ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:光明皇后

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 今日は、奈良時代の757年(天平宝字元)に、藤原仲麻呂を打倒しようとした橘奈良麻呂の乱(未遂)が起きた日ですが、新暦では7月28日となります。
 橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の中頃に起きた、橘諸兄の子奈良麻呂を中心とするグループによって計画された藤原仲麻呂打倒未遂事件でした。奈良麻呂が大伴・佐伯氏らと結んで、仲麻呂の擁立した皇太子大炊王(のちの淳仁天皇)の廃太子を計画したものの、未然に発覚して奈良麻呂らは捕らえられ、奈良麻呂らが獄死したものです。
 これによって、大炊王は淳仁天皇として即位し、仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)と称すると共に、やがて正一位大師(太政大臣)の最高位に上り詰め、その専権が確立しました。

〇橘奈良麻呂の乱関係略年表(日付は旧暦です)

・738年(天平10年) 皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べる
・749年(天平21年) 聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される
・749年(天平21年11月) 孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀ったが、全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行出来ずに終わる
・755年(天平勝宝7年) 橘諸兄の従者佐味宮守から、橘諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告がある
・756年(天平勝宝8年2月) 橘諸兄が辞職する
・756年(天平勝宝8年4月) 聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀る
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武太上天皇が亡くなり、太上天皇の遺言により道祖王が立太子する
・757年(天平宝字元年4月) 道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(後の淳仁天皇)が立太子する
・757年(天平宝字元年6月28日) 山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している。大伴古麻呂もその事情を知っている」と密告する
・757年(天平宝字元年7月2日) 孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発する
・757年(天平宝字元年7月3日) 右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人らを訊問、謀反を自白する
・757年(天平宝字元年7月4日) 奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)らが逮捕され、永手らの訊問を受け、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1900年(明治33)物理学者・随筆家中谷宇吉郎の誕生日詳細
1912年(明治45)彫刻家佐藤忠良の誕生日詳細
1941年(昭和16)帝都高速度交通営団設立される詳細
1952年(昭和27)破壊活動防止法」(昭和27年7月21日法律第240号)が、国会で成立する詳細
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 今日は、奈良時代の760年(天平宝字4)に、聖武天皇の皇后・藤原不比等の娘光明皇后の亡くなった日ですが、新暦では7月27日となります。
 光明皇后(こうみょうこうごう)は、飛鳥時代の701年(大宝元)に、公卿であった藤原不比等の第3女(母は県犬養橘三千代)として生まれましたが、名は安宿媛(あすかべひめ)と言いました。幼少の頃より聡慧で、早くから声誉高かったのですが、716年(霊亀2)に16歳で首皇子(のちの聖武天皇)の妃となり、718年(養老2)阿倍皇女(のちの孝謙天皇)を出産します。
 724年(神亀元)聖武天皇即位に伴って、後宮の位階である夫人号を得、727年(神亀4)に基王を出産しました。しかし、728年(神亀5)に皇太子に立てられた基王が夭折したため、後継を巡って長屋王の変が起こります。
 729年(天平元)に、皇后となりましたが、皇族以外の臣下からはじめてのことで、藤原氏の勢力拡大に寄与することとなりました。聖武天皇と共に仏教を厚く信仰し、皇后宮職で写経事業を行い、730年(天平2)に悲田院、施薬院を設立して孤児や病人の救済に努力、東大寺大仏、国分寺の創建にも深いつながりを持ちます。
 749年(天平勝宝元)に、聖武天皇退位後、娘阿倍内親王(孝謙天皇)の即位に伴い、皇后宮職を拡充した紫微中台を置き、甥の藤原仲麻呂を長官として、実質的に国政を掌握しました。754年(天平勝宝6)には聖武、孝謙と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒を受け、756年(天平勝宝8)に夫の聖武太上天皇が崩御すると、遺愛の品を東大寺大仏に献じましたが、これが現在の正倉院宝物となります。
 しかし、760年(天平宝字4年6月7日)に数え年60歳で亡くなり、佐保山東陵に葬られました。尚、能書家として知られ、自筆と伝えられる「楽毅論」が正倉院に伝存しています。

〇光明皇后関係略年表

・701年(大宝元年) 藤原不比等の第3女(母は県犬養橘三千代)として生まれる
・716年(霊亀2年) 16歳で首皇子(のちの聖武天皇)の妃となる
・718年(養老2年) 阿倍皇女(のちの孝謙天皇)を出産する
・724年(神亀元年2月4日) 聖武天皇即位に伴って、後宮の位階である夫人号を得る
・727年(神亀4年閏9月29日) 基王を出産する
・728年(神亀5年9月13日) 皇太子に立てられた基王が夭折する
・729年(神亀6年2月12日) 後継を巡って長屋王の変が起こり、長屋王が妻子とともに自害する
・729年(天平元年) 皇族以外の臣下からはじめて皇后となる
・730年(天平2年) 悲田院、施薬院を設立して孤児や病人の救済に努力する
・738年(天平10年1月13日) 娘阿倍内親王が立太子する
・740年(天平12年) 藤原広嗣の乱が起きる
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇により「国分寺建立の詔」が出される
・743年(天平15年10月5日) 聖武天皇により「大仏造立の詔」が出される
・749年(天平勝宝元年7月2日) 聖武天皇が退位し、娘阿倍内親王(孝謙天皇)が即位する
・749年(天平勝宝元年) 皇后宮職が昇格して紫微中台と改称、長官に藤原仲麻呂が就任する
・752年(天平勝宝4年) 大仏開眼供養会が実施される
・754年(天平勝宝6年) 聖武太上天皇、孝謙天皇と共に大仏殿前で唐僧鑑真より受戒を受ける
・756年(天平勝宝8年) 夫の聖武太上天皇が崩御すると、遺愛の品を東大寺大仏に献じる(正倉院宝物)
・760年(天平宝字4年6月7日) 平城京において、数え年60歳で亡くなり、佐保山東陵に葬られる
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