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 今日は、江戸時代後期の1840年(天保11)に、第119代の天皇とされる光格天皇が亡くなった日ですが、新暦では12月11日となります。
 光格天皇(こうかくてんのう)は、1771年(明和8年8月15日)に京都において、東山天皇の皇孫である閑院宮典仁親王の第六王子(母は贈従一位岩室磐代)として生まれました。1779年(安永8)に後桃園天皇が亡くなくなったものの、皇女しかいなくて皇子がいなかったため、血筋が近いとして選ばれ、急遽養子として迎え入れられ、翌年践祚し、1781年(天明元)には、第119代とされる天皇として即位します。
 1788年(天明8)の天明の大火により京都御所が焼失、再建されるまで聖護院を仮御所(3年間)としました。1789年(寛政元)に父である閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして江戸幕府に拒否される事件(尊号一件)が起きます。
 1794年(寛政6)に欣子内親王(後桃園天皇皇女)を中宮に冊立、1800年(寛政12)に中宮との間に温仁親王が誕生し儲君に治定したものの、同年に亡くなりました。1807年(文化4)に第四皇子の恵仁親王(のちの仁孝天皇)を儲君に治定、1809年(文化6)には皇太子としています。
 1817年(文化14)に恵仁親王(仁孝天皇)に譲位し、太上天皇となりました。経学を好み、博学能文で詩作に長じ、和歌や音楽も能くし、旧儀の再興に意を用い、石清水社、賀茂社の臨時祭をはじめ儀式公事の再興を図っています。
 歌集『光格天皇御詠草』、日記『光格院日記案』などを残しましたが、1840年(天保11年11月18日)に京都において、数え年70歳で亡くなり、陵墓は京都泉涌寺内の後月輪陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされました。

<光格天皇の代表的な歌>

・「民草に露の情(なさけ)をかけよかし代々の守りの国の司は」
・「よろづ民やすくたのしむときつ風とよあし原の国さかえつつ」(内裏和歌御会)

〇光格天皇主要な著作

・歌集『光格天皇御詠草』
・日記『光格院日記案』

☆光格天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1771年(明和8年8月15日) 京都において、東山天皇の皇孫である閑院宮典仁親王の第六王子(母は贈従一位岩室磐代)として生まれる
・1779年(安永8年10月29日) 後桃園天皇が亡くなる
・1780年(安永8年11月25日) 践祚する
・1781年(天明元年12月) 第119代とされる天皇として即位する
・1788年(天明8年1月30日) 天明の大火により京都御所が焼失、再建されるまで聖護院を仮御所とする
・1789年(寛政元年) 父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府に拒否される(尊号一件)
・1791年(寛政3年) 京都御所が再建される
・1794年(寛政6年3月7日) 欣子内親王(後桃園天皇皇女)を中宮に冊立する
・1797年(寛政9年11月7日) 善光寺の等順より、三帰戒及び十念を授け奉られる
・1799年(寛政11年) 聖護院宮盈仁法親王が役行者御遠忌(没後)1100年である旨の上表を行う
・1799年(寛政11年1月25日) 権大納言烏丸光祖を勅使として聖護院に遣わし、神変大菩薩の諡号を贈る
・1800年(寛政12年1月22日)中宮との間に温仁親王が誕生する
・1800年(寛政12年3月7日) 温仁親王を儲君に治定する
・1800年(寛政12年4月4日) 温仁親王が亡くなる
・1807年(文化4年7月18日) 恵仁親王(のちの仁孝天皇)を儲君に治定する
・1809年(文化6年3月24日) 恵仁親王を皇太子とする
・1817年(文化14年3月22日) 恵仁親王(仁孝天皇)に譲位する
・1817年(文化14年3月24日) 太上天皇となる
・1840年(天保11年11月18日) 京都において、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細