ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:児童文学作家

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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、評論家・児童文学作家古田足日の生まれた日です。
 古田足日(ふるた たるひ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)11月29日に、愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれました。1940年(昭和15)に川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学したものの、中学4年生の時に戦時下の学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働きます。
 旧制第一高等学校を受験しましたが不合格、翌年旧制松山高等学校も受験しましたが不合格となり、1945年(昭和20)に大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学しました。しかし、1948年(昭和23)に中退し、翌年に上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となります。
 1950年(昭和25)に代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらいました。1951年(昭和26)に早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知り、1953年(昭和28)には、早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚しています。
 1954年(昭和29)に小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊、1955年(昭和30)に日本児童文学者協会常任理事に就任、翌年には、日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務めました。1959年(昭和34)に第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞、1964年(昭和39)には、雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始します。
 1966年(昭和41)に『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞、1968年(昭和43)に『モグラ原っぱのなかまたち』、1970年(昭和45)には、『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行しました。1976年(昭和51)に山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)し、1978年(昭和53)には、『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行しています。
 1980年(昭和55)に『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行、翌年の第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となりました。1993年(平成5)に「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版、1994年(平成6)には、第17回巖谷小波文芸賞を受賞しています。
 1997年(平成9)に日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任、2004年(平成16)には、戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行しました。2008年(平成20)に「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務めましたが、2014年(平成26)6月8日に、東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなっています。

〇古田足日の主要な作品

・評論集『現代児童文学論―近代童話批判』(1959年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『ぬすまれた町』(1961年)
・『宿題ひきうけ株式会社』(1966年)日本児童文学者協会賞受賞
・『モグラ原っぱのなかまたち』(1968年)
・『ロボット・カミイ』(1970年)
・『大きい1年生と小さな2年生』(1970年)
・絵本『おしいれのぼうけん』(1974年)
・『ダンプえんちょうやっつけた』(1978年)
・『さくらんぼクラブにクロがきた』(1980年)第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書

☆古田足日関係略年表

・1927年(昭和2)11月29日 愛媛県宇摩郡川之江町(現在の四国中央市)において、8人兄弟の三男として生まれる
・1931年(昭和6) 与謝野晶子夫妻が村を訪問する
・1940年(昭和15) 川之江尋常高等小学校を卒業し、愛媛県立旧制三島中学校に入学する
・1943年(昭和18) 学徒勤労動員で倉絹(倉敷レーヨン)などで働き、旧制第一高等学校を受験しましたが不合格となる
・1944年(昭和19) 旧制松山高等学校を受験しましたが不合格となる
・1945年(昭和20) 大阪外事専門学校ロシア語科(現・大阪外語大学)へ入学する
・1948年(昭和23) 大阪外専を中退する
・1949年(昭和24) 上京して早稲田大学露文科2年次に編入するも、すぐに休学し、宇摩郡金砂村立金砂中学校久保ヶ市分校の代用教員となる
・1950年(昭和25) 代用教員を休職しそのまま退職、『ちきりが淵』を書き、「少女クラブ」8月号(講談社)に掲載され、はじめて原稿料をもらう
・1951年(昭和26) 早稲田大学露文科に復学、現代文学研究会に入り、同時に早大童話会に入り、鳥越信、神宮輝夫、山中恒、鈴木実、小桧山奮男らを知る
・1953年(昭和28) 早大童話会機関誌「童苑」第19号を「少年文学」と改題し、その巻頭に『「少年文学」の旗の下に!』と題する、〈少年文学宣言〉を発表したが、早稲田大学を中退、齊藤文惠と結婚する
・1954年(昭和29) 小さい仲間の会を結成し、同人誌「小さい仲間」を創刊する
・1955年(昭和30) 日本児童文学者協会常任理事に就任する
・1956年(昭和31) 日本児童文学者協会事務局に勤務(~1959年)、雑誌『日本児童文学』編集長を務める
・1959年(昭和34) 第一次評論集『現代児童文学論―近代童話批判』を出版、第9回日本児童文学者協会新人賞を受賞する
・1960年(昭和35) 東京都豊島区椎名町のアパートに転居する
・1964年(昭和39) 雑誌「教育研究」で、『進め!ぼくらの海ぞく旗』(全13回)の連載(~翌年2月号)を開始する
・1966年(昭和41) 『宿題ひきうけ株式会社』を刊行、第7回日本児童文学者協会賞を受賞する
・1967年(昭和42) 雑誌「幼児と保育」(小学館)6月号増刊に『ロボット・カミイ』の原型を発表する
・1968年(昭和43) 『モグラ原っぱのなかまたち』を刊行する
・1970年(昭和45) 『ロボット・カミイ』、『大きい1年生と小さな2年生』、『海賊島探検株式会社』を刊行する
・1971年(昭和46) 紙芝居『ロボット・カミイ』シリーズ(全4巻)刊行開始(1971~1974年刊行)する
・1974年(昭和49) 『おしいれのぼうけん』刊行。
・1976年(昭和51) 山口女子大学に新設された文学部児童文化学科の教授に就任(~1980年)する
・1978年(昭和53) 『ダンプえんちょうやっつけた』、『月の上のガラスの町』を刊行する
・1980年(昭和55) 『さくらんぼクラブにクロがきた』を刊行する
・1981年(昭和56) 『さくらんぼクラブにクロがきた』 が第27回青少年読書感想文全国コンクール課題図書となる
・1993年(平成5) 「全集 古田足日子どもの本」(全13巻・別巻1)を出版する
・1994年(平成6) 第17回巖谷小波文芸賞を受賞する
・1997年(平成9) 日本児童文学者協会会長(~2002年)に就任する
・2002年(平成14) 『ひみつのやくそく』を刊行する
・2004年(平成16) 戦争体験集「わたしたちのアジア・太平洋戦争」(全3巻)を米田佐代子、西山利佳と共に刊行する
・2008年(平成20) 「子どもの本・九条の会」発足に参加し、代表団員を務める
・2011年(平成23) 『現代児童文学を問い続けて』を刊行する
・2014年(平成26)6月8日 東京都東久留米市の自宅において、心不全のため86歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新島襄らが京都に同志社英学校(後の同志社大学)を創設する詳細
1890年(明治23)「大日本帝国憲法」が施行される詳細
第1回帝国議会が開会する詳細
1910年(明治43)白瀬矗中尉ら第1回南極探検隊28人が開南丸で東京・芝浦を出港する詳細
1928年(昭和3)文芸評論家・小説家尾崎秀樹の誕生日詳細
1973年(昭和48)大洋デパート火災が起き、死者104名、負傷者124名を出す詳細
2002年(平成14)歴史学者・一連の教科書裁判の原告家永三郎の命日詳細
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 今日は、平成時代の2010年(平成22)に、児童文学作家川村たかしの亡くなった日です。
 川村 たかし(かわむら たかし)は、昭和時代前期の1931年(昭和6)11月8日に、奈良県宇智郡牧野村(現在の五條市)の兼業農家に生まれましたが、本名は隆(たかし)と言いました。奈良県立五條高等学校を経て、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を卒業します。
 その後、奈良県五條市内の小学校、中学校、高校の教諭を務めました。その傍ら、1958年(昭和33)頃から小説を書き始め、1960年(昭和35)には、花岡大学らと共に近畿児童文化協会を結成し、機関紙「近畿児童文化」を発刊します。
 1968年(昭和43)に『川にたつ城』を処女出版し、1970年(昭和45)には、花岡大学らと「幼年芸術」を発刊しました。1978年(昭和53)に、『山へいく牛』で国際アンデルセン賞優良作品賞を受賞、一方で全国高等学校定時制通信制軟式野球大会に監督として出場します。
 1980年(昭和55)に『山へ行く牛』、『北へ行く旅人たち-新十津川物語』で路傍の石文学賞を受賞、1981年(昭和56)には、那須正幹ら児童文学者らとともに児童文学創作集団「亜空間」を結成、短編集『昼と夜のあいだ―夜間高校生』で日本児童文学者協会賞を受賞しました。1983年(昭和58)に梅花女子大学の教授となり、創作分野を担当、1977年から1988年にかけて刊行した『新十津川物語』(全10巻)で、1989年(平成元)には、日本児童文学者協会賞、産経児童出版文化賞大賞を受賞します。
 また、この作品は、1991年から1992年にかけて、「明治編」「大正編」「昭和編」各2部(全6回)が、NHK総合テレビジョン「土曜ドラマ」にて放送されました。1994年(平成6)に梅花女子大学教授を辞めましたが、1995年(平成7)には、『天の太鼓』で日本児童文芸家協会賞を受賞します。
 1998年(平成10)に、第3代日本児童文芸家協会会長に就任、2002年(平成14)には、紫綬褒章を受章したものの、2010年(平成22)1月30日に、奈良県天理市に病院で敗血症のため、78歳で亡くなり、従五位、旭日小綬章を追贈されました。尚、2010年(平成22)には、五條市名誉市民の称号も追贈されています。

〇川村たかしの主要な著作

・『山へいく牛』(1978年)国際アンデルセン賞優良作品賞・野間児童文芸賞を受賞
・『北へ行く旅人たち-新十津川物語』(1980年)路傍の石文学賞受賞
・短編集『昼と夜のあいだ―夜間高校生』(1981年)日本児童文学者協会賞
・『新十津川物語』全10巻(1989年) 日本児童文学者協会賞・産経児童出版文化賞大賞受賞
・『天の太鼓』(1995年)日本児童文芸家協会賞受賞

☆川村たかし関係略年表

・1931年(昭和6)11月8日 奈良県宇智郡牧野村(現在の五條市)の兼業農家に生まれる
・奈良県立五條高等学校を経て、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を卒業する
・五條市内の小・中・高校教諭を務める
・1958年(昭和33)頃 小説を書き始める
・1960年(昭和35) 花岡大学らとともに近畿児童文化協会を結成し、機関紙『近畿児童文化』を発刊する
・1968年(昭和43) 『川にたつ城』を処女出版する
・1970年(昭和45) 花岡大学らと「幼年芸術」を発刊する
・1978年(昭和53) 『山へいく牛』で国際アンデルセン賞優良作品賞を受賞、全国高等学校定時制通信制軟式野球大会に監督として出場する
・1980年(昭和55) 『山へ行く牛』『北へ行く旅人たち-新十津川物語』で路傍の石文学賞を受賞する
・1981年(昭和56) 那須正幹ら児童文学者らとともに児童文学創作集団「亜空間」を結成、1短編集『昼と夜のあいだ―夜間高校生』で日本児童文学者協会賞を受賞する
・1983年(昭和58) 梅花女子大学の教授となり、創作分野を担当する
・1989年(平成元) 『新十津川物語』(全10巻)で日本児童文学者協会賞、産経児童出版文化賞大賞を受賞する
・1994年(平成6) 梅花女子大学教授を辞める
・1995年(平成7) 『天の太鼓』で日本児童文芸家協会賞を受賞する
・1998年(平成10) 第3代日本児童文芸家協会会長に就任する
・2002年(平成14) 紫綬褒章を受章する
・2010年(平成22)1月30日 奈良県天理市に病院で敗血症のため、78歳で亡くなり、従五位、旭日小綬章を追贈される
・2010年(平成22)11月28日 五條市名誉市民の称号を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1788年(天明8)京都最大の3万軒以上を焼失した「天明の大火」が起きる(新暦3月7日)詳細
1823年(文政6)幕臣・政治家勝海舟の誕生日(新暦3月12日)詳細
1902年(明治35)「第一回日英同盟協約」が調印される詳細
1945年(昭和20) 「藷類増産対策要綱」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)永井隆著の随筆『長崎の鐘』(日比谷出版社)が刊行される詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年(明治15)に、小説家・児童文学作家小川未明が生まれた日です。
 小川未明(おがわ みめい)は、新潟県中頸城郡高田町五分一(現在の上越市)において、旧士族だった父・小川澄晴、母・千代のひとり息子として生れましたが、本名は健作(けんさく)と言いました。旧制高田中学校(現在の県立高田高等学校)に進んだものの3回落第し、1901年(明治34)に上京、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科より転じて大学部英文科で修学します。
 坪内逍遙の指導を受け、在学中に『合歓の花』を「スケッチ」に、『帰想』、『故郷』を「読売新聞」、『漂浪児』を「新小説」に発表しました。1905年(明治38)に早稲田大学英文科卒業(卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」)、『鬼子母神』を「読売新聞」、『霞に霙』を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立します。
 1906年(明治39)に早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集、翌年には、第一短編集『愁人』を出版、正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となりました。1908年(明治41)に新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくり、「秀才文壇」の記者となりましたが、翌年には、雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心します。
 生活は貧困をきわめたものの、1910年(明治43)には、日本最初の創作童話集とされる第一童話集『赤い船』を出しました。1911年(明治44)に代表作とされる小説『物言はぬ顔』、『薔薇と巫女』を発表して名声を上げ、翌年には、唯一の長編小説『魯鈍な猫』を「読売新聞」に連載、「北方文学」を創刊、主幹となったものの4号で終刊となります。
 大正時代に入ってからは、社会主義に近づき、短編集『路上の一人』(1915年)、『小作人の死』(1918年)などを発表、労働文学の雑誌「黒煙」を指導するかたわら、1920年(大正9)の日本社会主義同盟の創立にも参加しました。1921年(大正10)に代表作の一つとされる童話『赤い蝋燭と人魚』を「朝日新聞」に書いたりする中で、大正末期になると、生得のロマンチックな性向と社会主義的な文学理論との違和が決定的となり、「日本童話作家協会」創立に参加、小説を断念して、昭和時代に入ってからは童話執筆に専念するようになります。
 1933年(昭和8)に長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載、1937年(昭和12)には、子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)するなど児童文学の世界で活躍しました。1941年(昭和16)に日本少国民文化協会の発足に参加、1944年(昭和19)には、少国民文化功労賞を受けています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に第5回野間文芸賞を受賞、児童文学者協会を創立して、初代会長になり、児童文学の再建に尽力しました。1951年(昭和26)に児童文学における功績によって、芸術院賞を受賞、1953年(昭和28)には、日本芸術院会員、文化功労者ともなります。
 1954年(昭和29)から「小川未明作品集」(全5巻)、1958年(昭和33)から新版「小川未明童話全集」(全12巻)が刊行されたりしたものの、1961年(昭和36)5月11日に、東京において、79歳で亡くなりました。

〇小川未明の代表的な著作

・小説『霰(あられ)に霙(みぞれ)』(1905年)
・処女短編集『愁人(しゅうじん)』(1907年)
・処女童話集『赤い船』(1910年)
・小説『薔薇 (ばら) と巫女 (みこ) 』(1911年)
・小説『物言はぬ顔』(1911年)
・長編小説『魯鈍(ろどん)な猫』(1912年)
・詩集『あの山越えて』(1914年)
・短編集『路上の一人』(1915年)
・短編集『小作人の死』(1918年)
・童話『金の輪』(1919年)
・童話『牛女』(1919年)
・童話集『赤い蝋燭(ろうそく)と人魚』(1921年)
・童話『野薔薇』(1922年)
・長篇童話『雪原の少年』(1933年)
・童話『考えこじき』(1946年)

☆小川未明関係略年表

・1882年(明治15)4月7日 新潟県中頸城郡高田町五分一(現在の上越市)において、旧士族だった父・小川澄晴、母・千代のひとり息子として生れる
・1988年(明治21) 岡島小学校(現在の大手前)に入学する
・1892年(明治25) 高田尋常小学校に転入学する
・1895年(明治28) 旧制高田中学校(現在の県立高田高等学校)に入学する
・1897年(明治30) 一家で春日山に移る
・1898年(明治31) 佐久間象山の高弟、北沢乾堂先生、高田中学に赴任、漢文を学ぶ
・1900年(明治33) 学校の空気にあきたらず、文芸雑誌、政治雑誌を濫読。数学ができず落第する
・1901年(明治34) 4月6日に上京、早稲田大学予備校に入学、専門部英文哲学科より転じて大学部英文科に修学する
・1903年(明治36) 「合歓の花」を「スケッチ」に発表する
・1904年(明治37) 「帰想」、「故郷」を「読売新聞」、「漂浪児」を「新小説」に発表する
・1905年(明治38) 早稲田大学英文科卒業(卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」)、「鬼子母神」を「読売新聞」、「霞に霙」を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立する
・1906年(明治39) 越後長岡市山田藤次郎長女キチと結婚、早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集する
・1907年(明治40) 第一短編集『愁人』が坪内逍遥序文、竹久夢二装丁、中沢弘光口絵で降文館より出版される、正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となる
・1908年(明治41) 新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくる、「秀才文壇」の記者となる
・1909年(明治42) 雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心する
・1910年(明治43) 生活貧困をきわめ、ラフカディオ・ハーンやメーテルリンクなどの本を売りはらい、日本最初の創作童話集とされる第一童話集「赤い船」を出す
・1911年(明治44) 代表作のひとつ「物言はぬ顔」を「新小説」に、「薔薇と巫女」を「早稲田文学」に発表する
・1912年(明治45) 唯一の長編小説「魯鈍な猫」を「読売新聞」に連載、5月「北方文学」を創刊、主幹となったが4号で終刊となる
・1916年(大正5) 文化学会員となり、嶋中雄三氏らを知る
・1919年(大正8) 著作家組合会員となり、大庭柯公、堺利彦、長谷川如是閑、有島武郎氏らと知り合う。新しく創刊された児童雑誌「おとぎの世界」をしばらく主宰し、「牛女」、「金の輪」、「北海の白鳥」などを書く
・1920年(大正9) 一家親子4人流感にかかり、重体におちいり、病後伊豆山で静養、日本社会主義同盟の発起に参加する
・1921年(大正10) 代表作の一つとされる「赤い蝋燭と人魚」を「朝日新聞」にかく。また「火を点ず」を「種蒔く人」に、「港についた黒んぼ」を「童話」に発表する
・1922年(大正11) 出版社従業員組合員としてメーデーに参加する
・1923年(大正12) 有島武郎、片上伸、嶋中雄三氏ほか「種蒔き社」などの発起で「三人の会」(中村吉蔵、秋田雨雀、小川未明)が開かれ、未明の「野薔薇」が朗読される
・1924年(大正13) 日本フェビアン協会に入り、「社会主義研究」にも寄稿する
・1925年(大正14) 日本小説家協会員となる、「小川未明選集」(小説4巻、童話2巻、未明選集刊行会)の予約出版始まる
・1926年(大正15) 「未明選集」完結とともに小説の筆を絶ち、専心童話にいく決心をし、同志と日本無産派芸術聯盟を組織、「日本童話作家協会」創立に参加する
・1927年(昭和2) 「未明童話集」全5巻が出版される
・1928年(昭和3) 左翼文芸家聯合編の「戦争に対する戦争」に「野薔薇」を寄稿、「新興童話作家聯盟」の結成に参加する
・1929年(昭和4) 自由芸術家聯盟を結成、機関紙「童話の社会」に童話と童謡の革新を期し寄稿する
・1930年(昭和5) 東京市杉並区高円寺の新宅に移る
・1931年(昭和6) 中国にて張暁天氏訳「未明童話集」全4巻が出版される
・1933年(昭和8) 長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載する
・1937年(昭和12) 子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)する
・1941年(昭和16) 日本少国民文化協会の発足に参加する
・1944年(昭和19) 少国民文化功労賞を受ける
・1946年(昭和21) 第5回野間文芸賞を受賞、児童文学者協会創立、初代会長になり、児童文学の再建につくす
・1950年(昭和25) 「小川未明童話集」(講談社)刊行される
・1951年(昭和26) 児童文学における功績によって、芸術院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本芸術院会員、文化功労者となる
・1954年(昭和29) 「小川未明作品集」(全5巻)講談社より刊行開始(翌年1月完結)
・1958年(昭和33) 新版「小川未明童話全集」全12巻(講談社)の刊行開始(翌年4月完結)
・1961年(昭和36)5月11日 東京において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

772年(宝亀3)法相宗の僧道鏡の命日(新暦5月13日)詳細
1133年(長承2)浄土宗の開祖法然の誕生日(新暦5月13日)詳細
1526年(大永6)第104代の天皇とされる後柏原天皇の命日(新暦5月18日)詳細
1947年(昭和22)「労働基準法」が公布される詳細
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 今日は、平成時代の2005年(平成17)に、小説家・児童文学作家早船ちよの亡くなった日です。
 早船ちよ(はやふね ちよ)は、大正時代の1914年(大正3)7月25日に、岐阜県飛騨郡古川町(現在の飛騨市古川町)に生まれましたが、高山市で育ちました。1929年(昭和4)に、高山女学校高等科を卒業し、産婦人科の病院に看護婦見習として就職、この年に最初の童話『松葉牡丹の種子』を「鑑賞文芸」に掲載します。
 翌年には、東洋レーヨン石山工場に転職、1931年(昭和6)に片倉製糸諏訪工場へ再度転職した後、1933年(昭和8)に上京し、翌年に文学者・教育運動家の井野川潔と結婚、埼玉県浦和市に移りました。1941年(昭和16)に夫とともに文学同人誌「山脈」を創刊、初めての童話集『七ヒキノコガニ』を出版したものの、戦争が激しくなると埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市)に疎開します。
 1959年(昭和34)より翌年にかけて、『キューポラのある街』を雑誌「母と子」に連載、1961年(昭和36)に出版され、翌年には、第2回日本児童文学者協会賞を受賞すると共に日活で浦山桐郎監督・吉永小百合主演により映画化され、話題となりました。同年に『ポンのヒッチハイク』が第9回産経児童出版文化賞を受賞、埼玉県浦和市(現さいたま市)に夫と共に児童文化の会を設立します。
 その後、『キューポラのある街』は、第2部『未成年』(1964年)、第3部『赤いらせん階段』(1967年)、第4部『さくらさくら』(1970年)、第5部『青い嵐』(1972年)と書き継がれました。続いて、児童文学としては『トーキョー夢の島』(1973年)、『春のシュトルム』(1974年)など、エッセイ集としては『わたしの飛騨』(1975年)が刊行されます。
 一方、自伝的な『ちさ・女の歴史』シリーズは、1966年(昭和41)に『峠』、『湖』、『街』の三部作が発表され、1979年(昭和54)に『冷たい夏』、『炎群の秋』、『熱い冬』が書きあげられて六部作として完結しました。それからも、75歳まで小説、随筆、童話と幅広い執筆を続け、1997年(平成9)には故郷の岐阜県飛騨市古川町三之町に記念館「早船ちよ館」が開館します。
 社会批判の眼と人間信頼の心に裏打ちされた作品を多く出してきましたが、2005年〈平成17〉10月8日に、神奈川県湯河原町の病院において、91歳で亡くなりました。

〇早船ちよの主要な作品

<小説>
・『キューポラのある街』(1961年)第2回日本児童文学者協会賞受賞
・『未成年 キューポラのある街 第2部』(1965年)
・『赤いらせん階段 キューポラのある街 第3部』(1967年)
・『さくらさくら キューポラのある街 第4部』(1970年)、
・『青い嵐 キューポラのある街 第5部』(1972年) 
・『ちさ・女の歴史 第1部 峠』(1979年)
・『ちさ・女の歴史 第2部 湖』(1979年)
・『ちさ・女の歴史 第3部 街』(1979年)
・『ちさ・女の歴史 第4部 冷たい夏』(1979年)
・『ちさ・女の歴史 第5部 炎群の秋』(1979年)
・『ちさ・女の歴史 第6部 熱い冬』(1979年)

<児童文学>
・『七ヒキノコガニ』(1941年)
・『ポンのヒッチハイク』(1962年)第9回産経児童出版文化賞受賞
・『トーキョー夢の島』(1973年)
・『春のシュトルム』(1974年)

<エッセイ集>
・『わたしの飛騨』(1975年)

☆早船ちよ関係略年表

・1914年〈大正3〉7月25日 岐阜県古川町(現在の飛騨市古川町)に生まれる
・1929年(昭和4) 高山女学校高等科卒業し、産婦人科の病院に看護婦見習として就職する
・1930年(昭和5) 東洋レーヨン石山工場に転職する
・1931年(昭和6) 片倉製糸諏訪工場へ再度転職する
・1933年(昭和8) 上京する
・1934年(昭和9) 文学者の井野川潔と結婚し、埼玉県浦和市に移る
・1941年(昭和16) 夫とともに文学同人誌「山脈」を創刊、初めての童話集『七ヒキノコガニ』を出版する
・1959年(昭和34) 『キューポラのある街』を雑誌「母と子」に連載開始する
・1961年(昭和36) 『キューポラのある街』が出版される
・1962年(昭和37) 第2回日本児童文学者協会賞を受賞すると共に日活で吉永小百合主演により映画化され、『ポンのヒッチハイク』が第9回産経児童出版文化賞を受賞する
・1962年(昭和37) 埼玉県浦和市(現さいたま市)に夫と共に児童文化の会を設立する
・1966年(昭和41) 自伝的な「ちさ・女の歴史」シリーズの『峠』、『湖』、『街』の三部作が発表される
・1973年(昭和48) 児童文学『トーキョー夢の島』が刊行される
・1974年(昭和49) 児童文学『春のシュトルム』が刊行される
・1975年(昭和50) エッセイ集『わたしの飛騨』が刊行される
・1979年(昭和54) 自伝的な「ちさ・女の歴史」シリーズの『冷たい夏』、『炎群の秋』、『熱い冬』が書きあげられて六部作として完結する
・1997年(平成9)7月 故郷の岐阜県飛騨市古川町三之町に記念館「早船ちよ館」が開館する
・2005年〈平成17〉10月8日 神奈川県湯河原町の病院において、91歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1857年(安政4)昆虫学者・名和昆虫研究所の創設者名和靖の誕生日(新暦11月24日)詳細
1884年(明治19)歌人・小説家吉井勇の誕生日詳細
1946年(昭和21)洋画家・版画家・美術教育家山本鼎の命日詳細
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haitanikenjirou01

 今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、小説家・児童文学作家灰谷健次郎の生まれた日です。
 灰谷健次郎(はいたに けんじろう)は、兵庫県神戸市の貧しい家庭に生まれ、働きながら定時制高校商業科を卒業し、大阪学芸大学(現在の大阪教育大学)学芸学部へ入学しました。卒業後、小学校教師となり、一方で児童詩誌『きりん』の編集に携わるようになり、自らも詩や小説を書き、1965年(昭和40)に『せんせいけらいになれ』を発表します。
 1967年(昭和42)に長兄の自殺、翌年には母が亡くなり、1971年(昭和46)には、17年間勤めた小学校教師を辞めました。沖縄やアジア各地を放浪した後、1974年(昭和49)長編小説『兎(うさぎ)の眼(め)』を発表、不幸な境遇の子にヒューマンな愛情を注ぐ若い女教師をえがき、ベストセラーとなり、日本児童文学者協会新人賞を受賞します。
 続いて、1978年(昭和53)発表の『太陽の子』もミリオンセラーとなり、同年の『ひとりぼっちの動物園』では小学館文学賞を受賞しました。それらの文学的業績によって、1979年(昭和54)に第1回路傍の石文学賞を受賞、その後、『灰谷健次郎エッセイ集 島へゆく』(1981年)、『灰谷健次郎エッセイ集 島で暮す』(1982年)、『きりんの詩集 子どもの詩が生まれた』3冊(1986年)、長編小説『天の瞳(ひとみ)』(1996~2004年)などを著します。
 しかし、2006年(平成18)11月23日に、静岡県内の病院において、72歳で亡くなっています。

〇灰谷健次郎の主要な著作

・『せんせいけらいになれ』(1965年)
・『兎の眼(うさぎのめ)』(1974年)日本児童文学者協会新人賞受賞
・『太陽の子』(1978年)
・『ひとりぼっちの動物園』(1978年)小学館文学賞受賞
・林竹二との対談『対談 教えることと学ぶこと』(1979年)
・『わたしの出会った子どもたち』(1981年)
・エッセイ集『灰谷健次郎エッセイ集 島へゆく』(1981年)
・エッセイ集『灰谷健次郎エッセイ集 島で暮す』(1982年)
・『島物語』全5冊(1983~98年)
・『我利馬(ガリバー)の船出』(1986年)
・詩集『きりんの詩集 子どもの詩が生まれた』3冊(1986年)
・『灰谷健次郎アクショントーク わたしの子ども時代・青春時代』(1990年)
・『林先生に伝えたいこと』(1991年)
・エッセイ集『優しい時間』(1996年)
・長編小説『天の瞳(ひとみ)』(1996~2004年)
・『はるかニライ・カナイ』(1997年)
・エッセイ集『いのちまんだら』(1998年)
・紀行『アジアを生きる』写真は石川文洋(2001年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1943年(昭和18)軍需会社法」が公布される詳細
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