ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:光孝天皇

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 今日は、平安時代前期の887年(仁和3)に、第58代の天皇とされる光孝天皇が亡くなった日ですが、新暦では9月17日となります。
 光孝天皇(こうこうてんのう)は、830年(天長7)に第54代の天皇とされる仁明天皇の第三皇子(母は藤原総継の娘)として生まれましたが、諱は時康(ときやす)と言いました。836年(承和3)に四品に叙品され、843年(承和10)に16歳で元服します。
 848年(嘉祥元)に常陸太守となり、851年(仁寿元)に三品に昇叙、856年(斉衡3)に上野太守となり、866年(貞観8)に大宰帥となり、870年(貞観12)には二品に昇叙しました。882年(元慶6)には、一品に昇叙していましたが、宮中の乱脈粛正の意図をもって陽成天皇が廃されたあと、884年(元慶8年3月5日)に藤原基経(もとつね)の推挙により、55歳という高齢で第58代とされる天皇として即位します。
 以後天皇は、政治を基経を経て奏上させ、これが関白の初めとされるようになりました。在位3年で病気となり、再び基経の協力を得て、臣籍に下っていた第7皇子の源定省(のちの宇多天皇)を親王に復し、皇太子に立てます。
 しかし、887年(仁和3年8月26日)に、京都において数え年58歳で亡くなっています。尚、和歌・和琴などに秀でたとされ、『古今和歌集』に歌2首が収められ、後に「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」が『小倉百人一首』に採られました。

〇光孝天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・830年(天長7年) 仁明天皇の第三皇子(母は藤原総継の娘)として生誕する
・836年(承和3年1月7日) 四品に叙品される
・843年(承和10年2月2日) 元服する
・848年(嘉祥元年1月13日) 常陸太守に任官する
・850年(嘉祥3年5月17日) 中務卿を兼任する
・851年(仁寿元年11月21日) 三品に昇叙する
・853年(仁寿3年) 常陸太守を止める
・856年(斉衡3年6月) 上野太守を兼任。
・860年(貞観2年1月15日) 上野太守を止める
・864年(貞観6年) 上野太守を兼任する
・866年(貞観8年1月13日) 上野太守を止め、大宰帥を兼任する
・870年(貞観12年2月7日) 二品に昇叙する
・871年(貞観13年1月28日) 大宰帥を止める
・873年(貞観15年1月13日) 上野太守を兼任する
・876年(貞観18年12月26日) 中務卿を止め、式部卿を兼任する
・877年(元慶元年10月17日) 上野太守を止める
・880年(元慶4年1月11日) 常陸太守を兼任する
・882年(元慶6年1月7日) 一品に昇叙する
・884年(元慶8年1月11日) 大宰帥を兼帯する
・884年(元慶8年3月5日) 第58代とされる天皇として即位する
・887年(仁和3年8月26日) 京都において、数え年58歳で亡くなる
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 今日は、平安時代前期の901年(延喜元)に、六国史一番最後の『日本三代実録』が完成した日ですが、新暦では9月17日となります。
 これは、六国史の一番最後のもので、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である、858年年(天安2)8月から887年(仁和3)8月までの30年間を扱っていました。漢文の編年体の史書で、全五十巻からなっていますが、巻によりかなりの脱漏があります。
 宇多天皇の勅を奉じて、892年(寛平4)に藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが編纂に着手し、901年(延喜元)に完成しました。
 六国史の中では最も詳しく、詔勅・上表文や恒例の年中行事、祥瑞(喜ばしい前兆)・災異(地震・火災等)をも収め、また干支だけでなく日子(ひにち)も併記するなど、史書としての体裁が整備されています。
 以下に『日本三代実録』序の原文を掲載しておきましたので、ご参照ください。

〇『日本三代実録』序

<原文>
 日本三代實錄序
 臣時平等.竊惟,帝王稽古,咸置史官.述言事而徵廢興,甄善惡以備懲勸.開闢之辰,日暮於手披之處,遂初之跡,俄頃於目閱之間者也.伏惟,太上天皇生知至聖,性植純仁.體耀魄而居宸,平泰階而建極,彛倫攸敘,憲竄該舉.以為,始自貞觀,爰及仁和,三代風猷,未著篇牘.若闕文之靡補,恐盛典之長虧.詔大納言-正三位-兼行左近衛大將-皇太子傅-陸奧出羽按察使臣-源朝臣-能有、中納言-兼右近衛大將-從三位-行春宮大夫臣-藤原朝臣-時平、參議-勘解由長官-從四位下-兼守右大辨-行春宮亮臣-菅原朝臣-道真、從五位下-行大外記-兼播磨權大掾臣-大藏朝臣-善行、備中掾-從六位上三統宿禰理平等,因循舊貫,勒就撰修.四五年來,大納言-能有朝臣拜右大臣,奄然殞逝.既而搜採稍周,條流且辨.天皇,倦負扆於九重,輕脫屣於萬乘.宸旈應厭,凝神默於姑射,淨居有勸,落飾於魔宮.爾乃時屬揖讓,朝廷務般.在此際會,蹔停刑緝.
 今上陛下,承累聖之寶祚,順兆民之樂推.天縱雄才,嗤漢武於大略.德尚恭己,法虞舜之無為.思欲遵前旨之草創,從即日之財成.敕正三位-守左大臣-兼行左近衛大將臣-籐據朝臣-時平、正三位-守右大臣-兼行右近衛大將臣-菅原朝臣-道真、從五位上-行勘解由次官-兼大外記-參河權介臣-大藏朝臣-善行、大外記-正六位上臣-三統宿禰-理平等,賷其叅譁,亟有頭角.右大臣-道真朝臣坐事左降,歘向西府.洎斯文之成立,值彼臣之謫行.大外記-理平賜爵遷官,不遂其業.
 臣等,強勉專精,經引積稔,編次究數,筆削畢功.起於天安二年八月乙卯,訖于仁和三年八月丁卯,首尾三十年,都為五十卷,名曰-日本三代實錄.今之所撰,務歸簡正,君舉必書.綸言遐布,五禮沿革,萬機變通,祥瑞天之所祚於人主,灾異之所誡於人主.理燭方策,撮而悉戴之.節會儀注,烝嘗制度,蕃客朝聘.自餘諸事,永式是存,粗舉大綱.臨時之事,履行成常,聊標凡例,以示有之矣.開委巷之常,乖教世之要,妄誕之品,棄而不取焉.臣等生謝含章,辭非隱核.腐毫淹祀,靦汙失魂.謹詣朝堂,奉進以聞.謹序.
      延喜元年八月二日
            左大臣從二位兼行左近衛大將臣藤原朝臣時平
            從五位上行勘解由次官兼大外記臣大藏朝臣善行
                        
                           國史大系『日本三代實錄』より

☆六国史とは?

 奈良時代から平安時代前期に、編纂された以下の6つの官撰の正史のことで、おおむね編年体で記されています。
(1)『日本書紀』 720年(養老4)完成 撰者は、舎人親王 
 全30巻(他に系図1巻は失われた)で、神代から持統天皇まで(?~697年)を掲載する
(2)『続日本紀』 797年(延暦16)完成 撰者は、菅野真道・藤原継縄等
 全40巻で、文武天皇から桓武天皇まで(697~791年)を掲載する
(3)『日本後紀』 840年(承和7)完成 撰者は、藤原冬嗣・藤原緒嗣等
 全40巻(10巻分のみ現存)で、桓武天皇から淳和天皇まで(792~833年)を掲載する
(4)『続日本後紀』 869年(貞観11)完成 撰者は、藤原良房・春澄善縄等
 全20巻で、仁明天皇の代(833~850年)を掲載する
(5)『日本文徳天皇実録』 879年(元慶3)完成 撰者は、藤原基経・菅原是善・嶋田良臣等
 全10巻で、文徳天皇の代(850~858年)を掲載する
(6)『日本三代実録』 901年(延喜元)完成 撰者は、藤原時平・大蔵善行・菅原道真等
 全50巻で、清和天皇から光孝天皇まで(858~887年)を掲載する
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