ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:元正天皇

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 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元した日ですが、新暦では12月24日となります。
 養老改元(ようろうかいげん)は、第44代とされる元正天皇(女帝)が、717年(霊亀3年9月)に美濃国(現在の岐阜県)に行幸した折りに、当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山(養老山)の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施しましたが、その時に訪れた美泉に感銘を受け、同年11月17日に詔を出し、元号を「霊亀」から「養老」へ改元したことでした。行幸時に、美泉を観られ、水を飲み体を洗った者が若返ったと知り、「老いを養う」こんなめでたい美泉はないと言われたとされます。
 この美泉は、養老の滝か、あるいは養老神社境内の菊水泉であったと伝えられてきました。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明です。
 以下に、このことを記した『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇元正天皇(げんしょうてんのう)とは?

 第44代とされる天皇です。飛鳥時代の680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、養老への改元、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。 

<代表的な歌>
・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)
 
☆『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条「美濃国の醴泉によって養老と改元する」 

<原文>

癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天賜。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。

<読み下し文>

癸丑[1]。天皇[2]、軒に臨みて[3]、詔して曰はく、「朕、今年九月を以って、美濃国不破[4]行宮[5]に到る。留連[6]すること数日なり。因りて当耆郡[7]多度山[8]の美泉[9]を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し、亦、痛き処を洗ひしに、除き愈えずといふこと無し。朕が躬[10]に在りては、甚だその験有りき。又、就きて[11]飮み浴る者、或は白髪黒に反り、、或は頽髪[12]更に生ひ、或は闇き目明らかになるが如し。自余[13]の痼疾[14]、咸く皆平愈[15]せり。昔聞かく、後漢の光武[16]の時に、醴泉[17]出でたり。これを飮みし者は、痼疾[14]皆愈えたり、と聞く。符瑞書[18]に曰はく、醴泉[17]は美泉[9]なり。以って老を養ふべし。盖し水の精なり。といふ。寔に惟みるに、美泉[9]は即ち大瑞[19]に合へり。朕、庸虚[20]なりと雖も、何ぞ天の賜ひ物に違はむ。天下に大赦[21]して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし。」と。・・ 

【注釈】

[1]癸丑:みずのとうし・きちゅう=干支の組み合わせの50番目で、この場合は11月17日を指す。
[2]天皇:てんのう=この場合は、第44代とされる元正天皇(女帝)を指す。
[3]軒に臨みて:のきにのぞみて=宮殿の軒先まで出る。
[4]美濃国不破:みのこくふわ=現在の岐阜県不破郡のこと。
[5]行宮:あんぐう=天皇の行幸時などに、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設のこと。
[6]留連:りゅうれん=たちさりかねて、とどまる。
[7]当耆郡:たぎのこおり・だぎぐん=多芸郡。美濃国(現在の岐阜県美濃地方)にあった郡。
[8]多度山:たどさん=養老山のことか。
[9]美泉:びせん=醴泉(れいせん)。あまい味のある泉。美味な泉。
[10]躬:きゅう=み。からだ。
[11]就きて:つきて=これに関連して。このことに関して。
[12]頽髪:たいはつ=衰えた髪の毛。禿げ髪。
[13]自余:じよ=このほか。その他。
[14]痼疾:こしつ=長くなおらない病気。持病。
[15]平愈:へいゆ=病気がなおること。平復。全快。全治。
[16]後漢の光武:ごかんのこうぶ=後漢王朝を創始した初代皇帝の光武帝(在位25~57年)のこと。
[17]醴泉:れいせん=あまい味のある泉。美味な泉。中国で、太平の世にわき出たという。甘泉。
[18]符瑞書:ふずいしょ=瑞兆に関して書かれた書物
[19]大瑞:だいずい=非常にめでたいことのあるというしるし。
[20]庸虚:ようきょ=凡愚。平凡でおろかなこと。とりたてて利口とはいえないこと。
[21]大赦:たいしゃ=国家に吉凶のあったとき、天皇が八虐以下の故殺・謀殺・私鋳銭・強窃二盗の罪を許したこと。

<現代語訳>

11月17日。(元正)天皇は、宮殿の軒先まで出て、詔して言った、「私は、今年9月に、美濃国不破の行宮に至り。立ち去りかねて留まること数日となった。その時に、多芸郡の多度山(養老山)の美味な泉を見て、自ら手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようだった。また、痛い部分を洗うと、痛みが除かれないことはなかった。私の体にとっては、とてもその効能が有った。また、このことに関して、飲んだり浴びたりして治る者、あるいは、白髪が黒くなり、、あるいは、禿げ髪にさらに生えたり、あるいは、見えない眼がみえるよになるといった如くで、その他の長くなおらない病気も、ことごとく皆治ったいう。昔に聞くと、後漢の光武帝の時代に、醴泉が涌きだしたという。これを飮んだ者は、長くなおらない病気も皆治ったという。瑞兆に関して書かれた書物に言うことには、「醴泉は美味な泉である。これによって、老を養うことができる。まさしく水の精霊であろう。」とある。ほんとうに考えてみると、美味な泉はすなわち非常にめでたいことのあるというしるしに違いない。私は、凡愚であると言っても、どうして天の恵みを無視することが出来ようか。国中に大赦を行って、霊亀三年を改めて、養老元年とする。」と。・・ 

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 今日は、奈良時代の715年(霊亀元)に、元正天皇が「陸田での麦・粟を奨励する詔」を出した日ですが、新暦では11月7日となります。
 「陸田での麦・粟を奨励する詔」(りくでんでのむぎ・あわをしょうれいするみことのり)は、人民の浮浪・逃亡が顕著となる中で、少しでも人民の生活を安定させるために、元正天皇によって出された詔でした。内容は、陸田(畑)での麦や粟の栽培を奨励するもので、稲の代わりに粟で納税することも許可するとしています。
 古代律令体制下の奈良時代初頭には、過酷な支配に耐え切れず、人民の浮浪・逃亡の実態が顕著になり、元明天皇は、715年(霊亀元年5月1日)に、「浮浪の扱いに関する勅」、717年(養老元年5月17日)には、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出についての詔」を出しました。そして、元正天皇の代になって、人民の生活を少しでも安定させるために、この詔が出されたものの、その後も浮浪・逃亡が続き、口分田の不足も深刻化してきたので、722年(養老6年閏4月25日)に「百万町歩開墾計画」を作成、723年(養老7年4月17日)に田地の不足を解消するために「三世一身法」を制定します。
 さらに、743年(天平15年5月27日)に聖武天皇によって、「墾田永年私財法」が制定されるに及び、公地公民の大原則が崩れ、社寺・貴族による大土地所有が活発化し、荘園制成立の要因となっていきました。
 以下に、『続日本紀』卷第七(元正紀一)霊亀元年の条の「陸田での麦・粟を奨励する詔」を全文、現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「陸田での麦・粟を奨励する詔」 『続日本紀』卷第七(元正紀一)霊亀元年の条

<原文>

冬十月乙夘。詔曰。國家隆泰。要在冨民。冨民之本。務從貨食。故男勤耕耘。女脩絍織。家有衣食之饒。人生廉耻之心。刑錯之化爰興。太平之風可致。凡厥吏民豈不勗歟。今諸國百姓未盡産術。唯趣水澤之種。不知陸田之利。或遭澇旱。更無餘穀。秋稼若罷。多致饑饉。此乃非唯百姓懈懶。固由國司不存教導。宜令佰姓兼種麥禾。男夫一人二段。凡粟之爲物。支久不敗。於諸穀中。最是精好。宜以此状遍告天下。盡力耕種。莫失時候。自餘雜穀。任力課之。若有百姓輸粟轉稻者聽之。

<読み下し文>

冬十月乙夘[1]。詔して日く、「國家の隆泰[2]は要、民を富ますにあり。民を富ますの本は務めて貨食[3]よりす。故に男は耕耘[4]に勤め、女は機織[5]を脩め、家に衣食の饒[6]有りて、人に廉耻の心[7]生ぜば、刑錯の化[8]、爰に興り、太平の風[9]致るべし。凡そ厥の吏民[10]、豈に勗めざらめや。今諸国の百姓未だ産術[11]を尽くさず、唯水沢の種[12]に趣いて陸田[13]の利を知らず。或は撈旱[14]に遭えば更に余穀[15]なく、秋稼[16]若し罷めば多くは飢饉をいたす。此れ乃ち唯百姓の懈懶[17]のみに非ず。固に國司[18]教導[19]を存ぜ不る由る。宜く百姓[20]をして麦禾[21]を兼ね種うること、男夫[22]一人ごとに二段[23]ならしむべし。凡そ粟[24]の物たる、支うること久しくして敗れず、諸の穀[25]の中に於て最もこれ精好[26]なり。宜く此の状を以てあまねく天下に告げて、力をつくして耕種[27]せしめ、時候[28]を失うことなかるべし。自余の雑穀は力に任せて之を課せよ。若し百姓[20]粟[24]を輸して稲に転ずる者あらば之を聴せ。」と。

【注釈】

[1]乙夘:おつぼう=十干と十二支とを組み合わせたものの第五十二番目。ここでは、10月7日のこと。
[2]隆泰:りゅうたい=栄えてよく治まること。
[3]貨食:かしょく=貨幣と飲食物。財貨と食物。転じて、経済のこと。
[4]耕耘:こううん=田畑を耕して雑草を除去すること。たがやして作物を作ること。
[5]機織:きしょく=はたを織ること。はたおり。
[6]衣食の饒:いしょくのじょう=衣食を豊かにすること。
[7]廉耻の心:れんちのしん=清らかで恥を知る心。
[8]刑錯の化:けいおくのか=刑罰をさしおいて用いない変化。天下がよくおさまり、犯罪がおこらないことのたとえ。
[9]太平の風:たいへいのふう=世の中がおだやかに治まる風習。世の中が静かで平和な状態。
[10]厥の吏民:けつのりみん=彼の役人と人民。
[11]産術:さんじゅつ=生業の技術。産業の方法。
[12]水沢の種:すいたくのしゅ=湿地の種子。ここでは湿地での稲作のこと。
[13]陸田:りくでん=はたけ。また、律令制下で、五穀をつくる乾田のこと。
[14]撈旱:ろうかん=大水や日照り。水害と干害。
[15]余穀:よこく=貯えている穀物。
[16]秋稼:しゅうか=秋のとりいれ。秋の収穫。
[17]懈懶:おこたり=怠り。惰り。
[18]國司:こくし=令制により、中央から派遣されて諸国の政務を行った地方官の総称。
[19]教導:きょうどう=教え導くこと。
[20]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[21]麦禾:ばくか=麦と稲、粟。
[22]男夫:だんぷ=成年男子。
[23]段:たん=面積の単位、1町の10分の1。
[24]粟:あわ=イネ科の一年草で五穀の一、実は小粒で黄色、古くから栽培され、粟飯・粟餅などにして食べた。
[25]穀:こく=田畑でつくられ、人が常食にするもの。また、麦、粟、キビ、ヒエ、豆などのこと。
[26]精好:せいこう=細かな点にまで注意して工夫をこらし、良い結果や良いできばえのもの。
[27]耕種:こうしゅ=田畑をたがやし、種や苗を植えること。田畑をたがやし作物を作ること。
[28]時候:じこう=ものごとを行なうのにふさわしい時期。
[29]自余:じよ=その他。
[30]輸して:ゆして=税として。

<現代語訳>

冬10月7日。詔して言うことには、「国家の栄えてよく治まることの要は、人民を富ますことである。人民を富ますことの基本は財貨と食物を増やすことに務めることである。よって男は田畑を耕して作物を作ることに勤め、女ははたを織ることに勤め、家の衣食を豊かにすることが有って、人に清らかで恥を知る心が生じれば、天下がよく治まり、犯罪が起こらないような変化が興り、世の中が静かで平和な状態となるであろう。およそ彼の役人と人民は、努力しないで良いのだろうか。今諸国の人民はいまだに生業の技術を尽くしておらず、ただ湿地での稲作に精を出し、陸田(畑)の良さを知らない。従って水害や干害に遭遇すれば、さらに貯えている穀物もなく、秋の収穫がもしダメになれば、多くは飢饉に見舞われてしまう。これはただ人民の怠りのみではない。もとより国司の教え導かないことによる。ぜひとも人民に命じて麦と共に稲、粟を栽培させること、成人男子一人ごとに二段の割合とするようにせよ。そもそも粟という物は、長期間保存しても腐らず、諸々の穀物の中において最もこれはすぐれたものである。ぜひともこのことを広く天下に告げて、力を尽くして田畑を耕し作物を作らせ、適期を逸しないようにさせよ。その他の雑穀は人民の力に任せてこれを課せ。もし人民が粟を税として、稲の代わりにする者があったならばこれを許可せよ。」と。

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 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出された日ですが、新暦では6月30日となります。
 浮浪・逃亡(ふろう・とうぼう)は、古代律令体制下で、農民などが戸籍・計帳に登録されている本籍地から離脱した状態にあることでした。厳密には、本籍地を離れた者の内で、他国にあっても課役をすべて負担している場合を浮浪、課役を負担していない場合を逃亡と言うとされています。
 すでに奈良時代初頭には、この実態が顕著になり、715年(霊亀元年5月1日)には、「浮浪の扱いに関する勅」で、諸国の朝集使に対して、浮浪の事実を追認して、3ヶ月を経過している者は、現地で把握して、調・庸を徴収するように命じました。717年(養老元年5月17日)には、「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」が出され、これらの人民を王族・臣下が本籍地の役所を通さずに私的に使用することが禁止されていて、あらためて罰するように命じ、僧尼になるのも16歳以下の者が国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならないと厳命しています。
 その後も、この状況は続き、計帳を見るとその1割近くが浮浪・逃亡していたとされていました。しかし、後を絶たないので、8世紀末にはついに「浮浪人帳」を作成し、現地で把握して、調・庸を徴収するようにしています。
 これらのことは、律令制を揺るがせ、徐々に荘園制へと移っていくことにもなりました。
 以下に、『続日本紀』の卷第六霊亀元年(715年)5月1日の「浮浪の扱いに関する勅」と卷第七(元正紀一)養老元年(717年)5月の条の「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』卷第六(元明紀三) 霊亀元年(715年)5月1日「浮浪の扱いに関する勅」

<原文>

霊亀元年五月辛巳朔。勅諸国朝集使曰。天下百姓。多背本貫。流宕他郷。規避課役。其浮浪逗留。経三月以上者。即云断輸調庸。随当国法。

<読み下し文>

霊亀元年五月辛巳朔。諸国の朝集使[1]に勅して日く、「天下の百姓[2]、多く本貫[3]に背きて、他郷に流宕[4]して課役[5]を規避[6]す。其の浮浪[7]逗留[8]して、三月以上を経たる者は、即ち土断[9]して調[10]庸[11]を輸さしむること、当国の法に随え。」

【注釈】

[1]朝集使:ちょうしゅうし=律令制で、四度の使いの一。国・群の公文書を中央に進上する役人。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]本貫:ほんがん=本籍・ 本籍地のこと。律令制下では戸籍に記された土地。
[4]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[8]逗留:とうりゅう=旅先などに一定期間とどまること。滞在。
[9]土断:どだん=移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせること。土着。
[10]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[11]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。

<現代語訳>

霊亀元年(715年)5月1日。諸国の朝集使に対して、天皇から命令が出された。「諸国の人民、多くが本籍地を離れて、他国に流浪のまますごして租税や労役を巧妙にのがれている。その本籍を離れて他国に流浪して一定期間とどまっていて、3ヶ月以上を経過した者は、すなわち移住民を現住地の戸籍に登録してその地の官庁から支配を受けさせ調・庸を負担させることとし、その国の法に従わせよ。」と
 
〇『続日本紀』卷第七養老元年(717年)5月の条「諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出に関する詔」

<原文>

丙辰。詔曰。率土百姓。浮浪四方。規避課役。遂仕王臣。或望資人。或求得度。王臣不經本属。私自駈使。囑請國郡。遂成其志。因茲。流宕天下。不歸郷里。若有斯輩。輙私容止者。揆状科罪。並如律令。又依令。僧尼取年十六已下不輸庸調者聽爲童子。而非經國郡。不得輙取。又少丁已上。不須聽之。

<読み下し文>

丙辰。詔して曰はく、「率土[1]の百姓[2]、四方[3]に浮浪[4]して、課役[5]を規避[6]し、遂に王臣[7]に仕えて、或は資人[8]を望み、或は得度[9]を求む。王臣[7]、本属[10]を経ずして、私に自ら駈使[11]し、国郡に嘱請[12]して、遂にその志を成す[13]。茲に因りて、天下に流宕[14]して、郷里に帰らず。若し斯の輩[15]有りて、輙く私に容止[16]せば、状を揆り[17]て罪を科せむこと、並に律令[18]の如くせよ。また、令に依るに、僧尼は年十六以下の庸[19]・調[20]を輸さぬ者を取りて童子[21]とすることを聴す。而れども国郡を経るに非ずは、輙く取ることを得じ。また、少丁[22]以上は聴すべからず。」と。

【注釈】

[1]率土:そつど=陸地の続くかぎり。国の果て。
[2]百姓:ひゃくしょう=一般の人民。公民。貴族、官人、および、部民、奴婢を除いた一般の人。
[3]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[4]浮浪:ふろう=律令制において、本籍を離れて他国に流浪している者の内、他郷で調・庸を出す者。
[5]課役:かえき=令制で、課と役。課は調、役は労役で庸と雑徭を意味する。
[6]規避:きひ=巧みに避けること。巧妙にのがれること。
[7]王臣:おうしん=王の家来。天皇の臣下。 上級官僚である王族・臣下。
[8]資人:しじん=律令制における下級官人。親王や上級貴族に仕え,雑役・護衛にあたった。
[9]得度:とくど=剃髪して出家具戒すること。僧侶になること。古代では国家から許可されることによって出家となった。
[10]本属:ほんぞく=律令制で、その人の本籍の地の役所。また、その人の生まれ育った家や土地。
[11]駈使:くし=追いたてて使うこと。こき使うこと。「
[12]嘱請:しょくせい=頼み込むこと。
[13]志を成す:こころざしをなす=思い通りにする。
[14]流宕:るとう=遠方へ遊びまわる。また、おちぶれてさまよう。流浪のまますごす。
[15]輩:ともがら=同類の人々をさしていう語。仲間。
[16]容止:ようし=かくまうこと。
[17]揆り:はかり=はかり考え。やり方や方法を考え。
[18]律令:りつりょう=古代国家の基本法である律と令で、律は刑罰についての規定、令は政治・経済など一般行政に関する規定。
[19]庸:よう=令制で、正丁(21~60歳までの男子)に課せられた労役の代わりに国に納入する物品。
[20]調:ちょう=令制で、租税の一つ。男子に賦課される人頭税。絹・絁(あしぎぬ)・糸・綿・布のうちの一種を納めた。
[21]童子:どうじ=寺院へ入ってまだ得度剃髪せずに、仏典の読み方などを習いながら雑役に従事する少年。
[22]少丁:しょうてい=大宝令制で、17歳以上20歳以下の男子の称。正丁の四分の一の税を負担した。

<現代語訳>

5月17日。詔の中で次のように述べられた。「国の果てまでの人民が、本籍を離れて諸国に流浪して、租税や労役を巧妙にのがれ、ついには王族・臣下に仕え、あるいは下級官人を望み、あるいは僧侶になることを求めている。王族・臣下の方でも、本籍の地の役所を通さずに、私的に自ら追い使い、国司や郡司に頼み込んで、ついにその思い通りにしてしまう。このために、世間に流浪のまま過ごして、郷里に帰らなくなってしまう。もしこのような連中がいて、軽々しく私的にかくまうならば、状況をはかり考え、罪を科すこと、律令のごとくにせよ。また、令によると、僧尼は16歳以下の庸・調を出さない者から選んで、寺院に入って修行する者とすることが許されている。けれども国司や郡司の許可を得ないならば、軽々しく行ってはならない。また、少丁(17歳以上20歳以下の男子)以上の者は許されるものではない。」と。

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1965年(昭和40)労働者の結社の自由・団結権の保護を定めた「ILO87号条約」を国内で承認する詳細


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 今日は、奈良時代の748年(天平20)に、第44代の天皇とされる元正天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月22日となります。
 元正天皇(げんしょうてんのう)は、680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。
 しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。

<代表的な歌>

・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)

〇元正天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・680年(天武天皇9年) 飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれる
・682年(天武天皇11年8月28日) 病により、罪人198人が恩赦される
・683年(天武天皇12年) 3歳下の同母弟・珂瑠(後の文武天皇)が誕生する
・689年(持統天皇3年4月13日) 父・草壁皇子が即位しないままに亡くなる
・697年(文武天皇元年8月1日) 持統天皇から譲位されて同母弟・珂瑠皇子が即位(文武天皇)する
・702年(大宝2年12月22日) 祖母・持統太上天皇が亡くなる
・707年(慶雲4年6月15日) 文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が即位(元明天皇)する
・710年(和銅3年3月10日) 平城京に遷都される
・714年(和銅7年1月20日) 二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる
・715年(和銅8年1月10日) 一品に昇叙する
・715年(霊亀元年9月2日) 皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位する
・715年(霊亀元年10月7日) 陸田での麦・粟奨励する
・717年(養老元年4月23日) 行基ら僧尼の活動を非難する詔を出す
・717年(養老元年5月17日) 諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出についての詔を出す
・717年(養老元年) 藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始める
・717年(養老元年11月17日) 美濃国の醴泉によって養老と改元する
・719年(養老3年7月13日) 11名の国司が初めて按察使に任命される
・720年(養老4年3月4日) 隼人反乱に際し大伴旅人を征隼人持節第将軍に任命する
・720年(養老4年5月21日) 『日本書紀』が完成し奏上される
・720年(養老4年8月3日) 藤原不比等が亡くなると舎人親王を知太政官事に任命する
・721年(養老5年1月5日) いとこの長屋王を右大臣に任命し、事実上政務を任せる
・721年(養老5年12月7日) 母・元明上皇が亡くなる
・722年(養老6年2月23日) 衛士・役民の逃亡についての詔を出す
・722年(養老6年閏4月25日) 「百万町歩開墾計画」を出す
・723年(養老7年4月17日) 田地の不足を解消するために「三世一身法」を制定する
・724年(神亀元年2月4日) 皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる
・728年(天平元年2月12日) 長屋王の変が起き、長屋王が自害する
・740年(天平12年) 藤原広嗣の乱が起きる
・741年(天平13年3月24日 聖武天皇によって国分寺建立の詔が出される
・743年(天平15年5月5日) 皇太子(阿倍内親王)が五節舞を舞う
・743年(天平15年) 聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇によって大仏造立の詔が出される
・744年(天平16年2月26日) 聖武天皇の紫香楽行幸に際しては、左大臣橘諸兄とともに難波に留まり、諸兄に難波遷都の勅を出させる
・744年(天平16年11月14日) 紫香楽に行幸する
・747年(天平19年) 暮れに発病する
・748年(天平20年4月21日) 奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬される
・750年(天平勝宝2年) 奈保山西陵に改葬される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1583年(天正11)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北する(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)五箇条の御誓文」に基づき「政体書」が発布される(新暦6月11日)詳細


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