日社から刊行する
・1918年(大正7) 水戸ステパノ教会に転任したが、健康を害して静養のため千葉県北条町に移り、大関五郎、柳橋好雄と「黎明会」を結成、雑誌「苦悩者」を創刊、詩集『風は草木にささやいた』を新潮社から、翻訳『ドストエフスキー書簡集』を白日社から刊行する
・1919年(大正8) 結核のため茨城県大貫海岸に転居、日本聖公会伝道師を休職する
・1920年(大正9) 福島県平町に移るが、結核とクリスチャンのため迫害され、茨城県磯浜に転居、童話集『ちるちる・みちる』を洛陽堂から刊行する
・1921年(大正10) 童謡専門雑誌「とんぼ」の顧問となり、詩集『梢の巣にて』を叢文閣から、詩選集『穀粒』を降文館から刊行する
・1922年(大正11) 「金の船」の「幼年詩」欄の選者となり、小説『十字架』を聖書文学会から、童謡童話集『万物の世界』を真珠書房から、童話『葦舟の児』を文翫堂から、童話『少年行』を創文社から、童話『お菓子の城』を文星閣から刊行する
・1923年(大正12) ほとんど病床で生活するようになり、童話『鉄の靴』を内外出版から刊行する
・1924年(大正13)12月8日 茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏別荘」において、肺結核に悪性腸結核を併発し、40歳で亡くなる
・1925年(大正14) 詩集『雲』、童話集『地獄の門』、『小さな世界』、『よしきり』がイデア書院から刊行、茨城文芸社主宰暮鳥一周年追悼会が催される
・1926年(大正15) 雑誌「日本詩人」が「山村暮鳥追悼号」を出し、詩集『月夜の牡丹』、紅玉堂より刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細
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shyounoeiji01
 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、児童文学者・帝塚山学院大学学長庄野英二が亡くなった日です。
 庄野英二(しょうの えいじ)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、山口県荻町(現在の萩市)において、帝塚山学院の初代校長だった父・庄野貞一の次男として生まれ、生後まもなく大阪市帝塚山へ移りました。府立の農業学校を経て、関西学院専門部文学部哲学科で学び、在学中の1935年(昭和10)に坪田譲治の『お化けの世界』を読み感動し、夏休みに上京し、坪田譲治の門をたたきます。
 1936年(昭和11)に卒業し、1937年(昭和12)に陸軍に入隊、中国を転戦、1940年(昭和15)に負傷して一時帰還、1942年(昭和17)には、ジャワ俘虜収容所に勤め、武田麟太郎、佐藤春夫と交友しました。太平洋戦争後マレーに抑留され、1946年(昭和21)に大尉で帰国復員し、翌年には、坪田譲治主宰の「童話教室」創刊号に『朝風の話』を発表し、本格的な創作活動を開始します。
 1948年(昭和23)に結婚し、帝塚山学院の教員となり、1951年(昭和26)には、民間放送の開局に伴い、ラジオの童話、小説、劇などを多数発表しました。1955年(昭和30)に第一童話集『こどものデッキ』をミネルヴァ書房より自費出版、1960年(昭和35)には、随筆集『ロッテルダムの灯』を自費出版し、翌年には、この著作で、第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞を受賞します。
 1963年(昭和38)に理論社より童話『星の牧場』を刊行、翌年には、この著作で、第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1965年(昭和40)に塚山学院高等学校長となり、少年小説『雲の中の虹』、童話集『小鳥のデッキ』を刊行、1966年(昭和41)には、帝塚山学院大学が創設され教授となり、『雲の中の虹』で第4回NHK児童文学賞(奨励賞)を受賞します。
 1968年(昭和43)に童話『うみがめ漂流記』、1972年(昭和47)に『アレン中佐のサイン』、1975年(昭和50)に短編集『鹿の結婚式』を刊行、1977年(昭和52)には、童話『アルファベット群島』を刊行し、第7回赤い鳥文学賞を受賞しました。1978年(昭和52)に全11巻の『庄野英二全集』を偕成社より刊行、1983年(昭和57)には、帝塚山学院大学学長(~1989年)となり、足立巻一、大谷晃一と同人誌『苜蓿』(もくしゅく)を創刊します。
 1990年(平成2)に第13回巌谷小波文芸賞を受賞しましたが、1993年(平成5)11月26日に、大坂府大阪市において、78歳で亡くなりました。尚、弟は、小説家の庄野潤三(じゅんぞう)です。

〇庄野英二の主要な著作

・第一童話集『デッキ』(1955年)
・随筆集『ロッテルダムの灯(ひ)』(1961年)第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞受賞
・長編童話『星の牧場(まきば)』(1963年)第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞受賞
・童話集『雲の中の虹』(1965年)第4回NHK児童文学賞(奨励賞)受賞
・童話集『うみがめ丸漂流記』(1968年)
・童話集『アルファベット群島』(1977年)第7回赤い鳥文学賞受賞
・小説『ユングフラウの月』(1978年)
・童話集『いななく高原』上下(1979年)
・童話集『孫太郎南海漂流記』(1980年)
・童話集『アルピエロ群島』(1981年)
・詩画集『王の悲しみ』(1984年)
・童話集『海のシルクロード』(1985年)
・詩画集『たきまくら』(1985年)
・詩画集『胡蝶蘭(こちょうらん)』(1986年)
・自伝的エッセイ『新しい靴』(1987年)
・文学的自叙伝『鶏冠詩人伝』(1990年)

☆庄野英二関係略年表

・1915年(大正4)11月20日 山口県荻町(現在の萩市)において、帝塚山学院の初代校長だった父・庄野貞一の次男として生まれ、大阪市帝塚山へ移る
・1935年(昭和10) 関西学院専門部文学部哲学科在学中に坪田譲治の『お化けの世界』を読み感動し、夏休みに上京し、坪田譲治の門をたたく
・1936年(昭和11) 関西学院専門部文学部哲学科を卒業する
・1937年(昭和12) 陸軍に入隊し、中国、南方を転戦する
・1940年(昭和15) 負傷して一時帰還する
・1942年(昭和17) ジャワ俘虜収容所に勤め武田麟太郎、佐藤春夫と交友する
・1946年(昭和21) 大尉で帰国復員する
・1947年(昭和22) 坪田譲治主宰の「童話教室」創刊号に『朝風の話』を発表し、本格的な創作活動を開始する
・1948年(昭和23) 結婚し、帝塚山学院の教員となる
・1951年(昭和26) 民間放送の開局に伴い、ラジオの童話、小説、劇などを多数発表する
・1955年(昭和30) 第一童話集『こどものデッキ』をミネルヴァ書房より自費出版する
・1960年(昭和35) 随筆集『ロッテルダムの灯』を自費出版する
・1961年(昭和36) 『ロッテルダムの灯』で、第9回日本エッセイストクラブ賞、大阪府芸術賞を受賞する
・1963年(昭和38) 理論社より童話『星の牧場』を刊行する
・1964年(昭和39) 『星の牧場』で第2回野間児童文芸賞、第4回日本児童文学者協会賞、第11回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1965年(昭和40) 帝塚山学院高等学校長となり、少年小説『雲の中の虹』、童話集『小鳥のデッキ』を刊行する
・1966年(昭和41) 帝塚山学院大学が創設され教授となり、『雲の中の虹』で第4回NHK児童文学賞(奨励賞)を受賞する
・1968年(昭和43) 童話『うみがめ漂流記』を刊行する
・1972年(昭和47) 『アレン中佐のサイン』を岩波書店より刊行する
・1975年(昭和50) 短編集『鹿の結婚式』を創文社より刊行する
・1977年(昭和52) 童話『アルファベット群島』を偕成社より刊行、第7回赤い鳥文学賞を受賞する
・1978年(昭和52) 全11巻の『庄野英二全集』が偕成社より刊行する
・1983年(昭和57) 帝塚山学院大学学長となり、足立巻一、大谷晃一と同人誌『苜蓿』(もくしゅく)を創刊する
・1989年(平成元) 帝塚山学院大学学長を辞める 
・1990年(平成2) 第13回巌谷小波文芸賞を受賞する
・1993年(平成5)11月26日 大坂府大阪市において、78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)洋画家・小説家・随筆家有島生馬の誕生日詳細
1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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hamadahirosuke01
 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、児童文学者浜田広介が亡くなった日です。
 浜田広介(はまだ ひろすけ)は、明治時代後期の1893年(明治26)5月25日に、山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現在の高畠町)において、農業を営む父・浜田為助、母・やすの長男として生まれましたが、本名は広助と言いました。アンデルセン童話を愛読し、米沢中学校(現在の米沢興譲館高等学校)を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科へ入学、「萬朝報」の懸賞小説に短編小説『零落』が入選します。
 1917年(大正6)に「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿するようになり、翌年には、「呼子鳥」を発表、早稲田大学英文科卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞しました。1921年(大正10)に島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行、1923年(大正12)には、「黒いきこりと白いきこり」、「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集しましたが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をします。
 1925年(大正14)に早稲田大学童話会を立ち上げ、1928年(昭和3)に友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表、1933年(昭和8)には、「泣いた赤おに」を書きました。1940年(昭和15)に『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)、1942年(昭和17)に『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞、1953年(昭和28)には、『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞します。
 1955年(昭和30)に日本児童文芸家協会の初代理事長に推され、1957年(昭和32)に『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞、1961年(昭和36)には、『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞しました。1963年(昭和38)に「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞、1964年(昭和39)に鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立され、1966年(昭和41)には、日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立されています。
 1972年(昭和47)に高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立されたものの、1973年(昭和48)11月17日に、東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなりました。尚、1989年(平成元)に故郷の山形県高畠町に、「浜田広介記念館」が開館しています。

〇浜田広介の主要な著作

・小説『途暗し』(1918年)北村透谷賞受賞
・処女童話集『椋鳥の夢』(1921年)
・「ないた赤おに」(1933年)第2回国際アンデルセン賞国内賞受賞
・『ひらがな童話集』(1940年)第1回児童文化賞(幼年物)受賞
・『竜の目の涙』(1942年)第2回野間文芸奨励賞受賞
・『ひろすけ童話集』(1953年)第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)受賞
・『浜田広介童話選集』(1957年)第4回サンケイ児童出版文化賞受賞
・『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』(1961年)第8回サンケイ児童出版文化賞受賞

☆浜田広介関係略年表

・1893年(明治26)5月25日 山形県東置賜郡屋代村大字一本柳(現在の高畠町)において、農業を営む父・浜田為助、母・やすの長男として生まれる
・1914年(大正3) 米沢中学校(現在の米沢興譲館高等学校)を卒業し、早稲田大学高等予科へ入学、「萬朝報」の懸賞小説に短編小説『零落』が入選する
・1917年(大正6) 「大阪朝日新聞」の懸賞新作お伽話に「黄金の稲束」が一等入選し、これを機に児童雑誌「良友」に寄稿する
・1918年(大正7) 「呼子鳥」を「良友」に発表、早稲田大学英文科を卒業後、コドモ社へ入社し、「良友」の編集者となり、『途暗し』で北村透谷賞を受賞する
・1919年(大正8) 「良友」を編集しながら、同誌に「椋鳥の夢」「光の星」「花びらの旅」「お月様と鯉の子」「一つの願い」などを次々と発表する
・1920年(大正9) コドモ社を退社する
・1921年(大正10) 島崎藤村の紹介で実業之日本社に入社し、最初の童話集『椋鳥の夢』を新生社より刊行する
・1923年(大正12) 「黒いきこりと白いきこり」「龍の目の涙」を発表、実業之日本社で「幼年之友」の編集をするが、関東大震災を機に退社し、文筆1本で生きる決意をする
・1925年(大正14) 早稲田大学童話会を立ち上げる
・1928年(昭和3) 友人の妹、渡部トクと結婚、「5匹のやもり」を発表する
・1933年(昭和8) 「泣いた赤おに」を書く
・1940年(昭和15) 『ひらがな童話集』で、第1回児童文化賞(幼年物)を受賞する
・1942年(昭和17) 『竜の目の涙』で、第2回野間文芸奨励賞を受賞する
・1953年(昭和28) 『ひろすけ童話集』で、第3回芸能選奨文部大臣賞(文学・評論部門)を受賞する
・1955年(昭和30) 日本児童文芸家協会の初代理事長に推される
・1957年(昭和32) 『浜田広介童話選集』で、第4回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1961年(昭和36) 『あいうえおのほん―字をおぼえはじめた子どもたちのための』で、第8回サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1963年(昭和38) 「ないた赤おに」で、第2回国際アンデルセン賞国内賞を受賞する
・1964年(昭和39) 鳩峰高原に「むくどりの碑」が建立される
・1966年(昭和41) 日本児童文芸家協会会長となり、母校屋代小学校に「道ばたの石の碑」が建立される
・1972年(昭和47) 高畠町名誉町民となり、庁舎前に「回顧の碑」が建立される
・1973年(昭和48)11月17日 東京都大田区田園調布の自宅において、前立腺癌のため、80歳で亡くなる
・1989年(平成元) 故郷の山形県高畠町に記念館が建てられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元(養老改元)する(新暦12月24日)詳細
1716年(享保元)江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される詳細
1905年(明治38)日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される詳細
1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細
1990年(平成2)長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる詳細
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iwayasazanami01

 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、小説家・児童文学者・俳人巖谷小波が亡くなった日です。
 巖谷小波(いわや さざなみ)は、明治時代前期の1870年(明治3年6月6日)に、東京府麴町平河町(現在の東京都千代田区)で、高級官吏で書家としても知られた父・巌谷一六の三男として生まれましたが、本名は季雄(すえお)と言いました。1876年(明治9)にドイツ語を習いはじめ、1879年(明治12)に兄の立太郎がドイツからヨーロッパの昔話や童話が収録された「オットーのメルヘン集」のドイツ語本を贈ってきたことで、文学に目覚めます。
 1881年(明治14)に医学予備校に入学したものの、1883年(明治16)には、医学の道にすすむのを嫌い、文学に興味を持ちはじめました。1884年(明治17)に、独逸学協会学校、川田甕江塾に学び、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄し、1887年(明治20)には、尾崎紅葉らの硯友社に参加、初めての小説「真如の月」を連載します。
 1888年(明治21)に、「五月鯉」、「鬼車」を連載、翌年には、「五月鯉」を改題し、『初紅葉』として刊行しました。1891年(明治24)に、創作童話「こがね丸」を発表すると好評を博し、児童読物の執筆に専念するようになり、1894年(明治27)には、博文館に入社し、「幼年世界」「少女世界」「少年世界」の主筆となります。
 その後、『日本昔噺』 (1894~96年) 、『日本お伽噺』 (1896~98年) 、『世界お伽噺』 (1899~1908年) 、『世界お伽文庫』 (1910年) 、『小波お伽百話』 (1910年) などを編纂し、明治の児童文学界に重きをなしました。一方、1900年(明治33)にドイツのベルリン大学東洋語学校に日本語教師として赴任、2年後に帰国すると、その見聞をもとに、「学校芝居」を提唱し、そのための脚本も書きます。
 また、作詞活動も並行して行い、文部省唱歌「ふじの山」、「一寸法師」などや各地の学校の校歌も手がけました。さらに、自伝『我が五十年』(1920年)を出し、俳人としても一家をなし、句集『ささら波』(1932年)を成しましたが、1933年(昭和8年)9月5日に、東京において、数え年64歳で亡くなっています。

〇巖谷小波の主要な著作

・『日本昔噺』(1894~96年)
・『日本お伽噺』(1896~98年)
・『世界お伽噺』(1899~1908年)
・『世界お伽文庫』(1910年)
・『小波お伽百話』(1910年)
・エッセイ『桃太郎主義の教育』(1915年)
・自伝『我が五十年』(1920年)
・句集『ささら波』(1932年)

☆巖谷小波関係略年表

・1870年(明治3年6月6日) 東京府麴町平河町(現在の東京都千代田区)で、高級官吏で書家としても知られた父・巌谷一六の三男として生まれる
・1876年(明治9年) 7歳の時、ドイツ語を習いはじめる
・1879年(明治12年) 10歳の時に兄の立太郎がドイツからヨーロッパの昔話や童話が収録された「オットーのメルヘン集」のドイツ語本を贈ってくる
・1881年(明治14年) 12歳の時、医学予備校に入学する
・1883年(明治16年) 14歳の時、医学の道に進むのを嫌い、文学に興味を持ち始める
・1884年(明治17年) 15歳の時、独逸学協会学校、川田甕江塾に学ぶ
・1887年(明治20年) 18歳の時、尾崎紅葉らの硯友社に参加、初めての小説「真如の月」を連載する
・1888年(明治21年) 19歳の時、「五月鯉」、「鬼車」を連載する
・1889年(明治22年) 「五月鯉」を改題し、『初紅葉』として春陽堂から刊行する
・1891年(明治24年) 創作童話「こがね丸」を発表する
・1894年(明治27年) 博文館に入社し、「幼年世界」「少女世界」「少年世界」の主筆となる
・1898年(明治31年) 1月から「少年世界」に「新八犬伝」を連載する
・1900年(明治33年) ドイツのベルリン大学東洋語学校に日本語教師として赴任する
・1902年(明治35年) ドイツから帰国後、その見聞をもとに、「学校芝居」を提唱し、そのための脚本も書く
・1903年(明治36年) 日本に児童演劇の樹立を目指し、ドイツの少年小説を翻案してお伽芝居の脚本『春若丸』を発表する
・1906年(明治39年) 「お伽身上話」を出す
・1911年(明治44年) 文部省唱歌「ふじの山」の作詞をする
・1920年(大正9年) 自伝『我が五十年』を出す
・1932年(昭和7年) 句集『ささら波』を出す
・1933年(昭和8年)9月5日 東京において、数え年64歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1905年(明治38)「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する詳細
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる詳細
1966年(昭和41)第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測詳細
1975年(昭和50)日本画家堂本印象の命日詳細


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akitaujyaku01

 今日は、昭和時代中期の1962年(昭和37)に、劇作家・詩人・児童文学者・小説家秋田雨雀の亡くなった日です。
 秋田雨雀(あきた うじゃく)は、明治時代前期の1883年(明治16)1月30日に、青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)で、産科医であった父・玄庵、母・まつの長男として生まれましたが、本名は徳三(とくぞう)と言いました。青森県立第一尋常中学校(現在の青森県立弘前高等学校)を経て、1902年(明治35)に東京専門学校(この年9月、早稲田大学と改称)英文科へ入学します。
 在学中の1904年(明治37)に詩集『黎明』を刊行、1906年(明治39)には、箭田きぬと結婚(正式な届出は明治44年9月19日)しました。1907年(明治40)に早稲田大学英文科を卒業、島村抱月に認められて1910年(明治43)の「早稲田文学」6月号に小説「同性の恋」を発表、新進小説家の一人として注目されます。
 1911年(明治44)に小山内薫の自由劇場に参加、同年に戯曲『第一の暁』が初めて上演され、翌年には戯曲『埋れた春』を発表し、劇作家としても認められました。1913年(大正2)に、島村抱月の芸術座創立に参加し、幹事となりましたが、翌年には脱退し、美術劇場を結成します。
 1915年(大正4)に来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んで、エスペラントを学ぶようになり、1921年(大正10)には、小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版しました。また、同年に「種蒔く人」の寄稿者となり、日本社会主義同盟に加わり、1923年(大正11)に先駆座を興してプロレタリア演劇運動を進め、1924年(大正13)には、フェビアン協会を設立します。
 1927年(昭和2)にロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問、1928年(昭和3)に帰国後、国際文化研究所長となり、翌年にはプロレタリア科学研究所所長に就任しました。1931年(昭和6)に日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加し委員長となり、1933年(昭和8)に学芸自由同盟の結成に参加、翌年には新協劇団結成に参画し事務長となり、「テアトロ」を創刊します。
 1940年(昭和15)に新協劇団、新築地劇団の総検挙に伴い、目白署に検挙され、翌年に童話集『太陽と花園』出版するも発売禁止、1942年(昭和17)には戯曲「埋れた春」が上演禁止となるなどし、太平洋戦争末期の1944年(昭和19)には故郷の青森県黒石に疎開しました。戦後は、1948年(昭和23)に舞台芸術学院院長となり、1950年(昭和25)には日本児童文学者協会会長に就任、1952年(昭和27)に童話集『一郎とにぎりめし』、翌年には『雨雀自伝』を出版するなど活躍します。
 1960年(昭和35)には黒石市名誉市民となりましたが、1962年(昭和37)5月12日に東京都板橋区の自宅において、79歳で亡くなりました。

〇秋田雨雀の主要な著作

・戯曲『紀念会前夜』(1909年)
・小説戯曲集『幻影と夜曲』(1911年)
・戯曲『第一の暁』(1911年)
・戯曲『埋れた春』(1912年)
・戯曲『土地』三部曲(1917~18年)
・戯曲『国境の夜』(1920年)
・童話集『東の子供へ』(1921年)
・童話集『太陽と花園』(1921年)
・戯曲『手投弾(てなげだま)』(1923年)
・戯曲『骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)』(1924年)
・童話集『一郎とにぎりめし』(1952年)
・自伝『雨雀自伝』(1953年)
・日記『秋田雨雀日記』全5巻

☆秋田雨雀関係略年表

・1883年(明治16)1月30日 青森県南津軽郡黒石町(現在の黒石市)で、産科医であった父・玄庵、母・まつの長男として生まれる
・1887年(明治20)9月8日 青森県南津軽郡第一学区公立黒石尋常小学校入学する
・1897年(明治30)4月8日 青森県立第一尋常中学校(現在の青森県立弘前高等学校)へ入学する
・1902年(明治35)4月 東京専門学校(この年9月、早稲田大学と改称)英文科へ入学する
・1903年(明治36) 堺枯川や幸徳秋水ら社会主義者の演説を聴き影響を受ける
・1904年(明治37) 詩集『黎明』を刊行する
・1906年(明治39) 箭田きぬと結婚(正式な届出は明治44年9月19日)する
・1907年(明治40) 早稲田大学英文科を卒業する
・1910年(明治43) 島村抱月に認められて、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表、新進小説家の一人として注目される
・1911年(明治44) 小山内薫の自由劇場に参加、戯曲「第一の暁」が有楽座で上演される
・1912年(明治45) 戯曲「埋れた春」を発表し、劇作家としても認められる
・1913年(大正2) 芸術座創立に参加する
・1914年(大正3) 芸術座を脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成する
・1915年(大正4) エロシェンコを知り、エスペラントを学ぶ
・1918年(大正7) 芸術座に復帰、脚本研究会を始める
・1919年(大正8)頃 童話を試みるようになる
・1920年(大正9) 戯曲集『仏陀と幼児の死』を出版する
・1921年(大正10) 「種蒔く人」の寄稿者となり、日本社会主義同盟に加わる、小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版する
・1923年(大正11) 佐々木孝丸らと先駆座を興してプロレタリア演劇運動を進める
・1924年(大正13) フェビアン協会を設立する
・1927年(昭和2) ロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問する
・1928年(昭和3) 帰国後、国際文化研究所を創立、所長となる
・1929年(昭和4) プロレタリア科学研究所所長に就任する
・1931年(昭和6) 日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加、委員長となる
・1933年(昭和8) 学芸自由同盟の結成に参加する
・1934年(昭和9) 新協劇団結成に参画し事務長となり、「テアトロ」を創刊する
・1940年(昭和15) 新協劇団、新築地劇団の総検挙に伴い、目白署に検挙される
・1941年(昭和16) 童話集『太陽と花園』を出版するも、発売禁止となる
・1942年(昭和17) 戯曲「埋れた春」が上演禁止となる
・1944年(昭和19) 故郷の青森県黒石に疎開する
・1946年(昭和21) 青森県労働委員長となる
・1948年(昭和23) 舞台芸術学院院長となる
・1950年(昭和25) 日本児童文学者協会会長に就任する
・1952年(昭和27) 童話集『一郎とにぎりめし』を出版する
・1953年(昭和28) 『雨雀自伝』を出版、黒石市御幸公園内蝦夷館に雨雀歌碑が建立される
・1960年(昭和35)1月1日 黒石市名誉市民となる
・1962年(昭和37)5月12日 東京都板橋区の自宅において、79歳で亡くなる
・1962年(昭和37)6月10日 黒石市黒森山の浄仙寺に歌碑が建立される
・1972年(昭和47)11月5日 黒石市山形町の法眼寺に句碑が建立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1534年(天文3)戦国大名織田信長の誕生日(新暦6月23日)詳細
1698年(元禄11)儒学者・蘭学者青木昆陽の誕生日(新暦6月19日)詳細
1925年(大正14)治安維持法」が施行される

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1979年(昭和54)本州四国連絡橋計画の最初として、アーチ橋の大三島橋が完成(翌日から供用開始)する

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